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従四位下 侍従 飛騨守(左近将監) 立花宗茂立花宗茂の家紋
たちばな むねしげ · 1567–1643

立花宗茂

たちばな むねしげ
筑後柳川13万2千石(改易後、陸奥棚倉3万石を経て柳川10万9千石で復帰)筑後柳河藩初代藩主・大名
— 誕生 —
1567年09月20日(永禄10年)
豊後国国東郡筧(現在の大分県豊後高田市)
出典: 永禄10年8月18日。高橋紹運の長男として生まれる
— 死没 —
1643年01月15日
江戸柳原の藩邸(現在の東京都千代田区) · 病死
出典: 寛永19年11月25日没。享年76
— 領域 —
筑後柳川13万2千石(改易後、陸奥棚倉3万石を経て柳川10万9千石で復帰)
従四位下 侍従 飛騨守(左近将監)
立花は諦めず 無敗の立花宗茂
書籍

立花は諦めず 無敗の立花宗茂

近衛龍春

角川文庫

— 家族 —

※ 養父は豊後大友氏の重臣・立花道雪。男子のいない道雪の娘・誾千代の婿養子に迎えられ、立花家を継いだ

※ 生涯実子に恵まれず、家督は実弟・立花直次の四男である忠茂を養子に迎えて継がせた

※ 実妹の嘉也(慈光院)も養女として立花親家、のち細川興元に嫁いだ

両親

高橋紹運

宋雲院

正室・側室

正室

誾千代

光照院

立花道雪の娘

継室

八千子

瑞松院

矢島秀行の娘

継々室

菊子

長泉院

葉室頼宣の娘

養嗣子

(養子・養女)

立花忠茂

実父: 立花直次

柳河藩2代

(養子・養女)

やや

実父: 小田部統房

本多俊次室

(養子・養女)

於千

実父: 小田部統房

小野茂高室

(養子・養女)

菜緒

実父: 矢島重成

今川直房室

(養子・養女)

定照院

実父: 立花種次

伊達宗勝室

尚、赫々たれ 立花宗茂残照
書籍

尚、赫々たれ 立花宗茂残照

羽鳥好之

早川書房

— 年表 —
1567年09月
(1歳)
誕生

永禄10年8月18日、大友氏の重臣・高橋紹運(吉弘鎮理)の長男として豊後国国東郡筧に生まれる。母は斎藤鎮実の妹・宋雲院。幼名は千熊丸

1569年01月
(3歳)
高橋家の世継ぎに

永禄12年、父・紹運が断絶していた高橋氏の名跡を継いだため、高橋家の跡取りとして育てられる。主君・大友義統より偏諱を受けて元服し、高橋統虎と名乗った

1581年01月
(15歳)
立花道雪の婿養子となり初陣

天正9年、男子のいない立花道雪の強い望みにより、その娘・誾千代の婿養子となって立花家を継ぐ。同年、第二次太宰府石坂の戦いで初陣を飾った

1585年01月
(19歳)
養父・道雪の死

天正13年、筑後奪回戦の陣中で養父・立花道雪が病死。前年に島津・龍造寺勢の圧迫が強まる中、宗茂は立花山城の守りを任されていた

1586年01月
(20歳)
岩屋城の戦い・立花山城防衛

天正14年、島津軍5万が筑前へ侵攻。実父・紹運は岩屋城で玉砕したが、宗茂は立花山城を死守し、奇襲で島津本陣を破って岩屋・宝満の2城を奪還。秀吉から「その忠義・剛勇ともに鎮西一」と称えられた

1587年01月
(21歳)
秀吉の九州平定・柳川城主に

天正15年、豊臣秀吉の九州平定で先鋒として活躍。その功により筑後国柳川8万石(のちの検地で約9万石)を与えられ、大友氏から独立した直臣大名に取り立てられた

1587年10月
(21歳)
肥後国人一揆の鎮圧

天正15年、肥後で大規模な国人一揆が勃発。宗茂は弟・高橋統増とともに出陣し、巧みな伏兵と鉄砲戦術で一揆勢を撃破。秀吉に武功を重ねて高く評価された

1588年01月
(22歳)
上洛・豊臣姓を賜る

天正16年、上洛して従五位下侍従、次いで従四位下に叙任。羽柴の名字と豊臣姓を下賜され、豊臣大名としての地位を固めた

1590年01月
(24歳)
小田原征伐・「東西無双」

天正18年、小田原征伐に従軍。秀吉は諸大名の前で宗茂を「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と評し、その武将としての器量を激賞した

