織田家重臣・丹波国の戦国大名
明智光秀
あけち みつひで
別名: 十兵衛、惟任日向守
織田信長の重臣として丹波平定など数々の功績を挙げたが、天正10年(1582年)に本能寺の変を起こし主君・信長を討った。わずか11日後に山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ落命した
誕生
1528年01月01日(大永8年)
美濃国可児郡明智荘(現在の岐阜県可児市)
出典: 享禄元年(1528年)。月日不明。『明智軍記』による享年55からの逆算
諸説
死没
1582年07月02日(天正10年)
小栗栖(現在の京都府京都市伏見区小栗栖)
山崎の戦い敗北後、落ち武者狩りの百姓に襲われ自害
出典: 天正10年6月13日。享年55
支配領域
近江国滋賀郡・丹波国一国(合計約34万石)
家族
両親
父
明智光綱(光国・光隆とも)
母
お牧の方(若狭武田氏出身と伝わる)
正室・側室
正室
煕子
妻木氏の娘
子
長男
光慶
母: 煕子
十兵衛
次男
光泰
十次郎
三男
乙寿丸
坂本城落城で死亡
長女
長女
明智秀満室
次女
次女
明智次右衛門室
三女
珠(ガラシャ)
細川忠興室
四女
四女
津田信澄室
年表
美濃国に生まれる。出自は土岐氏支流の明智氏とされるが、確証はない
斎藤義龍に明智城を攻められ一族離散。越前国の朝倉義景を頼る
約10年間、越前で浪人生活を送る
義昭方として近江高嶋田中城に籠城。この頃から政治活動に参加
光秀を通じ、足利義昭が織田信長に上洛を要請
信長による義昭擁立に同行し上洛
三好三人衆の襲撃から義昭を守る。『信長公記』に初めて名が登場
木下秀吉らと共に京都の行政を担当
朝倉攻めの撤退戦で殿軍を務め、防戦に成功
織田・徳川連合軍として参加
焼き討ちで武功を挙げ、近江国滋賀郡5万石を拝領。坂本城を築城
将軍義昭と袂を分かち、石山城・今堅田城の戦いに信長直臣として参戦
近江坂本に居城を構える。琵琶湖水運を押さえる要衝
信長から惟任の姓を賜り、従五位下日向守に任官。丹波攻略を命じられる
波多野秀治の裏切りにより敗走(赤井の呼び込み戦)
正室の煕子が坂本城で病死
光秀の三女・珠(後のガラシャ)が細川忠興に嫁ぐ
八上城を落とし、8月には黒井城も攻略。丹波国を完全に平定
丹波一国を加増され合計約34万石。佐久間信盛折檻状でも信長が光秀を絶賛
京都御馬揃えの運営責任者を務める。明智家法・家中法度を制定
武田氏滅亡の甲州征伐に信長に従軍
安土城での徳川家康饗応役を務めた後、秀吉支援のため出陣を命じられる
愛宕山に参拝し、連歌師・里村紹巴らと愛宕百韻を催す
中国大返しで戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗北。小栗栖で落ち武者狩りに遭い落命。享年55
※ 年齢は数え年で表記しています。数え年は生まれた年を1歳とし、元日を迎えるごとに加算する日本の伝統的な年齢の数え方です。
概要
明智光秀は、織田信長の重臣として丹波平定をはじめとする数々の軍功を挙げ、近江国滋賀郡と丹波国一国を合わせた約34万石を領した戦国大名である。内政・軍事の両面に優れた手腕を発揮し、京都周辺の行政を統括する織田政権の要として機能した。
天正10年(1582年)6月2日、本能寺に宿泊していた主君・織田信長を約13,000の兵で急襲し、信長を自害に追い込んだ(本能寺の変)。しかし、中国地方から引き返した羽柴秀吉に山崎の戦いで敗北し、わずか11日後に落命した。
光秀の前半生は一次史料に乏しく不明な点が多い。本能寺の変の動機についても怨恨説・野望説・四国政策説など50以上の説が提唱されているが、現在も定説はなく「日本史最大のミステリー」と呼ばれている。
生涯
出自と前半生
明智光秀は享禄元年(1528年)、美濃国の土岐氏支流である明智氏に生まれたとされる。ただし生年については永正13年(1516年)説、大永6年(1526年)説なども存在し、確定していない。出生地も岐阜県可児市、恵那市明智町など6説ある。父は明智光綱とされるが、光国・光隆とも伝わり、実父が山岸信周(進士信周)であるとする説もある。
