— FAQ —
戦国のよくある質問
武将・合戦の解説ページに掲載しているよくある質問149問を一覧にまとめました。質問をクリックすると回答が開きます。より詳しくは各ページの解説をご覧ください。
武将のよくある質問
武田勝頼
Q.武田勝頼はなぜ「諏訪勝頼」と呼ばれる?
勝頼は武田信玄の四男として生まれましたが、母が信濃諏訪領主・諏訪頼重の娘であったため、永禄4年(1561年)に母方の諏訪家の名跡を継ぎ、「諏訪四郎勝頼」と名乗って信濃高遠城主となりました。名前も諏訪氏の通字「頼」を用いており、武田氏の通字「信」を継承していません。兄・義信の廃嫡により世子となり、信玄の死後に武田氏の家督を相続しました。
Q.武田氏滅亡の原因は長篠の戦い?
通説では長篠の大敗が滅亡の原因とされてきましたが、近年の研究では見直されています。勝頼は長篠の敗戦後も外交を再建し、北関東の諸大名と結んで武田氏最大規模の領国を築きました。平山優は、御館の乱で上杉景勝と結んだことによる甲相同盟の破綻を滅亡の要因として重視し、高天神城へ後詰を送れず威信を失ったことも国人衆の離反を招いたと分析しています。武田遺臣の多くも、滅亡の要因を北条氏との同盟破棄と認識していました。
Q.武田勝頼は暗愚な武将だった?
「家を滅ぼした暗愚の将」という評価は、家の存続を最重視する江戸時代の武家の通念と『甲陽軍鑑』の記述が結びついて定着したものです。実際には、父・信玄は勝頼を武勇に優れた武将であると認めており、織田信長も勝頼の首と対面して「日本にかくれなき弓取」と評しています。近年は新府城の発掘調査などを契機に、外交政策や内政面からの再評価が進んでいます。
立花宗茂
Q.立花宗茂はなぜ「西国無双」と呼ばれた?
抜群の武勇によります。父・高橋紹運が島津の大軍に岩屋城で玉砕する中で立花山城を守り抜き、豊臣秀吉から「その忠義・剛勇ともに鎮西一」と称えられました。文禄の役の碧蹄館の戦いでは寡兵で明の大軍を撃破し、小早川隆景に「立花の3千は他家の1万に匹敵する」と評されています。秀吉は「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と並び称しています。こうした数々の武功から、宗茂は後世「西国無双」「鬼将軍」と称えられました。
Q.大津城を落としたのに、なぜ立花宗茂は関ヶ原で負けた側になった?
宗茂は西軍に属し、毛利元康らとともに東軍の京極高次が籠る近江・大津城を攻めていました。激しい攻防の末に大津城を開城させましたが、その日(慶長5年9月15日)はまさに関ヶ原本戦の当日でした。1万5千の西軍が大津に釘付けにされたまま本戦に間に合わず、宗茂自身も戦果を活かせぬまま西軍敗北の報を受けて撤退。戦後に改易されました。
Q.立花宗茂はどうやって旧領に復帰した?
改易後、宗茂は浪人となりながらも武名と人柄を惜しまれ、本多忠勝の推挙で徳川家康に召し出されました。陸奥棚倉で大名に復帰したのち、大坂の陣での働きなどを経て、元和6年(1620年)に旧領・筑後柳川10万9千石を与えられます。関ヶ原で西軍に属して改易された大名のうち、旧領そのものへの復帰を果たしたのは宗茂ただ一人でした。
上杉景勝
Q.上杉景勝はどのようにして上杉家を継いだ?
上杉謙信が後継者を明示しないまま急死した後、もう一人の養子で北条氏出身の上杉景虎と家督を争いました(御館の乱)。景勝はいち早く春日山城の本丸と金蔵を押さえて正統性と資金を確保し、武田勝頼と甲越同盟を結んで景虎を支援する勢力を抑え、天正7年(1579年)に勝利して上杉氏の当主となりました。
Q.なぜ会津120万石から米沢30万石へ減らされた?
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで石田三成らの西軍に与し、会津で徳川家康に対抗したためです。本戦で西軍が敗れたことで家康に降伏し、改易は免れたものの会津120万石から出羽米沢30万石へ大減封されました。景勝が家臣を一人も減らさなかったため、米沢藩は深刻な財政難に陥ったと伝わります。
Q.上杉景勝はどんな人物だった?
寡黙で威厳に満ち、家臣の前で一生に一度しか笑わなかったという伝説が残るほどの人物でした。豊臣秀吉の宴席で傍若無人に振る舞った前田慶次でさえ、景勝の前では「威風凛然として座ることができなかった」と語ったと伝わります。義を重んじる主君として、家臣から厚い敬慕を集めました。
真田昌幸
Q.真田昌幸はなぜ「表裏比興の者」と呼ばれた?
「比興」は現在の「卑怯」とは異なり、「くわせもの」「老獪」といった意味で、武将への褒め言葉でした。地方の小勢力に過ぎなかった昌幸が、上杉・北条・徳川・豊臣といった大勢力の間を巧みに渡り歩いて勢力を拡大し、時には大勢力との衝突も辞さなかった手強さを評した言葉です。豊臣秀吉自身がこう評したと伝わります。
Q.真田昌幸と真田幸村(信繁)の関係は?
真田昌幸は、大坂の陣で活躍した真田信繁(幸村)の父にあたります。昌幸の次男が信繁で、長男は上田藩初代藩主となった真田信之です。関ヶ原の戦いでは昌幸・信繁が西軍、信之が東軍に分かれ、真田家の存続を図りました(犬伏の別れ)。
Q.なぜ真田昌幸は2,000の兵で徳川の大軍に勝てたのか?
上田城と砥石城・丸子城など周辺の山城、そして神川などの地形を巧みに活かした巧妙な戦法によります。第一次上田合戦では城下に敵を誘い込んで反撃し、退却する敵を神川で討つことで約7,000の徳川軍に1,300人もの損害を与えました。第二次でも徹底した籠城策と奇策で秀忠軍を翻弄しています。
斎藤道三
Q.斎藤道三が「美濃の蝮(まむし)」と呼ばれるのはなぜですか?
「美濃の蝮」の異名は、坂口安吾の小説『梟雄』(1953年)以降に広まったもので、それ以前に道三をマムシと呼んだ例は確認されていません。また、油売りの行商人から一代で戦国大名にのし上がったというイメージも、近年の研究では父・長井新左衛門尉と道三の父子二代による「国盗り」だったことが明らかになっています。1968年に発見された「六角承禎条書写」が、その大きな根拠です。
Q.斎藤道三と織田信長はどのような関係でしたか?
道三は娘の濃姫(帰蝶)を信長に嫁がせており、信長の舅にあたります。家臣の多くが信長を「大たわけ」と侮るなか、道三は富田の聖徳寺での会見で信長の非凡さを見抜き、「我が子らは、いずれあのたわけの門前に馬を繋ぐ(家来になる)だろう」と語ったと『信長公記』は伝えます。長良川の戦いでは信長自ら援軍に向かいましたが、間に合いませんでした。
Q.斎藤道三はなぜ息子に討たれたのですか?
