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慶長5年9月7日〜9月15日(1600年)

大津城の戦い

おおつじょうのたたかい1600年10月21日
— 場所 —
大津城(現在の滋賀県大津市)
— 結果 —
西軍の勝利(大津城開城)。ただし開城が関ヶ原本戦と同日となり、戦略的価値は失われた
— 歴史的意義 —
関ヶ原の戦いの前哨戦。京極高次の籠城が立花宗茂ら西軍1万5千を9日間にわたり足止めし、本戦に参加させなかった。家康はこの功を高く評価し、高次に若狭一国を与えた
立花は諦めず 無敗の立花宗茂
書籍

立花は諦めず 無敗の立花宗茂

近衛龍春

角川文庫

— 戦場の位置 —

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尚、赫々たれ 立花宗茂残照
書籍

尚、赫々たれ 立花宗茂残照

羽鳥好之

早川書房

— 両軍 —
— 西軍(攻城方) —
指揮官
毛利元康西軍の大将。総大将・毛利輝元の叔父
兵力
約15,000人
損害
城方の抵抗で死傷者を出すも、9日間で開城させる
参加武将
立花宗茂攻城の主力。鉄砲戦術と大筒で城を追い詰めた
小早川秀包京町口を攻撃。宗茂の義兄弟
筑紫広門浜町口を攻撃
高橋直次浜町口を攻撃。宗茂の実弟
宗義智攻城軍に加わる
— 東軍(籠城方) —
指揮官
京極高次大津城主。東軍に通じて籠城。自身も槍傷を負って奮戦
兵力
約3,000人
損害
討死22名(高野山奥の院に供養碑が残る)。高次は剃髪して高野山へ
参加武将
山田大炊重臣。夜襲をかけて戦果を挙げる
赤尾伊豆守兵を率いて夜襲で奮戦
黒田伊予老臣。降伏を進言
新装版 孤闘 立花宗茂
書籍

新装版 孤闘 立花宗茂

上田秀人

中公文庫

— 戦いの経過 —
慶長5年6月18日

家康、大津城に立ち寄る

会津征伐に向かう徳川家康が大津城に立ち寄り、京極高次に後事を託す。高次は弟・高知と家臣・山田大炊を家康に従わせ、早くから東軍方の意思を固めていた

9月3日

高次、籠城を決意

一旦は西軍に応じる姿勢を見せていた高次が、嫡子を人質に出しつつ大津城に兵糧を集めて籠城を決意。東軍方として西軍を抑える旨を井伊直政に伝えた

9月7日

西軍、大津城を包囲

毛利元康を大将に、立花宗茂・小早川秀包・筑紫広門ら九州勢を中心とする総勢1万5千の西軍が大津城を包囲し、攻撃を開始した

9月11日夜〜12日

京極方の夜襲

赤尾伊豆守・山田大炊らが兵500を率いて夜襲をかけ、毛利・筑紫の陣に斬り込んだ。しかし宗茂はこれを予見しており、家臣の十時連貞が敵将3名を捕縛した

9月12日

立花勢の猛射

立花勢は土塁と竹束を築き、塹壕を掘って鉄砲を撃ち込んだ。1発分の火薬を束ねた「早込」を用いた立花の鉄砲隊は他家の3倍速で射撃し、城方は狭間を閉じて耐えるほかなかった

9月13日

二の丸まで突破・大筒の砲撃

立花勢の先鋒が城壁を破り、由布惟貞が一番乗りを果たして三の丸から二の丸まで突破。さらに長等山から城内へ大筒を撃ち込み、砲弾は天守に命中して城内は混乱した

9月14日

立花宗茂の助命の矢文

元康の降伏勧告を高次は退けたが、宗茂が高次の助命を保証する書状をしたため、家臣・世戸口政真が矢文で城内の馬印に命中させた。その厚情に感じ入った高次は、北政所の使者や老臣の説得もあり降伏を決意する

9月15日

開城、そして関ヶ原本戦

高次は剃髪して園城寺に入り、大津城を開城して高野山へ向かった。しかしこの日はまさに関ヶ原本戦の当日。城を落とした1万5千の西軍は本戦に間に合わず、戦果は無意味なものとなった

立花宗茂 戦国「最強」の武将
書籍

立花宗茂 戦国「最強」の武将

加来耕三

中公新書ラクレ

— 戦いの内容 —

概要

大津城の戦いは、慶長5年(1600年)9月7日から9月15日にかけて、近江国の大津城をめぐって行われた攻防戦である。関ヶ原の戦いの前哨戦と位置づけられる。

東軍に通じた大津城主・京極高次が約3千の兵で籠城し、これに毛利元康を大将とする立花宗茂・小早川秀包・筑紫広門ら九州勢を中心とした約1万5千の西軍が攻め寄せた。立花勢の鉄砲戦術や大筒の砲撃の前に城は9日間で開城に追い込まれたが、その日はまさに関ヶ原本戦の当日であった。

そのため西軍は、本来であれば関ヶ原に投入できたはずの1万5千の大軍を欠いたまま本戦に臨むことになる。大津城の落城という戦果は、その日のうちに戦略的な意味を失った。一方、自軍を大津に引きつけて関ヶ原へ向かわせなかった高次の働きは、戦後に徳川家康から高く評価されることになる。

