天正10年6月2日
本能寺の変
ほんのうじ の へん
1582年06月21日
場所
本能寺(京都、現在の京都市中京区元本能寺南町付近。現在の本能寺とは異なる場所)
結果
明智軍の勝利。織田信長は自害、嫡男・信忠も自刃
歴史的意義
織田政権の崩壊と豊臣政権成立の契機となった戦国時代最大の政変
戦場の位置
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織田軍
指揮官
兵力
本能寺:近習100人足らず、二条御新造:数百名
損害
信長・信忠含む多数。本能寺では30名以上+中間衆24名が討死
参加武将
戦いの経過
中国出陣命令
信長は光秀に羽柴秀吉支援のため中国出陣を命令。光秀は坂本城に戻り準備に入る
愛宕山参拝・愛宕百韻
光秀は丹波亀山城から愛宕山に参拝・参籠。連歌師・里村紹巴らと愛宕百韻を催す
亀山城出陣
光秀は13,000の兵を率いて亀山城を出陣。途中で重臣に信長討伐の意を告げる
桂川到達・戦闘準備
桂川に到達し、馬の沓を切り火縄に点火するよう命令。京都へ進軍
本能寺急襲
斎藤利三の先鋒が本能寺を包囲・突入。信長は弓・槍で奮戦するも多勢に無勢、自害した
二条御新造の戦い
信忠は妙覚寺から二条御新造に移動。誠仁親王らを脱出させた後、明智軍と交戦
信忠自刃・戦闘終了
二条御新造の戦闘終了。信忠は自刃し、斎藤利治・村井貞勝ら側近もほぼ全員が討死
山崎の戦い・光秀落命
中国大返しで戻った羽柴秀吉と山崎で激突するも敗北。同日深夜、小栗栖で落命
概要
本能寺の変は、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、織田信長の重臣・明智光秀が約13,000の兵を率いて京都の本能寺を急襲し、主君・信長を自害に追い込んだ政変である。同時に信長の嫡男・織田信忠も二条御新造で明智軍と交戦の末に自刃した。
この事件により、天下統一目前であった織田政権は一夜にして崩壊した。光秀は直ちに近畿一帯の制圧を試みたが、有力大名の支持を得られず、わずか11日後の山崎の戦いで羽柴秀吉に敗北し落命した。本能寺の変は「戦国時代における最後の下剋上」とも評され、その後の豊臣政権成立の直接的な契機となった。
光秀の動機については怨恨説・野望説・四国政策説・朝廷黒幕説など50以上の説が提唱されているが、現在も定説はなく「日本史最大のミステリー」と呼ばれ続けている。
背景
天正10年(1582年)3月、武田氏が滅亡し(甲州征伐)、信長の天下統一は最終段階に入っていた。同年5月、信長は安土城で徳川家康を饗応し、光秀にその接待役を命じた。
5月中旬、中国地方で毛利氏と対峙していた羽柴秀吉から援軍要請があり、信長は光秀に中国方面への出陣を命じた。光秀は坂本城に戻り出陣準備に入ったが、5月26日から28日にかけて愛宕山に参拝・参籠し、連歌師・里村紹巴らと愛宕百韻を催した。この連歌で光秀が詠んだ「ときは今あめが下しる五月哉」の句は、後に謀反の決意を示唆するものと解釈されている。
信長は少数の近習のみを伴い、6月1日に京都の本能寺に宿泊していた。翌日には堺から戻る予定の三男・信孝の軍勢と合流し、中国出陣の総指揮を執る予定であった。
戦いの経過
亀山城出陣
天正10年6月1日夕方、光秀は約13,000の兵を率いて丹波亀山城を出陣した。途中の柴野もしくは篠村付近で、斎藤利三・明智秀満ら重臣に信長討伐の意を伝えたとされる。軍勢は沓掛で休息した後、老ノ坂を越えて京都方面へ向かった。
本能寺の急襲
6月2日未明、桂川に到達した光秀は戦闘準備を命じ、京都市中に進入。午前4時頃(曙)、斎藤利三率いる先鋒が本能寺を完全に包囲し突入した。
信長は近習わずか百人足らずで応戦し、自ら弓を取り、次いで槍を振るって奮戦したが、多勢に無勢であった。最期は奥に退き自害したとされる。午前8時頃(辰の刻)に本能寺での戦闘は終了した。信長の遺体は明智勢が必死に捜索したが、ついに発見されなかった。
二条御新造の戦い
信忠は宿泊先の妙覚寺から二条御新造(旧二条城)に移動し、誠仁親王・和仁親王らを脱出させた後、明智軍を迎え撃った。側近に脱出を勧められたが拒否し、斎藤利治・村井貞勝らと共に奮戦した。正午頃(午の刻)に戦闘は終了し、信忠は自刃。一門・近習・郎党のほぼ全員が討死した。
結果と影響
本能寺の変により、織田信長とその嫡男・信忠が同時に死亡し、織田政権は崩壊した。光秀は直ちに近畿一帯の制圧に動き、安土城を占拠したが、盟友と見込んでいた細川藤孝・忠興父子、筒井順慶らの協力を得ることができなかった。
一方、備中高松城を水攻め中であった羽柴秀吉は、変の報を受けると毛利氏と即座に講和。「中国大返し」と呼ばれる強行軍で畿内に引き返し、6月13日に山崎で光秀軍と激突した。光秀は大敗し、敗走中に小栗栖で落ち武者狩りに遭い落命した。
本能寺の変は、秀吉が織田家中で主導権を握る決定的な契機となり、やがて豊臣政権の樹立、そして関ヶ原の戦いを経た徳川政権の成立へと繋がっていった。
よくある疑問
本能寺の変で織田信長の遺体はなぜ見つからなかったのか?
明智勢が必死に捜索しましたが、信長の遺体は発見されませんでした。本能寺は炎上しており、森蘭丸が遺体に畳を被せたとする説や、阿弥陀寺の僧・清玉が火葬して持ち帰ったとする説などがあります。
「敵は本能寺にあり」は明智光秀の言葉か?
同時代の一次史料には光秀がこの言葉を発した記録はありません。江戸時代の『明智軍記』や頼山陽の『日本外史』などを通じて広まった創作と考えられています。
なぜ織田信忠は逃げなかったのか?
側近に脱出を勧められましたが、信忠は「これほどの謀反によもや逃しはすまい。雑兵の手にかかるは不名誉」として二条御新造での戦闘を選び自刃しました。信忠の死により織田家の後継問題が発生し、清洲会議へと繋がりました。
関連史料・書籍
- -信長公記(太田牛一)一次史料
- -イエズス会日本年報一次史料
- -本城惣右衛門覚書一次史料
- -惟任退治記(大村由己)一次史料
- -兼見卿記(吉田兼見)一次史料
- -明智光秀と本能寺の変(小和田哲男)研究書
- -陰謀の日本中世史(呉座勇一)研究書
最終更新日: 2026年04月04日




