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戦国のよくある質問

武将・合戦の解説ページに掲載しているよくある質問227問を一覧にまとめました。質問をクリックすると回答が開きます。より詳しくは各ページの解説をご覧ください。

武将のよくある質問

鳥居元忠

Q.鳥居元忠はなぜ少ない兵で伏見城に残ったのですか?
慶長5年(1600年)6月、会津の上杉景勝を討ちに行く徳川家康は、伏見城に元忠を残すことにしました。出陣前夜、家康が残せる兵は3千ほどしかなく苦労をかけると詫びると、元忠は、自分と松平近正がいれば足りる、大坂方の大軍に囲まれたら城に火をかけて死ぬまでなので、兵は一人でも多く連れて行って天下取りに使ってほしい、と答えたと伝わります。実際に石田三成らが挙兵すると、元忠ははじめから死ぬ覚悟で城に籠もり、降伏を勧める使者を斬って戦い抜きました。
Q.伏見城の「血天井」とは何ですか?
伏見城で討ち死にした元忠らの血に染まった床板を、のちに寺の天井に張ったものです。京都市の養源院のほか、宝泉院・正伝寺・源光庵・瑞雲院、宇治市の興聖寺に今も残っています(ただし床板を移したことを裏付ける記録はなく、言い伝えの域を出ません)。また血染めの畳は、元忠の忠義を称えた家康が江戸城伏見櫓の上の階に置き、登城する大名の頭上に掲げさせました。明治になって畳は鳥居家(壬生藩)に戻され、元忠を祀る壬生の精忠神社の「畳塚」に納められています。
Q.元忠を討った鈴木重朝と、元忠の鎧はその後どうなりましたか?
元忠を討ち取ったのは、西軍の鉄砲頭・鈴木重朝(孫三郎)です。重朝は元忠の鎧「紺糸素懸縅二枚胴具足」を、形見として元忠の子・忠政に送ろうと申し出ましたが、忠政は心を打たれつつも、誉れとともに重朝の子孫に伝えてほしいと断りました。鎧はその後も鈴木家に代々伝わり、2004年に大阪城天守閣へ寄贈されています(兜は幕末に作り直されたものです)。

滝川一益

Q.滝川一益は忍者だったのですか?
一益を甲賀の忍者とみる説がありますが、甲賀の武士の家とされること以外に裏付けがなく、研究のうえでは退けられています。家の出自については、近江国甲賀郡の滝の城に移って滝川を名乗った紀氏の流れとする系譜のほか、甲賀の国人・大原氏の一族とみる説が有力です。一益より前から尾張で滝川姓の武士が織田氏に仕えていたことから、もともと尾張の武士だったとみる説もあります。
Q.滝川一益は「関東管領」だったのですか?
江戸時代の軍記物(『北条五代記』『関八州古戦録』など)はそう呼んでいますが、当時の史料には出てきません。関東管領は室町幕府の役職なので、将軍・足利義昭を追放した信長が任命したと考えるのは筋が通らず、疑う研究者もいます。実際の一益は、上野一国と信濃2郡の領主として関東の諸将をとりまとめ、北条・佐竹・里見に加えて東北の伊達・蘆名とも連絡をとる大きな権限を持っていました。
Q.滝川一益が上野国より欲しがった茶器とは何ですか?
「珠光小茄子」という茶入です。上野国を与えられたとき、一益は領地よりこの茶器を望んだものの、願いはかないませんでした。京都の茶人・三国一太郎五郎への手紙には「遠国にをかせられ候条、茶の湯の冥加つき候」と書き、遠い関東へ送られて茶の湯とも縁が切れてしまったと嘆いています。

佐々成政

Q.佐々成政の「さらさら越え」とは何ですか?
天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いの途中で秀吉と織田信雄が和睦し、家康も兵を収めました。納得できない成政は、真冬の飛騨山脈・立山の山々を自ら越えて浜松へ向かい、もう一度立ち上がるよう家康に迫ったとされます。越中と信濃を結ぶ抜け道だった針ノ木峠が「さらさら越え」と呼ばれる峠です。ただし確かなことはわかっておらず、この話は『太閤記』が物語に仕立て、地元の『肯搆泉達録』がさらに大きく脚色したものです。通った道については、ザラ峠と針ノ木峠を越えて立山連峰を抜けたとする説、飛騨から安房峠を越えて信濃へ出たとする説、越中から日本海沿いに越後の糸魚川まで行き、千国街道を南へ下ったとする説の三つがあります。家康を説き伏せることはできませんでしたが、家康が富山の役の最中に真田昌幸を攻めた(第一次上田合戦)のは、秀吉の目をそらして成政を助けるためだったとする見方もあります。
Q.佐々成政はなぜ切腹を命じられたのですか?
天正15年(1587年)に肥後を与えられた成政が、入国してすぐ検地に取りかかると、隈部親永らの国人がいっせいに反発して兵を挙げました(肥後国人一揆)。成政は自分の力でこれを収められず、翌年2月にわびを入れに大坂へ出向きましたが、秀吉は会わずに尼崎へ閉じ込め、腹を切るよう命じました。これまでは、秀吉が慎重に治めるよう言いつけたのに成政が検地を押し通したためだと説明されてきました。しかし、その言いつけの根拠とされる「五箇条の定書」には、本物かどうか疑いが持たれています。同じように一揆を招いた豊前の黒田孝高は罰せられていないことから、一揆を起こされたことではなく、自力で鎮められなかったことを咎められたとする説があります。また、一揆の本当の原因は、九州の領地の割り振りそのものに対する国人たちの不満だったとする見方もあります。
Q.佐々成政の「黒百合伝説」とはどのような話ですか?
成政には、とりわけかわいがっていた早百合という側室がいたといいます。成政が城を留守にしている間に、早百合がほかの男と通じているといううわさが広まりました。戻った成政は激しく怒り、神通川のほとりで早百合を殺したうえ、その一族18人の首まではねたとされます。早百合は死にぎわに、立山に黒百合が咲いたら佐々家は滅びると呪ったと伝わり、これが黒百合伝説です。別の話では、成政が秀吉の正室・北政所に珍しい黒百合を贈ったところ、淀殿が黒百合を山ほど取り寄せて飾り、少しも珍しくないと見せつけたため、恥をかかされた北政所が成政を恨んだともいいます。どちらも本当かどうかはわかりません。

堀秀政

Q.堀秀政はなぜ「名人」と呼ばれたのですか?
『武家事紀』と『名将言行録』は「名人左衛門佐」、『常山紀談』は「名人太郎」という呼び名を伝えています。理由として、『常山紀談』は家来の使い方に気を配ったことを、『名将言行録』は天下の手本となる人で過ちがなかったことを挙げています。『常山紀談』には、奉行の供と荷運びの者が荷の重さで言い争ったとき、秀政が自分で荷を担いで歩いてみて、自分でも長く運べば疲れるから荷運びの言い分にも理があると裁いた話があります。また、行軍で旗持ちが遅れて叱られたときも、自分で旗を担いで原因は自分の馬の足の速さだと気づき、足の遅い馬に替えたという話も載っています。
Q.山崎の戦いで堀秀政はどのような働きをしましたか?
本能寺の変が起きたとき、秀政は軍監として備中の羽柴秀吉のもとにいました。知らせを受けると秀吉と一緒に京へ急ぎ戻り、山崎の戦いでは中川清秀・高山右近らと先手を務めています。その後、光秀を助けに来た明智秀満を坂本城へ追い詰めました。秀満は家伝の宝物を秀政の従兄の堀直政に渡すと伝えてから、城に火を放って命を絶っています。『名将言行録』には、天王山へ向かう途中で家臣の堀七郎兵衛に止められて別の道を登ったところ、先に登っていた堀尾吉晴の隊が崩れたため、秀政がその脇から攻めかかって敵将の松田政近を鉄砲で追い散らしたという話も載っています。
Q.堀秀政の死後、堀家はどうなりましたか?
秀政は天正18年(1590年)5月27日、小田原攻めの陣中で疫病により38歳で急死しました。遺領のうち16万石は跡を継いだ長男の秀治に、2万石は親良に分けられています。亡骸はまず本陣の海蔵寺に葬られ、髷だけが越前へ運ばれて北之庄の屋敷に近い長慶寺に墓が築かれました。慶長3年(1598年)4月に秀治が越後春日山へ移されると、墓は春日山城のふもとの林泉寺へ移されます。林泉寺には父の秀重と息子の秀治の墓も並び、堀家3代を弔う寺となりました。

北条氏政

Q.北条氏政は本当に「無能」な当主だったのですか?
氏政には、飯にかける汁の加減も見誤って父の氏康を嘆かせた話や、刈り取ったばかりの麦で昼食をとろうと言って武田信玄に笑われた話など、評判を落とす逸話がいくつもあります。ただ、汁の話は毛利元就と輝元の話としても伝わっており、氏政を愚かな人物とする見方をたどると18世紀半ばの『関八州古戦録』あたりまでしかさかのぼれません。麦の話も17世紀前半に書かれた『甲陽軍鑑』に出てくるもので、どちらも後から作られた部分が大きいとみられています。実際には父の代より領国を広げ、優れた弟たちとも仲がよく、戦でも手柄を立てており、無能と呼ぶのは当たりません。
Q.北条氏政はなぜ豊臣秀吉に徹底抗戦したのですか?
以前は、氏政に世の流れや秀吉との力の差を見抜く力がなかったからだとする説明が一般的でした。ほかに、源頼朝の時代から東国の武士には中央から距離を置こうとする気風があり、それが抵抗の背景にあったとする見方や、秀吉ははじめから北条を滅ぼすつもりだったとする見方もあります。これに対して黒田基樹は、徳川・長宗我部・島津など力のある大名はたいてい一度は秀吉と戦っており、早くに従った上杉景勝や毛利輝元は織田政権との戦いで追い詰められた経験から中央の強さを知っていたのだと述べています。そのうえで、抵抗の理由は当主の出来や東国の土地柄ではなく、有力大名ならどこにでもある事情だったと論じました。さらに、島津や長宗我部が本拠を攻められる前に降ったのに対し、北条は本拠が囲まれる最後の段階まで戦い続けたため、滅ぼされたのは避けられなかったとも指摘しています。
Q.北条氏政の最期と、その後の北条氏はどうなったのですか?
天正18年(1590年)7月5日に氏直が降伏したあと、氏直の舅にあたる家康が氏政の命乞いをしましたが、秀吉は聞き入れませんでした。北条攻めを招いた責任者として、氏政と弟の氏照、重臣の松田憲秀・大道寺政繁に切腹が命じられ、氏政は7月11日、小田原城下にあった医師・田村安栖の屋敷で腹を切りました。享年53です。辞世として「雨雲の おほえる月も 胸の霧も はらいにけりな 秋の夕風」「我身今 消ゆとやいかに おもふへき 空よりきたり 空に帰れば」の2首が残っています。これで戦国大名としての北条氏は終わりました。氏直は命を助けられて高野山へ送られ、翌天正19年8月に1万石を与えられて大名に戻る道が開けかけましたが、その年の11月に亡くなります。家の血筋は氏政の弟の氏規が引き継ぎ、江戸時代には氏規の子の北条氏盛が河内狭山藩の藩主となって、明治維新まで家を保ちました。

藤堂高虎

Q.藤堂高虎は主君を何度も替えていますが、不忠だったのですか?
高虎は生涯で7度主君を替えており、「渡り奉公人」の代表とされてきました。一人の主君に生涯仕えるのが武士の道だとする江戸時代の考え方のもとで、長く低く見られてきたのはそのためです。しかし藤田達生氏は、才覚を頼みに主君と対等に近い関係を結ぶ渡り奉公人は、当時の京都や大坂に大勢いたと指摘し、高虎だけが特別だったわけではないとしています。実際、高虎は21歳で秀長に仕えてからはその家が絶えるまで離れず、秀吉にも生前は忠実に仕え、家康に近づいたのは秀吉の死後のことでした。秀長を弔う大光院も豊臣家の滅亡後まで支え続け、その支援は子孫にも受け継がれています。
Q.築城名人としての藤堂高虎の実績は?
黒田孝高(官兵衛)・加藤清正とともに「築城三名人」に数えられます。初めて城づくりに携わったのは天正13年(1585年)で、猿岡山城と和歌山城の普請奉行を務めました。高い石垣を積む技術と、石垣の上に多聞櫓を連ねる造りを得意とし、今治城では寸法をそろえた部材で組み上げる層塔型天守を初めて建てています。この天守は従来の望楼型より丈夫で工期も短く、江戸城などの普請に取り入れられて、近世の天守の主流になりました。慶長の役で築いた順天の城は、明・朝鮮軍に陸と海から攻められても寄せつけず、守りの固さを実戦で示しました。
Q.外様大名の高虎がなぜ徳川家康に重用されたのですか?
二人の縁は秀長の時代にさかのぼります。高虎は秀長の使いとして家康と直に手紙をやりとりし、家康から高虎個人へ宛てた陣中見舞いも残っています。天正14年(1586年)に聚楽第の家康屋敷を独断で造り替え、家康の身の安全を優先したことも、信頼を得るきっかけになったといわれます。関ヶ原では脇坂安治らを東軍に引き込み、勝利に貢献しました。慶長13年(1608年)に伊賀・伊勢を任されたのも、豊臣家の旧臣でありながら家康の腹心である高虎を置けば、大坂方を刺激せずに上方へ徳川の力を広げられるという、家康のねらいによるものと藤田達生氏はみています。家康は臨終の場にも高虎を呼んでいます。

