武田勝頼
※ 出典の系譜では貞姫以下の子女は継室・桂林院の項に列挙されるが、生母には不詳な点が多いため、本図では信勝以外の生母表記を省いた。※1 本光信継庵主(1582年-1655年)の母は高畑氏(『高野山引導院過去帳』)
※ 男子は嫡男・信勝のほか、次男は早世、三男・四男は出家と伝わる
※2 遺児・千徳丸は重臣・秋山信藤・長慶父子に奉じられ武蔵国瓦曽根村に潜居した後、早世したと伝わる
※3 実子に望月信永室、養子に六角次郎室・若狭武田五郎室がいたとされる
※ 娘の貞姫は武田氏滅亡の際、信玄の娘・松姫に連れられて武蔵国八王子へ落ち延び、のちに高家旗本・宮原義久の正室となった
両親
父
武田信玄
母
諏訪御料人
正室・側室
正室
龍勝院
織田信長の養女
継室
北条夫人
桂林院
北条氏康の娘
子
嫡男
武田信勝
母: 龍勝院
天目山で自害
養女
(養子・養女)
六角次郎室
養女とされる
養女
(養子・養女)
若狭武田五郎室
養女とされる
貞姫
武性院斎理周哲大童子
武田勝親
本光信継庵主
林葉大姉
女子
貞光大姉
千徳丸
早世
女子
天文15年、武田晴信(信玄)の四男(庶子)として誕生。母は信濃諏訪領主・諏訪頼重の娘・諏訪御料人。生誕地や生誕月日は不明
弘治元年、母・諏訪御料人が死去(高遠建福寺の墓碑銘による)。勝頼は躑躅ヶ崎館で母とともに育ったと考えられている
永禄4年6月、母方の諏訪家の名跡を継ぎ「諏訪四郎勝頼」と名乗る。諏訪氏の通字「頼」を用い、武田氏の通字「信」を継承していない点が注目される。跡部重政ら8名の家臣団を付けられて親族衆に列し、城代・秋山虎繁に代わって信濃高遠城主となった。入城に際しては馬場信春が城の改修を行った
永禄6年、上野箕輪城攻め(武蔵松山城攻めとも)で初陣。物見から帰る長野氏家臣・藤井豊後を追撃し、城外椿山で組討の末に討ち取った
永禄8年、異母兄で武田氏後継者の武田義信の家臣らが信玄暗殺の密謀により処刑され、義信自身も幽閉される。武田氏の後継者問題が浮上した
永禄8年11月、織田信長の養女(龍勝院)との婚礼が進められる。信玄が織田氏と結んで東海方面への侵攻を具体化する中での縁組であった
永禄10年、高遠城で正室・龍勝院との間に嫡男・武王丸(武田信勝)が誕生。同年12月には異母妹・松姫と信長の嫡男・織田信忠の婚約が成立した
永禄12年、武蔵滝山城攻めで北条氏照の家老と3度槍を合わせたとされ、小田原城攻めからの撤退戦(三増峠の戦い)では殿を務めた
永禄12年、武田信豊とともに駿河蒲原城を攻め落とす。信玄は「人のなすところではない。あまつさえ味方は一人も損害が出なかった」と書き送り激賞した
元亀元年1月、花沢城を攻めて開城させる。同年4月、信玄は将軍・足利義昭に勝頼への官途と偏諱の授与を申請したが却下された
元亀2年2月に甲府へ召還され、叔父・武田信廉が高遠城主となる。同年9月16日に正室・龍勝院が死去し、勝頼は高野山成慶院で供養を行った
元亀3年10月に信玄が西上作戦を開始。勝頼は武田信豊・穴山信君とともに大将を務め、11月に徳川方の遠江二俣城を攻略した
元亀4年4月12日、信玄が西上作戦の途上で病死し、家督を相続して甲斐武田氏第20代当主となる。表向きは信玄の死を隠して隠居と発表された
天正2年、織田領の東美濃へ侵攻し、明知城などを攻略。織田信長は嫡男・信忠とともに後詰に出陣したが、到着前に明知城が落ちたため岐阜へ撤退した
天正2年6月、遠江の徳川領に侵入し、信玄も落とせなかった高天神城を陥落させて東遠江をほぼ平定。9月には浜松城下に放火した
天正3年5月21日、長篠城救援に来た織田・徳川連合軍と設楽原で決戦。山県昌景・馬場信春・内藤昌秀・真田信綱ら宿将を多数失う大敗を喫した
紀伊に亡命していた将軍・足利義昭の呼びかけ(甲相越三和)に応じ、10月中に上杉謙信との和睦が成立。敗戦後の外交状況の改善に成功した
天正3年11月、織田信忠率いる5万の軍勢により東美濃の岩村城が陥落し、秋山虎繁は処刑される。12月24日には遠江二俣城が開城し、高天神城が孤立した
