本多忠勝
両親
父
本多忠高
母
小夜(植村氏義の娘)
正室・側室
正室
於久の方
見星院
阿知和玄鉄の娘
側室
乙女の方
月量院
松下弥一の娘
子
長男
本多忠政
母: 於久の方
桑名藩2代藩主
次男
本多忠朝
母: 於久の方
大多喜藩主
長女
小松姫
母: 於久の方
真田信之正室
次女
もり姫
母: 於久の方
奥平家昌正室
女子
母: 乙女の方
本多信之室
女子
母: 乙女の方
松下重綱室
女子
母: 乙女の方
蒲生瀬兵衛室
三河国額田郡蔵前で本多忠高の長男として誕生。通称は平八郎。本姓は藤原氏
父・忠高が戦死し、叔父・本多忠真のもとで育てられる
13歳で桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れに参加し初陣を飾る
多くの本多一族が敵となる中、一向宗から浄土宗に改宗して家康側に残り武功を挙げた
19歳にして旗本先手役に抜擢され、与力54騎を付属される。以後、常に家康の居城の城下に住み旗本部隊の将として活躍
家康本陣に迫る朝倉軍1万に対して単騎駆けを敢行。朝倉軍の豪傑・真柄十郎左衛門との一騎討ちで勇名を馳せた
偵察隊として武田本軍と遭遇し、大久保忠佐と共に殿軍を務め馬場信春の部隊と奮戦。武田方の小杉左近から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と賞賛された
左翼を担い、武田軍の山県昌景隊と戦い撃退した
榊原康政らと共に堀越で武田軍を破り、獲得した長篠城に入って城を守った
長篠の戦いに参戦
堺に滞在中に本能寺の変の報を受ける。京都に行こうとする家康を諌めて「伊賀越え」を行わせた。帰路の木津川では渡し終わった船底を槍で突き破り、追手の使用を防いだ
わずか500名の兵を率いて秀吉の大軍の前に立ちはだかり、龍泉寺川で単騎乗り入れて悠々と馬の口を洗わせた。秀吉は忠勝を討つことを禁じたという
従五位下・中務大輔に叙位・任官された。時期は天正14年11月9日説と天正16年4月説がある
家康の関東移封に伴い、上総国大多喜に榊原康政と共に家臣団中第2位の10万石を与えられる。里見氏に対する備えとされた
竹ヶ鼻城攻めや岐阜城攻めに参戦。石田三成重臣・島左近に敗れた中村一栄隊の撤退を助け、井伊直政と連署で諸大名への東軍方への工作にも活躍した
本戦で奮戦し、わずかな手勢で90にも及ぶ首級を挙げた。真田昌幸・信繁親子の助命を娘婿の真田信之と共に嘆願した
関ヶ原の功績により伊勢国桑名10万石に移封。旧領の大多喜は次男・忠朝に別家5万石で与えられた
慶長9年頃から病にかかり、隠居を申し出るも家康に慰留された。本多正純ら吏僚派の台頭により幕府中枢からは遠ざかる
慶長14年6月、嫡男・忠政に家督を譲って隠居した
桑名にて死去。享年63。重臣の中根忠実と梶勝忠の両名が殉死し、忠勝の左右に埋葬された
※ 年齢は数え年で表記しています。数え年は生まれた年を1歳とし、元日を迎えるごとに加算する日本の伝統的な年齢の数え方です。
概要
本多忠勝は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川家康の家臣として、徳川四天王・徳川三傑・徳川十六神将の一人に数えられる。上総大多喜藩初代藩主、のちに伊勢桑名藩初代藩主。
生涯において参加した合戦は大小合わせて57回に及んだが、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと伝えられる。愛槍「蜻蛉切」を手に、姉川の戦いでの単騎駆けや小牧・長久手の戦いで500名の兵で秀吉の大軍に立ちはだかった逸話は特に名高い。豊臣秀吉からは「日本第一、古今独歩の勇士」、織田信長からは「花も実も兼ね備えた武将」と称された。
生涯
出生と初陣
天文17年(1548年)、三河国額田郡蔵前で本多忠高の長男として誕生した。翌年に父・忠高が戦死し、叔父・本多忠真のもとで育てられた。幼い頃から徳川家康に仕え、永禄3年(1560年)13歳の時に桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣を飾った。
