相模守(左京大夫) 北条氏康北条氏康の家紋

後北条氏第3代当主・相模国の戦国大名

北条氏康

ほうじょう うじやす

別名: 伊勢伊豆千代丸、平氏康

後北条氏第3代当主。河越夜戦で関東の主導権を確保し、武田信玄・上杉謙信と渡り合いながら30年以上にわたって後北条氏を率い、検地や税制改革など先進的な民政制度を整備した

誕生

1515年01月01日(永正12年)

相模国小田原(現在の神奈川県小田原市)

出典: 永正12年(1515年)。月日不明

死没

1571年11月19日(元亀2年)

相模国小田原城(現在の神奈川県小田原市)

中風(脳卒中)

出典: 元亀2年10月3日。享年57

支配領域

相模・伊豆・武蔵・上野・下総(関東南部一帯)

北条氏康 巨星墜落篇
書籍

北条氏康 巨星墜落篇

富樫倫太郎

中央公論新社

家族

両親

北条氏綱

養珠院

正室・側室

正室

瑞渓院

今川氏親の娘

側室

遠山氏

遠山康光室の姉妹

側室

松田殿

松田憲秀の娘

長男

北条氏親

母: 瑞渓院

16歳で早世

次男

北条氏政

母: 瑞渓院

後北条氏4代当主

三男

北条氏照

母: 瑞渓院

大石定久養子

四男

北条氏規

母: 瑞渓院

五男

北条氏邦

藤田康邦養子

六男

上杉景虎

母: 遠山氏

上杉謙信養子

長女

七曲殿

北条氏繁室

次女

尾崎殿

千葉親胤室

三女

長林院殿

太田氏資室

四女

早川殿

今川氏真室

五女

浄光院殿

足利義氏室

六女

桂林院殿

母: 松田殿

武田勝頼継室

(養子・養女)

種徳院殿

実父: 北条為昌

小笠原康広室

(養子・養女)

北条氏忠

実父: 北条氏尭

(養子・養女)

北条氏光

実父: 北条氏尭

佐野宗綱養子

(養子・養女)

鶴松院殿

実父: 北条幻庵

吉良氏朝室

北条は退かず 小田原合戦
書籍

北条は退かず 小田原合戦

近衛龍春

角川文庫

年表

1515年01月
(1歳)
誕生

後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男「伊勢伊豆千代丸」として誕生。祖父・伊勢宗瑞(北条早雲)の存命中であった

1518年01月
(4歳)
祖父・宗瑞から護符・太刀を授かる

永正15年(1518年)2月8日、3歳の氏康に祖父・宗瑞が護符と太刀及び置文を授け、将来の後継者として位置づけた

1525年01月
(11歳)
蹴鞠伝授書を授かる

大永5年(1525年)8月、飛鳥井雅綱から蹴鞠伝授書を「伊勢伊豆千代丸」充で授けられた

1529年01月
(15歳)
元服

享禄2年(1529年)年末頃、15歳で元服したと見られる。氏綱の左京大夫任官と同時期。北条氏を名乗ったのも元服がきっかけと推測される

1530年01月
(16歳)
小沢原の戦い(初陣)