丹羽長秀

Q.「米五郎左」とはどういう意味ですか?
『翁草』は、織田家中で「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」とはやされていたと伝えています。「米五郎左」は丹羽長秀のことです。木綿にたとえられた羽柴秀吉が、見た目は地味でも役に立つ人物とされたのに対し、長秀は何を任せてもそつなくこなす器用な人物で、米のように身分の上下を問わず誰の暮らしにも欠かせない存在だ、という意味が込められています。
Q.丹羽長秀は清洲会議のあと、なぜ羽柴秀吉方についたのですか?
長秀は秀吉・柴田勝家・池田恒興と並ぶ宿老として清洲会議に出席し、山崎の戦いでの働きもあって近江の高島郡と滋賀郡を加えられました。会議のあとに家中で争いが起きると秀吉の側に付き、清洲会議で決めたことを覆して織田信雄を名代として家督に立てるという、主家に背くともいえる秀吉の動きにも加わっています。同じころ、側室の産んだ三男の千丸(のちの藤堂高吉)を羽柴秀長の養子に出し、親戚となって秀吉との結びつきを深めました。とはいえ、秀吉が取り仕切った信長の葬儀には賛成していなかったとみられています(「蓮成院記録」)。
Q.丹羽長秀の死因は何ですか?
天正13年(1585年)4月16日、積寸白という寄生虫による病で亡くなったとされます。享年51でした。『多聞院日記』には、最期は自ら腹を切ったとも記されています。『秀吉譜』によると、長秀は日ごろから「積聚」に悩まされ、痛みに耐えかねて自害しました。火葬のあと灰の中から焼け残った積聚が見つかり、秀吉はそれを竹田法印に与えたといいます。宮本義己は、これを寸白の虫(それも真田虫ではなく回虫)とみるのが妥当だとし、腹を切ってから亡くなるまで2日かかっていることから、作法どおりの切腹ではなかったと考えています。

淀殿

Q.淀殿と茶々は同じ人物?
同じ人物です。実名(諱)は茶々で、本人の署名や秀吉からの書状の宛名にも「ちやちや」と記されています。生存中は居所の変化にともなって「淀の方」「二の丸殿」「西の丸殿」などと呼ばれ、鶴松・秀頼の出産後は「御袋様」「御台様」とも呼ばれました。現在広く使われる「淀殿」も、かつて使われた「淀君」も同時代の史料には見えず、いずれも江戸時代以降の呼称です。「淀君」の名が広まったのは、坪内逍遥の戯曲『桐一葉』が明治時代に舞台にかけられてからで、悪女のイメージと結びついた呼び名だと指摘されています。NHK大河ドラマで「淀君」の呼び方が使われたのは、昭和62年(1987年)の『独眼竜政宗』が最後です。
Q.淀殿は秀吉の側室だった?正室だった?
確定していません。秀吉の正室は高台院(寧々)であるため、江戸時代の『翁草』『系図纂要』などは淀殿を側室として扱い、これが長く通説とされてきました。しかし淀殿の生存中の史料で側室・妾と記録したものは、一夫一妻制をとる宣教師によるものしかありません。むしろ同時代人は「よどの御前様」「御台様」(『平塚瀧俊書状』)、「北の御方」「北政所」(『太閤さま軍記のうち』)と、正室に準じる扱いで記録しています。福田千鶴は、一夫一妻多妾制という江戸時代の枠組みを秀吉に当てはめたのが側室説の由来だとして、淀殿も高台院と同様の正室であったとします。小和田哲男は、当初は側室だったが鶴松の出産により二人目の正室へ格上げされたとみています。
Q.淀殿はどのような最期を迎えた?
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で大坂城は落城し、5月8日に秀頼と共に山里曲輪の糒蔵で命を絶ちました。享年47(永禄12年生誕説による)。大野治長が二人の助命を願いましたが叶わず、大蔵卿局・饗庭局ら側近の女中も運命をともにしています。一方、秀頼の妻・千姫とその侍女たちは蔵を出て生き延びました。最期を目撃した者の証言も遺体の確認も残らなかったため、秀頼と同じく淀殿にも生存説が生まれ、薩摩へ落ち延びたとする説などが伝えられています。墓所は京都市東山区の養源院と、大阪市北区の太融寺です。

お市の方

Q.お市の方と織田信長はどういう関係?
通説では織田信秀の娘で、信長の妹(五女)にあたります。信長とは13歳離れていたとされ、生母は不詳です。土田御前を生母とする説では、信長・信行・秀孝・お犬の方と同腹の兄姉ということになります。ただし江戸時代の『織田系図』は信長の従兄弟・織田広良の娘とし、『以貴小伝』にも従妹を妹と披露して嫁がせたとする記述があるなど、妹ではなく従妹とする説、信長の叔父・織田信光の娘とする説もあり確定していません。いずれにせよ信長・信包の市に対する待遇は姉妹のなかで特に厚く、織田家中で重い位置にあった女性でした。
Q.お市の方はどのような最期を迎えた?
天正11年(1583年)4月、夫・柴田勝家が賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れ、越前北ノ庄城に退きます。秀吉軍に城を包囲されると、勝家は市に城外へ退くよう勧めましたが、市はこれを拒んで運命を共にすると誓いました。三人の娘だけは富永新六郎に託して秀吉のもとへ送り、身柄の保障を求める書状を添えています。4月24日、市は勝家や一族・家臣ら80名余とともに自害しました。享年37。辞世は「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ 郭公かな」と伝えられます。墓所は福井市の西光寺にあります。
Q.お市の方の子孫にはどんな人物がいる?
浅井長政との間に生まれた三人の娘(浅井三姉妹)を通じて、その血筋は豊臣・京極・徳川の各家へ広がりました。長女・茶々は豊臣秀吉の側室(淀殿)となって豊臣秀頼を産み、次女・初は京極高次の正室(常高院)、三女・江は徳川秀忠の継室(崇源院)となって三代将軍・徳川家光や、後水尾天皇の中宮となった徳川和子を産んでいます。和子の娘は明正天皇として即位しました。また江の娘・豊臣完子は九条幸家に嫁ぎ、その子孫が大正天皇の皇后・貞明皇后(節子)にあたるため、お市の方の血筋は現在の皇室にもつながっています。
Q.お市の方の家系図・家族構成は?
父は尾張の織田信秀で、その五女とされます。生母は不詳で、土田御前を生母とする説に立てば織田信長・信行・秀孝・お犬の方と同腹の兄姉にあたります。夫は二人で、はじめ北近江の大名・浅井長政の継室となり、浅井氏滅亡後の天正10年(1582年)に織田家筆頭家老の柴田勝家と再婚しました。長政との間に生まれた三人の娘が浅井三姉妹で、長女・茶々(淀殿、豊臣秀吉の側室)、次女・初(常高院、京極高次正室)、三女・江(崇源院、徳川秀忠継室)です。なお長政には万福丸・万寿丸という男子もいましたが、いずれも市の子ではないと考えられています。

柴田勝家

Q.柴田勝家はなぜ賤ヶ岳の戦いで敗れた?
直接の敗因は、佐久間盛政の大岩山砦奇襲後に撤退命令を受け入れず前線に留まったこと、秀吉の「美濃大返し」の速さを読み誤ったこと、そして与力の前田利家が戦線離脱したことの3点が重なった結果です。より広く見れば、清洲会議後の調略戦で秀吉が上杉景勝や織田家臣団を切り崩しており、勝家が期待した毛利氏の後方攪乱も足利義昭の呼びかけに毛利が応じず実現しませんでした。フロイス『日本報告』は敗戦後の勝家が離反した家臣に恨み言を言わず、付き添った家臣に生きることを許した温情ある姿を伝えています。
Q.柴田勝家とお市の方の関係は?
天正10年(1582年)10月、清洲会議後に諸将の承諾を得て結婚しました。従来は信長の三男・信孝の仲介とされてきましたが、勝家自身の書状(『南行雑録』所収堀秀政宛書状)には、秀吉と相談したうえで主家筋の女性を妻に迎えることに一同の同意を取りつけた、という趣旨が書かれています。このことから、お市を望む勝家の気持ちを受けて秀吉が根回しをしたとみる説があります。翌年4月24日、北ノ庄城落城の際にお市も勝家と運命を共にしましたが、連れ子の浅井三姉妹(茶々・初・江)は城外に落ち延び、後に淀殿・常高院・崇源院として豊臣・京極・徳川の各家へ嫁ぐことになります。
Q.秀吉との対立はなぜ生まれた?
対立の芽は天正5年(1577年)の手取川の戦い前後に遡ります。上杉謙信への対応をめぐる軍議で衝突し、秀吉が信長の許可なく戦線離脱する事件が起きました。本能寺の変後の清洲会議では後継者候補で意見が対立(勝家は信孝、秀吉は三法師)し、遺領配分でも河内・丹波・山城を得た秀吉に対し勝家は北近江3郡どまりで、織田家中の立場が逆転しました。以後、秀吉は勝家の養子・柴田勝豊が守る長浜城を圧迫して寝返らせ、織田信孝を屈服させ、伊勢の滝川一益を攻めるなど周囲から切り崩したうえで、雪解けを待って出陣した勝家と賤ヶ岳で決戦することになります。
Q.柴田勝家は何歳で死んだ?
天正11年(1583年)4月24日、賤ヶ岳の戦いに敗れて越前北ノ庄城で自害しました。享年62とするのが通説ですが、57歳説・58歳説などの異説が複数あります。生年そのものが確定しておらず、『張州府誌』の大永2年(1522年)のほか、大永6年(1526年)説・大永7年(1527年)説、享禄3年(1530年)説があるためです。生年から逆算するしかないため、没年齢を一つに定めることはできません。
Q.柴田勝家の前妻や家族は?
お市の方は継室(後妻)で、天正10年(1582年)10月の再婚です。それ以前の妻については記録が乏しく、名も出自も分かっていません。実子とされる柴田勝里・柴田勝忠についても詳細は伝わっていません。一方で養子は複数知られており、長浜城主となった柴田勝豊、甥にあたる柴田勝敏(実子とする説もあります)、佐久間盛次の子で佐久間盛政の弟にあたる柴田勝政がいます。父は柴田勝義といわれますが確実な史料はなく、母も不明で、勝家自身の出自もはっきりしていません。

豊臣秀長

Q.豊臣秀長はなぜ「大和大納言」と呼ばれたのですか?
天正15年(1587年)、九州平定の手柄によって従二位権大納言に任じられ、居城が大和の郡山城だったことから、敬意をこめて「大和大納言」と呼ばれるようになりました。義弟にあたる徳川家康も同じ日に権大納言となっており、政権の中で秀長がどれほど高い地位にあったかがわかります。
Q.豊臣秀長がいなければ豊臣政権はどうなっていたのですか?
秀長は、秀吉と諸大名のあいだに立って話をまとめる役を担っていました。豊臣政権には外様の大名が多く、その調整は欠かせない仕事でした。秀吉は大友宗麟に「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候」と語っており(『大友家文書録』)、政権の表向きの仕事は秀長が預かっていたとみられます。その秀長が天正19年(1591年)に亡くなると、同じ年のうちに利休も切腹に追い込まれ、豊臣政権はしだいに揺らいでいきました。
Q.豊臣秀長と豊臣秀吉の関係は?
秀長は秀吉の弟で、母は同じでも父は違うとするのが通説です(父も同じとする説もあります)。竹阿弥の子として尾張の中村に生まれ、兄に連れられて織田信長に仕えました。秀吉が黒田孝高に宛てた自筆の手紙には「其方の儀は、我ら弟の小一郎め同然に心安く存じ候」という一節があります(『黒田侯爵家文書』)。信頼する相手を秀長になぞらえるほど、兄は弟を頼りにしていました。

真田信繁

Q.真田信繁と真田幸村、どちらが正しい?
実名(諱)は「信繁」で、「幸村」ではありません。信繁自身は死の前日まで「信繁」と名乗っており、「幸村」の初出は死後60年近く経った寛文12年(1672年)の軍記物『難波戦記』とされます。松代藩・真田家も文化6年(1809年)の徳川幕府への回答で「当家では信繁と把握している」と明言しています。ただし「幸村」の名が江戸中期以降に定着したため、幕府編纂の『寛政重修諸家譜』や松代真田家の系図でも「幸村」が採用され、庶民には「幸村」で広く知られる存在となりました。
Q.真田丸とは何?
大坂冬の陣で信繁が大坂城の南側・玉造口外に築いた土作りの出城です。地形の高低差が少なく最弱部とされた三の丸南側に、あえて突出部として真田丸を築くことで敵の注意をこの一点に引きつけ、大坂城本来の弱点を守る役割を果たしました。近年の研究では、従来「半円形」とされてきた真田丸が実際は不定形であったことが判明しています。12月4日の真田丸の戦いで信繁は前田利常勢らを撃退し、初めて武名を天下に知らしめました。
Q.なぜ真田信繁は「日本一の兵」と呼ばれる?
大坂夏の陣・天王寺岡山合戦で徳川家康の本陣にまで突入し、家康に自害を覚悟させたほどの奮戦を見せたためです。島津家の史料『薩藩旧記雑録』に記された島津忠恒の書状に「真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)、古よりの物語にもこれなき由」とあります。細川忠興も「古今これなき大手柄」と評しており、徳川方の史料にも家康本陣が二度突き崩され馬印が倒されたと記されています。信繁の勇名は幕府がこれを敢えて禁じなかったこともあり、講談・軍記物を通じて庶民にも広く語り継がれました。

