浅井長政
※ 万福丸の母については、市の子か否か議論があり確定していない
両親
父
浅井久政
母
小野殿(阿古御料人)
正室・側室
正室
平井定武の娘
のち離縁
継室
市
織田信長の妹
側室
八重
七郎の母
子
嫡男
万福丸
浅井氏滅亡後に処刑
次男
万寿丸
福田寺住職
三男
喜八郎
京極氏に仕官
四男
円寿丸
長女
茶々
母: 市
豊臣秀吉側室
次女
初
母: 市
京極高次正室
三女
江
母: 市
徳川秀忠継室
庶子
七郎
母: 八重
八重の子
天文14年、浅井久政の嫡男として生まれる。幼名は猿夜叉
永禄2年正月、15歳で元服。六角義賢の偏諱を受けて賢政と名乗る
永禄2年4月、平井定武の娘である妻を離縁し、六角氏に反旗を翻す
永禄3年、16歳の初陣で六角義賢の軍を破り、自立への足がかりを得る
永禄3年10月頃、父・久政の隠居により浅井家の家督を継ぐ
永禄4年、六角氏に奪われた佐和山城を奪還し、磯野員昌を城将とする
永禄6年、六角氏の内紛に乗じて多賀・甲良方面へ勢力を拡大する
織田信長と同盟し、信長の妹・市を継室に迎える(時期は諸説あり)
永禄11年9月、観音寺城の戦いで六角氏を破り、信長の上洛に貢献する
元亀元年4月、越前へ侵攻した信長を裏切り、その背後を襲う
元亀元年6月28日、朝倉軍と共に織田・徳川連合軍と戦い敗れる
元亀元年9月、朝倉・延暦寺と連携し、坂本で森可成・織田信治らを討つ
元亀元年12月、朝廷の調停により信長と一旦講和する
元亀2年9月、連携していた延暦寺が信長に焼き討ちされ壊滅する
元亀3年9月、武田信玄が西上を開始し、長政・久政に出馬の書状を送る
元亀3年12月、朝倉義景が積雪を理由に越前へ撤退し、包囲網が緩む
天正元年7月、信長が3万の軍を率いて再び北近江へ攻め寄せる
天正元年8月、刀根坂の戦いで朝倉軍が壊滅し、一乗谷で朝倉氏が滅亡する
天正元年8月27日、小谷城で父・久政が自害する
天正元年9月1日、小谷城赤尾屋敷で自害する。享年29。浅井氏は滅亡した
※ 年齢は数え年で表記しています。数え年は生まれた年を1歳とし、元日を迎えるごとに加算する日本の伝統的な年齢の数え方です。
概要
浅井長政は、北近江を支配した戦国大名で、浅井氏三代(亮政・久政・長政)の最後の当主である。祖父・亮政が興した浅井氏は、長政の父・久政の代には南近江の六角氏に臣従していたが、長政は野良田の戦いで六角氏を破って自立し、北近江の戦国大名として浅井氏を再興した。
織田信長と同盟を結び、信長の妹・お市の方を妻に迎えた。しかし元亀元年(1570年)、信長が越前の朝倉義景を攻めると、長政は突如同盟を破棄して信長の背後を襲う(金ヶ崎の戦い)。続く姉川の戦いで織田・徳川連合軍に敗れた後も、朝倉氏・延暦寺・本願寺・武田信玄らと結んで信長包囲網の一翼を担い、数年にわたって信長と争った。
天正元年(1573年)、武田信玄の死によって包囲網が崩れると、信長は全力を北近江へ向けた。長政は本拠・小谷城に籠城して抵抗したが落城し、9月1日に自害した。享年29。長政とお市の方の三人の娘(浅井三姉妹)は、後に豊臣・京極・徳川の各家へ嫁ぎ、その血筋は江戸時代へと受け継がれた。
生涯
出生と元服
天文14年(1545年)、浅井久政の嫡男として生まれた。幼名は猿夜叉。当時の浅井氏は、初代・亮政の代に得た領地を六角氏との戦いで失い、六角氏に臣従していた。長政自身も母・小野殿と共に六角方の人質となっていたとされ、六角氏の観音寺城下で生まれたとする説もある。
永禄2年(1559年)正月、15歳で元服し、南近江の守護・六角義賢から偏諱を受けて賢政と名乗った。同じ頃、六角氏重臣・平井定武の娘を妻に迎えている。これらは、当時の浅井氏が六角氏に従属する立場にあったことを示している。
六角氏からの自立
永禄2年(1559年)4月頃、賢政は妻を離縁して平井定武のもとへ送り返した。これは六角氏との手切れの表明であり、六角義賢の攻撃を招いた。永禄3年(1560年)、六角義賢が浅井方へ寝返った高野瀬秀隆の肥田城を攻めると、16歳の賢政はこれを迎え撃ち、野良田の戦いで六角軍に勝利を収めた。これが初陣であった。
同年10月頃、父・久政が隠居し、賢政が家督を継いだ。永禄4年(1561年)には祖父・亮政の受領名を継いで備前守を名乗り、賢政から長政へと改名した。この「長」を織田信長からの偏諱とする説があるが、信長と長政は偏諱を与えるような主従関係ではなかったとして、これを否定する見方もある。