享禄3年(1530年)、初陣として上杉朝興と戦い大勝したと伝承される(『異本小田原記』)。当時代史料からも事実に近いとされる

1535年01月
(21歳)
甲斐山中合戦

天文4年(1535年)8月、甲斐山中合戦に出陣して戦功を重ねた

1536年01月
(22歳)
正室・瑞渓院を迎える

天文4年(1535年)もしくは翌5年(1536年)に又従兄弟にあたる今川氏親の娘を正妻に迎えた

1537年01月
(23歳)
嫡男・西堂丸誕生

天文6年(1537年)、嫡男の西堂丸(後の氏親)が誕生した

1538年01月
(24歳)
第一次国府台の戦い

天文7年(1538年)、父・氏綱と共に足利義明・里見連合軍と戦い、敵の総大将・小弓公方の足利義明を討ち取って勝利

1541年08月
(27歳)
家督相続

天文10年(1541年)7月17日、氏綱の死去に伴い後北条氏第3代当主となった。領国は相模・伊豆の二国と武蔵の一部であった

1545年01月
(31歳)
第二次河東一乱

天文14年(1545年)、今川義元が山内・扇谷両上杉氏と連携して挙兵。東西から挟撃される危機に陥るが、武田晴信の斡旋により今川との和睦を実現した

1546年01月
(32歳)
河越夜戦

天文15年(1546年)、約8万の連合軍に包囲された河越城を救援。1万未満の兵力で夜襲を敢行し、扇谷上杉朝定を戦死させ扇谷上杉氏を滅亡に追い込んだ

1550年01月
(36歳)
公事赦免令の発布

天文19年(1550年)4月、大地震後の「国中諸郡退転」に対処するため、伊豆から武蔵南部にわたる領域に税制改革と徳政を実施

1551年01月
(37歳)
三国同盟の婚姻交渉開始

天文20年(1551年)8月頃、武田・今川両氏との婚姻交渉を開始。娘を今川義元の嫡男に、武田晴信の娘を嫡男に迎える交渉を進めた

1552年01月
(38歳)
嫡男・氏親の死去

天文21年(1552年)3月、元服して新九郎氏親と名乗った嫡男がわずか16歳で病死。次男・松千代丸を新たな後継者に立てた

1554年01月
(40歳)
甲相駿三国同盟の成立

天文23年(1554年)、太原雪斎の仲介もあり、娘・早川殿を今川氏真に嫁がせ、武田信玄の娘・黄梅院を氏政に迎えて三国同盟を締結

1559年01月
(45歳)
隠居・小田原衆所領役帳の作成

永禄2年(1559年)、氏政に家督を譲り隠居。しかし「御本城様」として実権を掌握し続けた。同年、家臣560名の所領役帳を作成

1561年01月
(47歳)
上杉謙信の小田原城包囲

永禄4年(1561年)、上杉謙信率いる10万余りの連合軍が小田原城を包囲。堅固な防衛と飢饉による兵站不足で謙信は撤退した

1564年01月
(50歳)
第二次国府台の戦い

永禄7年(1564年)、里見義堯・義弘父子と上総国の支配権をめぐって対陣。遠山綱景など有力武将を失いながらも勝利した

1566年01月
(52歳)
相模守任官・実質的隠居

永禄9年(1566年)5月頃、朝廷から相模守への任官を受け、左京大夫を氏政に譲る。以後は「武栄」印判による後方支援に専念

1568年01月
(54歳)
三国同盟の破綻

永禄11年(1568年)、武田信玄が駿河侵攻を行い三国同盟は破棄された。北条氏は娘婿の今川氏真を支援し、東駿河を奪取した

1569年01月
(55歳)
越相同盟の締結

永禄12年(1569年)、武田信玄に対抗するため上杉謙信との同盟(越相同盟)を締結。実子・三郎(上杉景虎)を人質として送った

1569年10月
(55歳)
三増峠の戦い

永禄12年(1569年)10月、武田軍の小田原城包囲に対し籠城戦で退け、撤退する武田軍を挟撃しようとしたが失敗。武田の甲斐帰還を許した

1570年01月
(56歳)
中風を発症

元亀元年(1570年)8月頃、中風(脳卒中)を発症。呂律が回らず、子供の見分けもつかない状態と伝えられた

1571年11月
(57歳)
死去

元亀2年(1571年)10月3日、小田原城において死去。享年57。戒名は大聖寺殿東陽宗岱大居士

※ 年齢は数え年で表記しています。数え年は生まれた年を1歳とし、元日を迎えるごとに加算する日本の伝統的な年齢の数え方です。

北条は退かず 御館の乱と天下争乱
書籍

北条は退かず 御館の乱と天下争乱

近衛龍春

角川文庫

概要

北条氏康は、戦国時代の関東を代表する武将であり、後北条氏の第3代当主。後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれ、河越夜戦での劇的な逆転勝利で関東における主導権を確保した。武田信玄・上杉謙信という二大強敵と渡り合いながら、当主として19年間、隠居後も氏政との共同統治を12年間続け、30年以上にわたって後北条氏を率いた。家紋は三つ鱗(北条鱗)。

軍事面での実績に加え、検地の徹底、税制改革、目安箱の設置、通貨統一、度量衡の統一など先進的な民政制度を多数整備し、小田原の城下町を東国最大の都市へと発展させた政治手腕でも知られる。南禅寺の僧・東嶺智旺は「太守・氏康は、表は文、裏は武の人で、治世清くして遠近みな服している。まことに当代無双の覇王である」と評している。

また、三条西実隆に歌道を師事し、飛鳥井雅綱から蹴鞠を伝授されるなど文化面にも造詣が深く、著名な歌人をも感心させるほどの教養人であった。

生涯

出生・幼少期

永正12年(1515年)、後北条氏第2代当主・北条氏綱(当時は伊勢氏綱)の嫡男「伊勢伊豆千代丸」として誕生した。祖父・伊勢宗瑞(北条早雲)の存命中であり、3歳の永正15年(1518年)に宗瑞から護符と太刀及び置文を授けられ、将来の後継者として位置づけられた。4歳の時に祖父・宗瑞が死去。9歳の頃から父・氏綱は北条氏を名乗るようになったが、当初「北条」の名乗りを用いたのは氏綱のみであり、大永5年(1525年)8月に飛鳥井雅綱から蹴鞠伝授書を授けられた際には「伊勢伊豆千代丸」充で贈られている。

