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従五位下 中務大輔 本多忠勝本
ほんだ ただかつ · 1548–1610

本多忠勝

ほんだ ただかつ
上総大多喜・伊勢桑名上総大多喜藩初代藩主・伊勢桑名藩初代藩主
— 誕生 —
1548年01月01日(天文17年)
三河国額田郡蔵前(現在の愛知県岡崎市西蔵前町)
出典: 天文17年。生まれた月日はわかっていない
— 死没 —
1610年12月03日(慶長15年)
伊勢国桑名(現在の三重県桑名市) · 病死
出典: 慶長15年10月18日。享年63
— 領域 —
上総大多喜・伊勢桑名
従五位下 中務大輔
風の槍 8
書籍

風の槍 8

NUMBER8

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— 家族 —

両親

父

本多忠高

母

小夜(植村氏義の娘)

配偶者

正室

於久の方

見星院

阿知和玄鉄の娘

側室

乙女の方

月量院

松下弥一の娘

子

長男

本多忠政

母: 於久の方

桑名藩2代藩主

次男

本多忠朝

母: 於久の方

大多喜藩主

長女

小松姫

母: 於久の方

真田信之正室

次女

もり姫

母: 於久の方

奥平家昌正室

女子

母: 乙女の方

本多信之室

女子

母: 乙女の方

松下重綱室

女子

母: 乙女の方

蒲生瀬兵衛室

風の槍 7
書籍

風の槍 7

NUMBER8

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— 年表 —

1548年01月
(1歳)
誕生

本多忠高の長男として、三河国額田郡の蔵前に生まれる。通称は平八郎で、本姓は藤原氏

1549年01月
(2歳)
父・忠高戦死

第三次安城合戦で父の忠高が討死し、以後は叔父の本多忠真に育てられた

1560年06月
(13歳)
初陣(大高城兵糧入れ)

永禄3年、13歳のとき、桶狭間の戦いに先立つ大高城への兵糧運びに加わり、これが初陣になったとされる

1563年09月
(16歳)
三河一向一揆

本多一族の多くが一揆の側につくなか、忠勝は信仰を一向宗から浄土宗に改めて家康のもとにとどまり、手柄を立てた

1566年01月
(19歳)
旗本先手役に抜擢

19歳で旗本先手役に取り立てられ、54騎の与力を預けられた。これ以後はいつも家康の居城のそばに住み、家康直属の部隊を率いて戦った

1570年07月
(23歳)
姉川の戦い

家康の本陣へ押し寄せる1万の朝倉軍に、ただ一騎で突っ込んだ。朝倉方の猛将・真柄十郎左衛門と一対一で戦い、その名を広く知られるようになる

1572年10月
(25歳)
一言坂の戦い

偵察に出た先で武田の本隊と出くわし、退却する味方の最後尾を大久保忠佐とともに受け持って、馬場信春の隊を食い止めた。敵の武田方からも、小杉左近が「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」という落書でその働きをたたえている

1573年01月
(25歳)
三方ヶ原の戦い

徳川軍の左翼を受け持ち、武田方の山県昌景の隊を押し返した

1573年10月
(26歳)
長篠城攻め

9月、榊原康政らとともに堀越で武田軍を打ち破り、手に入れた長篠城に入って守りについた

1575年06月
(28歳)
長篠の戦い

天正3年の長篠の戦いに加わった

1582年06月
(35歳)
本能寺の変・伊賀越え

家康に従って堺にいたときに本能寺の変が起きる。京都へ向かおうとする家康を思いとどまらせ、伊賀の山道を越えて三河へ帰らせた(伊賀越え)。途中の木津川では、渡り終えた船の底を槍で突き破り、追っ手に使わせなかったという

1584年05月
(37歳)
小牧・長久手の戦い

500の兵だけを連れて秀吉の大軍の前に出て、龍泉寺川ではひとり馬を川へ入れ、落ち着きはらって馬に水を飲ませた。この姿を見た秀吉は、家臣たちに忠勝を討たせなかったという