『信長公記』によれば、道三が長男・義龍を愚かと見て、弟の孫四郎・喜平次を寵愛し家督を継がせようとしたため、義龍が二人の弟を謀殺して挙兵したと伝わります。弘治2年(1556年)の長良川の戦いで、兵力に勝る義龍軍に道三は敗れ、討死しました。なお「義龍が実父は土岐頼芸だと知って道三を討った」という俗説は、後世の創作とされています。
浅井長政
Q.浅井長政はなぜ織田信長を裏切ったのですか?
理由は確定しておらず、朝倉氏との関係を重視したとする説、朝倉討伐後に自家も攻められると疑ったとする説、対等な同盟ではなく主従に近い関係で信長に軽んじられたとする説、足利義昭の御内書による連携とする説などがあります。『信長公記』には、信長自身も当初は裏切りを「虚説たるべき」と信じなかったと記されています。
Q.浅井長政とお市の方の子供は誰ですか?
三人の娘がいて、後に「浅井三姉妹」と呼ばれます。長女・茶々は豊臣秀吉の側室(淀殿)、次女・初は京極高次の正室(常高院)、三女・江は徳川秀忠の継室(崇源院)となりました。江の娘は徳川家光や後水尾天皇中宮の和子で、長政の血筋は徳川将軍家や天皇家へとつながりました。
Q.浅井長政は何歳で亡くなったのですか?
享年29です。天正元年(1573年)、織田軍に小谷城を包囲され、父・久政に続いて9月1日に自害しました。信長の降伏勧告を最後まで断り続けたと伝わります。
黒田官兵衛
Q.黒田官兵衛と黒田孝高は同一人物ですか?
同一人物です。諱は孝高で、官兵衛は通称です。剃髪後は如水と号したため、黒田如水とも呼ばれます。
Q.黒田官兵衛は備中高松城の水攻めを考えた人物ですか?
水攻めは官兵衛の献策として語られることが多く、資料にも黒田孝高や家臣・吉田長利の献策とする記述があります。ただし、実際の献策を直接示す同時代史料は乏しく、従軍して重要な幕僚だったことを確実な範囲として見る必要があります。
Q.黒田官兵衛は天下を狙っていましたか?
関ヶ原の戦いが長引けば中国地方へ攻め込むつもりだったとする吉川広家宛書状があり、後世に野心家像が形成されました。一方で家康勝利後は恩賞を辞退して隠居しており、天下取りを明確に企てたと断定できる同時代史料はありません。
直江兼続
Q.直江兼続の「愛」の兜の意味は?
兜の前立に掲げられた「愛」の文字は、愛宕権現(愛宕神社の神)に由来する説が有力です。上杉謙信が愛宕神社に戦勝祈願した文書が残されており、上杉家の信仰と関連するとされています。この兜と前立は謙信もしくは景勝から下賜されたものと考察されています。
Q.直江兼続と上杉景勝の関係は?
兼続は景勝の小姓・近習として仕え、直江家相続後は内政・外交の取次を一手に担いました。家臣たちは景勝を「殿様」「上様」、兼続を「旦那」と呼び、二頭政治に近い関係でした。兼続は死去まで約40年にわたり景勝の執政として上杉家を支えました。
Q.直江状とは何ですか?
慶長5年(1600年)、徳川家康の詰問に対して兼続が送ったとされる返書です。文面は偽書もしくは後世に改竄された可能性が指摘されていますが、豊臣奉行衆の書状に「直江所行、相届かざる儀、ご立腹ご尤もに存じ候」とあることから、家康を激怒させた書状の存在は事実とされます。会津征伐の遠因となりました。
本多忠勝
Q.なぜ本多忠勝は生涯無傷だったと伝えられている?
忠勝は大小合わせて57回の合戦に参加しましたが、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと伝えられています。『藩翰譜』には「終に一所の手も負わず」と記されています。ただし晩年、死の数日前に小刀で持ち物に名前を彫っていた際に左手にかすり傷を負い、「本多忠勝も傷を負ったら終わりだな」と呟いたという逸話が残っています。
Q.愛槍「蜻蛉切」とはどんな槍?
刃長43.8cmの笹穂型の大身槍で、穂先に止まった蜻蛉(とんぼ)が真っ二つになったという逸話からこの名が付きました。「天下三名槍」の一つに数えられ、茎には「藤原正真作」の銘があります。柄の長さは通常の長槍の一丈半(約4.5m)に対して二丈余(約6m)あったとされ、晩年には体力の衰えから三尺余ほど短く詰めたといいます。現在は静岡県沼津市の矢部家が所蔵しています。
Q.徳川四天王とは?
徳川家康に仕えた武将のうち、特に武功が著しかった本多忠勝・酒井忠次・榊原康政・井伊直政の4人を指します。忠勝は秀吉から「日本第一、古今独歩の勇士」と称され、織田信長からは「花も実も兼ね備えた武将」と評されるなど、他大名からもその武勇を高く評価されていました。
前田利家
Q.なぜ「加賀百万石」の祖と呼ばれる?
賤ヶ岳の戦い後に加賀国2郡を加増され、富山の役の戦功で嫡子・利長が越中3郡を加増されて前田一族で76万5千石に達しました。さらに文禄4年に越中新川郡を加増されて加能越にまたがる83万石余となり、後に加賀藩100万石として確立した領国の基礎を築いたためです。
Q.賤ヶ岳の戦いでなぜ柴田勝家から離反した?
利家は柴田勝家の与力でしたが、秀吉とは清洲時代から夫婦ぐるみの親交があり、合戦前から秀吉の勧誘に応じていたと推測されています。合戦のたけなわで5,000の兵を率いて突如撤退し、これが羽柴軍の勝利を決定づけました。戦後、敗走する勝家を厚遇し、その後は秀吉に降伏して北ノ庄城攻めの先鋒を務めています。
Q.「槍の又左」の異名はどこから?
利家は三間半柄(約6m30cm)の長く派手な槍を使い、初陣の萱津の戦い以降、緒戦で槍先による功を挙げる武辺者でした。永禄元年の浮野の戦いで赤母衣衆筆頭に抜擢された頃から「槍の又左衞門」「槍の又左」と呼ばれるようになり、姉川の浅井攻めや石山合戦の戦功から「日本無双の槍」「堤の上の槍」とも称えられました。
長宗我部元親
Q.長宗我部元親はどのような人物ですか?
長宗我部元親は土佐国(現在の高知県)の戦国大名で、長宗我部氏第21代当主です。幼少期は「姫若子」と呼ばれるほど大人しい性格でしたが、初陣で武名を挙げ「鬼若子」と賞賛されました。一領具足を率いて土佐を統一し、さらに阿波・讃岐・伊予へと勢力を拡大して四国をほぼ制圧しました。豊臣秀吉の四国征伐で降伏後は土佐一国を安堵され、九州征伐や朝鮮出兵に従軍。分国法『長宗我部元親百箇条』を制定するなど内政面でも功績を残しています。
Q.なぜ「姫若子」と呼ばれていたのですか?
