上杉景勝
※ 養父は叔父の上杉謙信。景勝の生母・仙桃院は謙信の姉にあたる
※ 嫡男・定勝の生母は継室の桂岩院(四辻氏)。正室・菊姫との間に子はなかった
両親
父
長尾政景
母
仙桃院
正室・側室
正室
菊姫
大儀院
武田信玄の娘
継室
桂岩院
四辻公遠の娘
子
嫡男
上杉定勝
母: 桂岩院
米沢藩2代藩主
(養子・養女)
畠山義真
実父: 畠山義春
秀吉への人質
永禄7年、父・長尾政景が溺死。春日山城に入って叔父・謙信の養子となり、喜平次顕景と名乗った
永禄9年、謙信の関東出兵が初陣と伝わる。以後、上田衆を率いて謙信政権下で重要な役割を担っていく
天正3年、謙信から諱「景勝」と弾正少弼の官途を譲られる。『上杉家軍役帳』では上杉一門衆筆頭に「御中城様」として記載され、後継者に擬せられた
天正6年3月13日、謙信が後継者を明示しないまま急死。北条氏出身のもう一人の養子・景虎との間で家督争い「御館の乱」が起こる
東上野の割譲と黄金を条件に武田勝頼と和睦し、後ろ盾を得て戦局を好転させる。勝頼の妹・菊姫を正室に迎えて甲越同盟を結んだ
天正7年3月、景虎は逃れた鮫ヶ尾城で城主に背かれて自害。上杉憲政・道満丸も討たれ、景勝が乱に勝利した
天正8年、越後の豪族も従い当主の地位を確立。上田長尾系の家臣を重用する体制を築いていった
天正9年、恩賞問題から新発田重家が織田信長と通じて離反。柴田勝家率いる織田軍が越中へ侵攻し、上杉家は危機に陥る
天正10年、織田軍が魚津城を攻略し滅亡の危機に立たされるが、6月2日の本能寺の変で信長が横死。織田軍の北征が頓挫し九死に一生を得た
旧武田領をめぐる争奪戦に参戦。北条氏直と争った末、北信濃4郡の割譲を条件に講和し、北信濃を支配下に置いた
天正11年、秀吉の仲介で織田政権と和睦。賤ヶ岳の戦いに呼応して越中へ出兵した
天正14年、上洛して秀吉に臣従。左近衛少将に任官し、豊臣政権下の大名として命脈を保った
天正15年、秀吉の支援を得て長年抗争してきた新発田重家を討ち、ほぼ越後の再統一を果たした
天正16年、再上洛して豊臣姓と羽柴の名字を下賜され、従三位・参議に昇叙。清華家の家格に列した
天正17年、佐渡国の本間氏を討伐して佐渡を平定。越後・佐渡・庄内などにまたがる大領を築いた
文禄元年、秀吉の朝鮮出兵に従い5,000人を率いて肥前名護屋に駐屯。翌年には秀吉の名代として朝鮮へ渡海し、熊川に倭城を築いた
慶長3年、秀吉の命で会津120万石に加増移封され「会津中納言」と呼ばれる。東北諸大名と家康への抑えという重い使命を負った
慶長5年、家康の上洛要求を拒否。家老・直江兼続の挑発的な返書「直江状」が家康の会津征伐を招いたとされる
西軍に与し、直江兼続を総大将に最上領へ侵攻(慶長出羽合戦)。しかし関ヶ原本戦で西軍が敗れ、家康への降伏を余儀なくされた
慶長6年、家康に降伏謝罪して改易は免れたが、会津120万石から出羽米沢30万石へ大減封。家臣を減らさなかったため藩財政は困窮した
慶長9年、継室・桂岩院との間に嫡男・玉丸(定勝)が誕生。正室・菊姫はこの年に死去していた
慶長19年からの大坂の陣で徳川方として出陣。鴫野の戦いで戦功を挙げ、夏の陣では京都警備を担った
元和9年3月20日、米沢城で死去。享年69。2名の家臣が殉死した。嫡男・定勝が米沢藩を継ぎ、上杉家は幕末まで存続した
※ 年齢は数え年で表記しています。数え年は生まれた年を1歳とし、元日を迎えるごとに加算する日本の伝統的な年齢の数え方です。
概要
上杉景勝は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。豊臣政権の五大老の一人であり、米沢藩の初代藩主である。上田長尾氏の出身で、初名は長尾顕景。叔父である上杉謙信の養子となって上杉景勝と名を改めた。
実子のいない謙信が急死すると、同じく養子であった上杉景虎との間で家督相続をめぐる御館の乱が勃発。景勝はこれを制して謙信の後継者となり、上杉氏の当主となった。やがて豊臣秀吉に早くから臣従して厚い信任を得、五大老の一人として会津120万石を領する大大名へと上り詰める。
秀吉の死後は徳川家康と対立し、関ヶ原の戦いでは西軍に与して敗北。会津120万石から米沢30万石へと大きく減封されたが、家名は守り抜き、米沢藩上杉家は幕末まで続いた。寡黙で威厳ある主君として、直江兼続をはじめとする家臣たちの厚い敬慕を集めた。