1592年01月
(26歳)
文禄の役

文禄元年、朝鮮出兵に小早川隆景の六番隊として参陣。東萊城の攻略など各地で奮戦した

1593年01月
(27歳)
碧蹄館の戦い

文禄2年、碧蹄館の戦いで先陣を務め、寡兵をもって明の大軍を撃破。小早川隆景に「立花の3千は他家の1万に匹敵する」と評され、武名を轟かせた

1597年01月
(31歳)
慶長の役・蔚山の後詰

慶長2年からの慶長の役では守備を担い、蔚山城に籠もる加藤清正の救援に少数で駆けつけて明・朝鮮軍を退け、清正から「日本軍第一の勇将」と絶賛されたと伝わる

1600年10月
(34歳)
関ヶ原の戦い・大津城の戦い

慶長5年、家康の誘いを退けて西軍に属し、毛利元康らとともに東軍の京極高次が籠る大津城を攻略。しかし開城した9月15日は関ヶ原本戦の当日で、戦果は無に帰した

1600年11月
(34歳)
改易・柳川開城

関ヶ原後、本国柳川へ黒田・加藤・鍋島の連合軍が迫る。江上・八院の戦いで激戦の末、黒田如水・加藤清正の説得を受けて開城し、改易されて浪人となった

1602年01月
(36歳)
正室・誾千代の死

慶長7年、肥後に移り住んでいた正室・誾千代が病没。享年34。これにより養父・立花道雪の血筋は絶えた

1603年01月
(37歳)
浪人として江戸へ

慶長8年、付き従う家臣とともに江戸へ下り、本多忠勝の世話で蟄居生活を送る。加藤清正や前田利長からの仕官の誘いはいずれも謝絶していた

1604年01月
(38歳)
徳川家康に召し出される

慶長9年、本多忠勝の推挙により将軍・徳川家康に召し出され、御書院番頭として5千石を給される。その実力は家康・秀忠に高く買われていた

1606年01月
(40歳)
陸奥棚倉で大名復帰

慶長11年、陸奥棚倉に1万石を与えられ、大名として復帰を果たした

1610年01月
(44歳)
棚倉3万石へ加増

慶長15年、加増を受けて陸奥棚倉3万石の領主となる。このころから「宗茂」と名乗った

1614年01月
(48歳)
大坂の陣

慶長19年からの大坂の陣では2代将軍・徳川秀忠の麾下に列して参謀格を務め、敵の動向を予言して的中させ、毛利勝永の軍勢を退けた

1620年01月
(54歳)
旧領・筑後柳川へ復帰

元和6年、旧領である筑後柳川10万9千石を与えられる。関ヶ原で西軍に属して改易された後、旧領そのものへの復帰を果たした唯一の大名となった

1622年01月
(56歳)
飛騨守に転任

元和8年、飛騨守に転任。戦国を知る古老として徳川家光の相伴衆に列し、戦国の物語を語る役目も担った

1638年01月
(72歳)
島原の乱・隠居

寛永15年、前年に勃発した島原の乱に参陣し、総大将・松平信綱を補佐。鋭い観察眼で黒田軍への夜襲を予告して的中させた。同年、家督を養子・忠茂に譲って隠居し、立斎と号した

1643年01月
(76歳)
死去

寛永19年11月25日、江戸柳原の藩邸で死去。享年76。実子に恵まれず、家督は甥の忠茂が継ぎ、柳河立花家は幕末まで存続した

※ 年齢は数え年で表記しています。数え年は生まれた年を1歳とし、元日を迎えるごとに加算する日本の伝統的な年齢の数え方です。

新装版 孤闘 立花宗茂
書籍

新装版 孤闘 立花宗茂

上田秀人

中公文庫

— 人物紹介 —

概要

立花宗茂は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。筑後柳河藩の初代藩主である。豊後の戦国大名・大友氏の重臣、高橋紹運の長男として生まれ、同じく大友家の重臣・立花道雪の婿養子となって立花家を継いだ。