永禄6年(1563年)の三河一向一揆では、多くの本多一族が敵となる中で、一向宗から浄土宗に改宗して家康側に残り武功を挙げた。永禄9年(1566年)には19歳にして旗本先手役に抜擢され、与力54騎を付属された。以後、忠勝は常に家康の居城の城下に住み、旗本部隊の将として活躍した。
徳川四天王としての武勲
元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは、家康本陣に迫る朝倉軍1万に対して無謀とも思える単騎駆けを敢行し、朝倉軍の豪傑・真柄十郎左衛門との一騎討ちで勇名を馳せた。
元亀3年(1572年)の一言坂の戦いでは、偵察隊として武田本軍と遭遇し、大久保忠佐と共に殿軍を務めて馬場信春の部隊と奮戦した。この時の戦いぶりを武田方の小杉左近から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と賞賛された。同年12月の三方ヶ原の戦いでは左翼を担い、山県昌景隊と戦い撃退している。
天正10年(1582年)の本能寺の変では、家康は忠勝ら少数の随行とともに堺に滞在していたが、家康が京都に行って信長の後を追おうと取り乱したのを忠勝が諌めて「伊賀越え」を行わせた。帰路の木津川では渡し終わった船底を槍の石突で突き破り、追手の使用を防いだという。
小牧・長久手の戦い
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、わずか500名の兵を率いて秀吉の大軍の前に立ちはだかり、龍泉寺川で単騎乗り入れて悠々と馬の口を洗わせた。この振舞いを見た秀吉は進撃をためらい、家臣が討ち取るべしと進言した際にも「徳川家を滅ぼした際には彼を生け捕って我が家人にすべきなり」と忠勝を討つことを禁じたという。
天正18年(1590年)、家康が関東に移封されると上総国大多喜に榊原康政と共に家臣団中第2位の10万石を与えられた。里見氏に対する備えとされている。
関ヶ原から最期まで
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、前哨戦の竹ヶ鼻城攻めや岐阜城攻めに参戦し、井伊直政と連署で諸大名への東軍方への工作にも活躍した。本戦でも奮戦し、わずかな手勢で90にも及ぶ首級を挙げた。戦後、真田昌幸・信繁親子の助命を娘婿の真田信之と共に嘆願し、高野山蟄居という処分に留めさせた。
慶長6年(1601年)、関ヶ原の功績により伊勢国桑名10万石に移封された。桑名では直ちに城郭を修築し、慶長の町割りを断行して東海道宿場の整備を行い、桑名藩創設の名君と仰がれた。
晩年は慶長9年(1604年)頃から病にかかり、幕府中枢からは遠ざかった。慶長14年(1609年)6月に嫡男・忠政に家督を譲って隠居し、慶長15年(1610年)10月18日に桑名で死去した。享年63。重臣の中根忠実と梶勝忠の両名が殉死した。
評価
忠勝の武勇は同時代の名将たちから高く評価された。織田信長は武田征伐後に「花も実も兼ね備えた武将である」と侍臣に紹介し、豊臣秀吉は「日本第一、古今独歩の勇士」と称した。また秀吉は「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」と勇将として引き合いに出している。
榊原康政とは同年齢で親友同士であり、天正元年の長篠城攻めでは武功を競い合っている。一方、吏僚派の本多正信のことは快く思わず「同じ本多一族でもあやつとは全く無関係である」と言い捨てている。
辞世の歌は「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば」で、晩年は不遇であったとされながらも、主君・家康への変わらぬ忠誠心の大きさを物語っている。
最終更新日: 2026年05月10日




