— 人物紹介 —
概要
毛利元就は、戦国時代の中国地方を代表する武将であり、安芸毛利氏の第12代当主。安芸国高田郡吉田荘の国人領主から身を起こし、一代で安芸・備後・周防・長門・石見・出雲の6ヶ国を支配する中国地方最大の戦国大名へと成長した。家紋は一文字三星、大江広元を祖とする名門の末裔である。
弘治元年(1555年)の厳島の戦いでは、陶晴賢率いる2万の大軍を厳島に誘い込み、わずか4千の兵と村上水軍の協力で壊滅させるという劇的な逆転勝利を収めた。次男・吉川元春を吉川氏に、三男・小早川隆景を小早川氏に送り込んで築いた「毛利両川体制」は、毛利氏の勢力拡大と存続を支える柱となった。
策略家として知られる一方で、筆まめな人物としても有名であり、息子や家臣に宛てた膨大な書状が現存する。三子教訓状に代表される家族への訓戒や、家臣への細やかな気遣いからは、稀代の策略家の人間的な一面が垣間見える。
生涯
出生・幼少期
明応6年(1497年)3月14日、安芸国高田郡の国人領主・毛利弘元の次男として、母の実家である福原氏の居城・鈴尾城で誕生した。幼名は松寿丸。しかし、明応9年(1500年)に父・弘元が室町幕府と大内氏の勢力争いから逃れるために隠居すると、松寿丸は父に連れられて多治比猿掛城に移り住んだ。
文亀元年(1501年)に母が死去、さらに永正3年(1506年)には父・弘元も酒毒により死去し、わずか10歳で両親を失った。所領も家臣の井上元盛に横領され、多治比猿掛城からも追い出されるという困窮の中、父の側室であった杉大方が養母として元就の生活を支えた。元就は後年、「まだ若かったのに大方様は自分のために留まって育ててくれた。私は大方様にすがるように生きていた」と杉大方への深い感謝を書き残している。
家督相続
永正8年(1511年)に元服して「少輔次郎元就」と名乗った。「就」の字は東福寺の彭叔守仙が占いで選んだものである。
永正13年(1516年)に兄・興元が酒毒により急死すると、幼い甥・幸松丸の後見役となった。永正14年(1517年)の有田中井手の戦いが元就の初陣であったが、安芸武田氏の武田元繁を討ち取るという華々しい戦果を挙げた。
大永3年(1523年)、幸松丸がわずか9歳で急死すると、志道広良ら重臣の推挙を受けて毛利氏第12代当主となり吉田郡山城に入城した。しかし翌年、異母弟・相合元綱を擁立しようとする動きが発覚し、元就は元綱を討伐せざるを得なかった(相合殿事件)。この粛清は元就にとって不本意なものであり、生涯にわたって自ら触れようとしない事件となった。
大内氏・尼子氏との関係
大永5年(1525年)、尼子氏との関係悪化を受けて大内方へ転じた元就は、安芸国内での影響力を着実に拡大していった。天文9年(1540年)の吉田郡山城の戦いでは、尼子詮久(後の晴久)率いる3万の大軍に対し、わずか3千の兵で籠城して迎え撃った。大内義隆の援軍である陶隆房(後の晴賢)の活躍もあって勝利を収め、安芸国の中心的存在としての地位を確立した。
この間、次男・元春を吉川氏に、三男・隆景を小早川氏に送り込む「毛利両川体制」を構築。安芸・石見に勢力を持つ吉川氏と、安芸・備後・瀬戸内海に勢力を持つ小早川氏の力を取り込み、安芸一国の支配権をほぼ掌中に収めた。天文19年(1550年)には毛利氏家中で専横する井上元兼ら井上氏一族を粛清し、家臣団の完全掌握を成し遂げた。
天文20年(1551年)の大寧寺の変で大内義隆が家臣・陶晴賢に討たれると、元就は晴賢と協力関係を結んで勢力を拡大した。しかし、元就の急速な勢力拡大に危機感を抱いた陶晴賢が支配権の返上を要求し、両者の対立は不可避となった。
厳島の戦い
弘治元年(1555年)、元就は生涯最大の勝負に出た。大軍を率いる陶晴賢を厳島に誘い込む謀略を仕掛け、暴風雨の夜に4千の兵で厳島に上陸。三男・隆景が組み込んだ村上水軍と共に、2万の陶軍に奇襲攻撃を行った。退路を絶たれた陶晴賢は自害し、元就は天下を揺るがす劇的な逆転勝利を収めた。
この厳島の戦いでの勝利は、毛利元就がかつて服属していた大内氏を弱体化させる決定的な転機となった。
中国地方の覇者へ
弘治3年(1557年)、大内義長を討って大内氏を滅亡に追い込み、九州を除く大内氏の旧領の大半を手中に収めた(防長経略)。同年、長男・隆元に家督を譲って隠居を表明したが、隆元がこれを拒絶したため、実権は引き続き元就が握った。
永禄6年(1563年)、嫡男・隆元が不慮の死を遂げると、11歳の孫・幸鶴丸(後の輝元)が家督を継承し、元就が後見する二頭体制が敷かれた。元就は出雲の尼子氏攻略を進め、永禄9年(1566年)に月山富田城を兵糧攻めにして尼子義久を降伏させた。前回の月山富田城攻めでの敗北の教訓を活かし、無理な攻城を避けて離間策や兵糧攻めを駆使する知略を見せた。
こうして元就は、一代にして安芸の一国人領主から中国地方8ヶ国を支配する大名へと毛利氏を成長させた。
晩年・死去
永禄12年(1569年)、大友宗麟の策動により大内輝弘が周防に上陸して山口を占領する事態が発生した(大内輝弘の乱)。元就は吉川元春に迅速な反撃を命じて鎮圧に成功したが、この出陣が元就の生涯における最後の出陣となった。
元亀2年(1571年)3月には花見の会を催し、「友をえて 猶ぞうれしき 桜花 昨日にかはる けふの色香は」と詠んだが、5月に入ると病状が再び悪化。6月13日に吉田郡山城で激しい腹痛を起こして危篤に陥り、翌6月14日の巳の刻(午前10時頃)に死去した。享年75(満74歳没)。死因は老衰とも食道癌とも伝わる。
元就は「天下を競望せず」と語り、毛利家の結束と存続を最も重視する遺訓を残した。この理念は孫・輝元の代を経て、関ヶ原の戦い後の危機をも乗り越えて長州藩として幕末まで存続する毛利家の精神的支柱となった。
評価
毛利元就は、戦国時代において最も成功した立身出世の武将の一人と評される。安芸国の一国人領主という小勢力から出発しながら、一代で中国地方の覇者にまで上り詰めた功績は、同時代の越前朝倉氏の名将・朝倉宗滴が「国持人使の上手」として今川義元・武田信玄・上杉謙信・織田信長らと並んで元就を挙げたことにも表れている。
元就の強みは、軍事力だけでなく政治的謀略と外交手腕を兼ね備えていた点にある。厳島の戦いに代表される戦術的な天才性、毛利両川体制の構築に見られる政治的構想力、そして膨大な書状に表れる家臣や家族への細やかな気配りが、毛利氏の結束と発展を支えた。一方で「天下を競望せず」という現実的な判断は、織田氏のような革新的勢力との対決において体制の限界を露呈させることにもなったが、毛利家の長期的な存続を可能にした慧眼でもあった。