1586年01月
(39歳)
叙位・任官

徳川家が豊臣家に従った後、従五位下・中務大輔に任じられた。天正14年11月9日とする説と、天正16年4月とする説がある

1590年01月
(43歳)
上総大多喜10万石

家康が関東へ移ると、上総国大多喜で10万石を与えられた。榊原康政と並んで、徳川の家臣の中で2番目に大きな領地だった。安房の里見氏へのおさえとみられている

1600年09月
(53歳)
関ヶ原前哨戦

本戦に先立つ竹ヶ鼻城・岐阜城の攻撃に加わった。石田三成の重臣・島左近に敗れた中村一栄の隊が退くのを助け、井伊直政と名を連ねた書状で諸大名を東軍に誘う工作も担った

1600年10月
(53歳)
関ヶ原の戦い

本戦では少ない手勢で戦い抜き、90ほどの首を取った。戦後は、西軍についた真田昌幸・信繁父子の命を助けるよう、娘婿の真田信之とともに家康へ願い出た

1601年01月
(54歳)
伊勢桑名10万石

関ヶ原の手柄により、伊勢国桑名10万石へ移された。もとの領地の大多喜には、次男の忠朝が5万石で別の家を立てて入った

1604年01月
(57歳)
病にかかる

慶長9年頃から病気がちになり、隠居を願い出たが家康に引き止められた。本多正純ら政務にたけた若い側近が力を持つようになり、忠勝は幕府の中心から離れていく

1609年01月
(62歳)
隠居

慶長14年6月、家督を嫡男の忠政に譲り、第一線を退いた

1610年12月
(63歳)
死去

慶長15年10月18日、桑名で亡くなった。享年63。重臣の中根忠実と梶勝忠が後を追って自害し、忠勝の墓の両脇に葬られた

※ 年齢は数え年で表記しています。数え年は生まれた年を1歳とし、元日を迎えるごとに加算する日本の伝統的な年齢の数え方です。

風の槍 6
書籍

風の槍 6

NUMBER8

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— 人物紹介 —

概要

本多忠勝は、戦国時代の終わりから江戸時代の初めにかけての武将で、のちに大名となりました。徳川家康に仕え、後の世には徳川四天王・徳川三傑・徳川十六神将のいずれにも数えられています。最初に上総大多喜藩、ついで伊勢桑名藩の初代藩主となりました。

生涯に出た合戦は大小あわせて57にのぼりますが、一度も傷を負わなかったと伝えられます。名槍「蜻蛉切」を手に、姉川の戦いではただ一騎で敵の大軍へ突っ込み、小牧・長久手の戦いではわずか500の兵で秀吉の大軍の前に立ちはだかりました。その強さは徳川家の外でも評判で、秀吉は「日本第一、古今独歩の勇士」、信長は「花も実も兼ね備えた武将」と評しています。

生涯

生まれと初陣

忠勝は天文17年(1548年)、本多忠高の長男として三河国額田郡の蔵前に生まれました。翌年、父の忠高が第三次安城合戦で討死したため、叔父の本多忠真に育てられます。幼い頃から家康のそばに仕え、永禄3年(1560年)、13歳のときに初めて戦場に出ました。桶狭間の戦いに先立って行われた、大高城へ兵糧を運び込む作戦です。

永禄6年(1563年)に三河で一向一揆が起きると、本多一族の多くが一揆の側に回りました。そのなかで忠勝は信仰を一向宗から浄土宗に改め、家康の側にとどまって手柄を立てています。永禄9年(1566年)には19歳で旗本先手役に取り立てられ、54騎の与力を預けられました。これ以後の忠勝は、家康がどの城に移ってもその城下に住み、家康直属の部隊を率いて戦い続けます。

徳川四天王としての武勲

元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは、1万の朝倉軍が家康の本陣へ迫るなか、無茶とも思えるほどの勢いでただ一騎で敵中へ突っ込みました。このとき朝倉方の猛将・真柄十郎左衛門と一対一で戦い、忠勝の名は一気に知れ渡ります。

元亀3年(1572年)の一言坂の戦いでは、偵察に出た先で武田の本隊と出くわしました。退く味方の最後尾を大久保忠佐とともに受け持ち、馬場信春の隊を食い止めています。敵の武田方でも、小杉左近が「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」という落書を残して、その戦いぶりをたたえました。同じ年の12月、三方ヶ原の戦いでは徳川軍の左翼を任され、山県昌景の隊を押し返しています。

天正10年(1582年)に本能寺の変が起きたとき、家康は忠勝らわずかな供を連れて堺にいました。信長の後を追おうと京都へ向かいかける家康を忠勝がいさめ、伊賀の山道を抜けて三河へ帰る「伊賀越え」を選ばせたといいます。帰る途中の木津川では、渡り終えた船の底を槍の石突で突き破り、追っ手が使えないようにしたと伝わります。

