— 人物紹介 —
概要
真田昌幸は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。真田氏中興の祖・真田幸隆の三男として生まれ、武田信玄・勝頼の2代に仕えた後、武田氏滅亡後に自立して信濃上田を本拠とする戦国大名となった。
幼少期から武田信玄の人質・近習として育ち、信玄に「我が両眼の如き者」と称されるほど見出された。武田氏滅亡という乱世の激動の中で、上杉・北条・徳川・豊臣といった周囲の大勢力の間を巧みに渡り歩きながら、調略と外交で着実に所領を広げていった。その姿は秀吉から「表裏比興の者」と評されたが、これは当時の武将にとってはむしろ褒め言葉であった。
昌幸の名を不朽のものとしたのが、2度にわたる上田合戦である。第一次・第二次ともに、わずか2,000ほどの兵で徳川の大軍を撃退または翻弄し、徳川家康に「最も恐れられた武将」として記憶された。子に上田藩初代藩主・真田信之、大坂の陣で活躍した真田信繁(幸村)を持ち、真田氏を戦国大名へと押し上げた。
生涯
武田家臣としての出発
真田昌幸は天文16年(1547年)、信濃の在地領主・真田幸隆の三男として生まれた。同母の兄に信綱・昌輝がいたため、当初は家督を継ぐ立場になかった。天文22年(1553年)、7歳のときに武田信玄の人質として甲斐へ下り、奥近習衆に加えられる。
やがて信玄の母系・大井氏の支族である武藤氏の養子となり、武藤喜兵衛を称して足軽大将に任じられた。永禄12年(1569年)の三増峠の戦いや、元亀3年(1572年)の西上作戦・三方ヶ原の戦いに従軍。物見としての優れた働きから、信玄に曽根昌世とともに「我が両眼の如き者」と評されたという逸話が伝わる。父・幸隆に劣らぬ才を、信玄は早くから見抜いていた。
真田家の家督相続
元亀4年(1573年)に信玄が病没すると、昌幸は武田勝頼に仕えた。天正2年(1574年)には父・幸隆が死去するが、このとき真田家の家督は既に長兄・信綱が継いでいた。
ところが翌天正3年(1575年)の長篠の戦いで、長兄・信綱と次兄・昌輝がともに討死。昌幸は武藤氏から真田氏に復し、真田家の家督を相続することとなった。以後、勝頼のもとで上野沼田領への侵攻を担い、天正8年(1580年)には調略を駆使して沼田城を攻略するなど、上野方面で着実に勢力を伸ばしていった。
天正壬午の乱と自立
天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍の甲州征伐により武田氏が滅亡する。昌幸はいったん織田信長に降り、滝川一益の与力となった。しかしわずか3ヶ月後の6月、本能寺の変で信長が横死すると、旧武田領は無主の地となり、上杉・北条・徳川による争奪戦(天正壬午の乱)が勃発する。
この混乱の中、昌幸は持ち前の調略と外交で旧武田家臣を取り込み、自立への道を歩んだ。上杉景勝に臣従したかと思えば北条氏直に降り、さらに徳川家康方へ寝返るなど、大勢力の間を目まぐるしく渡り歩きながら、沼田・吾妻・小県を真田領として掌握していった。天正11年(1583年)には新たな本拠として上田城の築城に着手している。
第一次上田合戦と豊臣大名化
天正13年(1585年)、徳川家康は北条氏との和睦条件として、昌幸に沼田領を北条氏へ引き渡すよう求めた。昌幸は「自分が切り取った領地であり、家康から与えられたものではない」としてこれを拒否し、上杉氏と通じて徳川と手切れとなる。
同年閏8月、徳川家康は鳥居元忠・大久保忠世・平岩親吉らに約7,000の兵を与えて上田城に攻め寄せた。昌幸はわずか2,000ほどの兵で迎え撃ち、城下に誘い込んだ敵を反撃で撃退、退却する徳川勢を神川で討ち取って1,300人もの死傷者を出させる大勝を収めた(第一次上田合戦)。この勝利により真田氏は、武田の旧臣から信濃の独立勢力として豊臣系大名の間で認知されるようになる。同年冬、昌幸は次男・信繁を人質として豊臣秀吉に臣従した。
関ヶ原と第二次上田合戦
慶長5年(1600年)、徳川家康が会津の上杉征伐に向かうと、昌幸もこれに従った。しかしその途上、下野犬伏で石田三成挙兵の報を受け、昌幸は次男・信繁とともに西軍に、長男・信之は東軍につくことを決める。信之の妻が本多忠勝の娘・小松姫であったことなどが背景にあり、いずれが勝っても真田家が残るよう父子で袂を分かった(犬伏の別れ)。
上田城に戻った昌幸は、徳川秀忠率いる約38,000の大軍を、再び2,000の兵で迎え撃った(第二次上田合戦)。徹底した籠城策と奇策で秀忠軍を翻弄し、秀忠を関ヶ原本戦に遅参させる一因をつくった。だが本戦で西軍が敗れたため、昌幸の奮戦も報われることはなかった。
九度山配流と最期
関ヶ原の戦後処理で、昌幸と信繁には上田領没収と死罪が言い渡された。しかし東軍についた長男・信之と、その舅・本多忠勝の助命嘆願によって死罪を免れ、紀伊国高野山への蟄居に減じられる。昌幸は慶長5年(1600年)12月、上田を発って高野山に向かい、後に九度山へ移った。
赦免を願いながらも叶わぬまま、10年余りの配流生活は老いた昌幸の気力を奪っていった。慶長16年(1611年)6月、九度山で病死。享年65。その智謀は死してなお恐れられ、家康は大坂の陣を前に「真田が入城した」と聞くと、「親(昌幸)か、子(信繁)か」と問うて手を震わせたと伝えられる。
評価
真田昌幸は、戦国時代きっての知将として後世に語り継がれている。地方の小領主に過ぎなかった真田氏を、調略と外交、そして2度の上田合戦での武功によって独立した戦国大名へと押し上げた手腕は、まさに「表裏比興の者」の名にふさわしい。
その一方で、現代に伝わる「謀将」「謀略家」としての人物像の多くは、江戸中期に成立した軍記物『真武内伝』に基づくものであり、確実な一次史料に乏しいことも事実である。領主としての実像にはなお不明な点が多い。
しかし、武田信玄に見出され、家康を二度退け、信之・信繁という優れた息子を遺したという事実は揺るがない。とりわけ次男・信繁(幸村)が大坂の陣で見せた奮戦と相まって、真田三代の物語は今日まで多くの人々を惹きつけてやまない。

](https://m.media-amazon.com/images/I/71GlrHWnH2L._SL1257_.jpg)
](https://m.media-amazon.com/images/I/71OUdhJPr3S._SL1500_.jpg)