幼少期の元親は長身で色白、人に会っても挨拶や返事をせずぼんやりしていたため、「姫若子」と揶揄され軟弱者と見なされていました。父の国親も後継者として悩んでいたといわれます。しかし永禄3年(1560年)の初陣・長浜の戦いで自ら槍を持って敵に突撃する勇猛さを見せ、一転して「鬼若子」と賞賛されました。家臣の秦泉寺豊後に槍の使い方を聞いてからその通りに戦ったという逸話が残っています。
Q.四国統一は達成されたのですか?
通説では天正13年(1585年)に元親は四国統一を達成したとされますが、近年の研究では疑問視する見解が出ています。讃岐の虎丸城と阿波の土佐泊城を最後まで落とせず、伊予の河野氏も最後まで降伏しなかった可能性があることから、「各国であと一歩まで支配を進めたが統一は達成できなかった」とする説もあり、研究者の間で見解が分かれています。いずれにせよ秀吉の四国攻め(天正13年7月)で元親は降伏し、土佐一国の領有のみが認められました。
石田三成
Q.石田三成はどんな人物だったのですか?
石田三成は豊臣秀吉に仕えた五奉行の一人で、行政・外交・検地に卓越した手腕を発揮しました。太閤検地の実務を主導し、九州平定では25万の大軍の兵糧補給を滞りなく管理するなど、優れた実務能力で知られます。秀吉の死後は徳川家康の台頭に対抗して西軍を組織しましたが、関ヶ原の戦いに敗れ処刑されました。
Q.石田三成の忍城水攻めは失敗だったのですか?
忍城の水攻めは三成の独断ではなく、秀吉自身の指示によるものです。三成はむしろ積極的な攻城戦を主張していました。総延長約28kmの堤防をわずか数日で築く統率力を発揮しましたが、忍城は地形的に水没が困難で、城側の堤防破壊工作もあり長期戦となりました。最終的に小田原城開城後、城主・成田氏長の説得で開城しています。
Q.石田三成の子孫はどうなりましたか?
三成の子孫には比較的寛容な措置が取られました。長男・重家は出家して104歳の天寿を全う、次男・重成は津軽氏に匿われて家老職を務めました。三女・辰姫は弘前藩主・津軽信枚の正室となり、次女・小石殿の曾孫は徳川家光の側室・お振の方となって家光の長女・千代姫を産み、その血筋は現在の皇室にもつながっています。
島津義弘
Q.島津義弘の「鬼石曼子」とはどういう意味ですか?
「鬼石曼子(グイシーマンズ)」は朝鮮の役で明・朝鮮軍が島津義弘を恐れて呼んだとされる呼称です。「石蔓子」は「島津」の音を明で表記したもので、「鬼石曼子」は「鬼島津」を意味します。ただし、現存する朝鮮側資料に「鬼」を冠した記載は見つかっておらず、日本側の記録に基づく呼称です。
Q.「島津の退き口」とは何ですか?
関ヶ原の戦いで西軍が壊滅した後、島津義弘が行った敵中突破の退却戦のことです。退路を断たれた島津隊は正面の東軍を突破する道を選び、「捨て奸」と呼ばれる決死の足止め戦法を用いて義弘を逃しました。甥の島津豊久や家老の長寿院盛淳らが犠牲となり、追撃した井伊直政も重傷を負いました。
Q.島津義弘は島津家の当主だったのですか?
義弘を第17代当主とするのは幕末に編纂された『島津氏正統系図』に基づきますが、近年の研究では当主の証「御重物」が義久から忠恒に直接譲られていることが判明し、義弘は正式な当主ではなかったとする学説が有力です。豊臣秀吉が島津氏の分裂を狙い義弘を当主として扱ったとする説もあります。
明智光秀
Q.明智光秀はなぜ本能寺の変を起こしたのか?
光秀の動機については怨恨説・野望説・四国政策説・不安説など50以上の説が提唱されていますが、現在も定説はありません。確実な一次史料が乏しく、「日本史最大のミステリー」とも呼ばれています。
Q.明智光秀の前半生はなぜ不明なのか?
光秀が歴史の表舞台に登場するのは永禄年間(1560年代)以降で、それ以前の一次史料がほとんど存在しません。越前国の朝倉義景のもとで浪人していた時代が長く、出自も土岐明智氏の傍流とされますが確証がありません。
Q.明智光秀と正室・煕子の関係は?
光秀と正室・煕子は仲が良かったとされ、側室を置かなかったという伝承があります。ただし『鈴木叢書』所収の「明智系図」には側室の子の記載もあり、伝承と史料には食い違いがあります。煕子は天正4年(1576年)に坂本城で病死しました。
北条氏康
Q.北条氏康の河越夜戦とはどのような戦いですか?
天文15年(1546年)、山内上杉憲政・扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏らの約8万の連合軍が河越城を包囲しました。氏康は1万未満の兵力で、偽りの降伏の手紙を送って油断を誘い、半年の籠城に耐えた城内の北条綱成と連携して夜襲を決行。この奇襲で扇谷上杉朝定は戦死して扇谷上杉氏は滅亡し、山内上杉憲政は上野国に逃走。氏康は関東における主導権を確保しました。
Q.北条氏康はどのような内政を行いましたか?
氏康は先進的な民政制度を多数整備しました。天文19年(1550年)の公事赦免令では税制を単純化・軽減し、領民の直訴を認める目安箱を設置しました。永禄2年(1559年)には家臣560名の所領と軍役を記録した『小田原衆所領役帳』を作成し、検地の徹底や棟別銭の減額(50文から35文)、永楽銭への通貨統一、度量衡の統一なども行いました。小田原の城下町は「東の小田原・西の山口」と称される東国最大の都市に発展しました。
Q.北条氏康と上杉謙信の関係はどのようなものでしたか?
当初は敵対関係にあり、永禄4年(1561年)には謙信が10万余りの連合軍を率いて小田原城を包囲しましたが、氏康は堅固な籠城で撤退させました。以降も毎年のように関東に侵攻する謙信と一進一退の攻防を繰り広げました。しかし永禄11年(1568年)に武田信玄が三国同盟を破って駿河に侵攻すると、氏康は方針を転換し、永禄12年(1569年)に謙信と越相同盟を結びました。実子・三郎(後の上杉景虎)を人質として送り、互いの領有を認め合う同盟でした。
毛利元就
Q.毛利元就の「三本の矢」の逸話は史実ですか?
「三本の矢」の逸話は後世の創作とされています。死の間際に3人の息子を呼び寄せて矢を折らせたという話ですが、実際には長男・隆元は元就より先に亡くなっています。この逸話の元になったのは、弘治3年(1557年)に元就が隆元・元春・隆景に宛てた直筆書状「三子教訓状」で、2.85メートルにも及ぶ長大な書状の中で兄弟の結束を強く説いています。
Q.毛利元就はなぜ策略家として知られるのですか?