小牧・長久手の戦い

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、忠勝は500の兵だけを連れて秀吉の大軍の前に出ました。さらに龍泉寺川ではただひとり馬を川に乗り入れ、敵の目の前で平然と馬に水を飲ませています。その姿を見た秀吉は攻めかかるのをためらいました。家臣たちが忠勝を討ち取るよう勧めても、秀吉は、徳川を滅ぼしたあかつきにはこの男を生け捕りにして自分の家臣にしたいと言い、手出しを許さなかったといいます。

天正18年(1590年)に家康が関東へ移ると、忠勝は上総国大多喜で10万石を与えられました。榊原康政と並び、徳川の家臣の中では2番目に大きな領地です。房総の里見氏を見張る役目があったとみられています。

関ヶ原から最期まで

関ヶ原の戦い(慶長5年・1600年)では、本戦の前に竹ヶ鼻城と岐阜城の攻撃に加わりました。井伊直政と名を連ねた書状を諸大名に送り、東軍へ引き込む工作にも力を尽くしています。本戦でも少ない手勢で戦い抜き、90ほどの首を取りました。戦いの後、西軍についた真田昌幸・信繁父子の命を助けるよう、娘婿の真田信之とともに家康へ願い出て、高野山のふもとでの謹慎という処分にとどめさせています。

翌慶長6年(1601年)、関ヶ原での働きにより伊勢国桑名10万石へ移りました。桑名に入った忠勝はすぐに城を修理し、町の区画を大きく改めて、東海道の宿場も整えています。そのため、いまでも桑名藩の基礎を築いた名君として慕われています。

慶長9年(1604年)頃から病気がちになり、政治の表舞台からは離れていきました。慶長14年(1609年)6月に家督を嫡男の忠政へ譲って隠居し、慶長15年(1610年)10月18日、桑名で亡くなります。享年63でした。重臣の中根忠実と梶勝忠の二人が、後を追って自害しています。

評価

忠勝の武勇は、同じ時代の名だたる武将たちからも認められていました。信長は武田氏を滅ぼした後、家臣たちに忠勝を「花も実も兼ね備えた武将である」と紹介し、秀吉は「日本第一、古今独歩の勇士」とほめています。秀吉はまた、西国の立花宗茂の強さを語るときに、東国で並ぶ者のない大将として忠勝の名を引き合いに出しました。

同い年の榊原康政とは仲がよく、天正元年(1573年)の長篠城攻めでは手柄を競い合っています。反対に、政務で家康に重用された本多正信のことは嫌っており、同じ本多の一族でもあの男とは何の関わりもない、とまで言い放ったといいます。

辞世の歌は「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば」です。晩年は恵まれなかったといわれますが、家康から受けた恩を思って死を惜しむこの歌には、最後まで変わらなかった主君への忠義がにじんでいます。

風の槍 5
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風の槍 5

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風の槍 4
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風の槍 4

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— 問答 —
問
なぜ本多忠勝は生涯無傷だったと伝えられている?
答
忠勝は大きな戦いから小さな戦いまで57の合戦に出ましたが、どの戦場でも傷ひとつ受けなかったといわれます。『藩翰譜』も「終に一所の手も負わず」と記しています。ただ、亡くなる数日前、小刀で持ち物に自分の名を彫っていて手元が狂い、左手を少し切ってしまいました。そのとき「本多忠勝も傷を負ったら終わりだな」とつぶやき、実際にほどなく世を去ったという話が伝わっています。
問
愛槍「蜻蛉切」とはどんな槍?
答
笹の葉のような形をした、刃の長さ43.8cmの大ぶりの槍です。穂先にとまったトンボが、触れただけで二つに切れてしまったという話が名前の由来です。「天下三名槍」の一つで、茎には「藤原正真作」と刻まれています。当時ふつうの長槍の柄は一丈半(約4.5m)でしたが、蜻蛉切は二丈あまり(約6m)もあったといわれます。年をとって力が落ちると、忠勝は柄を三尺(約90cm)あまり切り詰めたそうです。現在は静岡県沼津市の矢部家が所蔵しています。
問
徳川四天王とは?
答
家康の家臣の中でもとりわけ戦功の大きかった、本多忠勝・酒井忠次・榊原康政・井伊直政の4人をまとめた呼び名です。忠勝の強さは徳川家の外でも知られ、秀吉は「日本第一、古今独歩の勇士」、信長は「花も実も兼ね備えた武将」と評しました。
— 関連文献・史料 —
本多平八郎忠勝 家康軍団最強の武将加野厚志研究書
桑名藩郡義武研究書
関ヶ原の役と本多忠勝水野伍貴研究書
大多喜町史研究書
藩翰譜一次史料

最終更新日: 2026年05月10日