元服は氏綱の左京大夫任官と同時期の享禄2年(1529年)年末、15歳の頃と見られている。北条氏を名乗ったのも元服をきっかけにしたと推測される。

初陣と武功

享禄3年(1530年)、小沢原の戦いが初陣となり、上杉朝興と戦って大勝したと伝承されている(『異本小田原記』)。天文4年(1535年)8月の甲斐山中合戦、天文6年(1537年)7月の河越城攻略などに出陣して戦功を重ねた。天文7年(1538年)の第一次国府台の戦いでは父と共に足利義明・里見連合軍と戦い、敵の総大将・小弓公方の足利義明を討ち取って勝利を収めた。

天文4年(1535年)もしくは翌5年(1536年)に又従兄弟にあたる今川氏親の娘(瑞渓院)を正妻に迎え、天文6年(1537年)には嫡男の西堂丸が誕生した。

家督相続と一大危機

天文10年(1541年)7月17日、氏綱が死去したため家督を継いで第3代当主となった。氏綱は死の直前に5か条の訓戒状を残している。家督相続時点で北条氏の領国は相模・伊豆の二国と武蔵の一部、下総の一部であった。

氏綱の死を知った山内上杉氏・扇谷上杉氏は河越・江戸方面への侵攻を行ったが、氏康はこれを撃退した。天文14年(1545年)7月には今川義元が山内上杉憲政・扇谷上杉朝定らと連携して挙兵し、東西から挟撃される絶体絶命の危機に陥った(第二次河東一乱)。氏康は武田晴信の斡旋により、東駿河の河東地域を義元に割譲して和睦を成立させ、まず片方の脅威を排除した。

翌天文15年(1546年)、約8万の連合軍に包囲された河越城に対し、1万未満の兵力で臨んだ氏康は、城内の北条綱成と連携して夜襲を敢行した。この夜襲で扇谷上杉朝定は戦死して扇谷上杉氏は滅亡し、上杉憲政は上野国平井に、足利晴氏は下総国に逃走した(河越夜戦)。この勝利により、氏康は関東における主導権を確保した。

内政の整備

危機は軍事面だけではなかった。天文18年(1549年)に関東で発生した大地震を契機に、領民が村や田畑を放棄して逃亡する「国中諸郡退転」が大規模に発生した。天文19年(1550年)4月、氏康は公事赦免令を発布し、伊豆から武蔵南部にわたる領域の税制を単純化・軽減して事態を収拾した。これは北条氏が全領国規模で行った初めての徳政であった。

氏康は検地の徹底、棟別銭の減額(50文から35文)、目安箱の設置、永楽銭への通貨統一、榛原枡による度量衡の統一など、多岐にわたる内政改革を実施した。永禄2年(1559年)には大田豊後守ら3人の奉行を任命し、家臣560名の所領と軍役を記録した『小田原衆所領役帳』を作成させている。

三国同盟

天文20年(1551年)8月頃から武田・今川両氏との婚姻交渉を進めたが、天文21年(1552年)3月に嫡男の氏親が16歳で病死するという不測の事態が起きた。氏康はやむなく次男・松千代丸(後の氏政)を後継者に立て直し、婚約の変更を申し入れた。

天文23年(1554年)7月、今川氏の重臣・太原雪斎の仲介もあって、娘・早川殿を今川義元の嫡男・今川氏真に嫁がせ、12月には武田信玄の娘・黄梅院を氏政の正室に迎えることで、甲相駿三国同盟を締結した。背後の駿河が固まったことにより、関東での戦いに専念する体制が整った。

上杉謙信との攻防

永禄2年(1559年)、氏康は氏政に家督を譲って隠居したが、小田原城本丸に留まって「御本城様」として政治・軍事の実権を掌握し続けた。「永禄の飢饉」の責を取る形での代替わりによる徳政令の実施を目的としていた。

永禄3年(1560年)、上杉謙信が関東に侵攻を開始した。翌永禄4年(1561年)には謙信が関東諸侯を糾合した10万余りの連合軍を率いて小田原城を包囲した。しかし、小田原城の防衛は堅く、関東の飢饉により連合軍は長期の出兵を維持できなかった。同盟国の武田信玄による信濃北部からの牽制もあり、謙信は撤退を余儀なくされた。

謙信の帰国直後から氏康は失地の回復に着手し、武蔵の三田氏を滅ぼし、武蔵北部を奪還した。永禄6年(1563年)には武田氏の援軍を得て松山城や上野厩橋城を攻略。以降も一進一退の攻防が続いた。