武田勝頼

Q.武田勝頼はなぜ「諏訪勝頼」と呼ばれる?
勝頼は武田信玄の四男ですが、母は信濃の諏訪を治めていた諏訪頼重の娘でした。そのため永禄4年(1561年)に母方の諏訪家の名跡を継いで「諏訪四郎勝頼」と名乗り、信濃の高遠城主となりました。名前の「頼」も諏訪氏が代々使ってきた字で、武田氏の「信」の字は受け継いでいません。のちに兄の義信が跡継ぎから外されたため勝頼が世継ぎとなり、信玄の死後に武田家を継ぎました。
Q.武田氏滅亡の原因は長篠の戦い?
長篠の大敗が滅亡の原因だと長く言われてきましたが、今はその見方が見直されています。勝頼は長篠のあとも外交を立て直し、北関東の大名たちと手を組んで、武田家として最も広い領国を築きました。平山優は、御館の乱で上杉景勝と結んだ結果、北条との同盟が壊れたことを滅亡の大きな原因とみています。高天神城に援軍を送れずに信用を落とし、国衆の離反を招いたことも重く見ています。武田家の旧臣たちの多くも、家が滅びたのは北条との同盟を失ったためだと受け止めていました。
Q.武田勝頼は暗愚な武将だった?
家をつぶした愚かな当主という勝頼像は、家を守り継ぐことを何より重んじた江戸時代の武家の考え方と、『甲陽軍鑑』の書きぶりが重なって広まったものです。実際には、父の信玄は勝頼の武勇を高く買っていましたし、勝頼の首と対面した織田信長も「日本にかくれなき弓取」と評したと『三河物語』は伝えます。近年は新府城の発掘調査などをきっかけに、外交や領国の治め方の面から勝頼を見直す研究が進んでいます。

立花宗茂

Q.立花宗茂はなぜ「西国無双」と呼ばれた?
抜群の武勇によります。父・高橋紹運が島津の大軍に岩屋城で玉砕する中で立花山城を守り抜き、豊臣秀吉から「その忠義・剛勇ともに鎮西一」と称えられました。文禄の役の碧蹄館の戦いでは寡兵で明の大軍を撃破し、小早川隆景に「立花の3千は他家の1万に匹敵する」と評されています。秀吉も、東の本多忠勝に対する西の宗茂として、二人を東西で並ぶ者のない武将だと称えています。こうした数々の武功から、宗茂は後世「西国無双」「鬼将軍」と称えられました。
Q.大津城を落としたのに、なぜ立花宗茂は関ヶ原で負けた側になった?
宗茂は西軍に属し、毛利元康らとともに東軍の京極高次が籠る近江・大津城を攻めていました。激しい攻防の末に大津城を開城させましたが、その日(慶長5年9月15日)はまさに関ヶ原本戦の当日でした。1万5千の西軍が大津に釘付けにされたまま本戦に間に合わず、宗茂自身も戦果を活かせぬまま西軍敗北の報を受けて撤退。戦後に改易されました。
Q.立花宗茂はどうやって旧領に復帰した?
改易後、宗茂は浪人となりながらも武名と人柄を惜しまれ、本多忠勝の推挙で徳川家康に召し出されました。陸奥棚倉で大名に復帰したのち、大坂の陣での働きなどを経て、元和6年(1620年)に旧領・筑後柳川10万9千石を与えられます。関ヶ原で西軍に属して改易された大名のうち、旧領そのものへの復帰を果たしたのは宗茂ただ一人でした。

上杉景勝

Q.上杉景勝はどのようにして上杉家を継いだ?
上杉謙信が後継者を明示しないまま急死した後、もう一人の養子で北条氏出身の上杉景虎と家督を争いました(御館の乱)。景勝はいち早く春日山城の本丸と金蔵を押さえて正統性と資金を確保し、武田勝頼と甲越同盟を結んで景虎を支援する勢力を抑え、天正7年(1579年)に勝利して上杉氏の当主となりました。
Q.なぜ会津120万石から米沢30万石へ減らされた?
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで石田三成らの西軍に与し、会津で徳川家康に対抗したためです。本戦で西軍が敗れたことで家康に降伏し、改易は免れたものの会津120万石から出羽米沢30万石へ大減封されました。景勝が家臣を一人も減らさなかったため、米沢藩は深刻な財政難に陥ったと伝わります。
Q.上杉景勝はどんな人物だった?
寡黙で威厳に満ち、家臣の前で一生に一度しか笑わなかったという伝説が残るほどの人物でした。豊臣秀吉の宴席で傍若無人に振る舞った前田慶次でさえ、景勝の前では「威風凛然として座ることができなかった」と語ったと伝わります。義を重んじる主君として、家臣から厚い敬慕を集めました。

真田昌幸

Q.真田昌幸はなぜ「表裏比興の者」と呼ばれた?
「比興」は現在の「卑怯」とは異なり、「くわせもの」「老獪」といった意味で、武将への褒め言葉でした。地方の小勢力に過ぎなかった昌幸が、上杉・北条・徳川・豊臣といった大勢力の間を巧みに渡り歩いて勢力を拡大し、時には大勢力との衝突も辞さなかった手強さを評した言葉です。豊臣秀吉自身がこう評したと伝わります。
Q.真田昌幸と真田幸村(信繁)の関係は?
真田昌幸は、大坂の陣で活躍した真田信繁(幸村)の父にあたります。昌幸の次男が信繁で、長男は上田藩初代藩主となった真田信之です。関ヶ原の戦いでは昌幸・信繁が西軍、信之が東軍に分かれ、真田家の存続を図りました(犬伏の別れ)。
Q.なぜ真田昌幸は2,000の兵で徳川の大軍に勝てたのか?
上田城と砥石城・丸子城など周辺の山城、そして神川などの地形を巧みに活かした巧妙な戦法によります。第一次上田合戦では城下に敵を誘い込んで反撃し、退却する敵を神川で討つことで約7,000の徳川軍に1,300人もの損害を与えました。第二次でも徹底した籠城策と奇策で秀忠軍を翻弄しています。
Q.真田昌幸の死因は?何歳で亡くなった?
病死です。関ヶ原の戦いののち紀伊国九度山(現在の和歌山県九度山町)へ配流され、赦免されないまま慶長16年(1611年)6月4日に同地で没しました。享年65。67とする説もあり、確定していません。討死や自害ではありません。配流中は信之を通じて赦免運動を続け、上田への帰還を望んでいましたが叶わず、生活費にも困窮して信之にたびたび援助を求める書状を送っています。遺体は九度山で火葬され、翌慶長17年(1612年)に分骨が上田へ運ばれました。
Q.真田昌幸の母・正室・側室は誰?
母は恭雲院で、真田家の重臣・河原隆正の妹にあたります。正室は山手殿(法名は寒松院)で、永禄7年(1564年)頃に迎え、長男・信之と次男・信繁を産みました。山手殿は公家の菊亭晴季の娘とされてきましたが、晴季の生年などから否定的な見方があり、出自には諸説あります。ほかに真田昌親を産んだ側室がいたことが系譜から分かりますが、「某氏」と記されるのみで名も出自も伝わっていません。村松殿ら娘の多くも生母が明らかになっていません。

斎藤道三

Q.斎藤道三が「美濃の蝮(まむし)」と呼ばれるのはなぜですか?
「美濃の蝮」の異名は、坂口安吾の小説『梟雄』(1953年)以降に広まったもので、それ以前に道三をマムシと呼んだ例は確認されていません。また、油売りの行商人から一代で戦国大名にのし上がったというイメージも、近年の研究では父・長井新左衛門尉と道三の父子二代による「国盗り」だったことが明らかになっています。1968年に発見された「六角承禎条書写」が、その大きな根拠です。
Q.斎藤道三と織田信長はどのような関係でしたか?
道三は娘の濃姫(帰蝶)を信長に嫁がせており、信長の舅にあたります。家臣の多くが信長を「大たわけ」と侮るなか、道三は富田の聖徳寺での会見で信長の非凡さを見抜き、「我が子らは、いずれあのたわけの門前に馬を繋ぐ(家来になる)だろう」と語ったと『信長公記』は伝えます。長良川の戦いでは信長自ら援軍に向かいましたが、間に合いませんでした。
Q.斎藤道三はなぜ息子に討たれたのですか?
『信長公記』によれば、道三が長男・義龍を愚かと見て、弟の孫四郎・喜平次を寵愛し家督を継がせようとしたため、義龍が二人の弟を謀殺して挙兵したと伝わります。弘治2年(1556年)の長良川の戦いで、兵力に勝る義龍軍に道三は敗れ、討死しました。なお「義龍が実父は土岐頼芸だと知って道三を討った」という俗説は、後世の創作とされています。

浅井長政

Q.浅井長政はなぜ織田信長を裏切ったのですか?
理由は確定しておらず、朝倉氏との関係を重視したとする説、朝倉討伐後に自家も攻められると疑ったとする説、対等な同盟ではなく主従に近い関係で信長に軽んじられたとする説、足利義昭の御内書による連携とする説などがあります。『信長公記』には、信長自身も当初は裏切りを「虚説たるべき」と信じなかったと記されています。
Q.浅井長政とお市の方の子供は誰ですか?
三人の娘がいて、後に「浅井三姉妹」と呼ばれます。長女・茶々は豊臣秀吉の側室(淀殿)、次女・初は京極高次の正室(常高院)、三女・江は徳川秀忠の継室(崇源院)となりました。江の娘は徳川家光や後水尾天皇中宮の和子で、長政の血筋は徳川将軍家や天皇家へとつながりました。
Q.浅井長政は何歳で亡くなったのですか?
享年29です。天正元年(1573年)、織田軍に小谷城を包囲され、父・久政に続いて9月1日に自害しました。信長の降伏勧告を最後まで断り続けたと伝わります。

黒田官兵衛

Q.黒田官兵衛と黒田孝高は同一人物ですか?
同一人物です。諱は孝高で、官兵衛は通称です。剃髪後は如水と号したため、黒田如水とも呼ばれます。
Q.黒田官兵衛は備中高松城の水攻めを考えた人物ですか?
水攻めは官兵衛の献策として語られることが多く、資料にも黒田孝高や家臣・吉田長利の献策とする記述があります。ただし、実際の献策を直接示す同時代史料は乏しく、従軍して重要な幕僚だったことを確実な範囲として見る必要があります。
Q.黒田官兵衛は天下を狙っていましたか?
関ヶ原の戦いが長引けば中国地方へ攻め込むつもりだったとする吉川広家宛書状があり、後世に野心家像が形成されました。一方で家康勝利後は恩賞を辞退して隠居しており、天下取りを明確に企てたと断定できる同時代史料はありません。

直江兼続

Q.直江兼続の「愛」の兜の意味は?
前立の「愛」の字は、愛宕権現(愛宕神社の神)から取ったとする説が有力です。上杉謙信が愛宕神社に戦勝を祈った文書が残っており、上杉家の信仰とのつながりが考えられています。兜も前立も兼続が自分で作らせたものではなく、謙信か景勝が作らせて兼続に与えたものとみられています。
Q.直江兼続と上杉景勝の関係は?
兼続は若い頃から景勝の小姓・近習として仕え、直江家を継いでからは内政と外交の取り次ぎを一人で引き受けました。当時の家臣は、景勝を「殿様」や「上様」と呼ぶ一方で兼続のことは「旦那」と呼んでおり、二人で国を治めるのに近い形でした。兼続は亡くなるまで約40年にわたって景勝のもとで政治を預かり、上杉家を支え続けました。
Q.直江状とは何ですか?
慶長5年(1600年)に、徳川家康の問いただしに対して兼続が送ったとされる返書です。今に伝わる文面は偽物か、後の時代に大きく書き換えられたものではないかと疑われています。それでも、豊臣家の奉行たちの書状に「直江所行、相届かざる儀、ご立腹ご尤もに存じ候」とあることから、家康を怒らせた兼続の手紙そのものはあったと考えられています。この一件が、会津征伐につながる原因の一つとなりました。

本多忠勝

Q.なぜ本多忠勝は生涯無傷だったと伝えられている?
忠勝は大きな戦いから小さな戦いまで57の合戦に出ましたが、どの戦場でも傷ひとつ受けなかったといわれます。『藩翰譜』も「終に一所の手も負わず」と記しています。ただ、亡くなる数日前、小刀で持ち物に自分の名を彫っていて手元が狂い、左手を少し切ってしまいました。そのとき「本多忠勝も傷を負ったら終わりだな」とつぶやき、実際にほどなく世を去ったという話が伝わっています。
Q.愛槍「蜻蛉切」とはどんな槍?
笹の葉のような形をした、刃の長さ43.8cmの大ぶりの槍です。穂先にとまったトンボが、触れただけで二つに切れてしまったという話が名前の由来です。「天下三名槍」の一つで、茎には「藤原正真作」と刻まれています。当時ふつうの長槍の柄は一丈半(約4.5m)でしたが、蜻蛉切は二丈あまり(約6m)もあったといわれます。年をとって力が落ちると、忠勝は柄を三尺(約90cm)あまり切り詰めたそうです。現在は静岡県沼津市の矢部家が所蔵しています。
Q.徳川四天王とは?
家康の家臣の中でもとりわけ戦功の大きかった、本多忠勝・酒井忠次・榊原康政・井伊直政の4人をまとめた呼び名です。忠勝の強さは徳川家の外でも知られ、秀吉は「日本第一、古今独歩の勇士」、信長は「花も実も兼ね備えた武将」と評しました。

