— 人物紹介 —
概要
立花宗茂は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。筑後柳河藩の初代藩主である。豊後の戦国大名・大友氏の重臣、高橋紹運の長男として生まれ、同じく大友家の重臣・立花道雪の婿養子となって立花家を継いだ。
その武勇は若くして九州に鳴り響いた。島津の大軍を相手に立花山城を守り抜き、豊臣秀吉の九州平定で先鋒として活躍。文禄・慶長の役では碧蹄館の戦いなどで明の大軍を破り、「鬼将軍」と恐れられた。秀吉は宗茂を「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と並び称し、その武名は後世「西国無双」とも称えられている。
関ヶ原の戦いでは秀吉への恩義から西軍に属し、大津城を攻め落とすも本戦に間に合わず、戦後に改易された。しかしその器量を惜しまれて徳川家に召し出され、大坂の陣などでの働きを経て、元和6年(1620年)には旧領・筑後柳川への復帰を果たす。西軍に与して改易されながら旧領を回復した、唯一の大名であった。武勇に秀でるだけでなく、温厚誠実で義理堅く、家臣や領民から厚く慕われた人物として知られる。
生涯
出生と立花家相続
永禄10年(1567年)、大友氏の重臣・高橋紹運の長男として豊後国国東郡筧に生まれた。母は斎藤鎮実の妹・宋雲院。幼名を千熊丸といい、父が高橋氏の名跡を継いだことから高橋家の跡取りとして育てられ、主君・大友義統より偏諱を受けて高橋統虎と名乗った。
天正9年(1581年)、男子のいない立花道雪が、宗茂の優れた器量を見込んで養子に迎えたいと強く望んだ。実父・紹運は自らの長男を手放すことを惜しんで一度は拒んだが、道雪の度重なる懇請に折れ、宗茂は道雪の娘・誾千代の婿養子として立花家に入る。同年の第二次太宰府石坂の戦いを初陣とし、立花家の厳しい薫陶のもとで武将として頭角を現していった。
島津との死闘と九州平定
天正13年(1585年)に養父・道雪が陣没すると、九州の情勢は急を告げる。翌天正14年(1586年)、九州統一を目指す島津軍5万が筑前へ侵攻した。実父・高橋紹運はわずかな手勢とともに岩屋城に籠もって徹底抗戦の末に玉砕したが、宗茂は立花山城を死守。偽りの降伏で島津本陣に奇襲をかけて数百の首級を挙げ、撤退する島津軍を追撃して岩屋・宝満の2城を奪還した。秀吉はこの働きを「その忠義・剛勇ともに鎮西一」と激賞している。
天正15年(1587年)、秀吉の九州平定では先鋒として肥後・薩摩へ攻め込み、その功によって筑後柳川に8万石(のちの検地で約9万石)を与えられ、大友氏から独立した直臣大名となった。同年に勃発した肥後国人一揆の鎮圧でも、弟・高橋統増とともに巧みな伏兵と鉄砲戦術で一揆勢を撃破し、武名を高めた。
朝鮮の役と「西国無双」
天正16年(1588年)に上洛して豊臣姓を賜り、天正18年(1590年)の小田原征伐では秀吉から「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と評された。文禄元年(1592年)からの文禄の役では小早川隆景の六番隊として朝鮮へ渡海し、各地で奮戦する。
なかでも文禄2年(1593年)の碧蹄館の戦いでは先陣を務め、寡兵をもって李如松率いる明の大軍を撃破した。隆景は「立花の3千は他家の1万に匹敵する」と讃え、秀吉からも「日本無双の勇将」との感状を受けている。慶長の役でも蔚山城の救援などで奮戦し、加藤清正をして「日本軍第一の勇将」と言わしめた。こうした朝鮮での戦功により柳川の所領は13万2千石へと加増され、宗茂は「鬼将軍」と恐れられた。その武名は後世「西国無双」とも称えられている。
関ヶ原と改易
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際し、宗茂は徳川家康から法外な恩賞を約束して東軍への味方を誘われたが、「秀吉公の恩義を忘れて東軍に付くくらいなら、命を絶ったほうがましだ」と言ってこれを退け、西軍に属した。そして毛利元康らとともに、東軍に通じて大津城に籠もった京極高次を攻める(大津城の戦い)。立花勢は鉄砲戦術を駆使して城を追い詰め、9月15日に開城させたが、その日はまさに関ヶ原本戦の当日であった。1万5千の軍勢が大津に釘付けにされて本戦に間に合わず、戦果は無に帰す。
大坂へ退いた宗茂は籠城抗戦を主張したが容れられず、本国・筑後柳川へ引き揚げた。その道中、実父の仇である島津義弘と同行し、敗走する島津軍を討とうという家臣を「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」と諫めて、むしろ護衛を申し出て友誼を結んだという。やがて柳川にも黒田・加藤・鍋島の連合軍が迫り、江上・八院の戦いで激戦を演じた末、宗茂は開城して改易され、浪人の身となった。
旧領復帰と晩年
浪人となった宗茂は、加藤清正や前田利長らの仕官の誘いを断り、付き従う家臣とともに江戸へ下った。慶長9年(1604年)、本多忠勝の推挙によって徳川家康に召し出され、御書院番頭として5千石を給される。慶長11年(1606年)には陸奥棚倉で大名に復帰し、大坂の陣では2代将軍・秀忠の参謀格として戦功を挙げた。
そして元和6年(1620年)、ついに旧領・筑後柳川10万9千石を与えられる。関ヶ原で西軍に与して改易されながら、旧領そのものへの復帰を果たしたのは宗茂ただ一人であった。晩年は徳川家光の相伴衆として戦国の物語を語り、寛永15年(1638年)には老躯を押して島原の乱に参陣している。同年、家督を養子・忠茂に譲って隠居し、立斎と号した。寛永19年(1643年)、江戸柳原の藩邸で死去。享年76。
評価
立花宗茂は、その武勇から「鬼将軍」と恐れられ、後世「西国無双」とも称えられた名将であり、豊臣秀吉や徳川家康といった天下人からも高く評価された。一方で、戦場での猛将ぶりとは対照的に、人となりは温厚で誠実、義理堅い人物として伝えられている。『名将言行録』は宗茂を「徳ありて驕らず、功ありて誇らず」と評し、家臣を子のように慈しんで信を集めたと記す。
その人物像を象徴するのが、秀吉への恩義を貫いて不利な西軍に身を投じ、改易されてなお旧領復帰を遂げた生涯である。武勇・知略・義理を兼ね備えた「武士の中の武士」として、宗茂は今日もなお高い人気を誇り、地元・柳川では養父・道雪、妻・誾千代とともに三柱神社に祭神として祀られている。