永禄6年(1563年)、六角氏では筆頭家臣・後藤賢豊が当主・義治に殺害される観音寺騒動が起こった。これにより六角氏を離れて浅井に仕える者が相次ぎ、長政は多賀・甲良方面へと勢力を広げていった。
織田信長との同盟
美濃の斎藤氏と対峙していた信長は、北近江の長政との同盟を求めた。両家は政略結婚で結ばれ、信長の妹・市が長政に嫁いだ。この婚姻の時期は、永禄2年から永禄11年まで諸説あって確定していない。信長は同盟の成立を喜び、本来は浅井側が用意するしきたりだった結婚費用を、自ら全額負担したと伝わる。
永禄11年(1568年)、信長が足利義昭を奉じて上洛すると、長政もこれに従って参陣した。観音寺城の戦いで六角義賢・義治を破り、信長の上洛を助けている。一方、上洛後に功のあった諸将へ恩賞が与えられたなかで、長政への行賞の記録はなく、これが後の離反の伏線になった可能性も指摘されている。
信長との決裂と姉川の戦い
元亀元年(1570年)4月、信長が徳川家康と共に越前の朝倉義景を攻めると、長政は突如として同盟を破棄し、織田・徳川軍の背後から攻めかかった。予期せぬ裏切りに窮地に陥った信長は、木下秀吉らの殿軍に助けられて辛くも京へ退いた(金ヶ崎の戦い)。裏切りの理由については、朝倉氏との関係を重んじたとする説のほか、信長への不信、信長の政権構想についていけなかったとする説など諸説あり、確定していない。
同年6月、長政は朝倉軍と共に、近江国姉川で織田・徳川連合軍と戦った(姉川の戦い)。浅井・朝倉軍は奮戦したが、最終的に織田・徳川連合軍が勝利した。この戦いで浅井方は、重臣・遠藤直経や長政の弟・浅井政之をはじめ、多くの有力武将を失った。
姉川の戦いの後も、長政は三好三人衆や本願寺、延暦寺らと結んで信長包囲網を形成した。同年9月の志賀の陣では、朝倉軍や延暦寺と連携して坂本で森可成・織田信治らを討ち取っている。しかし元亀2年(1571年)、長政と協力関係にあった延暦寺は、信長の比叡山焼き討ちによって壊滅した。
浅井氏の滅亡
元亀3年(1572年)、足利義昭の要請に応じて武田信玄が西上を開始し、長政・久政父子にも出馬を告げる書状を送った。信玄は三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍を破ったが、進軍中に病で急死し、武田軍は甲斐へ撤退した。これにより信長包囲網は崩れ、信長は大軍を北近江へ向けられるようになった。
天正元年(1573年)7月、信長は3万の軍で北近江へ攻め寄せた。長政の要請を受けた朝倉義景は2万の軍で救援に向かったが、織田軍に北近江の城を落とされ浅井家中の寝返りも相次ぐと、救援は不可能と判断して越前へ撤退する。信長はこれを追撃して刀根坂で朝倉軍を壊滅させ、そのまま越前へ攻め入って朝倉氏を滅ぼした。
返す刀で信長は全軍を浅井氏へ向け、本拠・小谷城を包囲した。信長は不破光治や木下秀吉を使者として降伏を勧めたが、長政は断り続けた。8月27日に父・久政が自害し、9月1日には長政も小谷城赤尾屋敷で自害した。享年29。北近江の戦国大名・浅井氏はここに滅亡した。
なお『信長公記』によれば、翌天正2年(1574年)正月、信長は宴席で薄濃(はくだみ)にした朝倉義景・浅井久政・長政の頭蓋骨を披露したと伝わる。これを信長の恨みの深さの象徴とする一方、敵将を弔い清めの場としたとする説もあり、髑髏杯で酒を飲んだという話は現在では作り話とされている。
評価
長政は、織田信長を二度までも窮地に追い込んだ武将として知られる。金ヶ崎での裏切りと姉川での抗戦は、信長の天下統一の歩みを一時的に大きく揺るがせた。一方で、なぜ強大な信長を敵に回す道を選んだのかは、史料からは一義的に説明できず、現在も議論が続いている。
長政の名を後世に伝えたのは、その血筋でもある。お市の方との間に生まれた三人の娘は、茶々が豊臣秀吉の側室・淀殿として豊臣秀頼を産み、初は京極高次に嫁いで常高院となり、江は徳川秀忠の継室・崇源院として三代将軍家光を産んだ。長政は徳川家光の外祖父にあたり、死後の寛永9年(1632年)には従三位・権中納言を追贈されている。滅亡した大名でありながら、その血は豊臣・徳川の双方へと受け継がれていった。
最終更新日: 2026年05月31日





