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天正17年6月5日

摺上原の戦い

すりあげはらのたたかい1589年07月17日
— 場所 —
摺上原(現在の福島県磐梯町・猪苗代町)
— 結果 —
伊達軍の大勝
— 歴史的意義 —
伊達政宗が蘆名氏を滅ぼし、南奥州の覇権を確立した決戦
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信長の野望・新生 公式ガイドブック
書籍

信長の野望・新生 公式ガイドブック

ファミ通書籍編集部

KADOKAWA

— 両軍 —
— 伊達軍 —
指揮官
伊達政宗総大将
兵力
約23,000人
損害
不明
参加武将
伊達成実三番隊大将
片倉景綱二番隊大将
猪苗代盛国先手大将(寝返り)
白石宗実四番隊大将
大内定綱左翼
片平親綱右翼
浜田景隆六番隊大将
— 蘆名軍 —
指揮官
蘆名義広総大将
兵力
約16,000人
損害
馬上300騎、雑兵あわせて約2,000人
参加武将
金上盛備重臣
佐瀬種常重臣
富田氏実先鋒
— 戦いの経過 —
合戦前(4〜5月)

伊達軍の戦略的機動

政宗は蘆名領を牽制しつつ相馬領に電撃侵攻し、相馬義胤の参戦を封じた。さらに猪苗代盛国の寝返りにより黒川城への直進路を確保した

6月5日早朝

両軍の対峙

伊達軍は猪苗代から西進。蘆名軍は日橋の北の丘に陣取り、猪苗代湖方面に東進してきたが、伊達軍の進撃を見て引き返し、摺上原に布陣した

6月5日午前

蘆名軍の善戦

先手の猪苗代盛国隊と二番の片倉景綱隊が蘆名軍に押し崩された。三番・伊達成実と四番・白石宗実が突進するも、蘆名義広の旗本に押し返された

6月5日午後

風向きの変化と伊達軍の逆転

旗本同士の戦いとなった頃、風が西から東に変わり形勢が逆転。伊達軍が一気に押し返し、蘆名軍は総崩れとなった。退却する蘆名勢の多くは日橋川で溺死した

6月10日

蘆名義広の逃亡

蘆名義広は黒川城を捨てて白河に逃走し、のちに佐竹家に戻った。戦国大名としての蘆名氏はここに滅亡した

6月11日

伊達政宗、黒川城に入城

政宗は会津・大沼・河沼・耶摩の四郡などを支配下に収め、南奥州の覇権を確立した

— 戦いの内容 —

概要

摺上原の戦いは、天正17年(1589年)6月5日に磐梯山裾野の摺上原(現在の福島県磐梯町・猪苗代町)で行われた、伊達政宗と蘆名義広の決戦。この合戦に勝利した政宗は蘆名氏を滅ぼし、南奥州の覇権を確立した。

背景

伊達・蘆名の対立

伊達氏と蘆名氏は長年にわたり同盟関係にあったが、天正12年(1584年)に政宗が家督を継ぐと関係は悪化した。蘆名盛隆が家臣に暗殺された後の後継者問題をめぐり、政宗は弟の小次郎を蘆名氏の当主に送り込もうと計画したが、佐竹義重の反対で失敗。代わりに蘆名亀王丸が当主となったが、天正14年(1586年)に亀王丸がわずか3歳で急死すると、佐竹義重は自分の子・義広を蘆名氏の当主に擁立した。

政宗への通告なく行われたこの擁立を、佐竹氏による伊達排除の意思と捉えた政宗は、全面対決を決意する。

惣無事令の無視

天正15年(1587年)、豊臣秀吉は関東・奥羽の諸大名に対して惣無事令(私戦禁止令)を発令した。しかし政宗はこれを無視して戦争を続行。天正16年(1588年)の大崎合戦や郡山合戦で苦境に立たされるも、大内定綱の調略成功や最上氏との停戦により体勢を立て直した。

戦いの経過

伊達軍の戦略的機動

天正17年(1589年)4月、政宗は岩城常隆の田村領侵攻に対応して出陣した。ところが蘆名方の片平親綱が内通すると、政宗は蘆名攻めの好機と判断。安子島城・高玉城を攻めて蘆名を牽制した後、突然北上して相馬領に侵攻し、駒ヶ嶺城・蓑首城を攻略した。相馬義胤は田村郡からの撤退を余儀なくされ、政宗は側面からの脅威を排除した。

猪苗代盛国の寝返り

6月1日、それまで態度を明らかにしていなかった猪苗代盛国が、人質を差し出して政宗に恭順した。これにより政宗は猪苗代を経由して直接黒川城に迫ることが可能となり、蘆名軍は東と北の両方面から挟撃される形となった。

決戦

6月5日、伊達軍は猪苗代盛国を先手、片倉景綱を二番、伊達成実を三番、白石宗実を四番とする陣立てで蘆名軍に対峙した。序盤は蘆名軍が善戦し、先手と二番隊を押し崩した。三番の成実と四番の宗実が突進するも義広の旗本に退けられ、旗本同士の激戦となった。

しかし、風が西から東に変わると形勢は一変。伊達軍が一気に押し返し、蘆名軍は総崩れとなった。退却する蘆名勢は日橋川で多くの将兵が溺死した。猪苗代盛国があらかじめ橋を落としていたためである。この合戦で蘆名方の戦死者は馬上300騎、雑兵あわせて約2,000人に及んだ。

結果と影響

蘆名氏の滅亡

6月10日夜、蘆名義広は黒川城を捨てて白河に逃走し、後に佐竹家に戻った。ここに戦国大名としての蘆名氏は滅亡した。政宗は6月11日に黒川城に入城し、会津・大沼・河沼・耶摩の四郡をはじめとする広大な領域を支配下に収めた。

南奥州の覇権確立

摺上原の勝利により、惣無事令を遵守して静観していた周辺諸氏が次々と伊達方に転じた。政宗は米沢城から黒川城に本拠を移し、出羽・陸奥にまたがる奥州屈指の大領国を築き上げた。

秀吉による没収

しかし、この領土拡大は秀吉の惣無事令に明確に違反するものであった。翌天正18年(1590年)の小田原征伐で政宗が秀吉に服属した際、会津を含む摺上原の戦いで獲得した所領はすべて没収された。政宗の奥州制覇は、わずか1年足らずの短い栄光であった。

— 問答 —
摺上原の戦いの勝因は?
猪苗代盛国の寝返りにより会津への直進路を確保できたこと、相馬氏の参戦を事前に封じた戦略的判断、そして合戦中の風向きの変化が主な勝因です。また、盛国が退路の日橋川の橋を落としていたことで蘆名軍の被害が拡大しました。
蘆名義広はなぜ敗れた?
蘆名義広は佐竹義重の子として蘆名家に養子入りした人物で、家中の掌握が不十分でした。猪苗代盛国をはじめとする蘆名旧臣の離反が相次ぎ、軍の結束を保てなかったことが敗因の一つです。
摺上原の戦い後、伊達政宗の領地はどうなった?
政宗は会津を含む南奥州一帯を支配する大領国を築きましたが、この拡大は豊臣秀吉の惣無事令に違反していました。翌年の小田原参陣で秀吉に服属した際、会津を含む新領地は没収されました。
— 参考史料 —
伊達政宗小林清治研究書
伊達政宗の研究小林清治研究書
伊達治家記録一次史料

最終更新日: 2026年03月15日