天正4年9月16日、毛利輝元に6か条の軍役条目を送り、足利義昭を庇護する毛利氏との間で同盟が成立した
天正5年正月22日、北条氏政の妹(北条夫人)を後室に迎え、甲相同盟を強化した(輿入れ時期には天正4年説もある)
天正8年9月、東上野へ出陣して新田金山城を攻め、膳城を落とす。『甲陽軍鑑』によれば平服で視察中に城兵の襲撃を受け、そのまま反撃して落城させたという
天正9年正月、韮崎に新府城を築城し、躑躅ヶ崎館のある甲府からの本拠移転を開始した
天正9年3月22日、徳川軍の攻撃により高天神城が落城。信長との和睦(甲江和与)を模索していた勝頼は後詰を派遣できず、武田氏の威信は致命的に失墜し、国人衆は大きく動揺した
天正9年12月24日、未完成の新府城へ本拠を移した。信長との和睦交渉は続けられたが、信長は朝廷に働きかけて勝頼を「東夷(朝敵)」と認めさせ、和睦を黙殺した
天正10年2月、信玄の娘婿・木曾義昌が織田方へ離反。これを契機に織田信忠・金森長近・徳川家康・北条氏直が武田領へ侵攻を開始した(甲州征伐)。江尻城代・穴山信君らも離反し、伊那戦線は崩壊した
天正10年3月3日、未完成の新府城に放火して退去し、小山田信茂の居城・岩殿城を目指す。しかし信茂が織田方への投降に転じたため進路を塞がれ、一行は天目山棲雲寺を目指した
天正10年3月11日、田野で滝川一益の追手に捕捉され、嫡男・信勝、継室・北条夫人とともに自害(田野合戦)。享年37。これにより戦国大名としての甲斐武田氏は滅亡した
※ 年齢は数え年で表記しています。数え年は生まれた年を1歳とし、元日を迎えるごとに加算する日本の伝統的な年齢の数え方です。
概要
武田勝頼は、戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国の戦国大名で、甲斐武田氏第20代当主。武田信玄の四男として生まれ、母方の諏訪氏を継いで「諏訪四郎勝頼」と名乗り、信濃高遠城主を務めた。長兄・武田義信の廃嫡により世子となり、元亀4年(1573年)の信玄の死を受けて家督を相続した。
家督相続後は父の領国拡大方針を継承して東美濃・遠江へ外征し、信玄も落とせなかった高天神城を陥落させるなど武威を示した。しかし天正3年(1575年)の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗し、山県昌景・馬場信春ら信玄以来の宿将を多数失う。その後は上杉氏との甲越同盟や佐竹氏との甲佐同盟によって領国の再建を図り、一時は武田氏最大規模の領国を築いたが、御館の乱を契機とする甲相同盟の破綻により織田・徳川・北条の包囲を受けることになった。
新府城への本拠移転や織田氏との和睦(甲江和与)の模索もむなしく、天正10年(1582年)、織田信長の甲州征伐を受けて重臣たちの離反が相次ぎ、勝頼は嫡男・信勝とともに天目山への途上の田野で自害した。これにより平安時代から続く戦国大名としての甲斐武田氏は滅亡した。江戸時代以降「家を滅ぼした暗愚の将」という評価が定着したが、近年では外交・内政の両面から再評価が進んでいる。
生涯
出生と諏訪家相続
天文15年(1546年)、武田晴信(信玄)の四男として誕生した。生誕地や生誕月日は伝わっていない。母は、かつて武田家と同盟関係にあった信濃諏訪領主・諏訪頼重の娘・諏訪御料人である。信玄は天文11年(1542年)の諏訪侵攻で頼重ら諏訪一族を滅ぼした後、その娘を側室として甲府の躑躅ヶ崎館へ迎えていた。勝頼は躑躅ヶ崎館で母とともに育ったと考えられているが、乳母や傅役など幼年期の事情は史料に見えない。母は弘治元年(1555年)に死去している。
信玄は信濃支配にあたり、旧族に子女を入嗣させて懐柔する政策を取っていた。永禄4年(1561年)6月、勝頼は諏訪家の名跡を継いで諏訪氏の通字「頼」を名乗り、「諏訪四郎勝頼」となる。武田氏の通字「信」を継承していない点が注目される。勝頼は跡部重政ら8名の家臣団を付けられて親族衆に列し、城代・秋山虎繁に代わって信濃高遠城主となった。高遠城入城に際しては馬場信春が城の改修を行っている。
