長宗我部元親
両親
父
長宗我部国親
母
祥鳳玄陽(本山氏の娘)
正室・側室
正室
元親夫人
石谷光政の娘
側室
小少将
側室
小宰相
側室
楠木氏の娘
楠木正儀末裔とも
側室
足立氏の娘
子
長男
長宗我部信親
母: 元親夫人
戸次川で討死
次男
香川親和
母: 元親夫人
讃岐香川氏養子
三男
津野親忠
母: 元親夫人
津野氏養子
四男
長宗我部盛親
母: 元親夫人
家督相続
五男
長宗我部右近大夫
母: 小少将
長女
女子
母: 元親夫人
一条内政室
次女
女子
母: 元親夫人
吉良親実室
三女
阿古姫
母: 元親夫人
佐竹親直室
四女
女子
母: 元親夫人
吉松十右衛門室
男子
母: 小宰相
女子
母: 小宰相
文誉鉄牛
母: 楠木氏の娘
六男とされる
長宗我部民部
母: 足立氏の娘
架空の人物とも
土佐国長岡郡の岡豊城にて長宗我部国親の嫡子として生まれる。幼少期は大人しい性格から「姫若子」と揶揄された
父・国親の本山氏攻めに際し、実弟の親貞と共に初陣を果たす。自ら槍を持って突撃し「鬼若子」と賞賛された
父・国親が急死し、家督を相続。本山氏への攻撃を緩めることなく続行した
美濃斎藤氏の縁者である石谷光政の娘を正室に迎える。弟の親貞を吉良氏に養子入りさせる
永禄11年、本山貞茂が降伏し土佐中部を完全に平定。元親は貞茂に「親」の偏諱を与え親茂と名乗らせた
土佐東部の安芸国虎を八流の戦いで破り自害させる。弟の香宗我部親泰を安芸城主とし土佐東部を平定
土佐一条氏の内紛に乗じ兼定を豊後に追放。嫡子・内政を傀儡として大津御所体制を構築
再起を図った一条兼定を四万十川の戦いで撃破。弟・吉良親貞の尽力が大きかった。土佐を完全に統一
阿波の白地城を攻め大西覚養を讃岐に追放。谷忠澄を入城させ阿波・讃岐・伊予攻略の拠点とした
土佐国司の一条内政を追放し大津御所体制を解体。信長との秩序を拒否した結果とされる
信長より阿波の南北折半を命じられ、領土を土佐と阿波南半国に制限される。信長との対立が決定的に
約2万の兵で十河存保の5,000余の軍勢を破る。両軍合わせて1,503名の戦死者を出す激戦となった
勝瑞城を包囲し続け、十河存保が降伏。存保は讃岐の虎丸城へ退去し、阿波の大半が長宗我部氏の支配下に
讃岐の引田で仙石秀久の軍勢を撃破。同日、北陸では柴田勝家が賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れた
織田信雄・徳川家康と連携して讃岐に兵を進め、十河城を落城させ讃岐を平定
伊予の河野通直が降伏を申し入れたとされるが、河野氏が抵抗を続けていたとする見解もあり統一の達成は議論が分かれる
秀吉が弟・秀長を総大将とする大軍を四国に派遣。元親は抗戦するも阿波の戦線が崩壊し降伏。土佐一国を安堵される
上洛して京都で秀吉に謁見。秀吉から座敷能で饗応され金子100枚を下賜される。服属儀礼として恭順を示した
九州征伐に出陣し島津氏と戦うが大敗。嫡男・信親が討死。元親も討死しようとしたが家臣に諌められ日振島に落ち延びた
本拠を大高坂城へ移転。家督は四男の盛親に決定し、反対した一門の比江山親興・吉良親実らを切腹させた
長宗我部水軍を率いて後北条氏の下田城を攻略し、小田原城包囲にも参加
盛親と共に朝鮮に出兵。軍役3,000人で水軍としての軍事力を期待された
盛親と共に分国法『長宗我部元親百箇条』を制定。法治主義による秩序維持と領国経営の基盤を整えた
盛親と共に再び朝鮮へ赴き釜山に上陸。翌年5月に帰国
伏見の屋敷にて病没。享年61。高知市長浜の天甫寺に葬られた。法号は雪蹊恕三禅定門