前田利家

Q.なぜ「加賀百万石」の祖と呼ばれる?
賤ヶ岳の戦い後に加賀国2郡を加増され、富山の役の戦功で嫡子・利長が越中3郡を加増されて前田一族で76万5千石に達しました。さらに文禄4年に越中新川郡を加増されて加能越にまたがる83万石余となり、後に加賀藩100万石として確立した領国の基礎を築いたためです。
Q.賤ヶ岳の戦いでなぜ柴田勝家から離反した?
利家は柴田勝家の与力でしたが、秀吉とは清洲時代から夫婦ぐるみの親交があり、合戦前から秀吉の勧誘に応じていたと推測されています。合戦のたけなわで5,000の兵を率いて突如撤退し、これが羽柴軍の勝利を決定づけました。戦後、敗走する勝家を厚遇し、その後は秀吉に降伏して北ノ庄城攻めの先鋒を務めています。
Q.「槍の又左」の異名はどこから?
利家は柄の長さが三間半(約6m30cm)もある、長くて目立つ槍を振るい、初陣の萱津の戦い以降、緒戦で槍先による功を挙げる武辺者でした。永禄元年の浮野の戦いで赤母衣衆筆頭に抜擢された頃から「槍の又左衞門」「槍の又左」と呼ばれるようになり、姉川の浅井攻めや石山合戦の戦功から「日本無双の槍」「堤の上の槍」とも称えられました。

長宗我部元親

Q.長宗我部元親はどのような人物ですか?
長宗我部元親は土佐国(現在の高知県)の戦国大名で、長宗我部氏第21代当主です。幼少期は「姫若子」と呼ばれるほど大人しい性格でしたが、初陣で武名を挙げ「鬼若子」と賞賛されました。一領具足を率いて土佐を統一し、さらに阿波・讃岐・伊予へと勢力を拡大して四国をほぼ制圧しました。豊臣秀吉の四国征伐で降伏後は土佐一国を安堵され、九州征伐や朝鮮出兵に従軍。分国法『長宗我部元親百箇条』を制定するなど内政面でも功績を残しています。
Q.なぜ「姫若子」と呼ばれていたのですか?
幼少期の元親は長身で色白、人に会っても挨拶や返事をせずぼんやりしていたため、「姫若子」と揶揄され軟弱者と見なされていました。父の国親も後継者として悩んでいたといわれます。しかし永禄3年(1560年)の初陣・長浜の戦いで自ら槍を持って敵に突撃する勇猛さを見せ、一転して「鬼若子」と賞賛されました。家臣の秦泉寺豊後に槍の使い方を聞いてからその通りに戦ったという逸話が残っています。
Q.四国統一は達成されたのですか?
通説では天正13年(1585年)に元親は四国統一を達成したとされますが、近年の研究では疑問視する見解が出ています。讃岐では虎丸城、阿波では土佐泊城が最後まで持ちこたえ、伊予の河野氏も最後まで降伏しなかった可能性があることから、「各国であと一歩まで支配を進めたが統一は達成できなかった」とする説もあり、研究者の間で見解が分かれています。いずれにせよ秀吉の四国攻め(天正13年7月)で元親は降伏し、土佐一国の領有のみが認められました。

石田三成

Q.石田三成はどんな人物だったのですか?
石田三成は豊臣秀吉に仕えた五奉行の一人で、行政・外交・検地に卓越した手腕を発揮しました。太閤検地の実務を主導し、九州平定では25万の大軍の兵糧補給を滞りなく管理するなど、優れた実務能力で知られます。秀吉の死後は徳川家康の台頭に対抗して西軍を組織しましたが、関ヶ原の戦いに敗れ処刑されました。
Q.石田三成の忍城水攻めは失敗だったのですか?
忍城の水攻めは三成の独断ではなく、秀吉自身の指示によるものです。三成はむしろ積極的な攻城戦を主張していました。総延長約28kmの堤防をわずか数日で築く統率力を発揮しましたが、忍城は地形的に水没が困難で、城側の堤防破壊工作もあり長期戦となりました。最終的に小田原城開城後、城主・成田氏長の説得で開城しています。
Q.石田三成の子孫はどうなりましたか?
三成の子孫には比較的寛容な措置が取られました。長男・重家は出家して104歳の天寿を全う、次男・重成は津軽氏に匿われて家老職を務めました。三女・辰姫は弘前藩主・津軽信枚の正室となり、次女・小石殿の曾孫は徳川家光の側室・お振の方となって家光の長女・千代姫を産み、その血筋は現在の皇室にもつながっています。

島津義弘

Q.島津義弘の「鬼石曼子」とはどういう意味ですか?
「鬼石曼子(グイシーマンズ)」は、朝鮮の役で明や朝鮮の兵が義弘を恐れてこう呼んだと伝わる名です。明では「島津」を音に合わせて「石蔓子」と書いており、そこに「鬼」を付けた「鬼石曼子」は「鬼島津」という意味になります。もっとも、これは日本側の記録に出てくる呼び名で、いま残っている朝鮮側の記録には「鬼」を付けた書き方は見当たりません。
Q.「島津の退き口」とは何ですか?
関ヶ原の戦いで西軍が総崩れになった後、義弘が敵の真ん中を突き抜けて戦場から引き揚げたことを指します。逃げ道をふさがれた島津隊は、あえて前にいる東軍を突破する道を取りました。数人ずつが踏みとどまって命がけで追っ手を食い止める「捨て奸」を繰り返し、義弘を逃がしたのです。甥の島津豊久や家老の長寿院盛淳らがこのとき討たれ、追ってきた井伊直政も深い傷を負いました。
Q.島津義弘は島津家の当主だったのですか?
義弘を第17代当主に数えるのは、幕末にまとめられた『島津氏正統系図』からです。ところがその後の研究で、当主の印である「御重物」が義久から忠恒へ、義弘を経ずに渡されていたことが明らかになり、今では義弘は正式な当主ではなかったとみる研究者が多くなっています。島津家を割ろうとした豊臣秀吉が、わざと義弘を当主のように扱ったという説もあります。

明智光秀

Q.明智光秀はなぜ本能寺の変を起こしたのか?
光秀の動機については怨恨説・野望説・四国政策説・不安説など50以上の説が提唱されていますが、現在も定説はありません。確実な一次史料が乏しく、「日本史最大のミステリー」とも呼ばれています。
Q.明智光秀の前半生はなぜ不明なのか?
光秀が歴史の表舞台に登場するのは永禄年間(1560年代)以降で、それ以前の一次史料がほとんど存在しません。越前国の朝倉義景のもとで浪人していた時代が長く、出自も土岐明智氏の傍流とされますが確証がありません。
Q.明智光秀と正室・煕子の関係は?
光秀と正室・煕子は仲が良かったとされ、側室を置かなかったという伝承があります。ただし『鈴木叢書』所収の「明智系図」には側室の子の記載もあり、伝承と史料には食い違いがあります。煕子は天正4年(1576年)に坂本城で病死しました。

北条氏康

Q.北条氏康の河越夜戦とはどのような戦いですか?
天文15年(1546年)の河越城をめぐる戦いです。山内上杉憲政・扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏らがおよそ8万の兵で河越城を囲み、城を守る北条綱成は半年ほど持ちこたえていました。救援に来た氏康の兵は1万に届きませんでしたが、奪った土地は返すという手紙を敵方に送って気を緩ませ、城内の綱成と呼応して夜に攻めかかりました。朝定は討ち死にして扇谷上杉氏は滅び、憲政は上野へ逃れます。この勝利で、関東での争いの主導権は北条氏に移りました。
Q.北条氏康はどのような内政を行いましたか?
年貢や諸役の仕組みを整えることに力を注ぎました。天文19年(1550年)の公事赦免令では、まちまちだった税の取り方をまとめて負担を軽くし、農民が役人の不正をじかに訴え出られる目安箱も置きました。永禄2年(1559年)には、家臣560人の所領と負担すべき軍役を一覧にした『小田原衆所領役帳』をつくらせています。ほかにも検地を徹底し、棟別銭を50文から35文に下げ、通貨を永楽銭に、枡を1種類にそろえました。城下の小田原は「東の小田原・西の山口」といわれる東国一の町に育ちました。
Q.北条氏康と上杉謙信の関係はどのようなものでしたか?
はじめは敵同士でした。永禄4年(1561年)に謙信は10万余りの軍で小田原城を囲みましたが、氏康は城にこもって守り抜き、謙信を引き揚げさせています。その後も謙信はほぼ毎年のように関東へ出てきて、両者は城を取ったり取られたりを繰り返しました。流れが変わったのは永禄11年(1568年)、武田信玄が同盟を破って駿河へ攻め込んだときです。氏康は武田と戦うために謙信と手を結ぶ道を選び、永禄12年(1569年)に越相同盟を結びました。子の三郎(のちの上杉景虎)を人質に出し、互いの領地を認め合う取り決めでした。

毛利元就

Q.毛利元就の「三本の矢」の逸話は史実ですか?
「三本の矢」の逸話は後世の創作とされています。死の間際に3人の息子を呼び寄せて矢を折らせたという話ですが、実際には長男・隆元は元就より先に亡くなっています。この逸話の元になったのは、弘治3年(1557年)に元就が隆元・元春・隆景に宛てた直筆書状「三子教訓状」で、2.85メートルにも及ぶ長大な書状の中で兄弟の結束を強く説いています。
Q.毛利元就はなぜ策略家として知られるのですか?
元就は生涯を通じて数々の謀略を駆使して勢力を拡大したことからそう呼ばれます。厳島の戦いでは偽りの内通や宮尾城築城による誘引策で陶晴賢の大軍を厳島に誘い込み、寡兵で壊滅させました。また、次男・元春を吉川氏に、三男・隆景を小早川氏に送り込む「毛利両川体制」の構築や、井上党の粛清、尼子氏攻略における離間策など、軍事力だけでなく政治的策謀を巧みに用いた武将でした。
Q.毛利元就の領国はどのくらいの規模だったのですか?
元就は安芸国の一国人領主から出発し、最終的には安芸・備後・周防・長門・石見・出雲の6ヶ国(一時は8ヶ国ともいわれます)を治め、中国地方で並ぶ者のない大名となりました。石見銀山の支配権も獲得し、その莫大な銀を朝廷や幕府への工作資金や軍資金に充てました。元就自身は「天下を競望せず」と語り、自分の代でのさらなる拡大は望まない意志を示しましたが、北九州をめぐっては晩年まで大友氏と激しい抗争を続けました。

伊達政宗

Q.伊達政宗はなぜ「独眼竜」と呼ばれる?
幼少期に疱瘡(天然痘)で右目を失明したことに由来します。「独眼竜」の呼称は、江戸後期の儒学者・頼山陽が漢詩で、中国唐末の軍閥・李克用(もともと「独眼龍」と呼ばれた隻眼の武将)に政宗をなぞらえたことが起源です。
Q.伊達政宗の眼帯は史実?
実際には当時の史料に政宗が目を覆っていた記述はありません。眼帯のイメージは1942年の映画『獨眼龍政宗』で始まった演出です。政宗本人は「親より頂いた片目」と考え、肖像画や木像では両目が描かれるよう希望していました。
Q.伊達政宗は天下を狙っていた?
軍記物には幕府軍との決戦を想定した図上演習の記録があるとされ、慶長遣欧使節をスペインとの軍事同盟のためとする説もあります。頼山陽は「天下統一がもう少し遅れていれば東北全域を支配していたはずだ」と詠んでおり、政宗の野心は後世の人々の想像力をかき立て続けています。

今川義元

Q.今川義元はなぜ「海道一の弓取り」と呼ばれた?
「海道」とは東海道を指し、「弓取り」は武将の意味です。駿河・遠江・三河の東海三国を支配し、戦国時代最大級の版図を築いたことから、東海道で最も優れた武将として「海道一の弓取り」と称されました。
Q.今川義元は本当に公家かぶれだった?
義元がお歯黒をつけ薄化粧をしていたという記述は『甲陽軍鑑』などの後世の軍記物に基づくものです。当時の上流武将にとって公家の作法を身につけることは教養の証であり、義元の統治能力の高さを示すものでした。近年の研究では、義元は優れた政治家・軍略家として再評価されています。
Q.今川義元の上洛説は本当?
桶狭間の戦いの目的が上洛であったかは諸説あります。当時の義元の兵力では京都まで到達するのは困難であり、まずは尾張の織田領を制圧して勢力圏を拡大する目的だったとする説が有力です。

真田幸隆

Q.真田幸隆はなぜ「攻め弾正」と呼ばれた?
幸隆は弾正忠の官位を持ち、武田軍が力攻めで落とせなかった砥石城を調略でわずか1日で陥落させるなど、攻めの才能に秀でていたことから「攻め弾正」の異名で呼ばれました。
Q.真田幸隆と真田幸村の関係は?
真田幸隆は真田信繁(幸村)の祖父にあたります。幸隆の三男・真田昌幸が真田家を継ぎ、その次男が大坂の陣で活躍した真田信繁(幸村)です。
Q.真田幸隆はなぜ武田家に仕えた?
天文10年(1541年)の海野平の戦いで武田信虎らに敗れて領地を失いましたが、信虎が追放された後、その子・晴信(信玄)に臣従し、旧領回復を果たしました。

上杉謙信

Q.上杉謙信はなぜ「軍神」と呼ばれる?
生涯70回以上の合戦でほとんど敗北がなく、毘沙門天を熱心に信仰して「毘」の旗印を掲げたことから「軍神」と称されました。第四次川中島の戦いや手取川の戦いなどの戦績が評価されています。
Q.上杉謙信は生涯独身だった?
生涯独身を貫きました。毘沙門天への信仰から女性を近づけなかったとも言われますが、真相は不明です。後継者を明確に定めなかったため、死後に御館の乱が起き上杉家は大きく衰退しました。
Q.「敵に塩を送る」とはどういう逸話?
武田信玄が今川・北条との同盟破綻で塩の供給を断たれた際、敵対する謙信が「戦いは戦場で決するもの」として塩を送ったとされる逸話です。義を重んじる謙信の人柄を示す話として知られています。
Q.上杉謙信の死因は?
天正6年(1578年)、遠征準備中に春日山城内の厠で倒れ、4日後に死去しました。過度の飲酒や塩分過多による高血圧性の脳血管障害(脳卒中)が死因とされています。

