第二次小豆坂の戦い
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織田軍、矢作川を渡河
織田信秀は庶長子・信広を先鋒として約4,000の兵を率い、安祥城から出陣。矢作川を渡河して上和田に着陣した
織田軍の攻勢
織田軍は勢いよく攻め込み、当初は今川軍を押し込んだ。「小豆坂七本槍」と称される織田方の勇将たちが奮戦したとも伝わる
太原雪斎の伏兵戦術
太原雪斎はあらかじめ伏兵を配置しており、織田軍が攻勢に出て陣形が伸びきったところで伏兵が一斉に襲いかかった
織田軍の総崩れ
伏兵の奇襲を受けた織田軍は態勢を立て直すことができず総崩れとなった。織田信秀は敗走し、尾張に撤退した
概要
第二次小豆坂の戦いは、天文17年(1548年)3月19日に三河国小豆坂(現在の愛知県岡崎市)で行われた合戦。駿河の今川義元と尾張の織田信秀が三河国の支配権をめぐって激突し、太原雪斎率いる今川軍が伏兵戦術で織田軍を撃破した。この勝利により今川氏は三河国における優位を確立し、翌年の安祥城攻略とあわせて三河を完全に支配下に収めた。
背景
三河をめぐる今川・織田の争い
今川義元は天文5年(1536年)の花倉の乱で家督を継承した後、三河国への進出を本格化させた。三河の有力国人・松平広忠は今川氏に従属し、今川方の勢力圏は西へと拡大していった。
一方、尾張の織田信秀もまた三河への進出を狙っており、天文9年(1540年)に安祥城を攻略して三河西部に橋頭堡を確保した。三河をめぐる今川・織田の対立は年を追うごとに激しさを増し、両者の衝突は避けられない情勢となっていた。
織田信秀の攻勢
天文16年(1547年)、松平広忠が嫡男・竹千代(後の徳川家康)を今川氏への人質として駿府に送ろうとしたが、途中で田原城主・戸田康光の裏切りにより竹千代は織田方に引き渡された。この事件は今川・松平と織田の対立を一層深刻なものにした。
織田信秀は三河の支配権を確立すべく、安祥城を拠点として積極的な軍事行動を続けていた。
戦いの経過
両軍の布陣
天文17年3月、織田信秀は庶長子・織田信広を先鋒とし、約4,000の兵を率いて安祥城から出撃。矢作川を渡河して三河国上和田に着陣した。
これに対し今川義元は、太原雪斎を総大将、朝比奈泰能を副将として約1万の兵を出陣させた。義元自身は後方で全体の指揮を執った。
織田軍の攻勢と伏兵
合戦は小豆坂の丘陵地帯で始まった。序盤は織田軍が勢いよく攻め込み、今川軍を押し込む展開となった。「小豆坂七本槍」と称される織田方の勇将たちが奮戦したと伝わる。
しかし太原雪斎はあらかじめ周辺に伏兵を配置していた。織田軍が攻勢に出て陣形が伸びきったところで、雪斎の合図により伏兵が一斉に襲いかかった。
織田軍の敗走
不意を突かれた織田軍は態勢を立て直すことができず、総崩れとなった。織田信秀は辛くも戦場を脱出し、尾張に撤退した。
影響
今川氏の三河支配確立
第二次小豆坂の戦いでの勝利は、三河国における今川氏の軍事的優位を決定づけた。翌天文18年(1549年)には太原雪斎が織田方の安祥城を攻略し、城主・織田信広を捕虜とした。
信広と松平竹千代(後の徳川家康)の人質交換が成立し、竹千代は駿府に送られた。これにより松平氏は完全に今川氏の支配下に入り、義元は駿河・遠江・三河の東海三国を支配する大大名となった。
織田氏への影響
敗北した織田信秀は三河からの撤退を余儀なくされ、以後は尾張国内の統一に注力した。信秀は天文20年(1551年)に死去し、織田家の家督は嫡男・信長が継いだ。後に信長が桶狭間の戦いで義元を討つのは、それから12年後のことである。
史料と研究
第二次小豆坂の戦いについては、今川義元が合戦の功労者に与えた感謝状が残されており、戦いの実在は確実とされている。一方、天文11年(1542年)に起きたとされる第一次小豆坂の戦いについては、同時代の一次史料に記録がなく、実在を疑問視する研究者もいる。
「小豆坂七本槍」についても第一次・第二次のどちらに関するものかは諸説あり、顔ぶれも史料により異なっている。
最終更新日: 2026年03月08日



