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天正6年(1578年)〜天正7年(1579年)

御館の乱

おたてのらん1578年04月19日
— 場所 —
御館・春日山城(現在の新潟県上越市)
— 結果 —
上杉景勝の勝利
— 歴史的意義 —
上杉謙信の死後、養子の景勝と景虎が家督を争った内乱。景勝が勝利して家督を継いだが、上杉氏の勢力は大きく衰退し、武田氏滅亡の遠因ともなった
上杉景勝(シリーズ・織豊大名の研究16)
書籍

上杉景勝(シリーズ・織豊大名の研究16)

阿部哲人

戎光祥出版

— 戦場の位置 —

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北条は退かず 御館の乱と天下争乱
書籍

北条は退かず 御館の乱と天下争乱

近衛龍春

角川文庫

— 両軍 —
— 景勝方 —
指揮官
上杉景勝謙信の養子。春日山城本丸を占拠し家督を主張
兵力
兵力不詳(春日山城本丸を占拠)
損害
戦後の恩賞争いで安田顕元らが自刃
参加武将
樋口兼続(後の直江兼続)景勝の側近として奔走
直江信綱謙信側近・与板城主
斎藤朝信謙信側近・赤田城主
甘粕長重(景持)景勝の傅役
新発田長敦揚北衆・武田との和睦の取次
本庄繁長揚北衆・本庄城主
上条政繁上杉一門(上条上杉氏当主)
— 景虎方 —
指揮官
上杉景虎謙信の養子(北条氏康の子)。御館に拠る
兵力
約6,000人(春日山城攻撃時)。北条・武田・蘆名の援軍を得る
損害
上杉景虎・上杉憲政・道満丸らが敗死
参加武将
上杉憲政前関東管領。景虎を支持
上杉景信上杉一門(古志長尾氏当主)
本庄秀綱謙信旗本・栃尾城主
北条高広上杉氏重臣・厩橋城主
神余親綱謙信側近・三条城主
武田勝頼当初景虎を支援するも、景勝と和睦して離脱
北条氏政景虎の実兄。小田原から救援を派遣
蘆名盛氏会津から越後へ侵攻
「東国の雄」上杉景勝 謙信の後継者、屈すれども滅びず
書籍

「東国の雄」上杉景勝 謙信の後継者、屈すれども滅びず

今福匡

角川新書

— 戦いの経過 —
天正6年3月13日

上杉謙信の急死

謙信が後継者を明示しないまま春日山城で急死。養子の景勝と景虎の間で家督相続をめぐる争いが始まった

3月24日

景勝、春日山城本丸を占拠

景勝がいち早く春日山城の本丸と金蔵・武器庫を押さえ、後継者であることを内外に宣言。景虎は関東管領館「御館」に立て籠もった

5月

景虎の攻勢

景虎は御館に移って北条氏政に救援を要請し、約6,000の兵で春日山城を攻めるが撃退される。北条・武田・蘆名らが景虎支援に動いた

6月

甲越同盟の締結

景勝は東上野の割譲と黄金を条件に武田勝頼と和睦。勝頼の妹・菊姫との婚約で後ろ盾を得て、最大の脅威を取り除いた

8月

武田・北条勢の撤退

徳川家康の駿河侵攻を受けて武田勝頼が撤兵。北条勢も冬の到来と豪雪に阻まれ、越後深くへ進めぬまま引き上げた

天正7年2月〜3月

御館の落城

景勝が総攻撃を下令。和議を求めて御館を出た上杉憲政と景虎の子・道満丸が景勝方に討たれ、御館は放火されて落城した

天正7年3月24日

景虎の自害

御館を脱した景虎は鮫ヶ尾城に逃れるが、寝返った城主・堀江宗親に攻められて自害。景勝の勝利が決定づけられた

天正8年

乱の終息

最後まで抵抗した本庄秀綱・神余親綱らも鎮圧され、乱は終息。景勝が名実ともに上杉氏の当主となった

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— 戦いの内容 —

概要

御館の乱は、天正6年(1578年)の上杉謙信の急死を機に、ともに謙信の養子であった上杉景勝と上杉景虎が家督をめぐって争った、越後を二分するお家騒動である。景勝が長尾政景の実子(謙信の甥)、景虎が北条氏康の実子という出自であった。

謙信が後継者を明確に定めないまま世を去ったため、二人の養子が正統な後継者の座を争うことになった。約1年にわたる内乱の末に景勝が勝利し、謙信の後継者として上杉氏の当主となった。一方、敗れた景虎と、彼を支えた前関東管領・上杉憲政らは滅び去った。