武田信玄

Q.武田信玄の「風林火山」とは?
「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」(疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し)。孫子の兵法から引用した旗印で、武田軍の戦術思想を象徴しています。
Q.武田信玄と上杉謙信はなぜ何度も戦った?
信玄の信濃侵攻により領地を追われた村上義清らが越後の上杉謙信に救援を求めたことがきっかけです。天文22年(1553年)から永禄7年(1564年)まで5度にわたり川中島で対峙しました。
Q.武田信玄の死因は?
元亀4年(1573年)、西上作戦の途上で持病が悪化し死去しました。死因は胃癌・肺結核・食道癌など諸説あり確定していません。享年53。
Q.信玄堤とは?
武田信玄が甲府盆地を水害から守るために築いた堤防です。釜無川と御勅使川の合流点に「霞堤」の技術を用い、農業生産力の向上と武田家の経済基盤強化に貢献しました。

徳川家康

Q.徳川家康は何歳で天下を取った?
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで天下の実権を掌握した時は数え年59歳、慶長8年(1603年)、征夷大将軍となって江戸幕府を開いた時は数え年62歳でした。
Q.徳川家康の幼名は?
幼名は竹千代です。松平元康、松平家康と名を改め、最終的に徳川家康と称しました。
Q.徳川家康はなぜ江戸を選んだ?
天正18年(1590年)の小田原攻め後、豊臣秀吉の命で関東に移封されました。江戸は当時未開の湿地帯でしたが、家康は大規模な治水工事で城下町を整備し、後の大都市・東京の基盤を築きました。
Q.徳川家康の最大の敗北は?
元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いです。武田信玄の大軍に正面から挑み惨敗し、命からがら浜松城に逃げ帰りました。この敗北の教訓がその後の慎重な戦略に活かされたとされます。

織田信長

Q.織田信長はなぜ殺された?
1582年6月21日、家臣の明智光秀による謀反(本能寺の変)により、京都本能寺で自害しました。光秀の動機については、怨恨説・野望説・黒幕説など諸説あり、現在も定説はありません。
Q.織田信長の妻は?
正室は美濃国主・斎藤道三の娘である濃姫(帰蝶)です。側室には生駒吉乃、坂氏、お鍋の方などがいます。
Q.織田信長は何歳で亡くなった?
数え年49歳で亡くなりました。天文3年(1534年)に生まれ、天正10年(1582年)6月21日に本能寺の変で死去しました。
Q.織田信長の「天下布武」とはどういう意味?
「天下布武」は武力で天下を治めるという意味の印判で、永禄10年(1567年)に美濃を制圧した頃から使い始めました。天下統一への強い意志を表す標語として知られています。

豊臣秀吉

Q.豊臣秀吉の本名は?
幼名は日吉丸、元の名は木下藤吉郎です。出世に伴い木下秀吉、羽柴秀吉と改名し、関白就任後に豊臣姓を賜りました。
Q.豊臣秀吉はなぜ天下統一できた?
本能寺の変の直後に「中国大返し」で素早く京都に帰還し、山崎の戦いで明智光秀を討伐。織田家の後継者としての地位を確立し、賤ヶ岳の戦い・小牧長久手の戦いを経て、九州平定・小田原攻めで天下統一を達成しました。
Q.豊臣秀吉は農民出身?
出自については諸説ありますが、尾張国中村の農民または足軽の子とされています。日本史上、最も劇的な立身出世を遂げた人物です。
Q.朝鮮出兵はなぜ行われた?
文禄元年(1592年)と慶長2年(1597年)の二度にわたり朝鮮出兵を行いました。明の征服を最終目標としたとされますが、国内統一後の武士の活用先確保や秀吉の誇大妄想など複数の要因が指摘されています。

合戦のよくある質問

伏見城の戦い

Q.伏見城の戦いは関ヶ原の戦いとどう関係しますか?
伏見城の戦いは、9月15日の関ヶ原の戦いに先立つ前哨戦です。家康が会津へ向かった留守に、石田三成ら西軍は家康の家臣・鳥居元忠が守る伏見城を攻めました。城は8月1日に落ちましたが、攻め落とすのに10日以上かかったため、その後の西軍の美濃・伊勢方面への進出が大きく遅れたとする説があります。
Q.島津義弘や小早川秀秋は、はじめ徳川方につくつもりだったのですか?
島津義弘と小早川秀秋は、もとは家康に味方するつもりで伏見城に入ろうとしたものの、城側に断られたため、やむなく西軍に加わって城を攻めたとする説があります。島津家の記録では、義弘は家康から援軍を頼まれて千の兵で駆けつけたものの、元忠はそのような話は聞いていないとして入城を拒んだとされます。ただ、この話の出典はどちらも江戸時代にできた記録で、事実だったかどうかは確かめられていません。
Q.伏見城の「血天井」は本当に伏見城の床板なのですか?
京都市の養源院・正伝寺などには、伏見城で討ち死にした徳川方の血に染まった床板を、供養のために天井板として使ったという言い伝えがあり、「血天井」として今も見ることができます。ただし、徳川方の将兵が亡くなった建物が焼け残ったことや、床板を移したことを裏付ける記録はなく、言い伝えがどこまで本当かははっきりしていません。

神流川の戦い

Q.神流川の戦いはなぜ起きたのですか?
天正10年(1582年)3月に武田氏が滅ぶと、信長は上野一国と信濃2郡を滝川一益に与え、関東の諸将をまとめさせました。北条氏は織田氏と手を組んでいたのに領地は増えず、一益から北条氏に不利な裁定を受けることもあって、内心では不満と不信を募らせていました。そこへ6月2日に本能寺の変が起こります。北条氏は一益に友好を保つと伝える一方で兵を集め、上野を取りに動きました。
Q.滝川一益はなぜ敗れたのですか?
一益が上野を治め始めてからまだ3ヶ月しかたっておらず、兵の数も北条軍5万に対して1万8千と、大きく劣っていました。18日には上野衆とともに北条氏邦の軍を破りましたが、19日に北条氏直の2万の軍勢と戦って敗れています。一益の兵の多くは、武田氏の旧臣が中心の上野の国衆でした。戦いの後、由良国繁・長尾顕長・北条高広らはすぐに一益から離れ、北条氏についています。
Q.戦いの後、上野や信濃はどうなりましたか?
勝った北条氏直は一益を追って碓氷峠を越え、佐久郡の領主たちを従え、真田昌幸も味方につけて小諸城まで進みました。しかし北信濃には上杉景勝が、甲斐には徳川家康が入り、旧武田領は三者の奪い合い(天正壬午の乱)になります。一方の一益は清洲会議に出られず、織田家中での立場を失いました。上野の国衆は北条氏に従いましたが、天正18年(1590年)の小田原征伐で北条氏が滅ぶと、真田氏などわずかな家を除いて没落しています。

末森城の戦い

Q.末森城の戦いはなぜ起きたのですか?
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの途中で、越中の佐々成政が羽柴秀吉の側を離れ、織田信雄・徳川家康の側についたからです。成政ははじめ秀吉の求めに応じて佐々平左衛門を送り出していましたが、7月に北陸の軍勢が戻ってくると、羽柴方の戦いぶりが思わしくないと聞き、信雄・家康の誘いに乗ったとみられています。そこで成政は、秀吉方の前田利家の領国を加賀と能登に切り離そうと考え、2つの国を結ぶ道の要にあった末森城を1万5千の兵で囲みました。
Q.前田利家はどうやって末森城を救ったのですか?
末森城では奥村永福・千秋範昌らが300人で守りましたが、城代の土肥次茂が討たれ、落城は目前でした。知らせを受けた利家は金沢城から2,500人を連れて出陣し、高松村の農民・桜井三郎左衛門の案内で、佐々方の手が回っていない海沿いの道をたどって北川尻を抜け、今浜まで進みます。そして9月11日の夜明け、城に群がる佐々軍の背後を突いて打ち破りました。成政は援軍に備えて北川尻に神保氏張を置いていましたが、利家はその見張りをかわしたことになります。末森城跡には、道案内をした桜井三郎左衛門の像が立っています。
Q.戦いの後、佐々成政と前田利家はどうなりましたか?
成政は越中へ戻る途中、守将が誤った知らせを信じて捨てていた鳥越城を押さえましたが、その後は守りに回るしかありませんでした。越後の上杉景勝とも争っていたため、東西の両方に敵を抱えることになったのです。秀吉と信雄が和睦すると、成政は真冬の北アルプスを越えて浜松の家康に会い、もう一度兵を挙げるよう説いたとされますが(さらさら越え)、家康は動きませんでした。これに対し利家は領国を守り抜き、秀吉と手を組んで越中への圧力を強めていきます。翌天正13年(1585年)、秀吉がみずから大軍を率いた富山の役で、成政は降伏しました。能登・加賀を治める利家の足場は、この勝利によって固まったとみる見方もあります。

手取川の戦い

Q.手取川の戦いは本当にあったのですか?
手取川の戦いは記録が乏しく、実際の姿がよくわかっていません。そのため、上杉軍が大勝したという結末や戦いの規模には異論があります。『信長公記』は柴田勝家らの出陣と羽柴秀吉が陣を離れたことは書いていますが、合戦には触れていません。『長家家譜』も、4万の織田勢が出たものの七尾城落城の知らせを受けて秀吉は戦わずに帰陣したとしています。明治から編さんが続く『大日本史料』も、手取川で合戦があり織田軍が大敗したとは書かず、謙信が追撃したという記述にとどめています。これに対し、謙信自身が9月19日付で書いた書状(『歴代古案』)は、23日の夜中に退く織田軍を追って千人あまりを討ち取り、残りを洪水の川へ追い込んだと伝えています。また井上鋭夫は、本願寺の下間頼廉が夜討ちの手柄をほめる感状を出していることから、織田方と上杉方の間で夜の戦いがあったと考えました。
Q.羽柴秀吉はなぜ戦線を離脱したのですか?
秀吉が勝手に陣を離れた理由として、『武功夜話』は二つのことを挙げています。一つは、勝家が秀吉をわざと後ろの部隊に回し、手柄を立てられないようにしたこと。もう一つは、畿内で松永久秀の様子がおかしいと気づいた秀吉が引き揚げを勧めたのに、勝家が取り合わなかったことです。実際、久秀はこのすぐ後に信貴山城で信長に背きました。この一件は勝家と秀吉の対立の始まりとなり、本能寺の変の後の賤ヶ岳の戦いへとつながっていきます。
Q.「上杉に逢うては織田も手取川」という落首は何を表していますか?
「上杉に 逢うては織田も 手取川 はねる謙信 逃げるとぶ長(信長)」という落首が伝わっています。「はねる」は勢いに乗って追いかける上杉勢を、「とぶ」は飛ぶように逃げ帰る織田勢を表していると読まれています。この落首は信長がその場にいたかのような詠みぶりですが、信長本人はこの合戦に出ておらず、織田軍を率いていたのは柴田勝家でした。

小田原征伐

Q.なぜ小田原征伐は起きたのですか?
直接のきっかけは名胡桃城事件です。北条氏と真田氏は上野の沼田をめぐって争っており、秀吉が間に入って、天正17年(1589年)に沼田領の3分の2を北条氏、残る3分の1を真田氏に分ける裁定を下しました。沼田城は7月に北条氏へ渡されましたが、10月下旬、沼田城を預かる猪俣邦憲が真田方に残った名胡桃城を兵で奪い、裁定を力で破ってしまいます。秀吉は関白として天皇から天下の政治(「一天下之儀」)を任されている立場で、その裁定に逆らうことは天皇に逆らうことにもなりました。北条氏がこの行いを正当だと言い張ったことが、大名同士の私戦を禁じた惣無事令に背くものとされたのです。同じころ北条氏邦が宇都宮国綱を攻めていたことも、討伐の理由に加えられました。さらに、何度も求められた氏政の上洛が果たされなかったことも、豊臣家に従う気がないとみなされる原因になっています。
Q.「小田原評定」という言葉はどこから来たのですか?
もともと「小田原評定」は、後北条氏が平時に月2回ほど開いていた、政治の方針を決める重臣たちの定例会議を指す言葉でした。ところが天正18年(1590年)6月26日に石垣山の一夜城ができあがると、小田原城の中では、最後まで戦うか降参するかをめぐって一族と重臣の話し合いがいつまでもまとまりませんでした。この姿が後の世に強く印象づけられ、「小田原評定」は、いくら話し合っても結論の出ない会議のたとえとして使われるようになりました。
Q.北条氏はなぜ籠城策を選んだのですか?
北条氏は関東の諸勢力を従えていく中で、早くから秀吉との戦いを意識していました。15歳から70歳までの男子を兵に取る仕組みを整え、大砲をつくるために寺の鐘を差し出させるなど、備えを進めています。豊臣の本隊が東海道を攻め上ってくることははっきりしていたので、箱根の山中で敵を食い止め、長く持ちこたえる作戦が基本になりました。軍議では北条氏邦・北条氏照・伊勢貞運らが城を出て戦うことを主張し、なかでも氏邦は、領内で待ち受けるのではなく駿河まで打って出て、富士川あたりで決戦すべきだと説きました。しかし採られたのは、北条氏規や松田憲秀らの唱えた籠城策でした。納得できない氏邦は自分の兵を連れて鉢形城に戻り、そこで単独でこもって戦っています。籠城策のもとで、北条方は支配下の武将から5万あまりの兵を小田原城に集めました。その分、各地の城に残ったのは駆り出された年配の男たちが中心で、守り抜けるとは考えられていませんでした。

