備中高松城の戦い
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秀吉出陣
羽柴秀吉が姫路城から備中へ向けて約20,000人で出陣
高松城包囲
宇喜多勢を加えた約30,000人で備中高松城を包囲し、竜王山に布陣
攻撃失敗
宇喜多勢を先鋒に攻撃するが、城兵の逆襲を受け撤退
水攻め決定
低湿地の平城という高松城の地形を逆手に取り、水攻めを決定
築堤工事
門前村から蛙ヶ鼻までの長堤を築き、足守川の水を堰き止める。12日間で堤防が完成
毛利援軍到着
毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らが救援に到着するが、湖を前に動けず対峙
本能寺の変を知る
秀吉方が明智光秀から毛利方へ向かう使者を捕らえ、信長横死を知る
和睦成立
秀吉は信長の死を隠して講和を急ぎ、割地と清水宗治自刃を条件に和睦を成立させる
清水宗治自刃
宗治は兄・宗知、弟・宗忠、末近信賀らと共に小舟で自刃。城兵は助命される
中国大返し
秀吉は高松城に杉原家次を置き、山陽道を東へ急行して明智光秀討伐へ向かう
概要
備中高松城の戦いは、天正10年(1582年)、羽柴秀吉が毛利氏配下の清水宗治が守る備中高松城を攻略した攻城戦である。高松城は低湿地を利用した平城で、秀吉は足守川を堰き止める大規模な水攻めによって城を孤立させた。
城主・清水宗治は籠城して抵抗し、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らも救援に到着した。しかし堤防によって生まれた湖を前に毛利勢は動けず、戦線は膠着した。
この攻城戦の最中に本能寺の変が起こった。秀吉は信長横死の情報を秘して毛利氏と急ぎ和睦し、清水宗治の自刃と城兵助命を条件に戦いを終結させた。その直後、秀吉は山陽道を東へ急行し、中国大返しから山崎の戦いへと進む。
背景
備中国は、三村氏の衰退後に毛利氏の勢力圏へ組み込まれていた。清水宗治も当初は三村氏に関わる立場から、のち毛利氏に属して備中高松城主となった。
織田信長は石山本願寺や足利義昭を支える毛利氏を屈服させるため、羽柴秀吉に中国攻めを命じた。秀吉は播磨を平定した後、但馬・因幡へ進み、鳥取城を落として山陰道方面にも圧力をかけた。
天正10年(1582年)、備前の宇喜多氏を支える必要もあり、秀吉は備中へ出陣する。毛利氏は備中七城を防衛線とし、その中核の一つが備中高松城であった。
戦いの経過
高松城包囲
天正10年3月15日、秀吉は姫路城から約20,000人を率いて備中へ向かった。宇喜多勢約10,000人を加え、総勢約30,000人で備中へ入り、4月15日に高松城を包囲した。
高松城は低湿地を利用した沼城で、清水宗治以下3,000から5,000余の兵が籠もっていた。秀吉は蜂須賀家政・黒田官兵衛を使者として降伏条件を示したが、宗治は応じなかった。
4月27日、秀吉方は宇喜多勢を先鋒として攻撃を加えたが、城兵の逆襲を受けて撤退した。力攻めでは容易に落とせない状況を受け、秀吉は水攻めを選ぶ。
水攻め
5月1日、秀吉は水攻めを決定した。5月8日から、門前村から蛙ヶ鼻までの東南約4キロメートルにわたる堤防工事が始まる。築堤奉行には蜂須賀正勝が任じられ、宇喜多忠家は黒田官兵衛の指導のもと難所を担当した。
工事には兵や農民が動員され、高額な報酬が与えられた。堤防は5月19日までのわずか12日間で完成し、梅雨の雨による増水もあって高松城は湖に浮かぶ孤島のようになった。
城内では補給路が断たれ、兵糧も乏しくなり、城兵の士気は低下した。水攻めは、低湿地を利用した高松城の強みを逆に弱点へ変える策であった。
毛利援軍と膠着
毛利輝元は急報を受け、吉川元春・小早川隆景らと共に高松城救援へ向かった。資料には秀吉の書状で約50,000人、『惟任退治記』で80,000余とされる一方、実数は約10,000人とする説もある。
毛利輝元は猿掛城を本陣とし、吉川元春は岩崎山、小早川隆景は日差山に布陣した。しかし秀吉方の築いた湖が障害となり、さらに水軍の調略によって物資輸送も困難となったため、毛利勢は積極的に動けなかった。
本能寺の変と和睦
6月3日夜、秀吉方は明智光秀から毛利方に送られた使者を捕らえ、本能寺の変で信長が討たれたことを知る。秀吉はこの情報を毛利方に知られないよう徹底しつつ、早急に和睦をまとめる必要に迫られた。
6月3日深夜から4日にかけて、秀吉は安国寺恵瓊との会談で割地を譲歩しつつ、清水宗治の自刃を和睦条件とした。毛利方はやむなくこれを受け入れ、宗治も城兵と主家を救うため自らの命を差し出す決断をした。
6月4日、宗治は兄・清水宗知、弟・難波宗忠、援将・末近信賀らと共に小舟に乗り、秀吉方の前で自刃した。宗治の辞世は「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」と伝わる。
結果と影響
備中高松城は開城し、城兵は助命された。秀吉は高松城に杉原家次を留守居として置き、山陽道を東へ急行した。これが中国大返しであり、秀吉は山崎の戦いで明智光秀を破る。
毛利方が本能寺の変を知ったのは秀吉撤退後であった。吉川元春は追撃を主張したが、小早川隆景は誓紙を交わした以上、講和を守るべきだと主張し、輝元も追撃を断念した。
備中高松城の戦いは、単なる水攻めの成功にとどまらない。信長横死という政局の急変を受け、秀吉が毛利氏との戦線を短時間で収束させ、畿内へ戻ることを可能にした戦いである。この一連の判断と移動が、秀吉を天下人への道へ押し上げる転機となった。
最終更新日: 2026年05月24日