生涯
出生と謙信の養子
弘治元年(1556年)、上田長尾氏当主・長尾政景の次男として越後魚沼郡の坂戸城下に生まれた。母は長尾景虎(後の上杉謙信)の姉・仙桃院であり、景勝は謙信の甥にあたる。さらに父母双方から越後守護を出した上条上杉氏の血を引いており、上杉氏を継ぐ正統性を備えていた。
永禄7年(1564年)、父・政景が溺死すると、景勝は春日山城に入って叔父・謙信の養子となる。永禄9年(1566年)の関東出兵を初陣とし、上田衆を率いて謙信政権の中で頭角を現していった。天正3年(1575年)には謙信から諱「景勝」と弾正少弼の官途を譲られ、『上杉家軍役帳』には上杉一門衆の筆頭として記され、謙信への尊称に似た「御中城様」と呼ばれるなど、事実上の後継者と目される地位に就いた。
御館の乱
天正6年(1578年)3月、謙信が後継者を明示しないまま急死すると、北条氏から養子に迎えられていた上杉景虎との間で家督相続をめぐる御館の乱が勃発する。景勝はいち早く春日山城の本丸と金蔵・武器庫を押さえて後継者を宣言し、御館に拠った景虎と争った。
当初は景虎を実家の北条氏や同盟者の武田勝頼が支援し、景勝は窮地に立たされる。しかし景勝は東上野の割譲と黄金を条件に武田勝頼と和睦し、勝頼の妹・菊姫を正室に迎えて甲越同盟を締結。最大の脅威を取り除いた。やがて徳川家康の駿河侵攻で勝頼が撤兵し、北条勢も豪雪に阻まれて越後深くへ進めぬまま撤退する。天正7年(1579年)、孤立した景虎は鮫ヶ尾城で自害し、景勝が乱を制した。天正8年(1580年)には残る抵抗勢力も鎮圧し、名実ともに上杉氏の当主となった。
織田の侵攻と豊臣大名化
御館の乱の混乱は深刻な傷を残した。恩賞争いから新発田重家が織田信長に通じて離反し、柴田勝家率いる織田の大軍が越中へ侵攻。天正10年(1582年)には魚津城が落城し、上杉家は滅亡寸前まで追い詰められた。だが同年6月、本能寺の変で信長が横死したことで織田軍の北征は頓挫し、上杉家は九死に一生を得る。
その後、景勝は織田政権から台頭した羽柴秀吉といち早く好を通じた。天正14年(1586年)には上洛して秀吉に臣従し、翌年には秀吉の支援を得て宿敵・新発田重家を討ち、越後をほぼ再統一する。佐渡や出羽庄内も平定し、文禄4年(1595年)には徳川家康・前田利家らとともに豊臣家の大老に列した。慶長3年(1598年)、会津120万石に加増移封され、「会津中納言」と呼ばれる大大名となった。
関ヶ原と米沢への減封
慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、家老・直江兼続が石田三成と懇意であった経緯などから、景勝は徳川家康と対立する。慶長5年(1600年)、家康の上洛要求を拒否し、兼続の挑発的な返書「直江状」が家康の会津征伐を招いた。家康が大軍を率いて会津へ向かう中、石田三成らが挙兵(関ヶ原の戦い)。家康が西へ引き返すと、景勝は直江兼続を総大将に最上領へ侵攻した(慶長出羽合戦)。
しかし関ヶ原本戦で西軍が敗れたため、景勝は家康への降伏を余儀なくされる。慶長6年(1601年)、上洛して謝罪し、改易こそ免れたものの、会津120万石から出羽米沢30万石へと大減封された。それでも景勝は120万石時代の家臣をほとんど解雇しなかったため、米沢藩は深刻な財政難を抱えることになる。以後は米沢藩の藩政確立に尽力し、大坂の陣では徳川方として出陣して戦功を挙げた。元和9年(1623年)、米沢城で死去。享年69。
評価
上杉景勝は、謙信の遺した上杉家を、御館の乱・織田の侵攻・関ヶ原の敗北という度重なる危機の中で守り抜いた人物として評価される。領国は越後一国から会津120万石へと拡大し、関ヶ原後には米沢30万石へと縮小したが、上杉の家名は幕末まで保たれた。
その人物像は、寡黙で威厳に満ちたものとして語り継がれている。家臣の前で一生に一度しか笑わなかったという伝説や、傍若無人で知られた前田慶次が景勝の前では威に打たれて振る舞いを慎んだという逸話は、その厳格な威厳を物語る。義を重んじる主君として直江兼続ら家臣の厚い忠誠を集め、後世には主従の絆の物語としても親しまれている。
最終更新日: 2026年06月21日