元就は生涯を通じて数々の謀略を駆使して勢力を拡大したことからそう呼ばれます。厳島の戦いでは偽りの内通や宮尾城築城による誘引策で陶晴賢の大軍を厳島に誘い込み、寡兵で壊滅させました。また、次男・元春を吉川氏に、三男・隆景を小早川氏に送り込む「毛利両川体制」の構築や、井上党の粛清、尼子氏攻略における離間策など、軍事力だけでなく政治的策謀を巧みに用いた武将でした。
Q.毛利元就の領国はどのくらいの規模だったのですか?
元就は安芸国の一国人領主から出発し、最終的に安芸・備後・周防・長門・石見・出雲の6ヶ国(一時は8ヶ国とも)を支配する中国地方最大の大名となりました。石見銀山の支配権も獲得し、その莫大な銀を朝廷や幕府への工作資金や軍資金に充てました。元就自身は「天下を競望せず」と語り、自分の代でのさらなる拡大は望まない意志を示しましたが、北九州をめぐっては晩年まで大友氏と激しい抗争を続けました。
伊達政宗
Q.伊達政宗はなぜ「独眼竜」と呼ばれる?
幼少期に疱瘡(天然痘)で右目を失明したことに由来します。「独眼竜」の呼称は、江戸後期の儒学者・頼山陽が漢詩で、中国唐末の軍閥・李克用(もともと「独眼龍」と呼ばれた隻眼の武将)に政宗をなぞらえたことが起源です。
Q.伊達政宗の眼帯は史実?
実際には当時の史料に政宗が目を覆っていた記述はありません。眼帯のイメージは1942年の映画『獨眼龍政宗』で始まった演出です。政宗本人は「親より頂いた片目」と考え、肖像画や木像では両目が描かれるよう希望していました。
Q.伊達政宗は天下を狙っていた?
軍記物には幕府軍との決戦を想定した図上演習の記録があるとされ、慶長遣欧使節をスペインとの軍事同盟のためとする説もあります。頼山陽は「天下統一がもう少し遅れていれば東北全域を支配していたはずだ」と詠んでおり、政宗の野心は後世の人々の想像力をかき立て続けています。
今川義元
Q.今川義元はなぜ「海道一の弓取り」と呼ばれた?
「海道」とは東海道を指し、「弓取り」は武将の意味です。駿河・遠江・三河の東海三国を支配し、戦国時代最大級の版図を築いたことから、東海道で最も優れた武将として「海道一の弓取り」と称されました。
Q.今川義元は本当に公家かぶれだった?
義元がお歯黒をつけ薄化粧をしていたという記述は『甲陽軍鑑』などの後世の軍記物に基づくものです。当時の上流武将にとって公家の作法を身につけることは教養の証であり、義元の統治能力の高さを示すものでした。近年の研究では、義元は優れた政治家・軍略家として再評価されています。
Q.今川義元の上洛説は本当?
桶狭間の戦いの目的が上洛であったかは諸説あります。当時の義元の兵力では京都まで到達するのは困難であり、まずは尾張の織田領を制圧して勢力圏を拡大する目的だったとする説が有力です。
真田幸隆
Q.真田幸隆はなぜ「攻め弾正」と呼ばれた?
幸隆は弾正忠の官位を持ち、武田軍が力攻めで落とせなかった砥石城を調略でわずか1日で陥落させるなど、攻めの才能に秀でていたことから「攻め弾正」の異名で呼ばれました。
Q.真田幸隆と真田幸村の関係は?
真田幸隆は真田信繁(幸村)の祖父にあたります。幸隆の三男・真田昌幸が真田家を継ぎ、その次男が大坂の陣で活躍した真田信繁(幸村)です。
Q.真田幸隆はなぜ武田家に仕えた?
天文10年(1541年)の海野平の戦いで武田信虎らに敗れて領地を失いましたが、信虎が追放された後、その子・晴信(信玄)に臣従し、旧領回復を果たしました。
上杉謙信
Q.上杉謙信はなぜ「軍神」と呼ばれる?
生涯70回以上の合戦でほとんど敗北がなく、毘沙門天を熱心に信仰して「毘」の旗印を掲げたことから「軍神」と称されました。第四次川中島の戦いや手取川の戦いなどの戦績が評価されています。
Q.上杉謙信は生涯独身だった?
生涯独身を貫きました。毘沙門天への信仰から女性を近づけなかったとも言われますが、真相は不明です。後継者を明確に定めなかったため、死後に御館の乱が起き上杉家は大きく衰退しました。
Q.「敵に塩を送る」とはどういう逸話?
武田信玄が今川・北条との同盟破綻で塩の供給を断たれた際、敵対する謙信が「戦いは戦場で決するもの」として塩を送ったとされる逸話です。義を重んじる謙信の人柄を示す話として知られています。
Q.上杉謙信の死因は?
天正6年(1578年)、遠征準備中に春日山城内の厠で倒れ、4日後に死去しました。過度の飲酒や塩分過多による高血圧性の脳血管障害(脳卒中)が死因とされています。
武田信玄
Q.武田信玄の「風林火山」とは?
「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」(疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し)。孫子の兵法から引用した旗印で、武田軍の戦術思想を象徴しています。
Q.武田信玄と上杉謙信はなぜ何度も戦った?
信玄の信濃侵攻により領地を追われた村上義清らが越後の上杉謙信に救援を求めたことがきっかけです。天文22年(1553年)から永禄7年(1564年)まで5度にわたり川中島で対峙しました。
Q.武田信玄の死因は?
元亀4年(1573年)、西上作戦の途上で持病が悪化し死去しました。死因は胃癌・肺結核・食道癌など諸説あり確定していません。享年53。
Q.信玄堤とは?
武田信玄が甲府盆地を水害から守るために築いた堤防です。釜無川と御勅使川の合流点に「霞堤」の技術を用い、農業生産力の向上と武田家の経済基盤強化に貢献しました。
徳川家康
Q.徳川家康は何歳で天下を取った?
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで天下の実権を掌握した時は数え年59歳、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任命され江戸幕府を開いた時は数え年62歳でした。
Q.徳川家康の幼名は?
幼名は竹千代です。松平元康、松平家康と名を改め、最終的に徳川家康と称しました。
Q.徳川家康はなぜ江戸を選んだ?
天正18年(1590年)の小田原攻め後、豊臣秀吉の命で関東に移封されました。江戸は当時未開の湿地帯でしたが、家康は大規模な治水工事で城下町を整備し、後の大都市・東京の基盤を築きました。
Q.徳川家康の最大の敗北は?
元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いです。武田信玄の大軍に正面から挑み惨敗し、命からがら浜松城に逃げ帰りました。この敗北の教訓がその後の慎重な戦略に活かされたとされます。
織田信長
Q.織田信長はなぜ殺された?
1582年6月21日、家臣の明智光秀による謀反(本能寺の変)により、京都本能寺で自害しました。光秀の動機については、怨恨説・野望説・黒幕説など諸説あり、現在も定説はありません。
Q.織田信長の妻は?
正室は美濃国主・斎藤道三の娘である濃姫(帰蝶)です。側室には生駒吉乃、坂氏、お鍋の方などがいます。
Q.織田信長は何歳で亡くなった?