※ 年齢は数え年で表記しています。数え年は生まれた年を1歳とし、元日を迎えるごとに加算する日本の伝統的な年齢の数え方です。
概要
長宗我部元親は、天文8年(1539年)に土佐国長岡郡の岡豊城で長宗我部国親の嫡子として生まれた戦国大名である。幼少期は大人しい性格から「姫若子」と揶揄されたが、永禄3年(1560年)の初陣で武名を挙げて以降、剽悍な一領具足を率いて土佐国内の本山氏・安芸氏・一条氏を次々に破り、天正3年(1575年)に土佐を統一した。
土佐統一後は阿波・讃岐・伊予にも侵攻し、天正10年(1582年)の中富川の戦いで十河存保を破って阿波を制圧、天正12年(1584年)には讃岐も平定して四国のほぼ全土を掌握した。しかし、天正13年(1585年)に豊臣秀吉の四国征伐を受けて降伏し、土佐一国のみの領有を認められた。
その後は秀吉に臣従し、九州征伐・小田原征伐・朝鮮出兵に従軍した。九州征伐での戸次川の戦いで嫡男・信親を失ってからは性格が一変したと伝えられる。内政面では検地を行い、分国法『長宗我部元親百箇条』を制定するなど法治主義による領国経営を推進した。慶長4年(1599年)、伏見にて病没。享年61。
生涯
出生・家督相続
天文8年(1539年)、長宗我部国親の嫡子として土佐国長岡郡の岡豊城で生まれる。母は本山氏の娘・祥鳳玄陽。土佐守護・細川晴元の偏諱を受け「元親」と名乗った。
幼少期は長身だが色白で人に会っても挨拶をせずぼんやりしていたため「姫若子」と揶揄され、父の国親も後継者として悩んでいた。しかし永禄3年(1560年)5月、父の本山氏攻めに際して初陣を果たし、自ら槍を持って突撃する勇猛さを見せて「鬼若子」と賞賛された。数え年23歳の遅い初陣であった。
6月に父・国親が急死すると家督を相続し、本山氏への攻撃を中断することなく続行した。
土佐統一
元親は一領具足を動員して土佐国内で勢力を拡大し、本山茂辰を追い詰めた。永禄6年(1563年)に茂辰が朝倉城を放棄して本山城に籠もると、元親は土佐一条氏と連携して東西から本山氏を挟撃した。永禄11年(1568年)に本山貞茂が降伏し、土佐中部を完全に平定した。
永禄12年(1569年)7月には八流の戦いで土佐東部の安芸国虎を破り自害させ、弟の香宗我部親泰を安芸城主にして土佐東部を平定。さらに土佐一条氏の内紛に乗じて天正2年(1574年)に一条兼定を豊後に追放し、嫡子の内政を「大津御所」として傀儡化した。
天正3年(1575年)7月に兼定が再起を図って伊予の諸将を率いて攻め込んでくると、弟・吉良親貞の尽力のもと四万十川の戦いで兼定を撃破。土佐を完全に統一し、「土佐の出来人」と呼ばれるようになった。
阿波・讃岐・伊予への侵攻
土佐統一後、元親は阿波・讃岐・伊予への侵攻を開始した。天正6年(1578年)に阿波の白地城を攻略して侵攻の拠点とし、次男の香川親和を讃岐の有力豪族・香川之景の養子に送り込んで同盟を結んだ。
阿波では三好氏の生き残りである十河存保や三好康長が抵抗したが、天正7年(1579年)に重清城を攻略して十河軍に大勝。讃岐でも天正8年(1580年)に十河城や羽床城を包囲して勢力を拡大した。伊予では東予の金子元宅らを味方につけたが、伊予守護の河野氏が毛利氏の支援を得て抵抗したため長期戦となった。
織田信長との対立
元親は織田信長との関係を構築し、嫡男の弥三郎に信長の偏諱を得て信親と名乗らせた。しかし天正9年(1581年)2月に一条内政を追放したことが信長の警戒を招き、6月には信長より阿波南北折半の停戦令を突きつけられた。信長は三好康長に阿波・讃岐の領有を認め、元親の権益を否定する姿勢を示した。
