長谷堂城の戦い
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上杉軍出陣
直江兼続率いる上杉軍約25,000人が米沢から最上領へ侵攻を開始
畑谷城落城
城将・江口光清以下500人が玉砕覚悟で抵抗するも落城。上杉軍にも約1,000人の死傷者
長谷堂城攻撃開始
兼続は菅沢山に本陣を置き、約18,000人で長谷堂城を力攻め。志村光安ら1,000人が防戦
志村光安の夜襲
志村は200名の決死隊で春日元忠軍に夜襲。上杉軍は同士討ちを起こし250人の首を取られる
上山城攻め・再攻撃
別働隊4,000人が上山城を攻めるも里見民部の挟撃戦術で大敗。長谷堂城への再攻撃も失敗
援軍到着・戦況膠着
伊達政宗が派遣した留守政景隊3,000人が到着。最上義光も山形城から出陣し、戦況は膠着
総攻撃と関ヶ原敗報
上杉軍が総攻撃を敢行するも上泉泰綱が討死。同日、関ヶ原で西軍大敗の情報が届く
撤退戦
上杉軍撤退開始。最上・伊達連合軍が追撃するも、兼続自ら殿を務め米沢へ帰還
概要
長谷堂城の戦いは、慶長5年(1600年)9月に出羽国で行われた上杉軍と最上・伊達連合軍の戦いである。関ヶ原の戦いとほぼ同時期に行われたことから「北の関ヶ原」と呼ばれる。
直江兼続率いる上杉軍約25,000人が最上義光の領地に侵攻し、長谷堂城を約2週間にわたって攻撃したが、志村光安ら約1,000人の守備兵の頑強な抵抗により攻略できなかった。関ヶ原本戦で西軍が敗れると上杉軍は撤退を開始し、兼続自ら殿を務めた見事な退却は後世まで語り草となった。
背景
上杉景勝が慶長3年(1598年)に会津120万石に移封されると、上杉領は最上領によって会津・置賜地方と庄内地方に分断された。直江兼続はこの分断された領国の連絡路として朝日軍道を整備していた。一方、最上義光にとっても仇敵の上杉氏に南と西から挟まれる状況となり、両氏の対立は避けられない情勢にあった。
慶長5年(1600年)、徳川家康の会津征伐に対し景勝は上洛を拒否。家康が石田三成の挙兵を知り反転西上すると、奥羽の東軍諸将も自領に引き上げ、最上義光は孤立する形となった。上杉氏は義光に降伏を迫ったが、義光が秋田実季と結び庄内挟撃を企てる形跡を察知すると、出陣を決定した。
戦いの経過
上杉軍の侵攻
慶長5年9月8日、直江兼続率いる上杉軍は米沢から最上領へ侵攻を開始した。上杉軍の総兵力は約25,000人に対し、最上軍は約7,000人に過ぎなかった。
9月12日、上杉軍は畑谷城を包囲した。城将・江口光清以下約500人は義光の撤退命令を拒否して玉砕覚悟で抵抗し、上杉軍にも約1,000人の死傷者を出させたが、その日のうちに落城した。
長谷堂城の攻防
兼続は畑谷城攻略後、長谷堂城近くの菅沢山に本陣を構えた。長谷堂城は山形城の南西約8キロに位置する最重要支城であり、ここが落ちれば山形城攻略が現実的となる要衝であった。
9月15日、兼続は約18,000人で力攻めを敢行した。しかし志村光安以下約1,000人の守備兵が防戦し、翌16日には200名の決死隊で春日元忠軍に夜襲を仕掛けた。これにより上杉軍は同士討ちを起こし、志村は兼続の本陣近くまで攻め寄って約250人の首を挙げた。この夜襲における鮭延秀綱の戦いぶりには、兼続も「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と称えたという。
9月17日、別働隊の篠井康信・横田旨俊ら4,000人が上山城を攻めたが、守将・里見民部の挟撃戦術に遭い大将の本村親盛を討たれるなど大敗した。この別働隊は最後まで兼続の本隊に合流できなかった。長谷堂城への再攻撃でも、城の周囲が深田のため人馬が足をとられ、最上軍の射撃に苦しんだ。
援軍と膠着
9月21日、伊達政宗が派遣した留守政景隊3,000人が山形に到着。9月25日には最上義光も山形城を出陣し、戦況は膠着した。9月29日、兼続は総攻撃を命じたが、上泉泰綱が討ち取られるなど攻略は成らなかった。
撤退戦
この9月29日、関ヶ原で西軍が大敗したという情報が兼続のもとにもたらされた。兼続は自害しようとしたが前田利益に諫められ撤退を決断したとされる。
10月1日、上杉軍が撤退を開始すると最上・伊達連合軍が追撃に出た。陣頭に立つ最上義光の兜に銃弾が当たるなど激戦となったが、兼続は自ら畑谷城に籠もって殿を務め、前田利益・水原親憲らの奮戦もあって追撃を退けた。10月4日、兼続は米沢城に帰還した。
結果と影響
長谷堂城の戦いは、最上軍の防衛成功と上杉軍の撤退に終わった。撤退後、最上軍は全戦線で反攻に転じ、上杉軍が占領していた庄内地方を奪還した。
戦後、最上義光はこの戦功を徳川家康に認められ、庄内地方の領有権を獲得して出羽山形藩57万石の大藩となった。一方、上杉景勝は庄内・会津などを没収され、米沢30万石に減封された。
兼続の撤退戦の采配は後世まで語り草となり、『最上義光記』には「直江は近習ばかりにて少も崩れず」「この勢に辟易して追い引き返しければ、直江も虎口を逃れ、敗軍集めて、心静かに帰陣しけり」と記されている。最上義光は兼続を「直江少しも臆せず、心静かに陣払い」と評し、旧日本陸軍参謀本部の『日本戦史』でも取り上げられている。
最終更新日: 2026年05月17日