根白坂の戦い

Q.根白坂の戦いはなぜ九州平定を決定づけたといわれるのですか?
根白坂で島津方は大将格の武将をほとんど失いました。主力どうしの決戦に大敗したことで、軍を立て直す時間もなくなります。ほぼ同じころ、九州の西側では秀吉の本隊が薩摩へ攻め込み始めており、島津忠辰や島津忠長ら一族の有力者も次々に降っていきました。義久は戦う気力をなくして頭を丸め、天正15年5月8日に秀吉へ降伏します。島津氏がまとまった軍勢で抵抗したのは根白坂が最後となり、九州平定の行方はここで決まりました。この勝利は、豊後で秀吉の命令に背いて戸次川の戦いに打って出て敗れた仙石秀久の失敗を取り返し、追い詰められていた大友義鎮(宗麟)を救うことにもなっています。
Q.両軍の兵力はどれくらいだったのですか?
兵力ははっきりせず諸説ありますが、豊臣軍がおよそ8万、島津軍がおよそ3万5000とされています。根白坂の砦に詰めていたのは宮部継潤を中心とする1万の兵で、空堀と板塀を使って島津軍の夜襲を防ぎきりました。高城を救いに出た島津義久・義弘・家久の軍を2万とする記述もあります。
Q.軍監の尾藤知宣はなぜ処罰されたのですか?
宮部継潤の砦が島津軍の夜襲を受けたとき、尾藤知宣は、加勢は無理だから島津軍とは戦わないようにと豊臣秀長に説き、本隊を動かさせませんでした。戦いが終わって秀長が島津軍を追おうとしたときも、深入りは危ないと言って追撃を止めています。秀吉はこの弱腰をきびしく咎め、尾藤に与えたばかりの領地を取り上げて追放しました。尾藤はその後諸国をさまよい、最後は処刑されています。反対に、砦を守りきった宮部継潤のことを、秀吉は「法印(継潤)事は今にはじめぬ巧者ものなり」(『川角太閤記』)とほめたたえました。

山崎の戦い

Q.「天下分け目の天王山」は史実ですか?
天王山を奪い合ったことが勝敗を分けたという話は、『太閤記』や『川角太閤記』といった後の時代に編まれた書物に出てくるもので、信頼できる史料からはまったく確かめられません。『竹森家記』は黒田孝高が天王山を早く押さえるよう主張したと書き、『永源師檀紀年録』は合戦に加わっていない細川忠興まで登場させています。天王山で戦いがあったとはっきり記した一次史料は見つかっておらず、以前はよく使われた「天王山の戦い」という呼び名も、今では「山崎の戦い(山崎合戦)」に置き換わっています。また「天下分け目の天王山」という言い方も、本来の使い方からは外れているとされます。
Q.羽柴秀吉は山崎の戦場にいたのですか?
秀吉が宝積寺に本陣を置いたというのが通説ですが、同じ時代の史料にはそうした記述がなく、そう書かれるようになったのは20世紀以降だと指摘されています。2024年には、合戦当日の6月13日付で小寺職隆らに宛てた秀吉の書状が見つかりました。そこには、翌14日に勝龍寺城のある西岡へ向かうと書かれています。馬部隆弘はこの書状をもとに、合戦のとき秀吉は摂津の富田にいて、戦いには間に合わなかったと見ています。『フロイス日本史』も、光秀と戦ったのは池田恒興を大将とする摂津衆で、秀吉と信孝の軍は結局戦いに加われなかったと書いています。合戦の経過の説明は、今後大きく変わるかもしれません。
Q.明智光秀の敗因は何ですか?
第一の理由は兵力の差です。その差が生まれた背景には、秀吉の動きが光秀の予想よりはるかに速かったこと、中国攻めのために秀吉が信長軍の主力を預かっていたこと、細川・筒井という畿内の有力大名が味方につかなかったこと、安土城を押さえるために兵を近江へ回していたことなど、いくつもの事情が重なっています。こうして光秀は兵を十分に集められないまま、京と西国をつなぐ最後の要地・山崎で決戦に臨むしかありませんでした。羽柴方にも無理な行軍で将兵が疲れているという弱みはありましたが、勝負は戦う前の段階でほぼついていたといえます。

小谷城の戦い

Q.浅井長政はなぜ小谷城で滅んだ?
元亀元年(1570年)に織田信長との同盟を破棄して以降、浅井氏は朝倉氏と結んで抵抗を続けましたが、姉川の戦いの敗北で横山城を失い、元亀3年(1572年)には虎御前山に信長の本陣と要害を築かれて締め上げられていました。頼みの朝倉義景は積極的に攻勢へ出ず、天正元年(1573年)8月に刀根坂で壊滅して一乗谷城も落ち、朝倉氏そのものが滅亡します。後ろ盾を失った小谷城は5,000の兵で3万の織田軍に囲まれ、重臣の阿閉貞征をはじめ離反も相次いでいました。落城は孤立の帰結でした。
Q.小谷城はどのように落とされた?
決め手は羽柴秀吉による京極丸の奇襲です。小谷城は尾根に曲輪が連なる山城で、本丸には長政が、北側の小丸には父・久政が籠っていました。天正元年8月27日の夜、秀吉は3,000の兵で両者の間にある京極丸を占拠し、父子を分断します。孤立した久政は小丸で自害し、本丸の長政も9月1日に赤尾屋敷で自害しました。落城後、小谷城は秀吉に与えられましたが、琵琶湖から離れた立地を嫌われて廃城となり、代わりに長浜城が築かれています。
Q.お市の方と三人の娘はどうなった?
長政は落城の直前、妻のお市の方と茶々・初・江の三人の娘を織田軍に引き渡し、救出させました。四人は藤掛永勝に保護されて織田家に引き取られています。一方、嫡男の万福丸は城外へ逃がされたものの敦賀で捕らえられ、関ヶ原で処刑されました。助けられた三人の娘は後に浅井三姉妹と呼ばれ、長女・茶々は豊臣秀吉の妻となって淀殿と呼ばれ、次女・初は京極高次の正室、三女・江は徳川秀忠の継室となります。滅びた浅井氏の血は、こうして豊臣家と徳川家の双方へ受け継がれました。

四国攻め

Q.四国攻めはなぜ起きたのですか?
織田信長ははじめ、長宗我部元親が四国で自力で奪った土地はそのまま領地にしてよいと認めていました。ところが阿波の三好氏や伊予の河野氏らに助けを求められると、天正9年(1581年)頃から方針を変え、元親に残すのは土佐と阿波の南半分だけにして、残りは返すよう命じます。元親がこれを拒んだことで、長宗我部氏は織田家、さらにその後を継いだ秀吉とも争う間柄になりました。天正13年(1585年)3月の紀州攻めで、味方の根来衆・雑賀衆が秀吉に打ち破られると、長宗我部氏は戦ううえで頼れる相手を失い、秀吉は四国へ兵を送りました。
Q.なぜ秀長が総大将になったのですか?
秀吉ははじめ、6月3日に自分で出陣するつもりでした。『四国御発向事』は、越中の佐々成政がまだ降っていないことを理由に秀吉が出馬を取りやめたと書いていますが、秀吉が病にかかったためとする資料もあります。いずれにしても、秀吉は弟の羽柴秀長を総大将、甥の秀次を副将に据えました。7月中旬に秀吉がやはり自分も出ると伝えてきたときも、秀長は戦況はうまく運んでいると返してこれを思いとどまらせ、一宮城攻めを自分で指図しています。この戦いを通して、秀長は豊臣政権で秀吉に次ぐ立場をはっきりと固めました。
Q.長宗我部元親の降伏後、四国はどうなりましたか?
講和の後に行われた四国の国分で、長宗我部氏には土佐一国だけが残され、元親の三男・津野親忠が人質に出されました。阿波は蜂須賀家政、讃岐は仙石秀久(のちに生駒親正)、伊予は小早川隆景ら毛利方の大名が治めることになります。天正15年(1587年)の九州征伐では、元親の嫡男・長宗我部信親が戸次川の戦いで討ち死にし、これがのちに長宗我部家の跡継ぎ争いを招きました。伊予では小早川隆景が2年たらずで筑前へ移され、その後は福島正則・戸田勝隆・加藤嘉明・藤堂高虎らが入れ替わりで配されています。

大坂冬の陣

Q.大坂冬の陣の勝敗は?
明確な勝敗はつかず、和議による講和で終わりました。しかし和議条件により大坂城の外堀・二の丸・三の丸の堀がすべて埋め立てられ、翌年の夏の陣で豊臣方は籠城戦を戦えないほど防御力を失いました。戦闘としては真田丸の戦いで豊臣方が大勝しましたが、戦略的には堀を失った豊臣方の実質的な敗北でした。
Q.真田丸とはどんな出城だった?
大坂城南側・玉造口外に真田信繁が築いた土作りの出城です。地形の高低差が少なく「大坂城の最弱部」と徳川方に見せかけて敵の注意を引きつけ、実際の弱点(西側)を守る役割を担いました。従来「半円形」とされてきましたが、近年の千田嘉博氏の研究により実際は不定形だったことが判明しています。12月4日、前田利常・松平忠直・井伊直孝の徳川方が真田丸を攻めましたが、信繁の巧みな指揮で撃退され、徳川方は大きな損害を出しました。
Q.なぜ豊臣方は籠城策を選んだのか?
真田信繁・後藤基次・毛利勝永ら浪人衆は、瀬田川まで討って出て徳川軍を迎え撃つ「瀬田川迎撃案」を主張しました。しかし豊臣家宿老の大野治長らは、二重の堀と巨大な惣構を備えた大坂城に籠もって徳川軍の消耗を待ち、有利な条件で講和に持ち込む籠城策を採用しました。豊臣家譜代と浪人衆の軍事的意見対立が、大坂の陣を通じて豊臣方の作戦を鈍らせる一因となりました。

大坂夏の陣

Q.真田信繁は本当に家康を自害寸前まで追い詰めたのか?
徳川方の史料にも家康本陣が二度突き崩され、馬印が倒されたことは記されています。島津忠恒は書状に「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由」と記し、藤堂高虎の一代記『高山公実録』にも「御旗本大崩れ」とあります。徳川方の大久保彦左衛門も『三河物語』で家康を残して逃走した旗本衆を糾弾しており、家康の危機は当時から広く知られていました。ただし「家康が本当に自害を考えたか」については徳川方の一次史料に明記はなく、後世の講談・軍記物による誇張の可能性もあります。
Q.なぜ豊臣方は野戦を選んだのか?
冬の陣の和議で外堀と二の丸・三の丸の堀が埋め立てられ、大坂城が本丸のみを残す裸城となっていたためです。もはや籠城戦は不可能で、真田信繁ら浪人衆は「総大将の首を討つ機会のある野戦」で決着をつけるしかないと判断しました。5月7日の作戦は、真田隊と毛利隊で家康本陣を孤立させ、明石全登の別働隊が横撃する高度なものでしたが、本多忠朝の先制射撃で計画が崩れ、豊臣方は正面決戦を強いられました。
Q.大坂夏の陣後、豊臣家の生き残りはどうなった?
秀頼の側室が生んだ子・国松(8歳)は5月21日に捕らえられ23日に処刑されました。娘(後の天秀尼)は千姫の養女として鎌倉東慶寺で出家することを条件に助命されました。真田信繁の子・大助(幸昌)も秀頼に殉じて自害しましたが、次男・大八は伊達家重臣の片倉重長のもとに匿われ、後に「片倉守信」として仙台真田家の祖となりました。信繁の三男・三好幸信も姉・顕性院の縁で出羽亀田藩士として存続しています。

長篠の戦い

Q.織田軍の鉄砲「三段撃ち」は本当にあった?
実在は疑問視されています。『信長公記』には鉄砲奉行5人に指揮を取らせたとあるだけで三段撃ちの記述はなく、最初の記述は江戸期の通俗小説に見られ、明治期の教科書への掲載で広まったとされます。鉄砲の数も、通説の3,000丁は資料的信用度の低い甫庵本『信長記』などが出典で、『信長公記』に明記されるのは決戦用の約1,000丁と別働隊の500丁です。ただしこれは一部の部隊の数で、他の武将の鉄砲隊や根来衆も参戦しており、信長が当時としては特筆すべき数の鉄砲を持ち込んだこと自体は確かと考えられています。
Q.武田軍はなぜ大敗した?
複合的な要因が指摘されています。まず兵力が2倍以上違いました(通説で織田・徳川約3万8千に対し武田約1万5千)。さらに信長は連吾川沿いに三重の土塁と馬防柵を築く野戦築城を行っており、武田軍はこれに正面から突撃を繰り返して消耗しました。両翼で包囲を狙った武田軍の陣形が、中央の親類衆の早期退却によって崩壊したことや、酒井忠次の別働隊による鳶ヶ巣山奇襲で退路を脅かされたことも敗因とされています。
Q.長篠の戦いで武田氏は滅亡した?
していません。武田氏の滅亡は7年後、天正10年(1582年)の甲州征伐によるものです。勝頼は長篠の敗戦後、上杉氏との甲越同盟や佐竹氏との甲佐同盟など外交の再建を進め、一時は武田氏最大規模の領国を築いています。近年の研究では、滅亡の主因は長篠の敗戦そのものではなく、御館の乱を契機とする北条氏との甲相同盟破綻にあるとする見解が有力です。