その武勇は若くして九州に鳴り響いた。島津の大軍を相手に立花山城を守り抜き、豊臣秀吉の九州平定で先鋒として活躍。文禄・慶長の役では碧蹄館の戦いなどで明の大軍を破り、「鬼将軍」と恐れられた。秀吉は宗茂を「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と並び称し、その武名は後世「西国無双」とも称えられている。

関ヶ原の戦いでは秀吉への恩義から西軍に属し、大津城を攻め落とすも本戦に間に合わず、戦後に改易された。しかしその器量を惜しまれて徳川家に召し出され、大坂の陣などでの働きを経て、元和6年(1620年)には旧領・筑後柳川への復帰を果たす。西軍に与して改易されながら旧領を回復した、唯一の大名であった。武勇に秀でるだけでなく、温厚誠実で義理堅く、家臣や領民から厚く慕われた人物として知られる。

生涯

出生と立花家相続

永禄10年(1567年)、大友氏の重臣・高橋紹運の長男として豊後国国東郡筧に生まれた。母は斎藤鎮実の妹・宋雲院。幼名を千熊丸といい、父が高橋氏の名跡を継いだことから高橋家の跡取りとして育てられ、主君・大友義統より偏諱を受けて高橋統虎と名乗った。

天正9年(1581年)、男子のいない立花道雪が、宗茂の優れた器量を見込んで養子に迎えたいと強く望んだ。実父・紹運は自らの長男を手放すことを惜しんで一度は拒んだが、道雪の度重なる懇請に折れ、宗茂は道雪の娘・誾千代の婿養子として立花家に入る。同年の第二次太宰府石坂の戦いを初陣とし、立花家の厳しい薫陶のもとで武将として頭角を現していった。

島津との死闘と九州平定

天正13年(1585年)に養父・道雪が陣没すると、九州の情勢は急を告げる。翌天正14年(1586年)、九州統一を目指す島津軍5万が筑前へ侵攻した。実父・高橋紹運はわずかな手勢とともに岩屋城に籠もって徹底抗戦の末に玉砕したが、宗茂は立花山城を死守。偽りの降伏で島津本陣に奇襲をかけて数百の首級を挙げ、撤退する島津軍を追撃して岩屋・宝満の2城を奪還した。秀吉はこの働きを「その忠義・剛勇ともに鎮西一」と激賞している。

天正15年(1587年)、秀吉の九州平定では先鋒として肥後・薩摩へ攻め込み、その功によって筑後柳川に8万石(のちの検地で約9万石)を与えられ、大友氏から独立した直臣大名となった。同年に勃発した肥後国人一揆の鎮圧でも、弟・高橋統増とともに巧みな伏兵と鉄砲戦術で一揆勢を撃破し、武名を高めた。

朝鮮の役と「西国無双」

天正16年(1588年)に上洛して豊臣姓を賜り、天正18年(1590年)の小田原征伐では秀吉から「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と評された。文禄元年(1592年)からの文禄の役では小早川隆景の六番隊として朝鮮へ渡海し、各地で奮戦する。

なかでも文禄2年(1593年)の碧蹄館の戦いでは先陣を務め、寡兵をもって李如松率いる明の大軍を撃破した。隆景は「立花の3千は他家の1万に匹敵する」と讃え、秀吉からも「日本無双の勇将」との感状を受けている。慶長の役でも蔚山城の救援などで奮戦し、加藤清正をして「日本軍第一の勇将」と言わしめた。こうした朝鮮での戦功により柳川の所領は13万2千石へと加増され、宗茂は「鬼将軍」と恐れられた。その武名は後世「西国無双」とも称えられている。

関ヶ原と改易

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際し、宗茂は徳川家康から法外な恩賞を約束して東軍への味方を誘われたが、「秀吉公の恩義を忘れて東軍に付くくらいなら、命を絶ったほうがましだ」と言ってこれを退け、西軍に属した。そして毛利元康らとともに、東軍に通じて大津城に籠もった京極高次を攻める(大津城の戦い)。立花勢は鉄砲戦術を駆使して城を追い詰め、9月15日に開城させたが、その日はまさに関ヶ原本戦の当日であった。1万5千の軍勢が大津に釘付けにされて本戦に間に合わず、戦果は無に帰す。