初陣と信玄時代の従軍
永禄6年(1563年)、上野箕輪城攻め(武蔵松山城攻めとも)で初陣を飾った。物見から帰る長野氏家臣・藤井豊後を追撃し、城外椿山で組討の末に討ち取ったと伝わる。その後も信玄晩年期の戦のほとんどに従軍し、永禄12年(1569年)の武蔵滝山城攻めでは北条氏照の家老と3度槍を合わせたとされ、小田原城攻めからの撤退戦(三増峠の戦い)では殿を務めた。同年には武田信豊とともに駿河蒲原城を攻め落とし、信玄から「人のなすところではない。あまつさえ味方は一人も損害が出なかった」と激賞されている。
義信事件と世子へ
永禄8年(1565年)、異母兄で武田氏後継者であった武田義信の家臣らが信玄暗殺の密謀により処刑され、義信自身も幽閉される(義信事件)。義信は2年後に病死した。同年11月には勝頼と織田信長の養女(龍勝院)との婚礼が進められており、永禄10年(1567年)には高遠城で嫡男・武王丸(武田信勝)が誕生している。次兄・海野信親は盲目のため出家し、三兄・信之は夭逝していたことから、勝頼が信玄の指名で後継者と定められたと考えられてきたが、近年では家中に異母弟・仁科盛信を擁立する動きがあったのではないかとする説も浮上している。
元亀元年(1570年)4月、信玄は将軍・足利義昭に勝頼への官途と偏諱の授与を申請したが却下された。このため勝頼には正式な官位がない。元亀2年(1571年)2月に勝頼は甲府へ召還され、同年9月には正室・龍勝院が死去した。
家督相続と外征
元亀3年(1572年)10月、信玄は将軍・足利義昭の信長包囲網に参加して西上作戦を開始する。勝頼は武田信豊・穴山信君とともに大将を務め、遠江二俣城を攻略し、12月の三方ヶ原の戦いでも織田・徳川連合軍と戦った。しかし元亀4年(1573年)4月12日、信玄が西上作戦の途上で病死する。勝頼は家督を相続して甲斐武田氏第20代当主となったが、表向きは信玄の死を隠し、隠居と発表された。
信玄の死により窮地を脱した織田信長は将軍・義昭を追放し、朝倉義景・浅井長政を滅ぼした。徳川家康も奥三河の奥平貞能・貞昌親子を寝返らせるなど反攻を開始する。これに対し勝頼は外征を実施し、天正2年(1574年)には東美濃へ侵攻して明知城などを攻略。同年6月には遠江へ侵入し、信玄も落とせなかった高天神城を陥落させて東遠江をほぼ平定した。
長篠の戦い
天正3年(1575年)、勝頼は徳川方に寝返った奥平親子を討伐するため三河へ侵入し、5月には奥平信昌の籠もる長篠城への攻撃を開始した。しかし長篠城は持ち堪え、織田信長・徳川家康の連合軍約3万8千が設楽原に到着して馬防柵を含む陣城の構築を始める。信玄以来の重鎮たちは撤退を進言したというが、勝頼は決戦を選択し、5月21日早朝に開戦した。
戦闘は約8時間に及んだが武田軍は総崩れとなり、馬場信春・山県昌景・内藤昌豊(昌秀)・原昌胤・真田信綱・昌輝兄弟ら多数の将士を失った。本戦に先立つ鳶ヶ巣山砦の攻防でも河窪信実・三枝昌貞らが戦死している。勝頼は菅沼定忠に助けられて一時武節城に籠もり、伊那郡へ退却した。この敗北で武田軍は1万人以上の死傷者を出したといわれる(1,000人程度とする説もある)。
敗戦後、織田・徳川軍の反攻はさらに強まり、同年11月には東美濃の岩村城が織田信忠の大軍により陥落、12月には遠江二俣城が開城して高天神城が孤立した。
外交の再建と御館の乱
長篠の敗戦後、勝頼は領国再建のため外交の強化に着手する。紀伊に亡命していた将軍・足利義昭が武田・北条・上杉三者の和睦(甲相越三和)を呼びかけると、勝頼はこれを受け入れ、天正3年(1575年)10月中に上杉謙信との和睦を成立させた。天正4年(1576年)には義昭を庇護する毛利輝元との間に甲芸同盟が成立。天正5年(1577年)正月には北条氏政の妹(北条夫人)を継室に迎え、甲相同盟を強化した。