天正10年(1582年)1月、明智光秀が石谷頼辰を通じて信長の意向を元親に伝えようとしたが、元親は返事すら寄越さなかった。信長は織田信孝を総大将とする四国攻撃軍を編成し、先鋒の三好康長が阿波の一宮城・夷山城を落とした。
しかし5月に元親が信長の国分案を受け入れる意向を利三に伝えた直後の6月2日、本能寺の変が勃発。信長の横死により四国攻撃軍は四散し、三好康長も阿波から撤退した。
中富川の戦いと阿波・讃岐平定
本能寺の変後、元親は阿波攻略を再開した。岡豊城内で家老と一領具足の意見を聴取し、一領具足の「速やかに十河存保を討って阿波を取るべし」との意見を採用。十五歳以上六十歳以下の者を広く募って軍勢を編成した。
天正10年(1582年)8月、元親は約2万の兵で阿波に進軍し、中富川の戦いで十河存保の5,000余の軍勢を破った。存保は勝瑞城に籠もったが9月21日に降伏し、讃岐の虎丸城に退去。両軍の戦死者は合計1,503名に及んだ。
その後、阿波国内の一宮成助・新開道善らに謀反の疑いをかけて殺害し、後方の不安を断った。天正11年(1583年)4月には引田の戦いで仙石秀久を撃破、天正12年(1584年)6月に十河城を落として讃岐を平定した。
四国統一と秀吉の四国攻め
天正13年(1585年)春、通説では河野通直が降伏して四国統一を達成したとされるが、河野氏が抵抗を続けていたとする見解もあり、統一の達成については研究者の間で議論が分かれている。
同年7月、秀吉が弟の秀長を総大将とする大軍を四国に派遣。毛利勢が伊予に、宇喜多勢が讃岐に、秀長・秀次が阿波に同時に攻め入った。元親は阿波白地城を拠点に抗戦したが、阿波の戦線が崩壊すると、家臣・谷忠澄の諫言を容れて7月25日に降伏した。元親は四国において阿波・讃岐・伊予を没収され、土佐一国のみを安堵された。
豊臣政権下
天正14年(1586年)、秀吉の九州征伐に嫡男・信親とともに出陣。しかし12月の戸次川の戦いで島津方に大敗し、信親が討死した。元親は討死しようとしたが家臣に諌められ伊予の日振島に落ち延びた。
信親の死後、元親は家督を四男の盛親に決定し、反対した一門の比江山親興・吉良親実らを切腹させた。天正17年(1589年)頃に秀吉から羽柴の名字を与えられ、天正18年(1590年)の小田原征伐では水軍を率いて下田城攻略と小田原城包囲に参加した。
文禄元年(1592年)と慶長2年(1597年)には朝鮮出兵にも従軍。慶長2年3月には盛親と共に分国法『長宗我部元親百箇条』を制定し、厳罰主義による秩序維持や寺社保護、商業振興などを定めた。
死去
慶長4年(1599年)3月、三男の津野親忠を幽閉した直後から体調を崩しだした。4月に病気療養のため上洛し伏見屋敷に滞在。秀頼に謁見するも回復せず、5月10日に盛親に遺言を残した。5月19日、伏見の屋敷で病没。享年61。高知市長浜の天甫寺に葬られ、法号は雪蹊恕三禅定門。
評価
『元親記』では「律儀第一の人」「慇懃の人」と評され、武勇と仁慈に厚い名君として描かれている。家臣の諫言を広く聞き入れる度量があり、妹婿の波川清宗の謀反後も弟たちを助命するなど情け深い一面があった。しかし阿波側の史書『細川三好君臣阿波軍記』では不仁不義の大将と評されるなど、立場によって評価は分かれる。
信親の死後は性格が一変し、家督問題で反対派の一族を粛清するなど、それまでの度量を失ったとされる。『甲陽軍鑑』では徳川家康・赤井直正らと共に「名高キ武士」として名が挙がる一方、織田信長は「鳥無き島の蝙蝠」と揶揄したと伝えられているが、発言の信憑性は定かではない。
最終更新日: 2026年04月26日





