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天正12年4月9日(長久手の戦い)

小牧・長久手の戦い

こまき ながくて の たたかい1584年05月18日
— 場所 —
尾張国(現在の愛知県小牧市・長久手市周辺)
— 結果 —
長久手の戦いは織田・徳川軍の勝利。最終的に秀吉と信雄・家康は和睦
— 歴史的意義 —
家康が秀吉に軍事的に屈服しなかったことで、後の天下取りの基盤となった戦い
小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相
書籍

小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相

平山優

角川新書

— 戦場の位置 —

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ゲーム

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コーエーテクモゲームス

PS5

— 両軍 —
— 羽柴軍 —
指揮官
羽柴秀吉総大将
兵力
約100,000人(全戦役合計)
損害
池田恒興・森長可・池田元助討死。長久手の戦い単独で死者2,500余人
参加武将
池田恒興犬山城占拠・三河中入り作戦、長久手で討死
森長可羽黒の戦い・三河中入り作戦、長久手で討死
堀秀政三河中入り作戦第三隊、桧ヶ根の戦いで徳川軍を撃退
羽柴秀次(三好信吉)三河中入り作戦第四隊、白山林で壊滅
羽柴秀長北伊勢方面で松ヶ島城を開城させる
池田元助恒興の嫡男、長久手で討死
滝川一益蟹江城を海上機動で占拠
九鬼嘉隆蟹江城攻略に安宅船で参加
— 織田・徳川軍 —
指揮官
徳川家康総大将
織田信雄共同指揮、秀吉と単独講和
兵力
約40,000人(全戦役合計)
損害
岩崎城守将・丹羽氏重討死。長久手の戦い単独で死者590余人
参加武将
酒井忠次羽黒の戦い・白山林の戦い
榊原康政白山林の戦い・桧ヶ根の戦い
本多忠勝500名で秀吉本隊の進軍を妨害
井伊直政長久手の戦いで左翼を担当
大須賀康高白山林・桧ヶ根の戦い
水野忠重白山林の戦い
丹羽氏次白山林の戦い
奥平信昌羽黒の戦い先鋒
永井直勝長久手で池田恒興を討ち取る
安藤直次長久手で池田元助を討ち取る
信長の野望・新生 公式ガイドブック
書籍

信長の野望・新生 公式ガイドブック

ファミ通書籍編集部

KADOKAWA

— 戦いの経過 —
3月13日(4月24日)

犬山城の占拠

織田氏譜代と見られていた池田恒興が突如羽柴軍に寝返り犬山城を占拠。家康は翌々日に小牧山城に入った

3月17日(4月28日)

羽黒の戦い

犬山城と連携しようとした森長可に対し、酒井忠次・奥平信昌ら5,000が奇襲。松平家忠の鉄砲隊の援護で森勢は敗走し、死者300余人を出した

3月下旬〜(5月上旬〜)

小牧における対陣

秀吉が30,000を率いて楽田に着陣。両軍が砦と土塁を構築し合い、挑発や小競り合いを除いて戦況は膠着状態に陥った

4月9日未明(5月18日)

白山林の戦い・岩崎城の戦い

池田恒興の献策による三河中入り作戦が発動。池田勢が岩崎城を攻め丹羽氏重が討死する一方、白山林で休息中の羽柴秀次勢に水野忠重・榊原康政らが奇襲を仕掛け壊滅させた

4月9日午前(5月18日)

長久手の戦い

岩崎城を占領した池田恒興・森長可と家康本隊が激突。森長可が狙撃で討死し、永井直勝が池田恒興を討ち取り、織田・徳川軍の勝利に終わった。秀吉は龍泉寺へ急行するも本多忠勝の500名に行軍を妨害された

6月16日(7月24日)

蟹江城合戦

滝川一益が九鬼嘉隆の安宅船と共に蟹江城を海上機動で占拠。織田信雄・徳川家康が即日反応し、7月3日に奪還した

11月12日(12月15日)

講和

秀吉は信雄に伊賀と伊勢半国の割譲を条件に和議を結んだ。家康も次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子として送り、和議を結んだ

— 戦いの内容 —

概要

小牧・長久手の戦いは、天正12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた全国規模の戦役である。尾張北部の小牧山城・犬山城・楽田城を中心に、尾張・美濃・伊勢・紀伊・和泉・摂津の各地で合戦が行われ、北陸・四国・関東でも連動した戦いが起きた。

長久手における局地戦では織田・徳川軍が池田恒興・森長可を討ち取る明確な勝利を収めたが、秀吉が信雄と単独講和し、家康も次男を秀吉の養子に出すことで戦役は終結した。この戦いで家康は秀吉に軍事的に屈服しなかったことにより「無形の声望」を得て、後年の天下取りの基盤を築いたとされる。

背景

天正10年(1582年)の本能寺の変後、清洲会議を経て主導権を握った羽柴秀吉は、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に勝利し、織田家旧臣の中で圧倒的な勢力を確立した。

