— 人物紹介 —
概要
伊達政宗は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した奥州の武将で、伊達氏第17代当主・仙台藩初代藩主。幼少期に疱瘡で右目を失い「独眼竜」の異名で知られる。
天正12年(1584年)に18歳で家督を相続すると、わずか5年で南奥州の覇権を確立。天正17年(1589年)の摺上原の戦いでは蘆名氏を滅ぼして会津を制圧し、奥州屈指の大領国を築いた。しかし豊臣秀吉の惣無事令に背いたため会津を没収され、その後も一揆煽動の嫌疑で減封を受けながらも、巧みな処世術で伊達家を存続させた。
関ヶ原の戦いでは東軍に属し、慶長6年(1601年)に仙台に居城を移して仙台藩62万石の基礎を築いた。慶長遣欧使節の派遣に代表される国際的視野、料理・能・茶の湯に通じた文化人としての側面など、多彩な顔を持つ戦国の傑物である。
生涯
出生と隻眼
永禄10年(1567年)、伊達輝宗の嫡男として出羽国で誕生。幼名は梵天丸。母は最上義光の妹・義姫。幼少期に疱瘡を患い右目を失明する。天正5年(1577年)に元服し、伊達家中興の祖・第9代当主にちなんで「政宗」と名乗った。天正7年(1579年)、三春城主・田村清顕の娘・愛姫を正室に迎えた。
家督相続と父の死
天正12年(1584年)、父・輝宗の隠居により18歳で家督を相続。翌天正13年(1585年)、大内定綱を攻めて小手森城で撫で斬りを行い、近隣諸国を震撼させた。しかし同年10月、和議の礼に訪れた二本松城主・畠山義継に父・輝宗が拉致される事件が発生。政宗は義継を追撃し、鉄砲を放って輝宗もろとも殺害した(粟ノ巣の変)。
父の弔い合戦として二本松城を包囲するが、佐竹氏率いる約3万の南奥州連合軍と人取橋で激突。殿軍・鬼庭左月斎の決死の防戦により辛くも退却に成功した。
摺上原の戦いと南奥州制覇
天正16年(1588年)の大崎合戦で敗北するなど苦境に立たされるが、母・義姫の仲介による最上氏との停戦や、大内定綱の調略成功により体勢を立て直した。
天正17年(1589年)6月、蘆名義広と磐梯山麓の摺上原で決戦に及ぶ。猪苗代盛国の寝返りにより黒川城への直進路を確保した政宗は、風向きの変化を味方につけて蘆名軍を壊滅させた。義広は黒川城を捨てて佐竹家に逃れ、戦国大名としての蘆名氏は滅亡。政宗は出羽・陸奥にまたがる広大な領国を築き上げた。
豊臣政権への服属
しかし、この拡大は豊臣秀吉の惣無事令に違反する行為であった。天正18年(1590年)の小田原征伐に遅参しながらも参陣して秀吉に服属。会津領を没収されたが、伊達家本領72万石は安堵された。翌年の葛西大崎一揆では煽動が露見し、米沢から岩出山58万石に減転封された。
文禄2年(1593年)の朝鮮出兵では、伊達家の絢爛豪華な軍装が京都の人々を驚嘆させ、「伊達者」の語源になったとも伝わる。
関ヶ原と仙台開府
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、家康から旧領回復を許す「百万石のお墨付き」を受け取るも、結果的に奪還できたのは刈田郡2万石のみであった。南部領での一揆煽動も発覚したが不問に付され、領地は62万石で落ち着いた。
慶長6年(1601年)、仙台に居城を移して城と城下町の建設を開始。仙台藩の基盤を築くとともに、北上川水系の開拓や運河の整備など領国の開発に尽力した。
慶長遣欧使節と晩年
慶長18年(1613年)、スペインとの通商を企図して支倉常長をヨーロッパに派遣(慶長遣欧使節)。日本人がヨーロッパへ政治外交使節を派遣した史上初の快挙であった。
大坂の陣にも参陣し、道明寺の戦いでは真田信繁の反撃を受けるなど激戦を経験した。晩年は3代将軍・徳川家光から「伊達の親父殿」と慕われ、領国開発と文化の振興に力を注いだ。寛永13年(1636年)5月24日、江戸にて死去。享年70。
評価
伊達政宗は「あと20年早く生まれていれば天下を取れた」と評される戦国武将である。実際には秀吉の惣無事令発令後も戦争を続行し、一揆の煽動や敵対勢力への工作など権謀術数を駆使して領国拡大を図った野心家であった。
一方で料理・能・茶の湯・和歌に通じた文化人でもあり、仙台味噌の開発や瑞巌寺の再興など、政宗が残した文化遺産は現代の仙台にも息づいている。慶長遣欧使節の派遣に見られる国際的視野は、戦国大名の中でも際立った先見性を示すものであった。