数え年49歳で亡くなりました。天文3年(1534年)に生まれ、天正10年(1582年)6月21日に本能寺の変で死去しました。
Q.織田信長の「天下布武」とはどういう意味?
「天下布武」は武力で天下を治めるという意味の印判で、永禄10年(1567年)に美濃を制圧した頃から使い始めました。天下統一への強い意志を表す標語として知られています。
豊臣秀吉
Q.豊臣秀吉の本名は?
幼名は日吉丸、元の名は木下藤吉郎です。出世に伴い木下秀吉、羽柴秀吉と改名し、関白就任後に豊臣姓を賜りました。
Q.豊臣秀吉はなぜ天下統一できた?
本能寺の変の直後に「中国大返し」で素早く京都に帰還し、山崎の戦いで明智光秀を討伐。織田家の後継者としての地位を確立し、賤ヶ岳の戦い・小牧長久手の戦いを経て、九州平定・小田原攻めで天下統一を達成しました。
Q.豊臣秀吉は農民出身?
出自については諸説ありますが、尾張国中村の農民または足軽の子とされています。日本史上、最も劇的な立身出世を遂げた人物です。
Q.朝鮮出兵はなぜ行われた?
文禄元年(1592年)と慶長2年(1597年)の二度にわたり朝鮮出兵を行いました。明の征服を最終目標としたとされますが、国内統一後の武士の活用先確保や秀吉の誇大妄想など複数の要因が指摘されています。
合戦のよくある質問
長篠の戦い
Q.織田軍の鉄砲「三段撃ち」は本当にあった?
実在は疑問視されています。『信長公記』には鉄砲奉行5人に指揮を取らせたとあるだけで三段撃ちの記述はなく、最初の記述は江戸期の通俗小説に見られ、明治期の教科書への掲載で広まったとされます。鉄砲の数も、通説の3,000丁は資料的信用度の低い甫庵本『信長記』などが出典で、『信長公記』に明記されるのは決戦用の約1,000丁と別働隊の500丁です。ただしこれは一部の部隊の数で、他の武将の鉄砲隊や根来衆も参戦しており、信長が当時としては特筆すべき数の鉄砲を持ち込んだこと自体は確かと考えられています。
Q.武田軍はなぜ大敗した?
複合的な要因が指摘されています。まず兵力が2倍以上違いました(通説で織田・徳川約3万8千に対し武田約1万5千)。さらに信長は連吾川沿いに三重の土塁と馬防柵を築く野戦築城を行っており、武田軍はこれに正面から突撃を繰り返して消耗しました。両翼で包囲を狙った武田軍の陣形が、中央の親類衆の早期退却によって崩壊したことや、酒井忠次の別働隊による鳶ヶ巣山奇襲で退路を脅かされたことも敗因とされています。
Q.長篠の戦いで武田氏は滅亡した?
していません。武田氏の滅亡は7年後、天正10年(1582年)の甲州征伐によるものです。勝頼は長篠の敗戦後、上杉氏との甲越同盟や佐竹氏との甲佐同盟など外交の再建を進め、一時は武田氏最大規模の領国を築いています。近年の研究では、滅亡の主因は長篠の敗戦そのものではなく、御館の乱を契機とする北条氏との甲相同盟破綻にあるとする見解が有力です。
大津城の戦い
Q.大津城の戦いはどんな戦い?
慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いの直前に近江・大津城をめぐって行われた攻防戦です。東軍に通じた城主・京極高次が約3千の兵で籠城し、毛利元康・立花宗茂ら約1万5千の西軍がこれを攻めました。9日間の激戦の末に城は開城しましたが、その日が関ヶ原本戦と同じ9月15日だったため、西軍はこの大軍を本戦に投入できませんでした。
Q.なぜ大津城の戦いは重要なのか?
立花宗茂をはじめとする西軍1万5千を9日間も大津に釘付けにし、関ヶ原本戦に参加させなかったからです。もしこの精強な軍勢が関ヶ原に間に合っていれば、戦いの帰趨は変わっていたかもしれません。徳川家康は、自軍を大津に引きつけた高次の功績を高く評価し、敗者でありながら戦後に若狭一国8万5千石を与えて国持大名に取り立てました。
Q.籠城した京極高次はその後どうなった?
開城後、高次は剃髪して高野山に入りましたが、関ヶ原で勝利した家康はその功を惜しんで下山を促し、若狭一国8万5千石を与えました。妹・竜子(松の丸殿)が秀吉の側室、正室・初(常高院)が淀殿の妹という閨閥から「蛍大名」と陰口された高次でしたが、大津での籠城によって武名を示し、京極家を国持大名として再興させたのです。
御館の乱
Q.御館の乱とは?
天正6年(1578年)の上杉謙信の急死後、ともに謙信の養子であった上杉景勝と上杉景虎が家督をめぐって争った越後のお家騒動です。景勝が勝利して上杉氏を継ぎました。「御館」とは、謙信が関東管領・上杉憲政を迎えるために春日山城下に築いた館の名で、景虎がここに立て籠もったことから乱の名となりました。
Q.なぜ上杉景勝が勝てた?
景勝はいち早く春日山城の本丸と金蔵・武器庫を押さえて正統性と軍資金を確保しました。さらに、当初は景虎を支援していた武田勝頼に東上野の割譲と黄金を提示して甲越同盟を結び、最大の脅威を取り除いたことが決定的でした。景虎の実家・北条氏の援軍は遠方ゆえ手薄で、豪雪にも阻まれて十分に機能しませんでした。
Q.御館の乱は周囲にどんな影響を与えた?
内乱で上杉氏の軍事力は大きく衰え、織田信長の北陸侵攻に苦しむことになります。また恩賞配分への不満から新発田重家の乱を招きました。さらに、武田勝頼が景虎を見限って景勝と結んだことが北条氏との同盟破棄につながり、武田氏が織田・徳川・北条に包囲されて滅亡する遠因にもなりました。
第一次上田合戦
Q.第一次上田合戦とは?
天正13年(1585年)閏8月、信濃上田城を舞台に真田昌幸が徳川軍を撃退した戦いです。神川での追撃戦が決定的だったことから「神川合戦」とも呼ばれます。約1,200〜2,000の真田軍が約7,000の徳川軍を相手に大勝し、真田昌幸の名を天下に知らしめました。
Q.なぜ真田は2,000の兵で徳川の大軍に勝てた?
上田城と戸石城・丸子城など周辺の山城、そして神川などの地形を巧みに活かした戦法によります。城下に敵を誘い込んで反撃し、退却する敵を戸石城の信幸が横合いから攻め、神川で討ち取ることで、約7,000の徳川軍に1,300人もの損害を与えました。真田方の犠牲はわずか40人ほどであったと伝わります。
Q.なぜ徳川と真田は戦うことになった?
徳川家康が北条氏との和睦条件として、昌幸に上野沼田領を北条氏へ引き渡すよう求めたことが発端です。昌幸は「自ら切り取った領地であり、家康から与えられたものではない」としてこれを拒否し、上杉氏と通じて徳川と手切れとなりました。
長良川の戦い
Q.長良川の戦いはなぜ起きたのですか?
