— 人物紹介 —
概要
明智光秀は、織田信長の重臣として丹波平定をはじめとする数々の軍功を挙げ、近江国滋賀郡と丹波国一国を合わせた約34万石を領した戦国大名である。内政・軍事の両面に優れた手腕を発揮し、京都周辺の行政を統括する織田政権の要として機能した。
天正10年(1582年)6月2日、本能寺に宿泊していた主君・織田信長を約13,000の兵で急襲し、信長を自害に追い込んだ(本能寺の変)。しかし、中国地方から引き返した羽柴秀吉に山崎の戦いで敗北し、わずか11日後に落命した。
光秀の前半生は一次史料に乏しく不明な点が多い。本能寺の変の動機についても怨恨説・野望説・四国政策説など50以上の説が提唱されているが、現在も定説はなく「日本史最大のミステリー」と呼ばれている。
生涯
出自と前半生
明智光秀は享禄元年(1528年)、美濃国の土岐氏支流である明智氏に生まれたとされる。ただし生年については永正13年(1516年)説、大永6年(1526年)説なども存在し、確定していない。出生地も岐阜県可児市、恵那市明智町など6説ある。父は明智光綱とされるが、光国・光隆とも伝わり、実父が山岸信周(進士信周)であるとする説もある。
弘治2年(1556年)の長良川の戦いの後、斎藤義龍によって明智城を攻められ一族は離散。光秀は越前国の朝倉義景を頼り、長崎称念寺の門前で約10年間の浪人生活を送ったとされる。この期間の一次史料はほとんど存在しない。
足利義昭との出会いと織田信長への仕官
永禄9年(1566年)頃から足利義昭の側近として活動を始め、義昭と織田信長の仲介役を果たした。永禄11年(1568年)の義昭上洛に同行し、翌年の本圀寺の変では三好三人衆の襲撃から義昭を守り防戦した。この本圀寺の変が『信長公記』における光秀の初登場である。
その後、木下秀吉らと共に京都奉行の職務を担当するなど、信長・義昭双方に仕える立場にあった。元亀4年(1573年)、義昭が信長に敵対するに至り、光秀は義昭と袂を分かち信長の直臣となった。
坂本城主と丹波攻略
元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちで武功を挙げ、近江国滋賀郡5万石を拝領。琵琶湖水運の要衝に坂本城を築いた。天正3年(1575年)には惟任の姓を賜り従五位下日向守に任官、丹波攻略を命じられた。
丹波攻めは困難を極め、天正4年(1576年)には波多野秀治の裏切りにより一度敗走した。しかし天正7年(1579年)に八上城・黒井城を相次いで落とし、丹波一国を平定。翌年には丹波一国を加増され、合計約34万石を領する大大名となった。信長が佐久間信盛に送った折檻状でも光秀の働きは絶賛されている。
本能寺の変と最期
天正10年(1582年)5月、信長から羽柴秀吉支援のための中国出陣を命じられた光秀は、6月1日に丹波亀山城を出陣。しかし軍勢を京都に向け、翌6月2日早朝、本能寺に宿泊中の信長を約13,000の兵で急襲した。信長は近習わずか百人足らずで抵抗したが自害し、嫡男・信忠も二条御新造で自刃した。
光秀は直ちに近畿一帯の制圧に動いたが、細川藤孝・忠興父子や筒井順慶ら有力大名の協力を得られなかった。中国地方から「中国大返し」で引き返した羽柴秀吉と6月13日に山崎で激突したが敗北。敗走中に小栗栖で落ち武者狩りの百姓に襲われ落命した。享年55。天下を取ったのはわずか11日間であった。
評価
明智光秀は本能寺の変の「主殺し」として長く否定的に評価されてきたが、近年の研究では織田政権における有能な行政官・軍事指揮官としての側面が再評価されている。丹波統治における善政は地元に「光秀公」として慕われる伝承を生み、福知山市では光秀を祀る御霊神社が現在も信仰を集めている。
ルイス・フロイスは光秀を「裏切りや密会を好む」と評する一方で、「才知、深慮、狡猾さにおいて信長の家臣のうち最も優れた人物」とも記している。