大津城の戦い

Q.大津城の戦いはどんな戦い?
慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いの直前に近江・大津城をめぐって行われた攻防戦です。東軍に通じた城主・京極高次が約3千の兵で籠城し、毛利元康・立花宗茂ら約1万5千の西軍がこれを攻めました。9日間の激戦の末に城は開城しましたが、その日が関ヶ原本戦と同じ9月15日だったため、西軍はこの大軍を本戦に投入できませんでした。
Q.なぜ大津城の戦いは重要なのか?
立花宗茂をはじめとする西軍1万5千を9日間も大津に釘付けにし、関ヶ原本戦に参加させなかったからです。もしこの精強な軍勢が関ヶ原に間に合っていれば、戦いの帰趨は変わっていたかもしれません。徳川家康は、自軍を大津に引きつけた高次の功績を高く評価し、敗者でありながら戦後に若狭一国8万5千石を与えて国持大名に取り立てました。
Q.籠城した京極高次はその後どうなった?
開城後、高次は剃髪して高野山に入りましたが、関ヶ原で勝利した家康はその功を惜しんで下山を促し、若狭一国8万5千石を与えました。妹・竜子(松の丸殿)が秀吉の側室、正室・初(常高院)が淀殿の妹という閨閥から「蛍大名」と陰口された高次でしたが、大津での籠城によって武名を示し、京極家を国持大名として再興させたのです。

御館の乱

Q.御館の乱とは?
天正6年(1578年)の上杉謙信の急死後、ともに謙信の養子であった上杉景勝と上杉景虎が家督をめぐって争った越後のお家騒動です。景勝が勝利して上杉氏を継ぎました。「御館」とは、謙信が関東管領・上杉憲政を迎えるために春日山城下に築いた館の名で、景虎がここに立て籠もったことから乱の名となりました。
Q.なぜ上杉景勝が勝てた?
景勝はいち早く春日山城の本丸と金蔵・武器庫を押さえて正統性と軍資金を確保しました。さらに、当初は景虎を支援していた武田勝頼に東上野の割譲と黄金を提示して甲越同盟を結び、最大の脅威を取り除いたことが決定的でした。景虎の実家・北条氏の援軍は遠方ゆえ手薄で、豪雪にも阻まれて十分に機能しませんでした。
Q.御館の乱は周囲にどんな影響を与えた?
内乱で上杉氏の軍事力は大きく衰え、織田信長の北陸侵攻に苦しむことになります。また恩賞配分への不満から新発田重家の乱を招きました。さらに、武田勝頼が景虎を見限って景勝と結んだことが北条氏との同盟破棄につながり、武田氏が織田・徳川・北条に包囲されて滅亡する遠因にもなりました。

第一次上田合戦

Q.第一次上田合戦とは?
天正13年(1585年)閏8月、信濃上田城を舞台に真田昌幸が徳川軍を撃退した戦いです。神川での追撃戦が決定的だったことから「神川合戦」とも呼ばれます。約1,200〜2,000の真田軍が約7,000の徳川軍を相手に大勝し、真田昌幸の名を天下に知らしめました。
Q.なぜ真田は2,000の兵で徳川の大軍に勝てた?
上田城と戸石城・丸子城など周辺の山城、そして神川などの地形を巧みに活かした戦法によります。城下に敵を誘い込んで反撃し、退却する敵を戸石城の信幸が横合いから攻め、神川で討ち取ることで、約7,000の徳川軍に1,300人もの損害を与えました。真田方の犠牲はわずか40人ほどであったと伝わります。
Q.なぜ徳川と真田は戦うことになった?
徳川家康が北条氏との和睦条件として、昌幸に上野沼田領を北条氏へ引き渡すよう求めたことが発端です。昌幸は「自ら切り取った領地であり、家康から与えられたものではない」としてこれを拒否し、上杉氏と通じて徳川と手切れとなりました。

長良川の戦い

Q.長良川の戦いはなぜ起きたのですか?
美濃の主となった斎藤道三が長男の義龍を遠ざけ、下の息子の孫四郎・喜平次をかわいがって、家督を移そうとしたからです。追い詰められた義龍は2人の弟をだまし討ちにして父に背きました。こうして始まった家督をめぐる親子の争いが、弘治2年(1556年)に長良川での決戦となりました。
Q.なぜ兵力に勝る義龍が道三に勝てたのですか?
道三は主家を押しのけてのし上がった人物だったため、西美濃三人衆(稲葉一鉄・安藤守就・氏家直元)をはじめ、家臣のほとんどが義龍の側につきました。義龍が1万7,500の兵を集めたのに対し、道三のもとには2,700しか集まりません。道三は序盤こそ押していましたが、最後は数の差をはね返せませんでした。
Q.道三の娘婿・織田信長は助けに来なかったのですか?
信長は助けに向かい、大良口まで兵を進めましたが、戦いには間に合いませんでした。勢いに乗った義龍の軍が攻めてくると、信長はしんがりを自ら引き受け、最新の鉄砲で追っ手を払いのけて引き揚げています。道三は長良川で義龍と向き合っていた間に、美濃を信長に譲ると書き残したと伝わります。

姉川の戦い

Q.姉川の戦いはどちらが勝ちましたか?
織田・徳川連合軍の勝利です。浅井勢の猛攻で一時は織田軍が危機に陥りましたが、徳川勢の榊原康政が伸びきった浅井・朝倉軍の側面を突き、朝倉軍、続いて浅井軍が敗走しました。織田・徳川方は1,100余を討ち取りました。
Q.「姉川の戦い」という呼び名の由来は?
「姉川の戦い」「姉川合戦」はもともと徳川氏による呼称です。布陣した土地の名から、織田・浅井両氏は「野村合戦」、朝倉氏側は「三田村合戦」と呼びました。激戦で姉川が血に染まったと伝わり、「血原」「血川」という地名が残されました。
Q.姉川の戦いの後、浅井・朝倉氏はどうなりましたか?
この戦いには敗れたものの浅井・朝倉軍にはまだ余力があり、延暦寺や本願寺と結んで信長包囲網を続けました。しかし重臣・磯野員昌が調略で離反するなど次第に弱体化し、天正元年(1573年)に朝倉氏・浅井氏は相次いで滅亡しました。

備中高松城の戦い

Q.備中高松城の戦いはいつ起きましたか?
天正10年(1582年)4月から6月にかけて行われました。秀吉は4月15日に高松城を包囲し、5月に水攻めを進め、6月4日に清水宗治の自刃と引き換えに和睦が成立しました。
Q.なぜ水攻めが行われたのですか?
備中高松城は低湿地を利用した平城で、鉄砲や騎馬による攻撃に強い要害でした。秀吉はこの地形を逆手に取り、足守川の水を堰き止めて城を孤立させる水攻めを選びました。
Q.備中高松城の戦いと中国大返しの関係は?
高松城攻めの最中に本能寺の変が起こり、秀吉は信長の死を毛利方に隠して急ぎ講和しました。和睦成立後、秀吉は軍を東へ返し、山崎の戦いで明智光秀を破ります。この移動が中国大返しと呼ばれます。

長谷堂城の戦い

Q.長谷堂城の戦いはいつ起きましたか?
慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いとほぼ同時期に行われました。上杉軍は9月8日に出陣し、9月15日から長谷堂城を攻撃。関ヶ原の敗報が届いた9月29日まで約2週間にわたって攻城戦を繰り広げたことから「北の関ヶ原」とも呼ばれます。
Q.なぜ大軍の上杉軍は長谷堂城を攻略できなかったのですか?
長谷堂城は周囲が深田で人馬の行動が制限され、守将の志村光安・鮭延秀綱ら約1,000名が頑強に抵抗しました。夜襲で上杉軍に同士討ちを起こさせるなど巧みな戦術を用い、約18倍の兵力差を覆して約2週間の防衛に成功しました。
Q.直江兼続の撤退戦はなぜ評価されるのですか?
関ヶ原敗報を受けて撤退する上杉軍を最上・伊達連合軍が追撃しましたが、兼続は自ら殿を務め、前田利益や水原親憲らの奮戦もあって退却に成功しました。敵将の最上義光は「直江少しも臆せず、心静かに陣払い」と称賛し、家康も「聞き及びしよりいや増しの武功の者」と賞賛したとされます。

小牧・長久手の戦い

Q.小牧・長久手の戦いの勝者はどちらだった?
長久手の局地戦では池田恒興・森長可を討ち取った織田・徳川軍が明確な戦術的勝利を収めました。しかし戦役全体としては、秀吉が信雄と単独講和を結び、家康も次男を秀吉の養子に出すことで和議を結んでおり、政治的には秀吉が優位に立ちました。頼山陽の『日本外史』では「家康の天下を取る、大坂に在らずして関ヶ原にあり、関ヶ原に在らずして小牧にあり」と評されています。
Q.三河中入り作戦とは?
小牧で膠着状態となった戦況を打開するため、池田恒興が秀吉に献策した作戦です。兵を三河に出して空虚を襲い放火すれば、家康は小牧を守れなくなるという狙いでした。池田恒興5,000、森長可3,000、堀秀政3,000、羽柴秀次9,000の約20,000人の支隊が編成されましたが、農民や伊賀衆からの情報で家康に動きを察知され、長久手で壊滅的な敗北を喫しました。
Q.本多忠勝が秀吉の大軍に立ちはだかったのはいつ?
長久手の戦い当日、秀吉が3万の軍勢を率いて戦場近くの龍泉寺へ急行した際、本多忠勝がわずか500名で行軍を妨害しました。ただし、忠勝と秀吉本隊が対峙した日については、秀吉の書状写や忠勝の書状写から五月朔日(5月1日)であった可能性も指摘されています。

賤ヶ岳の戦い

Q.賤ヶ岳の七本槍とは?
賤ヶ岳の戦いで秀吉方として功名をあげた加藤清正・福島正則・加藤嘉明・平野長泰・脇坂安治・糟屋武則・片桐且元の7人を指します。「七本槍」の呼称は江戸初期の『甫庵太閤記』が初見で、語呂合わせの面が強く、実際には桜井家一・石川一光も同様の戦功を挙げています。福島正則や加藤清正は後年「七本槍」と並べられることを嫌ったとも伝えられます。
Q.前田利家はなぜ戦線離脱した?
利家は柴田勝家の与力でしたが、秀吉とは清洲時代から夫婦ぐるみの親交があり、合戦前から秀吉の勧誘に応じていたと推測されています。合戦のたけなわで5,000の兵を率いて茂山から突如撤退し、不破勝光・金森長近もこれに続いたため、柴田軍全体の士気が崩壊しました。戦後、利家は降伏して秀吉に臣従し、北ノ庄城攻めの先鋒を務めています。
Q.美濃大返しとは?
4月20日、大垣城にいた秀吉が大岩山砦陥落の急報を受け、午後2時に大垣を出発して木ノ本までの13里(約52km)の距離をわずか5時間で踏破した強行軍を指します。沿道に握り飯と松明を準備させたといわれ、本能寺の変後の「中国大返し」と並ぶ秀吉の機動戦の代表例として知られています。

中富川の戦い

Q.中富川の戦いはなぜ起きたのですか?
天正10年(1582年)6月の本能寺の変で織田信長が横死したことが直接のきっかけです。信長は四国攻撃軍を編成して元親を追い詰めていましたが、変により軍勢は四散し三好康長も阿波から撤退しました。信長の脅威が消えた元親は阿波攻略の好機と判断し、一領具足の「速やかに十河存保を討つべし」との意見を採用して出兵を決めました。
Q.長宗我部軍はなぜ圧勝できたのですか?
最大の要因は兵力差です。長宗我部軍は先陣3,000・主力14,000に加え、寝返った一宮城主の小笠原成助ら6,000を合わせた約23,000の兵力で、十河軍の5,000余を圧倒しました。また元親が一領具足だけでなく15歳以上60歳以下の者を広く募った動員力も大きく、三方向からの同時攻撃という戦術も効果的でした。
Q.中富川の戦いの後はどうなりましたか?
阿波の諸城はほとんど長宗我部氏に降りましたが、元親は降伏した一宮成助や新開道善らに謀反の疑いをかけて殺害しました。翌天正11年(1583年)には木津城の篠原自遁も敗走し、阿波で元親に抵抗する者は土佐泊城の森村春のみとなりました。阿波制圧を足がかりに元親は讃岐へ進出し、四国統一へと歩みを進めました。

忍城の戦い

Q.忍城の水攻めは誰が命じたのですか?
水攻めを命じたのは豊臣秀吉自身です。石田三成はむしろ積極的な攻城戦を主張しており、浅野長政宛の書状にもその姿勢が読み取れます。秀吉が備中高松城の水攻めに倣い、三成に詳細な指示を出して実行させました。後世の軍記物で三成の発案とされたのは誤りです。
Q.石田堤とは何ですか?
石田堤は三成が忍城水攻めのために築いた総延長約28kmの堤防です。近隣の農民に昼は米一升に永楽銭六十文、夜は百文を与え、昼夜を問わず工事を行い、わずか数日で完成させました。利根川の水を引き入れて城を水没させようとしましたが、本丸は沈まず「忍の浮き城」と呼ばれました。遺構は現在も行田市や鴻巣市に残っています。
Q.なぜ忍城は落ちなかったのですか?
忍城は周囲を元荒川・星川に囲まれた天然の要害で、関東七名城の一つに数えられていました。地形的に本丸が周囲より高く、完全な水没が困難でした。また城側の本庄泰展が堤防を破壊する工作を行い、水攻めの効果を減じました。最終的には小田原城の開城後、城主・成田氏長の説得により開城しています。