美濃を手にした斎藤道三が、長男・義龍を疎んじて弟の孫四郎・喜平次を寵愛し、家督を継がせようとしたためです。危機感を抱いた義龍は二人の弟を謀殺して挙兵し、父子の家督争いが弘治2年(1556年)の長良川での決戦に発展しました。
Q.なぜ兵力に勝る義龍が道三に勝てたのですか?
道三が下剋上で成り上がった経緯もあって、西美濃三人衆(稲葉一鉄・安藤守就・氏家直元)をはじめ家中の大半が義龍を支持しました。義龍軍17,500に対し道三が動員できたのはわずか2,700で、緒戦こそ道三が優勢でしたが、最後は兵力差に押し切られました。
Q.道三の娘婿・織田信長は助けに来なかったのですか?
信長は援軍として大良口まで出陣しましたが、合戦には間に合いませんでした。勝ちに乗じた義龍軍に攻められると、信長は自ら殿軍を務め、最新の鉄砲を用いて追撃を振り切り撤退しました。道三は長良川での対陣中、信長に美濃国を譲るという遺言状を残したと伝わります。
姉川の戦い
Q.姉川の戦いはどちらが勝ちましたか?
織田・徳川連合軍の勝利です。浅井勢の猛攻で一時は織田軍が危機に陥りましたが、徳川勢の榊原康政が伸びきった浅井・朝倉軍の側面を突き、朝倉軍、続いて浅井軍が敗走しました。織田・徳川方は1,100余を討ち取りました。
Q.「姉川の戦い」という呼び名の由来は?
「姉川の戦い」「姉川合戦」はもともと徳川氏による呼称です。布陣した土地の名から、織田・浅井両氏は「野村合戦」、朝倉氏側は「三田村合戦」と呼びました。激戦で姉川が血に染まったと伝わり、「血原」「血川」という地名が残されました。
Q.姉川の戦いの後、浅井・朝倉氏はどうなりましたか?
この戦いには敗れたものの浅井・朝倉軍にはまだ余力があり、延暦寺や本願寺と結んで信長包囲網を続けました。しかし重臣・磯野員昌が調略で離反するなど次第に弱体化し、天正元年(1573年)に朝倉氏・浅井氏は相次いで滅亡しました。
備中高松城の戦い
Q.備中高松城の戦いはいつ起きましたか?
天正10年(1582年)4月から6月にかけて行われました。秀吉は4月15日に高松城を包囲し、5月に水攻めを進め、6月4日に清水宗治の自刃と引き換えに和睦が成立しました。
Q.なぜ水攻めが行われたのですか?
備中高松城は低湿地を利用した平城で、鉄砲や騎馬による攻撃に強い要害でした。秀吉はこの地形を逆手に取り、足守川の水を堰き止めて城を孤立させる水攻めを選びました。
Q.備中高松城の戦いと中国大返しの関係は?
高松城攻めの最中に本能寺の変が起こり、秀吉は信長の死を毛利方に隠して急ぎ講和しました。和睦成立後、秀吉は軍を東へ返し、山崎の戦いで明智光秀を破ります。この移動が中国大返しと呼ばれます。
長谷堂城の戦い
Q.長谷堂城の戦いはいつ起きましたか?
慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いとほぼ同時期に行われました。上杉軍は9月8日に出陣し、9月15日から長谷堂城を攻撃。関ヶ原の敗報が届いた9月29日まで約2週間にわたって攻城戦を繰り広げたことから「北の関ヶ原」とも呼ばれます。
Q.なぜ大軍の上杉軍は長谷堂城を攻略できなかったのですか?
長谷堂城は周囲が深田で人馬の行動が制限され、守将の志村光安・鮭延秀綱ら約1,000名が頑強に抵抗しました。夜襲で上杉軍に同士討ちを起こさせるなど巧みな戦術を用い、約18倍の兵力差を覆して約2週間の防衛に成功しました。
Q.直江兼続の撤退戦はなぜ評価されるのですか?
関ヶ原敗報を受けて撤退する上杉軍を最上・伊達連合軍が追撃しましたが、兼続は自ら殿を務め、前田利益や水原親憲らの奮戦もあって退却に成功しました。敵将の最上義光は「直江少しも臆せず、心静かに陣払い」と称賛し、家康も「聞き及びしよりいや増しの武功の者」と賞賛したとされます。
小牧・長久手の戦い
Q.小牧・長久手の戦いの勝者はどちらだった?
長久手の局地戦では池田恒興・森長可を討ち取った織田・徳川軍が明確な戦術的勝利を収めました。しかし戦役全体としては、秀吉が信雄と単独講和を結び、家康も次男を秀吉の養子に出すことで和議を結んでおり、政治的には秀吉が優位に立ちました。頼山陽の『日本外史』では「家康の天下を取る、大坂に在らずして関ヶ原にあり、関ヶ原に在らずして小牧にあり」と評されています。
Q.三河中入り作戦とは?
小牧で膠着状態となった戦況を打開するため、池田恒興が秀吉に献策した作戦です。兵を三河に出して空虚を襲い放火すれば、家康は小牧を守れなくなるという狙いでした。池田恒興5,000、森長可3,000、堀秀政3,000、羽柴秀次9,000の約20,000人の支隊が編成されましたが、農民や伊賀衆からの情報で家康に動きを察知され、長久手で壊滅的な敗北を喫しました。
Q.本多忠勝が秀吉の大軍に立ちはだかったのはいつ?
長久手の戦い当日、秀吉が3万の軍勢を率いて戦場近くの龍泉寺へ急行した際、本多忠勝がわずか500名で行軍を妨害しました。ただし、忠勝と秀吉本隊が対峙した日については、秀吉の書状写や忠勝の書状写から五月朔日(5月1日)であった可能性も指摘されています。
賤ヶ岳の戦い
Q.賤ヶ岳の七本槍とは?
賤ヶ岳の戦いで秀吉方として功名をあげた加藤清正・福島正則・加藤嘉明・平野長泰・脇坂安治・糟屋武則・片桐且元の7人を指します。「七本槍」の呼称は江戸初期の『甫庵太閤記』が初見で、語呂合わせの面が強く、実際には桜井家一・石川一光も同様の戦功を挙げています。福島正則や加藤清正は後年「七本槍」と並べられることを嫌ったとも伝えられます。
Q.前田利家はなぜ戦線離脱した?
利家は柴田勝家の与力でしたが、秀吉とは清洲時代から夫婦ぐるみの親交があり、合戦前から秀吉の勧誘に応じていたと推測されています。合戦のたけなわで5,000の兵を率いて茂山から突如撤退し、不破勝光・金森長近もこれに続いたため、柴田軍全体の士気が崩壊しました。戦後、利家は降伏して秀吉に臣従し、北ノ庄城攻めの先鋒を務めています。
Q.美濃大返しとは?
4月20日、大垣城にいた秀吉が大岩山砦陥落の急報を受け、午後2時に大垣を出発して木ノ本までの13里(約52km)の距離をわずか5時間で踏破した強行軍を指します。沿道に握り飯と松明を準備させたといわれ、本能寺の変後の「中国大返し」と並ぶ秀吉の機動戦の代表例として知られています。
中富川の戦い
Q.中富川の戦いはなぜ起きたのですか?
