御館の乱
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上杉謙信の急死
謙信が後継者を明示しないまま春日山城で急死。養子の景勝と景虎の間で家督相続をめぐる争いが始まった
景勝、春日山城本丸を占拠
景勝がいち早く春日山城の本丸と金蔵・武器庫を押さえ、後継者であることを内外に宣言。景虎は関東管領館「御館」に立て籠もった
景虎の攻勢
景虎は御館に移って北条氏政に救援を要請し、約6,000の兵で春日山城を攻めるが撃退される。北条・武田・蘆名らが景虎支援に動いた
甲越同盟の締結
景勝は東上野の割譲と黄金を条件に武田勝頼と和睦。勝頼の妹・菊姫との婚約で後ろ盾を得て、最大の脅威を取り除いた
武田・北条勢の撤退
徳川家康の駿河侵攻を受けて武田勝頼が撤兵。北条勢も冬の到来と豪雪に阻まれ、越後深くへ進めぬまま引き上げた
御館の落城
景勝が総攻撃を下令。和議を求めて御館を出た上杉憲政と景虎の子・道満丸が景勝方に討たれ、御館は放火されて落城した
景虎の自害
御館を脱した景虎は鮫ヶ尾城に逃れるが、寝返った城主・堀江宗親に攻められて自害。景勝の勝利が決定づけられた
乱の終息
最後まで抵抗した本庄秀綱・神余親綱らも鎮圧され、乱は終息。景勝が名実ともに上杉氏の当主となった
概要
御館の乱は、天正6年(1578年)の上杉謙信の急死を機に、ともに謙信の養子であった上杉景勝と上杉景虎が家督をめぐって争った、越後を二分するお家騒動である。景勝が長尾政景の実子(謙信の甥)、景虎が北条氏康の実子という出自であった。
謙信が後継者を明確に定めないまま世を去ったため、二人の養子が正統な後継者の座を争うことになった。約1年にわたる内乱の末に景勝が勝利し、謙信の後継者として上杉氏の当主となった。一方、敗れた景虎と、彼を支えた前関東管領・上杉憲政らは滅び去った。
「御館」とは、謙信が関東管領・上杉憲政を越後に迎えた際、その居館として春日山城下に築いた関東管領館のことである。景虎がここに立て籠もったことから、この内乱は「御館の乱」と呼ばれる。
背景
謙信には実子がなく、家督継承についての遺志を明示する史料は残されていない。謙信は北条氏との越相同盟に基づいて北条氏康の子を養子に迎え、自身の初名「景虎」を与えていた。一方、姉の子である景勝には諱「景勝」と弾正少弼の官途を譲り、上杉一門衆の筆頭に位置づけていた。
このため、謙信が後継者として誰を想定していたかについては、景勝説・景虎説・二人並立説・未定説など諸説があり、確定していない。後継者が明示されないまま謙信が急死したことが、二人の養子による家督争いを引き起こすことになった。
戦いの経過
天正6年(1578年)3月に謙信が急死すると、景勝はただちに春日山城の本丸と金蔵・武器庫を押さえ、後継者であることを内外に宣言した。景虎は春日山城下の御館に立て籠もり、実家の北条氏や同盟者の武田勝頼、さらに奥羽の蘆名・伊達らに救援を求めた。当初は周辺の戦国大名がこぞって景虎を支援し、戦局は景虎方有利に進んだ。
形勢を覆したのが甲越同盟である。景勝は東上野の割譲と黄金の提供を条件に武田勝頼と和睦し、勝頼の妹・菊姫を正室に迎えることで後ろ盾を得た。これにより最大の脅威であった武田勢が中立に転じ、戦局は景勝方へ傾く。やがて徳川家康の駿河侵攻を受けて勝頼が撤兵し、北条勢も冬の豪雪に阻まれて越後深くへ進めぬまま引き上げた。
孤立した景虎は次第に追い詰められる。天正7年(1579年)、景勝の総攻撃によって御館は落城し、和議を求めて脱出した上杉憲政と景虎の子・道満丸も討たれた。景虎は鮫ヶ尾城へ逃れたが、寝返った城主・堀江宗親に攻められて自害。ここに景勝の勝利が決定づけられた。
結果と影響
乱は景勝の勝利に帰したが、勢力が拮抗した内乱であったため、上杉氏の軍事力は大きく衰えた。これにより、北陸を東進する織田信長の侵攻に苦慮することになる。また、戦後の恩賞が景勝の権力基盤である上田衆に偏ったことから武将間に深刻な対立が生まれ、不満を抱いた新発田重家が離反する火種ともなった。
さらに御館の乱は、武田氏の滅亡の遠因にもなった。景虎を見限って景勝と結んだ武田勝頼の行動を、北条氏政は同盟への背信とみなして甲相同盟を破棄。これにより武田氏は織田・徳川・北条を敵に回し、天正10年(1582年)の甲州征伐で滅亡する。緩衝地帯であった旧武田領が織田領となったことで、上杉氏もまた全方向を敵に囲まれ、崩壊寸前まで追い詰められることになった。
最終更新日: 2026年06月21日