耳川の戦い

Q.耳川の戦いの主戦場は耳川ですか?
主戦場は耳川ではなく、高城川(小丸川)・切原川一帯の高城川原です。耳川は敗北した大友軍が撤退・溺死した地点にある川で、主戦場とは20km以上離れた北方に位置します。そのため「高城川の戦い」「高城川原の戦い」とも呼ばれます。
Q.大友軍はなぜ敗北したのですか?
大友軍内の不統一が最大の原因です。前線の大将・田原親賢は島津との講和を進めていましたが、主戦派の田北鎮周と佐伯宗天が独断で攻撃を開始し、大友軍はやむなく交戦に追い込まれました。また、総帥の大友宗麟が前線に出ずキリスト教布教に傾倒していたことも、家臣団の不和を深めました。
Q.耳川の戦いの歴史的影響は何ですか?
大友氏は多くの有力武将と兵力を失い急速に衰退しました。秋月種実や龍造寺隆信ら国人衆の離反を招き、領国を大きく削がれることになります。一方の島津氏は九州内に拮抗する敵が減少し、相良氏・阿蘇氏が降伏、龍造寺氏も沖田畷の戦いで敗れ、九州制覇に向けて大きく前進しました。
Q.耳川の戦いの場所は現在のどこですか?
現在の宮崎県児湯郡木城町にあたります。日向国の高城川(小丸川)と切原川に挟まれた高城川原が戦場で、島津方が守る新納院高城(木城町)を大友軍が包囲したことから合戦が始まりました。両軍が激突したのは木城町下鶴付近と伝わり、島津義久の本陣は南側の根白坂に置かれました。
Q.耳川の戦いはどちらが勝ち、大友軍の損害はどれくらいでしたか?
島津軍の大勝です。緒戦では大友軍が島津方の前衛を破って北郷時久・北郷久盛を討ち取りましたが、伏兵に側面を突かれて総崩れとなりました。大友軍は主戦派の田北鎮周や佐伯宗天、筑後の国人・蒲池鑑盛ら多くの武将を失い、佐伯宗天は撤退の途中に竹鳩ヶ淵で溺死したと伝わります。撤退時には耳川を渡りきれずに溺れた兵や、追撃した島津兵に討たれた兵も出ました。ただし両軍の戦死者数を具体的に伝える確かな史料はなく、正確な損害は分かっていません。

本能寺の変

Q.本能寺の変で織田信長の遺体はなぜ見つからなかったのか?
明智勢が必死に捜索しましたが、信長の遺体は発見されませんでした。本能寺は炎上しており、森蘭丸が遺体に畳を被せたとする説や、阿弥陀寺の僧・清玉が火葬して持ち帰ったとする説などがあります。
Q.「敵は本能寺にあり」は明智光秀の言葉か?
同時代の一次史料には光秀がこの言葉を発した記録はありません。江戸時代の『明智軍記』や頼山陽の『日本外史』などを通じて広まった創作と考えられています。
Q.なぜ織田信忠は逃げなかったのか?
側近に脱出を勧められましたが、信忠は「これほどの謀反によもや逃しはすまい。雑兵の手にかかるは不名誉」として二条御新造での戦闘を選び自刃しました。信忠の死により織田家の後継問題が発生し、清洲会議へと繋がりました。

河越城の戦い

Q.河越城の戦いは本当に「夜戦」だったのですか?
「河越夜戦」として知られていますが、夜戦であったかどうかは確証がありません。軍記物を見ると、『北条記』『関八州古戦録』『鎌倉九代後記』などは夜襲として描いていますが、『北条五代記』は真昼間の「午の刻」に行われたとしています。同時代の史料で夜の戦いだったと書いたものは見当たらず、北条氏康自身の書状にも夜襲・奇襲とは記されていません。夜戦の記述は17世紀成立の軍記物からとされ、天文6年の河越城攻略時の夜戦の逸話が混同された可能性も指摘されています。
Q.連合軍の兵力は本当に8万人もいたのですか?
軍記物が伝える上杉・足利連合軍の兵力8万という数字については、否定的見解が支配的です。西股総生は扇谷上杉軍3,000人、山内上杉軍15,000人、古河公方軍は数千から10,000人程度と推定しています。また、太田資正の証言を伝える太田資武書状では、連合軍が数の上で優勢だったとはされておらず、軍記物が伝えるほどの大軍が集結していたかは疑問視されています。
Q.河越城の戦いで扇谷上杉氏は本当に滅亡したのですか?
一般には、当主の上杉朝定が討ち死にして扇谷上杉氏が滅んだとされますが、朝定が戦場で死んだと書いている史料は『関八州古戦録』だけです。行伝寺の過去帳には朝定の死亡記録がありますが、死因が戦死とは記されていません。そのため、朝定は合戦での戦死ではなく河越城包囲中に死去し、それが連合軍撤退の原因になったとする説もあります。

厳島の戦い

Q.厳島の戦いはなぜ「日本三大奇襲」と呼ばれるのですか?
毛利元就が約4,000の兵力で、通説で約20,000とされる陶晴賢の大軍を暴風雨の夜に奇襲攻撃で壊滅させたことから、河越夜戦・桶狭間の戦いと並ぶ日本三大奇襲の一つとされています。ただし、近年の研究では陶軍の実数は8,000〜10,000程度で、兵力差は通説ほど大きくなかったとする見方もあります。
Q.村上水軍は厳島の戦いでどのような役割を果たしましたか?
来島村上水軍が約200〜300艘で毛利方に参戦し、合戦当日には陶水軍の船を焼き払って陶軍の退路を断ちました。元就は来島村上氏の来援がなければ万事休すと書状に記しており、毛利方の勝利に決定的な貢献を果たしました。なお、能島村上氏と因島村上氏の参戦については諸説あり、近年の研究では両氏は合戦に直接参加していなかったとする見方が有力です。
Q.厳島の戦いの後、大内氏はどうなりましたか?
陶晴賢を失った大内氏は急速に弱体化し、元就は合戦直後から周防・長門への侵攻(防長経略)を開始しました。弘治3年(1557年)には晴賢が当主に立てていた大内義長も追い詰められて自害し、大内氏は大名家として終わりを迎えました。旧大内領を併合した毛利氏は中国地方最大の大名へと成長しました。
Q.厳島の戦いはいつ、どこで行われたのですか?
天文24年10月1日、西暦では1555年10月16日の早朝に始まりました。合戦の年を「弘治元年」とする資料や現地の案内板も多くありますが、元号が天文から弘治に改まったのは合戦より後で、天文24年10月23日(西暦1555年11月7日)のことです。戦場は安芸国佐西郡の厳島、現在の広島県廿日市市宮島町にあたります。陶晴賢は宮尾城を見下ろす塔の岡(現在の豊国神社付近)に本陣を置き、毛利軍は島の東岸の包ヶ浦に夜間上陸して博奕尾を越え、陶軍の背後へ回り込みました。

摺上原の戦い

Q.摺上原の戦いの勝因は?
猪苗代盛国の寝返りにより会津への直進路を確保できたこと、相馬氏の参戦を事前に封じた戦略的判断、そして合戦中の風向きの変化が主な勝因です。また、盛国が退路の日橋川の橋を落としていたことで蘆名軍の被害が拡大しました。
Q.蘆名義広はなぜ敗れた?
蘆名義広は佐竹義重の子として蘆名家に養子入りした人物で、家中の掌握が不十分でした。猪苗代盛国をはじめとする蘆名旧臣の離反が相次ぎ、軍の結束を保てなかったことが敗因の一つです。
Q.摺上原の戦い後、伊達政宗の領地はどうなった?
政宗は会津を含む南奥州一帯を支配する大領国を築きましたが、この拡大は豊臣秀吉の惣無事令に違反していました。翌年の小田原参陣で秀吉に服属した際、会津を含む新領地は没収されました。

第二次小豆坂の戦い

Q.小豆坂の戦いは2回あった?
天文11年(1542年)の第一次と天文17年(1548年)の第二次があったとされますが、第一次については史料的に実在が疑問視されています。第二次については今川義元の感謝状が残されており、合戦があったことはほぼ確実です。
Q.小豆坂七本槍とは?
小豆坂の戦いで活躍した織田方の7人の勇将を指します。織田信光・佐々孫介・中野又兵衛らの名が伝わっていますが、顔ぶれは史料によって異なり、第一次・第二次どちらの戦いでの活躍かも諸説あります。
Q.太原雪斎はなぜ総大将を務めた?
太原雪斎は臨済宗の僧侶でありながら今川義元の軍師・外交顧問として絶大な信頼を得ていました。義元は全体の指揮を雪斎に委ね、自らは後方で戦略的判断を下す体制をとっていました。雪斎の軍略は今川家の三河平定を支える最大の原動力でした。

砥石城の戦い

Q.砥石崩れとは?
天文19年(1550年)、武田晴信(信玄)が7,000の兵で村上義清の砥石城を攻めたが、わずか500の城兵に撃退され、約1,000人の死傷者を出して大敗した出来事です。武田家中ではこの敗退を「砥石崩れ」と呼びました。
Q.真田幸隆はどうやって砥石城を落とした?
翌年の天文20年(1551年)、真田幸隆は城内の将兵への調略と弟・矢沢綱頼の内通を活用し、力攻めではなく調略によりわずか1日で砥石城を陥落させました。
Q.砥石城はなぜ難攻不落だった?
東太郎山の尾根上に築かれた山城で、東西は崖に囲まれ攻め口は南西の砥石のような崖面しかありませんでした。本城・枡形城・米山城・戸石城からなる複合城郭で、天然の要害でした。

第四次川中島の戦い

Q.川中島の戦いは何回あった?
天文22年(1553年)から永禄7年(1564年)にかけて5回行われました。大規模な野戦が展開されたのは第四次(永禄4年)のみで、他の回は小競り合いやにらみ合いに終始しました。
Q.武田信玄と上杉謙信の一騎打ちは本当にあった?
『甲陽軍鑑』に記された有名な逸話ですが、軍記物語の脚色である可能性が高いとされています。ただし、上杉軍が武田本陣に肉薄した激戦であったことは史実です。
Q.川中島の戦いはどちらが勝った?
第四次川中島の戦いは実質的には引き分けでした。上杉軍が先に撤退したため武田軍は勝ちどきを上げましたが、武田側は信玄の弟・信繁や軍師・山本勘助ら重臣を多数失い、甚大な被害を受けました。戦死者は上杉軍が3,000余、武田軍が4,000余と伝えられます。合戦後の書状では双方がそれぞれ勝利を主張しており、『甲陽軍鑑』も序盤は上杉方、終盤は武田方が優勢だったと評していて、明確な勝敗のついた戦いではありませんでした。
Q.第四次川中島の戦いはいつ行われた?
永禄4年9月10日、西暦(ユリウス暦)では1561年10月18日にあたります。現在のグレゴリオ暦に換算すると10月28日です。前夜の9月9日深夜に武田方の別働隊が妻女山へ向かいましたが、上杉政虎(謙信)はこれを察知して夜のうちに山を下り、雨宮の渡しから千曲川を渡りました。両軍が八幡原で激突したのは10日の午前8時頃、川中島を包んでいた霧が晴れた直後とされ、信玄が追撃を止めた午後4時頃に戦いは終わりました。
Q.啄木鳥の戦法とは?
別働隊が妻女山の上杉軍を背後から攻撃し、驚いて山を下った上杉軍を八幡原の武田本隊が迎え撃つ挟撃作戦です。山本勘助と馬場信房が立案したとされますが、謙信に見破られ失敗しました。

三方ヶ原の戦い

Q.三方ヶ原の戦いで家康は本当に脱糞した?
敗走中に恐怖のあまり馬上で脱糞したという逸話が残っていますが、後世の創作である可能性が高いです。ただし、命からがら浜松城に逃げ帰る壊走であったことは史実です。
Q.三方ヶ原の戦いの兵力差は?
武田軍が約27,000〜30,000に対し、徳川・織田連合軍は約11,000〜13,000と、約2〜3倍の兵力差がありました。
Q.しかみ像とは?
三方ヶ原の敗戦後、家康が自らの惨めな姿を描かせて戒めにしたとされる肖像画です。ただし近年の研究では、三方ヶ原と結びつける通説は否定的な見解が示されています。
Q.武田信玄はなぜ浜松城を攻めなかった?
信玄は浜松城を正面から攻めず、あえて素通りして家康を城外におびき出す策略を用いました。三方ヶ原の台地上で待ち構えて殲滅する作戦でした。

桶狭間の戦い

Q.桶狭間の戦いで信長は何人で戦った?
織田信長は約2,000〜3,000の兵で、今川義元の約2万〜2万5千の大軍に挑みました。圧倒的な兵力差を覆した奇襲戦として知られています。
Q.桶狭間の戦いは本当に奇襲だった?
『信長公記』では奇襲として描かれていますが、近年の研究では正面攻撃だった可能性も指摘されています。豪雨に乗じた攻撃であったことは共通しています。
Q.今川義元は誰に討たれた?
織田家の家臣・毛利新介(毛利良勝)が今川義元を討ち取りました。服部小平太が先に義元に斬りかかり、続いて毛利新介がとどめを刺したとされます。

関ヶ原の戦い

Q.関ヶ原の戦いはどちらが勝った?
東軍(徳川方)が勝利しました。西軍の小早川秀秋が寝返ったことが決定的な転機となり、わずか半日で決着がつきました。
Q.関ヶ原の戦いの死者数は?
東軍の死者は約4,000人、西軍の死者は約8,000人(捕虜含む)とされています。両軍合わせて15万人以上が参加した日本史上最大級の合戦でした。
Q.小早川秀秋はなぜ寝返った?
松尾山に布陣した小早川秀秋は当初日和見を続けていましたが、正午頃に西軍を裏切り大谷吉継隊を攻撃しました。家康からの調略や、秀秋自身の政治的判断が背景にあったとされます。
Q.関ヶ原の戦いの後どうなった?
徳川家康が天下の実権を掌握し、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任命されて江戸幕府を開きました。西軍の石田三成は処刑され、多くの西軍大名が改易・減封されました。