背景

豊臣秀吉の死後、徳川家康と石田三成らの対立は、慶長5年の会津征伐を契機として表面化した。三成は家康が東国へ向かった隙をついて挙兵し、北陸・伊勢方面の平定に乗り出す。

大津城主・京極高次は、会津征伐に向かう家康が城に立ち寄った際に後事を託されており、早くから東軍方の意思を固めていた。しかし大津城の守りが手薄なことから、表向きは一旦西軍に応じる姿勢を見せ、嫡子を人質に出しつつ西軍の動きを東軍に通報していた。やがて好機と見るや、高次は突如として大津城に籠城し、東軍として西軍を抑える構えを明らかにする。

大津は琵琶湖の舟運基地であり、城下には東海道・中山道・西近江路が集まる交通の要衝であった。西軍が進出する越前・美濃・伊勢方面と本拠の上方を結ぶこの地を押さえられては困るため、西軍は急ぎ高次の籠城に対処する必要に迫られた。

戦いの経過

慶長5年(1600年)9月7日、毛利元康を大将とし、立花宗茂・小早川秀包・筑紫広門ら九州勢を中心とする総勢1万5千の西軍が大津城を包囲し、攻撃を開始した。9月11日の夜から12日の未明にかけて、京極方の赤尾伊豆守・山田大炊らが兵500を率いて夜襲をかけ戦果を挙げたが、宗茂はこれを予見しており、家臣の十時連貞が敵将3名を捕縛している。

攻防の主力となったのが立花勢であった。宗茂は土塁と竹束を築き、塹壕を掘って鉄砲を撃ち込ませた。1発分の火薬を竹筒に束ねた「早込」を用いた立花の鉄砲隊は、他家の3倍の速さで銃弾を浴びせ、城方は鉄砲狭間を閉じて耐えるほかなかった。9月13日には立花勢が三の丸から二の丸まで突破し、さらに長等山から城内へ大筒を撃ち込む。砲弾は天守に命中し、城内は大いに動揺した。

9月14日、毛利元康は降伏を勧めたが、高次は徹底抗戦の構えを崩さない。そこで宗茂が高次の助命を保証する書状をしたため、家臣の世戸口政真が矢文を放って城内に立つ高次の馬印に見事命中させた。その厚情に感じ入った高次は、淀殿・北政所が城内の女性たちのために送った使者の説得や、老臣・黒田伊予の進言もあって、ついに降伏を決意。9月15日、剃髪して園城寺に入り、大津城を開城して高野山へと向かった。

結果と影響

大津城の攻防は西軍の勝利に終わったが、開城した9月15日は関ヶ原本戦の当日であった。西軍は、本来ならば関ヶ原にあったはずの1万5千の兵力を欠いたまま東軍と戦うことになり、大津城の落城という戦果は、その日のうちに意味を失った。立花宗茂は開城後に草津まで進出したものの、そこで西軍の壊滅を知り、大坂城への撤退を余儀なくされる。戦後、宗茂は改易された。

一方、敗軍の将であるはずの京極高次は、まったく逆の運命をたどった。家康は、高次が立花宗茂ら西軍の精鋭を大津に引きつけ、関ヶ原へ向かわせなかった功績を高く評価する。戦後、高次は高野山から下山を促され、若狭一国8万5千石を与えられて国持大名となった。閨閥によって出世したと「蛍大名」と揶揄された高次は、大津での籠城によって自らの武名を示し、京極家再興の礎を築いたのである。

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PS5

— 問答 —
大津城の戦いはどんな戦い?
慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いの直前に近江・大津城をめぐって行われた攻防戦です。東軍に通じた城主・京極高次が約3千の兵で籠城し、毛利元康・立花宗茂ら約1万5千の西軍がこれを攻めました。9日間の激戦の末に城は開城しましたが、その日が関ヶ原本戦と同じ9月15日だったため、西軍はこの大軍を本戦に投入できませんでした。
なぜ大津城の戦いは重要なのか?
立花宗茂をはじめとする西軍1万5千を9日間も大津に釘付けにし、関ヶ原本戦に参加させなかったからです。もしこの精強な軍勢が関ヶ原に間に合っていれば、戦いの帰趨は変わっていたかもしれません。徳川家康は、自軍を大津に引きつけた高次の功績を高く評価し、敗者でありながら戦後に若狭一国8万5千石を与えて国持大名に取り立てました。
籠城した京極高次はその後どうなった?
開城後、高次は剃髪して高野山に入りましたが、関ヶ原で勝利した家康はその功を惜しんで下山を促し、若狭一国8万5千石を与えました。妹・竜子(松の丸殿)が秀吉の側室、正室・初(常高院)が淀殿の妹という閨閥から「蛍大名」と陰口された高次でしたが、大津での籠城によって武名を示し、京極家を国持大名として再興させたのです。
— 参考史料 —
関ヶ原合戦―戦国のいちばん長い日―二木謙一研究書
立花宗茂と立花家の武将たち中野等・穴井綾香研究書
京極高次・高知研究書

最終更新日: 2026年06月28日