天正10年(1582年)6月の本能寺の変で織田信長が横死したことが直接のきっかけです。信長は四国攻撃軍を編成して元親を追い詰めていましたが、変により軍勢は四散し三好康長も阿波から撤退しました。信長の脅威が消えた元親は阿波攻略の好機と判断し、一領具足の「速やかに十河存保を討つべし」との意見を採用して出兵を決めました。
Q.長宗我部軍はなぜ圧勝できたのですか?
最大の要因は兵力差です。長宗我部軍は先陣3,000・主力14,000に加え、寝返った一宮城主の小笠原成助ら6,000を合わせた約23,000の兵力で、十河軍の5,000余を圧倒しました。また元親が一領具足だけでなく15歳以上60歳以下の者を広く募った動員力も大きく、三方向からの同時攻撃という戦術も効果的でした。
Q.中富川の戦いの後はどうなりましたか?
阿波の諸城はほとんど長宗我部氏に降りましたが、元親は降伏した一宮成助や新開道善らに謀反の疑いをかけて殺害しました。翌天正11年(1583年)には木津城の篠原自遁も敗走し、阿波で元親に抵抗する者は土佐泊城の森村春のみとなりました。阿波制圧を足がかりに元親は讃岐へ進出し、四国統一へと歩みを進めました。
忍城の戦い
Q.忍城の水攻めは誰が命じたのですか?
水攻めを命じたのは豊臣秀吉自身です。石田三成はむしろ積極的な攻城戦を主張しており、浅野長政宛の書状にもその姿勢が読み取れます。秀吉が備中高松城の水攻めに倣い、三成に詳細な指示を出して実行させました。後世の軍記物で三成の発案とされたのは誤りです。
Q.石田堤とは何ですか?
石田堤は三成が忍城水攻めのために築いた総延長約28kmの堤防です。近隣の農民に昼は米一升に永楽銭六十文、夜は百文を与え、昼夜を問わず工事を行い、わずか数日で完成させました。利根川の水を引き入れて城を水没させようとしましたが、本丸は沈まず「忍の浮き城」と呼ばれました。遺構は現在も行田市や鴻巣市に残っています。
Q.なぜ忍城は落ちなかったのですか?
忍城は周囲を元荒川・星川に囲まれた天然の要害で、関東七名城の一つに数えられていました。地形的に本丸が周囲より高く、完全な水没が困難でした。また城側の本庄泰展が堤防を破壊する工作を行い、水攻めの効果を減じました。最終的には小田原城の開城後、城主・成田氏長の説得により開城しています。
耳川の戦い
Q.耳川の戦いの主戦場は耳川ですか?
主戦場は耳川ではなく、高城川(小丸川)・切原川一帯の高城川原です。耳川は敗北した大友軍が撤退・溺死した地点にある川で、主戦場とは20km以上離れた北方に位置します。そのため「高城川の戦い」「高城川原の戦い」とも呼ばれます。
Q.大友軍はなぜ敗北したのですか?
大友軍内の不統一が最大の原因です。前線の大将・田原親賢は島津との講和を進めていましたが、主戦派の田北鎮周と佐伯宗天が独断で攻撃を開始し、大友軍はやむなく交戦に追い込まれました。また、総帥の大友宗麟が前線に出ずキリスト教布教に傾倒していたことも、家臣団の不和を深めました。
Q.耳川の戦いの歴史的影響は何ですか?
大友氏は多くの有力武将と兵力を失い急速に衰退しました。秋月種実や龍造寺隆信ら国人衆の離反を招き、領国を大きく削がれることになります。一方の島津氏は九州内に拮抗する敵が減少し、相良氏・阿蘇氏が降伏、龍造寺氏も沖田畷の戦いで敗れ、九州制覇に向けて大きく前進しました。
本能寺の変
Q.本能寺の変で織田信長の遺体はなぜ見つからなかったのか?
明智勢が必死に捜索しましたが、信長の遺体は発見されませんでした。本能寺は炎上しており、森蘭丸が遺体に畳を被せたとする説や、阿弥陀寺の僧・清玉が火葬して持ち帰ったとする説などがあります。
Q.「敵は本能寺にあり」は明智光秀の言葉か?
同時代の一次史料には光秀がこの言葉を発した記録はありません。江戸時代の『明智軍記』や頼山陽の『日本外史』などを通じて広まった創作と考えられています。
Q.なぜ織田信忠は逃げなかったのか?
側近に脱出を勧められましたが、信忠は「これほどの謀反によもや逃しはすまい。雑兵の手にかかるは不名誉」として二条御新造での戦闘を選び自刃しました。信忠の死により織田家の後継問題が発生し、清洲会議へと繋がりました。
河越城の戦い
Q.河越城の戦いは本当に「夜戦」だったのですか?
「河越夜戦」として知られていますが、夜戦であったかどうかは確証がありません。軍記物のうち『鎌倉九代後記』『北条記』『関八州古戦録』は夜襲を伝えていますが、『北条五代記』は真昼間の「午の刻」に行われたとしています。一次史料には夜戦であることに触れたものはなく、北条氏康の書状でも夜襲・奇襲とは記されていません。夜戦の記述は17世紀成立の軍記物からとされ、天文6年の河越城攻略時の夜戦の逸話が混同された可能性も指摘されています。
Q.連合軍の兵力は本当に8万人もいたのですか?
軍記物が伝える上杉・足利連合軍の兵力8万という数字については、否定的見解が支配的です。西股総生は扇谷上杉軍3,000人、山内上杉軍15,000人、古河公方軍は数千から10,000人程度と推定しています。また、太田資正の証言を伝える太田資武書状では、連合軍が数の上で優勢だったとはされておらず、軍記物が伝えるほどの大軍が集結していたかは疑問視されています。
Q.河越城の戦いで扇谷上杉氏は本当に滅亡したのですか?
当主・上杉朝定の戦死により扇谷上杉氏は滅亡したとされていますが、朝定の戦死を伝えるのは『関八州古戦録』のみです。行伝寺の過去帳には朝定の死亡記録がありますが、死因が戦死とは記されていません。そのため、朝定は合戦での戦死ではなく河越城包囲中に死去し、それが連合軍撤退の原因になったとする説もあります。
厳島の戦い
Q.厳島の戦いはなぜ「日本三大奇襲」と呼ばれるのですか?
毛利元就が約4,000の兵力で、通説で約20,000とされる陶晴賢の大軍を暴風雨の夜に奇襲攻撃で壊滅させたことから、河越夜戦・桶狭間の戦いと並ぶ日本三大奇襲の一つとされています。ただし、近年の研究では陶軍の実数は8,000〜10,000程度で、兵力差は通説ほど大きくなかったとする見方もあります。
Q.村上水軍は厳島の戦いでどのような役割を果たしましたか?