弘治2年(1556年)の長良川の戦いの後、斎藤義龍によって明智城を攻められ一族は離散。光秀は越前国の朝倉義景を頼り、長崎称念寺の門前で約10年間の浪人生活を送ったとされる。この期間の一次史料はほとんど存在しない。
足利義昭との出会いと織田信長への仕官
永禄9年(1566年)頃から足利義昭の側近として活動を始め、義昭と織田信長の仲介役を果たした。永禄11年(1568年)の義昭上洛に同行し、翌年の本圀寺の変では三好三人衆の襲撃から義昭を守り防戦した。この本圀寺の変が『信長公記』における光秀の初登場である。
その後、木下秀吉らと共に京都奉行の職務を担当するなど、信長・義昭双方に仕える立場にあった。元亀4年(1573年)、義昭が信長に敵対するに至り、光秀は義昭と袂を分かち信長の直臣となった。
坂本城主と丹波攻略
元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちで武功を挙げ、近江国滋賀郡5万石を拝領。琵琶湖水運の要衝に坂本城を築いた。天正3年(1575年)には惟任の姓を賜り従五位下日向守に任官、丹波攻略を命じられた。
丹波攻めは困難を極め、天正4年(1576年)には波多野秀治の裏切りにより一度敗走した。しかし天正7年(1579年)に八上城・黒井城を相次いで落とし、丹波一国を平定。翌年には丹波一国を加増され、合計約34万石を領する大大名となった。信長が佐久間信盛に送った折檻状でも光秀の働きは絶賛されている。
本能寺の変と最期
天正10年(1582年)5月、信長から羽柴秀吉支援のための中国出陣を命じられた光秀は、6月1日に丹波亀山城を出陣。しかし軍勢を京都に向け、翌6月2日早朝、本能寺に宿泊中の信長を約13,000の兵で急襲した。信長は近習わずか百人足らずで抵抗したが自害し、嫡男・信忠も二条御新造で自刃した。
光秀は直ちに近畿一帯の制圧に動いたが、細川藤孝・忠興父子や筒井順慶ら有力大名の協力を得られなかった。中国地方から「中国大返し」で引き返した羽柴秀吉と6月13日に山崎で激突したが敗北。敗走中に小栗栖で落ち武者狩りの百姓に襲われ落命した。享年55。天下を取ったのはわずか11日間であった。
評価
明智光秀は本能寺の変の「主殺し」として長く否定的に評価されてきたが、近年の研究では織田政権における有能な行政官・軍事指揮官としての側面が再評価されている。丹波統治における善政は地元に「光秀公」として慕われる伝承を生み、福知山市では光秀を祀る御霊神社が現在も信仰を集めている。
ルイス・フロイスは光秀を「裏切りや密会を好む」と評する一方で、「才知、深慮、狡猾さにおいて信長の家臣のうち最も優れた人物」とも記している。
よくある疑問
明智光秀はなぜ本能寺の変を起こしたのか?
光秀の動機については怨恨説・野望説・四国政策説・不安説など50以上の説が提唱されていますが、現在も定説はありません。確実な一次史料が乏しく、「日本史最大のミステリー」とも呼ばれています。
明智光秀の前半生はなぜ不明なのか?
光秀が歴史の表舞台に登場するのは永禄年間(1560年代)以降で、それ以前の一次史料がほとんど存在しません。越前国の朝倉義景のもとで浪人していた時代が長く、出自も土岐明智氏の傍流とされますが確証がありません。
明智光秀と正室・煕子の関係は?
光秀と正室・煕子は仲が良かったとされ、側室を置かなかったという伝承があります。ただし『鈴木叢書』所収の「明智系図」には側室の子の記載もあり、伝承と史料には食い違いがあります。煕子は天正4年(1576年)に坂本城で病死しました。
関連史料・書籍
- -信長公記(太田牛一)一次史料
- -明智軍記研究書
- -フロイス日本史(ルイス・フロイス)一次史料
- -明智光秀(高柳光寿)研究書
- -明智光秀 織田政権の司令塔(福島克彦)研究書
- -兼見卿記(吉田兼見)一次史料
- -多聞院日記一次史料
最終更新日: 2026年04月04日





