— 戦いの内容 —
概要
長良川の戦いは、弘治2年(1556年)4月20日、美濃国を流れる長良川のほとりで、斎藤道三と長男の斎藤義龍が兵を交えた合戦である。主家を押しのけて美濃の主となった道三が、自ら家督を譲った息子と争うことになり、その戦いの中で命を落とした。親子が殺し合った戦いとして語り継がれている。
事の起こりは、道三が家督を継いだ義龍を見くびり、下の息子たちをかわいがって家督を移そうとしたことにある。親子の溝は埋まらなくなり、弘治元年(1555年)11月、義龍は2人の弟を討って父に背いた。道三は大桑城まで逃れている。
年が明けた4月、両軍は長良川をはさんで向き合った。家臣の多くが義龍の側についたため、兵の数は比べものにならなかった。道三は初めのうちこそ押し気味に戦ったが、最後は大軍に呑まれて討たれた。道三の娘婿にあたる尾張の織田信長も助けに向かったものの、間に合わなかった。
背景
天文19年(1550年)頃、道三は美濃守護の土岐頼芸を国から追い出し、美濃一国を自分のものとした。とはいえ、力ずくで手に入れた国であるため、家臣たちが道三に従い切っていたとはいいがたい。
天文23年(1554年)、道三は長男の義龍に家督を渡して隠居した。ただ、外交などの権限は手放さず、その後も実際の采配を振るっていたとみられる。道三はしだいに義龍を愚か者と見下すようになり、その一方で賢いと見込んだ孫四郎・喜平次の2人の弟を目にかけた。三男の喜平次には、名門・一色氏の名字と官職の名乗りまで許している。兄をさしおいて取り立てられた弟たちは思い上がって義龍を軽んじるようになり、父と長男の仲は修復できないところまでこじれた。
弘治元年(1555年)10月、義龍は病気と偽って屋敷の奥に引きこもり、父への対抗策を練った。11月22日、道三が麓の私邸へ出かけて留守にした機会をとらえ、義龍は叔父の長井道利を使いに出して、2人の弟を自分の枕元へ招き寄せた。弟たちに酒を勧めて酔わせたところで、側近の日根野弘就に斬らせたのである。義龍はこの一部始終を自分から道三に知らせた。驚いた道三は城下に火をかけ、長良川を渡って大桑城へ落ちのびた。
戦いの経過
両軍の布陣
雪が解けて春を迎えると、父子の対立はいよいよ張り詰め、弘治2年(1556年)にはとうとう戦いにまで至った。4月18日、道三はまず鶴山に陣を敷いた。娘婿の信長も尾張から駆けつけ、木曽川と飛騨川を舟で渡って、大良(岐阜県羽島市)に陣を置いた。
4月20日の辰の刻、義龍の軍が長良川の南岸へ動き出すと、道三の軍も鶴山を下りて北岸へ出て、両軍はここでぶつかり合った。道三がどのようにして国の主となったかを知る家臣たちは、西美濃三人衆をはじめ、ほとんどが義龍の側についていた。義龍が1万7,500あまりの兵をそろえたのに対し、道三のもとに集まったのは2,700あまりにすぎず、数の上では勝負にならなかった。
緒戦と一騎討ち
最初に仕掛けたのは義龍方で、先手の竹腰道鎮が5,000の兵で攻めかかった。竹腰勢は丸く陣を組んだまま川を渡り切り、道三の本陣に迫って、そばを固める兵に打ちかかった。敵味方入り乱れての戦いとなったが、道三の采配が冴えて竹腰勢は崩れ、大将の道鎮も討ち取られた。
先手が敗れたのを見た義龍は、自分の直属の兵を連れて長良川を渡り、陣を立て直した。ここで義龍方から長屋甚右衛門が進み出て一騎討ちを申し込み、道三方の柴田角内がこれを受けた。角内が甚右衛門を討ち取ると、それを合図に両軍とも全軍で突き進み、戦いは総がかりとなった。
道三の討死
序盤は道三の側に分があったものの、兵の少なさはどうにもならず、やがて道三の軍は崩れ、義龍の兵が道三のもとへなだれ込んだ。道三のもとを離れて義龍についていた長井忠左衛門道勝は、道三を生きたまま捕らえて義龍の前に連れて行こうと、真っ先に飛びかかった。2人が組み合っているところに小牧源太が割って入り、道三の脛を斬り払って首を取った。手柄を奪われた忠左衛門は怒ったが、道三を捕らえた証として鼻をそぎ取り、懐に入れて引き下がったと伝わる。道三の死によって、戦いは終わった。
結果と影響
道三を討って勢いづいた義龍は、首実検を済ませると、大良口に陣を置く信長にも兵を向けた。大良の河原での戦いで、信長方は山口取手介と土方彦三郎を失い、森可成も膝に傷を負って退いた。彼らが踏みとどまったおかげで、信長は退く時間を得る。道三が討たれたと知った信長は、しんがりは自分が務めると告げて兵をみな川の向こうへ渡らせ、最新の鉄砲で義龍方の追っ手を払いのけて、その日のうちに引き揚げた。
道三の死は、隣の尾張にも波紋を広げた。岩倉織田家は義龍と手を組んで動き出し、信長の織田弾正忠家の中でも、信長から離れて弟の信行(信勝)を担ごうとする者が現れた。この動きは、のちに織田家の家督をめぐる争いへとつながっていく。
父を倒した義龍は美濃の主として国を治め、信長にも隙を見せなかったが、5年後の永禄4年(1561年)、33歳の若さで急死した。跡を継いだ子の龍興は、ほどなく信長に美濃を攻め取られ、道三の流れをくむ斎藤氏は美濃を追われることになる。また、明智氏は道三の側についたため、居城の明智城を義龍に攻められた。この城からかろうじて逃れたのが明智光秀で、光秀がここから諸国をさすらうことになったとする説もある。