来島村上水軍が約200〜300艘で毛利方に参戦し、合戦当日には陶水軍の船を焼き払って陶軍の退路を断ちました。元就は来島村上氏の来援がなければ万事休すと書状に記しており、毛利方の勝利に決定的な貢献を果たしました。なお、能島村上氏と因島村上氏の参戦については諸説あり、近年の研究では両氏は合戦に直接参加していなかったとする見方が有力です。
Q.厳島の戦いの後、大内氏はどうなりましたか?
陶晴賢を失った大内氏は急速に弱体化し、元就は合戦直後から周防・長門への侵攻(防長経略)を開始しました。弘治3年(1557年)に晴賢が擁立していた大内義長が自害に追い込まれ、大名としての大内氏は滅亡しました。旧大内領を併合した毛利氏は中国地方最大の大名へと成長しました。
摺上原の戦い
Q.摺上原の戦いの勝因は?
猪苗代盛国の寝返りにより会津への直進路を確保できたこと、相馬氏の参戦を事前に封じた戦略的判断、そして合戦中の風向きの変化が主な勝因です。また、盛国が退路の日橋川の橋を落としていたことで蘆名軍の被害が拡大しました。
Q.蘆名義広はなぜ敗れた?
蘆名義広は佐竹義重の子として蘆名家に養子入りした人物で、家中の掌握が不十分でした。猪苗代盛国をはじめとする蘆名旧臣の離反が相次ぎ、軍の結束を保てなかったことが敗因の一つです。
Q.摺上原の戦い後、伊達政宗の領地はどうなった?
政宗は会津を含む南奥州一帯を支配する大領国を築きましたが、この拡大は豊臣秀吉の惣無事令に違反していました。翌年の小田原参陣で秀吉に服属した際、会津を含む新領地は没収されました。
第二次小豆坂の戦い
Q.小豆坂の戦いは2回あった?
天文11年(1542年)の第一次と天文17年(1548年)の第二次があったとされますが、第一次については史料的に実在が疑問視されています。第二次については今川義元の感謝状が残されており、合戦があったことはほぼ確実です。
Q.小豆坂七本槍とは?
小豆坂の戦いで活躍した織田方の7人の勇将を指します。織田信光・佐々孫介・中野又兵衛らの名が伝わっていますが、顔ぶれは史料によって異なり、第一次・第二次どちらの戦いでの活躍かも諸説あります。
Q.太原雪斎はなぜ総大将を務めた?
太原雪斎は臨済宗の僧侶でありながら今川義元の軍師・外交顧問として絶大な信頼を得ていました。義元は全体の指揮を雪斎に委ね、自らは後方で戦略的判断を下す体制をとっていました。雪斎の軍略は今川家の三河平定を支える最大の原動力でした。
砥石城の戦い
Q.砥石崩れとは?
天文19年(1550年)、武田晴信(信玄)が7,000の兵で村上義清の砥石城を攻めたが、わずか500の城兵に撃退され、約1,000人の死傷者を出して大敗した出来事です。武田家中ではこの敗退を「砥石崩れ」と呼びました。
Q.真田幸隆はどうやって砥石城を落とした?
翌年の天文20年(1551年)、真田幸隆は城内の将兵への調略と弟・矢沢綱頼の内通を活用し、力攻めではなく調略によりわずか1日で砥石城を陥落させました。
Q.砥石城はなぜ難攻不落だった?
東太郎山の尾根上に築かれた山城で、東西は崖に囲まれ攻め口は南西の砥石のような崖面しかありませんでした。本城・枡形城・米山城・戸石城からなる複合城郭で、天然の要害でした。
第四次川中島の戦い
Q.川中島の戦いは何回あった?
天文22年(1553年)から永禄7年(1564年)にかけて5回行われました。大規模な野戦が展開されたのは第四次(永禄4年)のみで、他の回は小競り合いやにらみ合いに終始しました。
Q.武田信玄と上杉謙信の一騎打ちは本当にあった?
『甲陽軍鑑』に記された有名な逸話ですが、軍記物語の脚色である可能性が高いとされています。ただし、上杉軍が武田本陣に肉薄した激戦であったことは史実です。
Q.川中島の戦いはどちらが勝った?
第四次川中島の戦いは実質的には引き分けでした。上杉軍が先に撤退したため武田軍は勝ちどきを上げましたが、武田側は信玄の弟・信繁や軍師・山本勘助ら重臣を多数失い、甚大な被害を受けました。
Q.啄木鳥の戦法とは?
別働隊が妻女山の上杉軍を背後から攻撃し、驚いて山を下った上杉軍を八幡原の武田本隊が迎え撃つ挟撃作戦です。山本勘助と馬場信房が立案したとされますが、謙信に見破られ失敗しました。
三方ヶ原の戦い
Q.三方ヶ原の戦いで家康は本当に脱糞した?
敗走中に恐怖のあまり馬上で脱糞したという逸話が残っていますが、後世の創作である可能性が高いです。ただし、命からがら浜松城に逃げ帰る壊走であったことは史実です。
Q.三方ヶ原の戦いの兵力差は?
武田軍が約27,000〜30,000に対し、徳川・織田連合軍は約11,000〜13,000と、約2〜3倍の兵力差がありました。
Q.しかみ像とは?
三方ヶ原の敗戦後、家康が自らの惨めな姿を描かせて戒めにしたとされる肖像画です。ただし近年の研究では、三方ヶ原と結びつける通説は否定的な見解が示されています。
Q.武田信玄はなぜ浜松城を攻めなかった?
信玄は浜松城を正面から攻めず、あえて素通りして家康を城外におびき出す策略を用いました。三方ヶ原の台地上で待ち構えて殲滅する作戦でした。
桶狭間の戦い
Q.桶狭間の戦いで信長は何人で戦った?
織田信長は約2,000〜3,000の兵で、今川義元の約2万〜2万5千の大軍に挑みました。圧倒的な兵力差を覆した奇襲戦として知られています。
Q.桶狭間の戦いは本当に奇襲だった?
『信長公記』では奇襲として描かれていますが、近年の研究では正面攻撃だった可能性も指摘されています。豪雨に乗じた攻撃であったことは共通しています。
Q.今川義元は誰に討たれた?
織田家の家臣・毛利新介(毛利良勝)が今川義元を討ち取りました。服部小平太が先に義元に斬りかかり、続いて毛利新介がとどめを刺したとされます。
関ヶ原の戦い
Q.関ヶ原の戦いはどちらが勝った?
東軍(徳川方)が勝利しました。西軍の小早川秀秋が寝返ったことが決定的な転機となり、わずか半日で決着がつきました。
Q.関ヶ原の戦いの死者数は?
東軍の死者は約4,000人、西軍の死者は約8,000人(捕虜含む)とされています。両軍合わせて15万人以上が参加した日本史上最大級の合戦でした。
Q.小早川秀秋はなぜ寝返った?
松尾山に布陣した小早川秀秋は当初日和見を続けていましたが、正午頃に西軍を裏切り大谷吉継隊を攻撃しました。家康からの調略や、秀秋自身の政治的判断が背景にあったとされます。
Q.関ヶ原の戦いの後どうなった?
徳川家康が天下の実権を掌握し、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任命されて江戸幕府を開きました。西軍の石田三成は処刑され、多くの西軍大名が改易・減封されました。