天正6年(1578年)3月、上杉謙信が急死すると、養子の上杉景勝と上杉景虎(北条氏政の弟。遠縁とする説もある)の間で家督を巡る御館の乱が起こる。勝頼は氏政から景虎支援を要請されて越後へ出兵したが、景勝方から持ちかけられた和睦を受け入れ、両者の調停を試みた。しかし勝頼の帰国後に和睦は破綻し、天正7年(1579年)3月に景勝の勝利で乱は収束する。この経緯から北条氏との関係は険悪となり、同年9月に甲相同盟は破綻した。
北条氏は徳川家康と結び、武田氏は駿河で挟撃を受ける事態に陥る。勝頼は妹・菊姫を景勝に嫁がせて甲越同盟を結び、さらに佐竹義重との甲佐同盟や里見氏らとの連携によって北条氏に対抗した。上野方面では真田昌幸の活躍もあって沼田城などを攻略し、北条方を圧倒している。
新府城築城と甲江和与
天正9年(1581年)正月、勝頼は韮崎に新府城の築城を開始し、甲府からの本拠移転を図った。一方でこの頃、佐竹義重を介して織田信長との和睦(甲江和与)を模索しており、人質として武田氏に滞在していた織田信房(御坊丸)を織田氏へ返還している。しかし同年3月、徳川軍の攻撃で高天神城が窮地に陥った際、信長を刺激することを警戒した勝頼は後詰を派遣できず、城は落城した。高天神城を見殺しにしたことは武田氏の威信を致命的に失墜させ、織田・徳川方の調略により国人衆の動揺と造反を招くことになる。
信長は勝頼との和睦を黙殺し、朝廷に働きかけて勝頼を「東夷(朝敵)」と認めさせ、武田討伐の大義名分を固めていった。勝頼は同年12月に未完成の新府城へ移った。
甲州征伐と武田氏滅亡
天正10年(1582年)2月、信玄の娘婿で木曾口の防衛を担う木曾義昌が織田方へ離反した。これを契機に織田信忠・金森長近・徳川家康・北条氏直が四方から武田領へ侵攻を開始する(甲州征伐)。折しも浅間山が噴火し、東国の異変の前兆と考えられていたことも武田軍の動揺に拍車をかけた。伊那戦線は次々と崩壊し、駿河では江尻城代・穴山信君が離反。将兵は勝頼を見捨てて逃げ出し、抵抗を見せたのは弟・仁科盛信が籠城する高遠城だけであった。
3月3日、勝頼は未完成の新府城に放火して退去し、小山田信茂の居城・岩殿城を目指した。しかし信茂も織田方への投降に転じて進路を塞がれ、一行は武田氏ゆかりの天目山棲雲寺を目指す。3月11日、その途上の田野で滝川一益の追手に捕捉され、勝頼は嫡男・信勝、継室・北条夫人とともに自害した。享年37。辞世の句は「朧なる 月のほのかに 雲かすみ 晴て行衛の 西の山の端」と伝わる。これにより戦国大名としての甲斐武田氏は滅亡した。
勝頼父子の首級は京都の六条河原に晒された後、妙心寺に埋葬された。のちに徳川家康により菩提寺として景徳院が建てられ、信勝や北条夫人とともに菩提が祀られている。
評価
『甲陽軍鑑』は家を滅ぼす大将のタイプを4つに分け、勝頼を「強過ぎたる大将」の代表としている。一方で同書は勝頼を「弁舌明らかに、知勇は人に優れ、何事についても弱気になることを嫌う」とも評しており、父・信玄も勝頼の武勇を高く認めていた。織田信長は当初勝頼を軽く見ていたが、東美濃侵攻以降はその武勇を高く評価するようになり、甲州征伐の際も勝頼の決戦を警戒して信忠の過度の前進を諫めている。勝頼の首級と対面した信長は「日本にかくれなき弓取なれ共、運がつきさせ給いて、かくならせ給う物かな」と、勝頼は運がなかったという感想を漏らしたと『三河物語』は伝える。
江戸時代には、家を守り伝えることを最重要の徳目とする武家の通念と『甲陽軍鑑』の記述が結びつき、「家を滅ぼした暗愚の将」という評価が定着した。現代でも「典型的な三代目」とする酷評がある一方、笹本正治は勝頼の判断を「決して愚策ではなかった」と分析し、平山優は新府城の戦略的価値を高く評価するなど、肯定的な再評価も進んでいる。平山は武田氏滅亡の要因を長篠の敗戦ではなく、御館の乱を契機とする甲越同盟の締結と甲相同盟の破綻に求めており、武田遺臣の多くも同様の認識であった。2016年のNHK大河ドラマ『真田丸』以降は勝頼関連史跡を訪れる観光客が増えるなど、その人物像への関心が高まっている。
最終更新日: 2026年07月05日