永禄7年(1564年)、第二次国府台の戦いで里見義堯・義弘父子と対陣。遠山綱景など有力武将を多く失ったが、氏康の攻勢により里見軍を安房国に撤退させた。

武田信玄との対決

永禄11年(1568年)、武田信玄が今川氏の衰退に乗じて駿河侵攻を行い、甲相駿三国同盟は破綻した。氏康は娘婿の今川氏真を支援する方針を固め、徳川家康との密約も結んで駿河挟撃の構えをとった。北条氏は東駿河を奪取したが、西に武田、北に上杉、東に里見と三方を敵に囲まれる状況に陥った。

この苦境を打開するため、氏康は永禄12年(1569年)に上杉謙信との同盟(越相同盟)を締結し、実子・三郎(後の上杉景虎)を人質として送った。しかし同年9月、武田軍が武蔵から相模に侵攻し小田原城を包囲する事態が発生した。氏康は籠城戦で武田軍を退けたが、撤退する武田軍への挟撃は失敗に終わった(三増峠の戦い)。

晩年・死去

元亀元年(1570年)8月頃、氏康は中風(脳卒中)を発症した。当時小田原城に滞在していた大石芳綱は、氏康の状態について「呂律が回らず、子供の見分けがつかず、食事は食べたいものを指差すような状態」と伝えている。12月には武田信玄の深沢城攻めへの対応を指示できるほどに快方に向かったが、元亀2年に入ると花押のない印判のみの文書となり、5月10日を最後に文書の発給は停止された。

元亀2年(1571年)10月3日、氏康は小田原城において死去した。享年57。戒名は大聖寺殿東陽宗岱大居士。墓所は箱根の早雲寺に営まれた。

氏康の死後、12月27日に北条・武田は再同盟している。

評価

南禅寺の僧・東嶺智旺は天文20年(1551年)に氏康に接見し、「太守・氏康は、表は文、裏は武の人で、治世清くして遠近みな服している。まことに当代無双の覇王である」と高く評価した。また『北条記』は「三世の氏康君は文武を兼ね備えた名将で、一代のうち、数度の合戦に負けたことがない。そのうえに仁徳があって、よく家法を発揚したので、氏康君の代になって関東八ヶ国の兵乱を平定し、大いに北条の家名を高めた。その優れた功績は古今の名将というにふさわしい」と記している。

三河東泉記では、武田信玄・上杉謙信・織田信長・毛利元就と並んで戦国五雄の一人に数えられている。軍事面では河越夜戦に代表される果断な用兵で関東の覇権を確立し、内政面では公事赦免令や小田原衆所領役帳に代表される先進的な統治体制を整備した。小田原の城下町は「東の小田原・西の山口」と称される東国最大の都市となり、上水道の整備や都市の清潔さでも評判であった。

北条は退かず 激闘、三増峠の戦い
書籍

北条は退かず 激闘、三増峠の戦い

近衛龍春

角川文庫

北条氏康 関東争乱篇
書籍

北条氏康 関東争乱篇

富樫倫太郎

中央公論新社

よくある疑問

北条氏康の河越夜戦とはどのような戦いですか?

天文15年(1546年)、山内上杉憲政・扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏らの約8万の連合軍が河越城を包囲しました。氏康は1万未満の兵力で、偽りの降伏の手紙を送って油断を誘い、半年の籠城に耐えた城内の北条綱成と連携して夜襲を決行。この奇襲で扇谷上杉朝定は戦死して扇谷上杉氏は滅亡し、山内上杉憲政は上野国に逃走。氏康は関東における主導権を確保しました。

北条氏康はどのような内政を行いましたか?

氏康は先進的な民政制度を多数整備しました。天文19年(1550年)の公事赦免令では税制を単純化・軽減し、領民の直訴を認める目安箱を設置しました。永禄2年(1559年)には家臣560名の所領と軍役を記録した『小田原衆所領役帳』を作成し、検地の徹底や棟別銭の減額(50文から35文)、永楽銭への通貨統一、度量衡の統一なども行いました。小田原の城下町は「東の小田原・西の山口」と称される東国最大の都市に発展しました。

北条氏康と上杉謙信の関係はどのようなものでしたか?

当初は敵対関係にあり、永禄4年(1561年)には謙信が10万余りの連合軍を率いて小田原城を包囲しましたが、氏康は堅固な籠城で撤退させました。以降も毎年のように関東に侵攻する謙信と一進一退の攻防を繰り広げました。しかし永禄11年(1568年)に武田信玄が三国同盟を破って駿河に侵攻すると、氏康は方針を転換し、永禄12年(1569年)に謙信と越相同盟を結びました。実子・三郎(後の上杉景虎)を人質として送り、互いの領有を認め合う同盟でした。

関連史料・書籍

  • -北条氏康とその時代(黒田基樹 編)研究書
  • -定本・北条氏康(藤木久志・黒田基樹 編)研究書
  • -北条氏康と東国の戦国世界(山口博)研究書
  • -小田原衆所領役帳一次史料

最終更新日: 2026年03月29日