忍城の戦い
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豊臣軍到着
石田三成・大谷吉継・長束正家が忍城に到着。大宮口に本営を設け攻撃するも城の守りが固く容易に陥らず
秀吉が水攻めを指示
秀吉から三成に水攻めの指示が届く。三成は積極的な攻城戦を主張していたが、秀吉の命に従い堤防築造を開始
三成、丸墓山古墳に布陣
三成は周囲を一望できる丸墓山古墳に陣を構え、大谷吉継・長束正家・直江兼続・佐竹義宣・宇都宮国綱らの軍勢で忍城を包囲
石田堤完成・水攻め開始
近隣の農民を雇い昼夜を問わず工事を行い、わずか数日で総延長約28kmの石田堤を築造。利根川の水を引き入れ水攻めを開始するが、本丸は沈まず「忍の浮き城」と呼ばれる
堤防決壊
豪雨で増水する中、下忍口守備の本庄泰展が脇本利助・坂本兵衛を派遣して堤防2箇所を破壊。豊臣軍約270人が溺死し周辺は泥沼化
援軍到着も落城せず
浅野長政、上杉景勝、前田利家らが攻城軍に加わるも忍城は落ちず。小田原城開城(7月5日)後も抵抗を継続
開城
小田原で降伏した城主・成田氏長が秀吉の求めに応じて城兵に降伏を勧め、忍城は開城。北条方の支城で最後まで持ちこたえた城となった
概要
忍城の戦いは、天正18年(1590年)に豊臣秀吉の小田原征伐の一環として行われた攻城戦である。石田三成が主将として約3万の兵を率い、成田氏の本拠・忍城(現在の埼玉県行田市)を攻撃した。三成は秀吉の命により水攻めを実施し、総延長約28kmの堤防「石田堤」を築いたが、本丸は水没せず「忍の浮き城」と呼ばれた。忍城は小田原城開城後も抵抗を続け、北条方の支城で最後まで持ちこたえた城となった。
この水攻めは備中高松城の戦い・太田城の戦いとともに日本三大水攻めの一つに数えられる。
背景
小田原征伐の開始
豊臣秀吉は四国征伐・九州征伐を経て、天下統一に向け関東の後北条氏討伐を決定した。秀吉は徳川家康を介して北条氏政に上洛を促したが拒否され、天正18年(1590年)に大軍を動員して小田原攻めを開始した。
忍城の守り
忍城は周囲を元荒川・星川が流れる天然の要害で、関東七名城の一つに数えられていた。城主・成田氏長と成田泰親は小田原城に籠城していたため、忍城では城代の成田泰季、その嫡男・成田長親、正木丹波守らが守備にあたった。守備兵力は侍69人、足軽420人、その他雑兵・町民百姓を含め約3,000人であった。
戦いの経過
豊臣軍の攻撃と水攻めの決定
6月5日頃、石田三成・大谷吉継・長束正家が忍城に到着し攻撃を開始したが、城の守りが固く容易に陥落しなかった。北国勢の前田利家・上杉景勝・真田昌幸らも合流して攻撃したが、忍城は沼や河川を堀として効果的に利用した堅城であった。
6月12日、秀吉から三成に水攻めの指示が下された。三成自身は積極的な攻城戦を主張していたが、秀吉の命に従い堤防築造に着手した。三成は丸墓山古墳の頂上に本陣を構え、周囲を俯瞰して指揮を執った。
石田堤の築造と水攻め
三成は近隣の農民に昼は米一升に永楽銭六十文、夜は米一升に永楽銭百文の報酬を与え、昼夜を問わず工事を行った。わずか数日で総延長約28kmにも及ぶ堤防(石田堤)を完成させ、利根川の水を引き入れて水攻めを開始した。
しかし予想に反して本丸は水没せず、まるで浮いているかのように見えたことから「忍の浮き城」と呼ばれた。
堤防決壊と泥沼化
6月18日、降り続いた豪雨で水位が上昇する中、下忍口を守備する本庄泰展が配下の脇本利助・坂本兵衛を派遣し、夜半に堤防を2箇所破壊した。溜まった水が一気に溢れ出して豊臣軍約270人が溺死し、周辺は泥沼化して馬の蹄さえ立たない状況となった。
開城
7月初旬には浅野長政が、7月6日頃には上杉景勝・前田利家らも攻城軍に加わったが、忍城はなおも落ちなかった。7月5日に小田原城が開城し、北条方の支城がことごとく落とされた後も忍城の抵抗は続いた。最終的に、小田原で降伏した城主・成田氏長が秀吉の求めに応じて城兵に降伏を勧め、7月16日に忍城は開城した。
結果と影響
忍城は北条方の支城で最後まで持ちこたえた城となった。後世の軍記物では水攻めの失敗が三成の「戦下手」の証とされたが、近年の研究では水攻めを主導したのは秀吉自身であり、三成はその命令を実行する立場にあったことが明らかになっている。
忍城攻めに参加した大谷吉継・真田昌幸・佐竹義宣・多賀谷重経らは、いずれも10年後の関ヶ原の戦いで西軍に属するか、それに近い立場を取っており、この戦いで築かれた三成との信頼関係がその後の行動にも影響を与えたと考えられている。
最終更新日: 2026年04月19日