「御館」とは、謙信が関東管領・上杉憲政を越後に迎えた際、その居館として春日山城下に築いた関東管領館のことである。景虎がここに立て籠もったことから、この内乱は「御館の乱」と呼ばれる。

背景

謙信には実子がなく、家督継承についての遺志を明示する史料は残されていない。謙信は北条氏との越相同盟に基づいて北条氏康の子を養子に迎え、自身の初名「景虎」を与えていた。一方、姉の子である景勝には諱「景勝」と弾正少弼の官途を譲り、上杉一門衆の筆頭に位置づけていた。

このため、謙信が後継者として誰を想定していたかについては、景勝説・景虎説・二人並立説・未定説など諸説があり、確定していない。後継者が明示されないまま謙信が急死したことが、二人の養子による家督争いを引き起こすことになった。

戦いの経過

天正6年(1578年)3月に謙信が急死すると、景勝はただちに春日山城の本丸と金蔵・武器庫を押さえ、後継者であることを内外に宣言した。景虎は春日山城下の御館に立て籠もり、実家の北条氏や同盟者の武田勝頼、さらに奥羽の蘆名・伊達らに救援を求めた。当初は周辺の戦国大名がこぞって景虎を支援し、戦局は景虎方有利に進んだ。

形勢を覆したのが甲越同盟である。景勝は東上野の割譲と黄金の提供を条件に武田勝頼と和睦し、勝頼の妹・菊姫を正室に迎えることで後ろ盾を得た。これにより最大の脅威であった武田勢が中立に転じ、戦局は景勝方へ傾く。やがて徳川家康の駿河侵攻を受けて勝頼が撤兵し、北条勢も冬の豪雪に阻まれて越後深くへ進めぬまま引き上げた。

孤立した景虎は次第に追い詰められる。天正7年(1579年)、景勝の総攻撃によって御館は落城し、和議を求めて脱出した上杉憲政と景虎の子・道満丸も討たれた。景虎は鮫ヶ尾城へ逃れたが、寝返った城主・堀江宗親に攻められて自害。ここに景勝の勝利が決定づけられた。

結果と影響

乱は景勝の勝利に帰したが、勢力が拮抗した内乱であったため、上杉氏の軍事力は大きく衰えた。これにより、北陸を東進する織田信長の侵攻に苦慮することになる。また、戦後の恩賞が景勝の権力基盤である上田衆に偏ったことから武将間に深刻な対立が生まれ、不満を抱いた新発田重家が離反する火種ともなった。

さらに御館の乱は、武田氏の滅亡の遠因にもなった。景虎を見限って景勝と結んだ武田勝頼の行動を、北条氏政は同盟への背信とみなして甲相同盟を破棄。これにより武田氏は織田・徳川・北条を敵に回し、天正10年(1582年)の甲州征伐で滅亡する。緩衝地帯であった旧武田領が織田領となったことで、上杉氏もまた全方向を敵に囲まれ、崩壊寸前まで追い詰められることになった。

信長の野望・新生 公式ガイドブック
書籍

信長の野望・新生 公式ガイドブック

ファミ通書籍編集部

KADOKAWA

— 問答 —
御館の乱とは?
天正6年(1578年)の上杉謙信の急死後、ともに謙信の養子であった上杉景勝と上杉景虎が家督をめぐって争った越後のお家騒動です。景勝が勝利して上杉氏を継ぎました。「御館」とは、謙信が関東管領・上杉憲政を迎えるために春日山城下に築いた館の名で、景虎がここに立て籠もったことから乱の名となりました。
なぜ上杉景勝が勝てた?
景勝はいち早く春日山城の本丸と金蔵・武器庫を押さえて正統性と軍資金を確保しました。さらに、当初は景虎を支援していた武田勝頼に東上野の割譲と黄金を提示して甲越同盟を結び、最大の脅威を取り除いたことが決定的でした。景虎の実家・北条氏の援軍は遠方ゆえ手薄で、豪雪にも阻まれて十分に機能しませんでした。
御館の乱は周囲にどんな影響を与えた?
内乱で上杉氏の軍事力は大きく衰え、織田信長の北陸侵攻に苦しむことになります。また恩賞配分への不満から新発田重家の乱を招きました。さらに、武田勝頼が景虎を見限って景勝と結んだことが北条氏との同盟破棄につながり、武田氏が織田・徳川・北条に包囲されて滅亡する遠因にもなりました。
— 参考史料 —
上越市史 別編(上杉氏史料集)史料集
上杉景虎―謙信後継を狙った反主流派の盟主今福匡研究書
関東戦国史と御館の乱伊東潤・乃至政彦研究書

最終更新日: 2026年06月21日