— 人物紹介 —
概要
斎藤道三は、戦国時代の美濃国を支配した戦国大名で、道三流斎藤氏の初代当主である。美濃国守護・土岐氏の家臣という立場から、主家を追い落として一国の主へとのし上がった、下剋上の典型として知られる。
従来、道三は油売りの行商人から一代で戦国大名にまで成り上がった梟雄とされ、坂口安吾や司馬遼太郎らの歴史小説によって「美濃の蝮」のイメージが広まった。しかし1968年に発見された「六角承禎条書写」によって、その「国盗り」は道三一代の事業ではなく、父・長井新左衛門尉と道三の父子二代にわたるものであったことが明らかになっている。
道三は娘・濃姫(帰蝶)を織田信長に嫁がせ、信長の舅として良好な関係を築いた。一方、家督を譲った長男・義龍とは深刻に対立し、弘治2年(1556年)の長良川の戦いで義龍軍に敗れて討死した。下剋上で一国を奪いながら、最期は実子に討たれるというその生涯は、戦国乱世を象徴する物語として後世に語り継がれている。
生涯
出自と「国盗り」二代説
近世の軍記物『美濃国諸旧記』などは、道三を、京の妙覚寺で僧となった後に還俗し、油商人を経て美濃で武士となり、一代で戦国大名にまでのし上がった人物として描いてきた。「油を一文銭の穴に通して注ぐ」という評判の油売りの逸話は、その代表である。
ところが1968年、『岐阜県史』編集の過程で「六角承禎条書写」という史料が発見された。これは永禄3年(1560年)に六角義賢(承禎)が、子息と斎藤義龍の娘との縁組を阻止するよう重臣に命じた文書で、義龍の家系の来歴が記されていた。これにより、僧から還俗して土岐氏の家臣となり頭角を現したという前半生の逸話は、実は道三の父・長井新左衛門尉のものであり、美濃の国盗りは父子二代にわたる事業であったことが判明した。道三自身が確実な史料に現れるのは、天文2年(1533年)、長井新九郎規秀と名乗っていた頃からである。
美濃の掌握
天文2年(1533年)頃、父の死を受けて家督を継いだ規秀は、翌年には長井惣領家の長井景弘を滅ぼして長井氏の実権を握った。さらに斎藤氏を称し、左近大夫・利政と名を改めながら、美濃守護・土岐頼芸を支えつつ、対立する土岐頼充(頼純)方と争った。
天文13年(1544年)には、稲葉山城下まで攻め寄せた土岐頼充・朝倉宗滴・織田信秀の連合軍を撃退している(加納口の戦い)。その後、天文17年(1548年)頃には守護代・斎藤利茂や娘婿の土岐頼香らを相次いで排除して家中を固め、天文19年(1550年)頃にはついに守護・土岐頼芸を美濃から追放した。こうして道三は、土岐氏に代わる美濃の国主としての地位を確立した。
織田信長との関係
美濃の斎藤氏と尾張の織田氏は長く争ってきたが、天文18年(1549年)頃、道三は織田信秀と和睦し、娘・濃姫(帰蝶)を信秀の嫡子・信長に嫁がせた。これにより道三は信長の舅となった。
『信長公記』には、両者の関係を物語る有名な逸話が伝わる。家臣たちが「婿殿は大たわけだ」と口々に言うので、道三は富田の聖徳寺で信長と会見し、その人物を自ら確かめようとした。普段は奇抜な格好の信長が、会見の場では正装に着替えて現れ、整然と装備された手勢を率いていたのを見て、道三は信長の非凡さを見抜いた。帰り道、家臣が「やはり信長はたわけでした」と言うと、道三は「無念だが、我が子らはいずれあのたわけの門前に馬を繋ぐ(家来になる)だろう」と述べたという。
義龍との対立と最期
天文23年(1554年)、道三は嫡子・義龍に家督を譲って隠居したが、外交権などの実権はなお握り続けたとみられる。やがて道三は義龍を低く評価するようになり、利口者とみた弟の孫四郎・喜平次を寵愛して、三男の喜平次に名門一色氏を継がせようとした。これに危機感を抱いた義龍は、弘治元年(1555年)11月、叔父・長井道利と謀って仮病を装い、二人の弟をおびき出して日根野弘就に殺害させた。報を受けた道三は驚いて城下に火を放ち、大桑城へと退いた。
翌弘治2年(1556年)4月20日、道三と義龍の軍勢は長良川で激突した。家中の大半は義龍を支持しており、義龍軍17,500に対し、道三が動員できたのはわずか2,700であった。緒戦こそ道三が優勢に戦いを進めたが、兵力差はいかんともしがたく、道三は長井忠左衛門に組み付かれたところを小牧源太に討たれた。娘婿の信長も援軍に駆けつけたが、戦いには間に合わなかった。道三は対陣中、信長に美濃国を譲るという遺言状を残したとも伝えられる。
評価
斎藤道三は、北条早雲らと並ぶ下剋上大名の典型として、長く戦国乱世の象徴的な存在とされてきた。坂口安吾『梟雄』や司馬遼太郎『国盗り物語』といった小説によって、油売りから一国一城の主へとのし上がった梟雄のイメージが定着し、「美濃の蝮」の異名とともに広く知られている。
一方、近年の研究によって、その実像は大きく見直されつつある。「国盗り」は道三一代ではなく父子二代の事業であったこと、「美濃の蝮」の異名や、義龍の実父を土岐頼芸とする出生の秘密といった逸話の多くが後世の創作であったことが指摘されている。
それでも、道三が一代の謀略と実力によって美濃の支配を完成させた人物であることに変わりはない。長良川の戦いで敗れた道三は、奮戦する義龍の采配を見て、かつて「無能」と評したのを悔い、「さすが道三の子にて候」と評価を改めたと『大かうさまくんきのうち』は伝えている。下剋上で一国を奪いながら、最期はその実子に討たれたその生涯は、戦国時代の非情と無常を今に伝えている。