大坂へ退いた宗茂は籠城抗戦を主張したが容れられず、本国・筑後柳川へ引き揚げた。その道中、実父の仇である島津義弘と同行し、敗走する島津軍を討とうという家臣を「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」と諫めて、むしろ護衛を申し出て友誼を結んだという。やがて柳川にも黒田・加藤・鍋島の連合軍が迫り、江上・八院の戦いで激戦を演じた末、宗茂は開城して改易され、浪人の身となった。

旧領復帰と晩年

浪人となった宗茂は、加藤清正や前田利長らの仕官の誘いを断り、付き従う家臣とともに江戸へ下った。慶長9年(1604年)、本多忠勝の推挙によって徳川家康に召し出され、御書院番頭として5千石を給される。慶長11年(1606年)には陸奥棚倉で大名に復帰し、大坂の陣では2代将軍・秀忠の参謀格として戦功を挙げた。

そして元和6年(1620年)、ついに旧領・筑後柳川10万9千石を与えられる。関ヶ原で西軍に与して改易されながら、旧領そのものへの復帰を果たしたのは宗茂ただ一人であった。晩年は徳川家光の相伴衆として戦国の物語を語り、寛永15年(1638年)には老躯を押して島原の乱に参陣している。同年、家督を養子・忠茂に譲って隠居し、立斎と号した。寛永19年(1643年)、江戸柳原の藩邸で死去。享年76。

評価

立花宗茂は、その武勇から「鬼将軍」と恐れられ、後世「西国無双」とも称えられた名将であり、豊臣秀吉や徳川家康といった天下人からも高く評価された。一方で、戦場での猛将ぶりとは対照的に、人となりは温厚で誠実、義理堅い人物として伝えられている。『名将言行録』は宗茂を「徳ありて驕らず、功ありて誇らず」と評し、家臣を子のように慈しんで信を集めたと記す。

その人物像を象徴するのが、秀吉への恩義を貫いて不利な西軍に身を投じ、改易されてなお旧領復帰を遂げた生涯である。武勇・知略・義理を兼ね備えた「武士の中の武士」として、宗茂は今日もなお高い人気を誇り、地元・柳川では養父・道雪、妻・誾千代とともに三柱神社に祭神として祀られている。

立花宗茂 戦国「最強」の武将
書籍

立花宗茂 戦国「最強」の武将

加来耕三

中公新書ラクレ

立花宗茂 将軍相伴衆としての後半生
書籍

立花宗茂 将軍相伴衆としての後半生

岡宏憲

宮帯出版社

— 問答 —
立花宗茂はなぜ「西国無双」と呼ばれた?
抜群の武勇によります。父・高橋紹運が島津の大軍に岩屋城で玉砕する中で立花山城を守り抜き、豊臣秀吉から「その忠義・剛勇ともに鎮西一」と称えられました。文禄の役の碧蹄館の戦いでは寡兵で明の大軍を撃破し、小早川隆景に「立花の3千は他家の1万に匹敵する」と評されています。秀吉は「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と並び称しています。こうした数々の武功から、宗茂は後世「西国無双」「鬼将軍」と称えられました。
大津城を落としたのに、なぜ立花宗茂は関ヶ原で負けた側になった?
宗茂は西軍に属し、毛利元康らとともに東軍の京極高次が籠る近江・大津城を攻めていました。激しい攻防の末に大津城を開城させましたが、その日(慶長5年9月15日)はまさに関ヶ原本戦の当日でした。1万5千の西軍が大津に釘付けにされたまま本戦に間に合わず、宗茂自身も戦果を活かせぬまま西軍敗北の報を受けて撤退。戦後に改易されました。
立花宗茂はどうやって旧領に復帰した?
改易後、宗茂は浪人となりながらも武名と人柄を惜しまれ、本多忠勝の推挙で徳川家康に召し出されました。陸奥棚倉で大名に復帰したのち、大坂の陣での働きなどを経て、元和6年(1620年)に旧領・筑後柳川10万9千石を与えられます。関ヶ原で西軍に属して改易された大名のうち、旧領そのものへの復帰を果たしたのは宗茂ただ一人でした。
— 参考史料 —
立花宗茂中野等研究書
立花宗茂と立花家の武将たち中野等・穴井綾香研究書
柳川藩叢書史料集
名将言行録岡谷繁実軍記・逸話集

最終更新日: 2026年06月28日