しかし、秀吉に擁立されていた織田信雄との関係は次第に険悪化する。天正12年3月6日、信雄は親秀吉派の三家老(津川義冬・岡田重孝・浅井長時)を長島城で殺害。これに激怒した秀吉は信雄に対する出兵を決断した。一方、信雄は徳川家康と同盟を結び、紀州の雑賀衆・根来衆、四国の長宗我部元親、北陸の佐々成政、関東の北条氏政らが秀吉包囲網を形成した。

戦いの経過

犬山城の占拠と羽黒の戦い

天正12年3月13日、家康が清洲城に到着したその日、織田氏譜代の池田恒興が突如羽柴軍に寝返り犬山城を占拠した。家康はただちに小牧山城に入った。

3月17日、犬山と連携しようとした森長可の軍勢に対し、酒井忠次・奥平信昌ら5,000が奇襲。松平家忠の鉄砲隊の攻撃で森勢は敗走し、死者300余人を出した。

小牧における対陣

3月27日、秀吉が30,000を率いて犬山に着陣。両軍は砦と土塁の構築を進め、戦況は膠着状態に陥った。

三河中入り作戦と長久手の戦い

4月4日、池田恒興が秀吉に「兵を三河に出して空虚を襲えば家康は小牧を守れなくなる」と献策した。秀吉はこれを許可し、池田恒興5,000・森長可3,000・堀秀政3,000・羽柴秀次9,000の約20,000人で支隊を編成した。

しかし農民や伊賀衆からの情報で支隊の動きは家康に察知された。4月9日未明、白山林で休息中の羽柴秀次勢に水野忠重・榊原康政らが奇襲を仕掛けて壊滅させた。一方、池田恒興勢は岩崎城を攻め落としたが(守将・丹羽氏重討死)、家康本隊が迂回して堀秀政勢と池田・森勢を分断した。

午前10時頃、家康本隊と池田恒興・森長可が激突。戦闘は2時間余り続き、森長可が狙撃で討死、池田恒興も永井直勝に討たれ、池田元助も安藤直次に討ち取られた。羽柴軍の死者2,500余人に対し、織田・徳川軍の死者590余人であった。

各地の戦い

6月16日、滝川一益が九鬼嘉隆の安宅船と共に蟹江城を海上機動で占拠したが、信雄・家康が即日反応して奪還した。北伊勢では羽柴秀長が松ヶ島城を開城させ、美濃では竹ヶ鼻城・奥城が水攻めで攻略された。

北陸では佐々成政が末森城を攻撃したが前田利家の反撃で退却し、四国では長宗我部元親が讃岐平定を成し遂げた。

結果と影響

11月12日、秀吉は信雄に伊賀と伊勢半国の割譲を条件に和議を結んだ。家康も次男・於義丸(のちの結城秀康)を秀吉の養子として大坂へ送り、和議に応じた。

信雄・家康が秀吉と講和したことで包囲網は瓦解し、雑賀衆・根来衆や長宗我部元親は孤立して翌年までに制圧された。佐々成政も富山の役で降伏した。

その後、天正大地震で秀吉の家康征伐計画が頓挫し、旭姫との婚姻や大政所の人質提供を経て、天正14年(1586年)に家康は上洛して秀吉に臣従した。しかし家康が軍事的に屈服しなかったことは、豊臣政権ナンバー2の座を確保する基盤となり、後の天下取りへの道を開いた。

— 問答 —
小牧・長久手の戦いの勝者はどちらだった?
長久手の局地戦では池田恒興・森長可を討ち取った織田・徳川軍が明確な戦術的勝利を収めました。しかし戦役全体としては、秀吉が信雄と単独講和を結び、家康も次男を秀吉の養子に出すことで和議を結んでおり、政治的には秀吉が優位に立ちました。頼山陽の『日本外史』では「家康の天下を取る、大坂に在らずして関ヶ原にあり、関ヶ原に在らずして小牧にあり」と評されています。
三河中入り作戦とは?
小牧で膠着状態となった戦況を打開するため、池田恒興が秀吉に献策した作戦です。兵を三河に出して空虚を襲い放火すれば、家康は小牧を守れなくなるという狙いでした。池田恒興5,000、森長可3,000、堀秀政3,000、羽柴秀次9,000の約20,000人の支隊が編成されましたが、農民や伊賀衆からの情報で家康に動きを察知され、長久手で壊滅的な敗北を喫しました。
本多忠勝が秀吉の大軍に立ちはだかったのはいつ?
長久手の戦い当日、秀吉が3万の軍勢を率いて戦場近くの龍泉寺へ急行した際、本多忠勝がわずか500名で行軍を妨害しました。ただし、忠勝と秀吉本隊が対峙した日については、秀吉の書状写や忠勝の書状写から五月朔日(5月1日)であった可能性も指摘されています。
— 参考史料 —
日本戦史 小牧役参謀本部研究書
秀吉の天下統一戦争小和田哲男研究書
長久手町史研究書
小牧・長久手の戦いの構造 戦場論藤田達生 編研究書

最終更新日: 2026年05月10日