従二位 権大納言 前田利家
まえだ としいえ · 1539–1599

前田利家

まえだ としいえ
加賀・能登・越中(加賀百万石)加賀藩主・前田氏の祖、豊臣政権五大老
— 誕生 —
1539年01月15日(天文8年)
尾張国愛知郡荒子(現在の愛知県名古屋市中川区荒子)
出典: 天文7年12月25日。生年は天文5年(1536年)説、天文6年(1537年)説もある

諸説

不明(天文5年(1536年)生説)- 秀吉と同年とする説(『耳塞ぎ餅』の伝承による)
不明(天文6年(1537年)生説)- 上記を訂正した近年の説
— 死没 —
1599年04月27日(慶長4年)
大坂自邸(現在の大阪府大阪市) · 病死
出典: 慶長4年閏3月3日。享年62(諸説により60〜64歳)
— 領域 —
加賀・能登・越中(加賀百万石)
従二位 権大納言
銀嶺のかなた(三) みやびの楯
書籍

銀嶺のかなた(三) みやびの楯

安部 龍太郎

文藝春秋

— 家族 —

両親

前田利昌(利春)

長齢院

正室・側室

正室

まつ

芳春院

利家の従妹

側室

千代保

寿福院

上木新兵衛の三女

側室

お岩

隆興院

笠間氏の娘

側室

お在

金晴院

小塚氏の娘

側室

お幸和

明運院

山本氏の娘

側室

阿千代

逞正院

葛野坊円福寺の五女

長男

前田利長

母: まつ

加賀藩初代藩主

次男

前田利政

母: まつ

前田土佐守家祖

三男

前田知好

母: お在

前田家臣

四男

前田利常

母: 千代保

加賀藩2代藩主

五男

前田利孝

母: お幸和

七日市藩初代藩主

六男

前田利貞

母: 阿千代

前田家臣

長女

母: まつ

前田長種室

次女

母: まつ

中川光重室

三女

摩阿姫

母: まつ

秀吉側室

四女

豪姫

母: まつ

秀吉養女

五女

与免

母: まつ

浅野幸長婚約者

六女

菊姫

母: お岩

秀吉養女

七女

千世

母: まつ

細川忠隆室

八女

母: お在

中川光忠室

九女

保智

母: お岩

篠原貞秀室

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書籍

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宝島社

— 年表 —
1539年01月
(1歳)
誕生

尾張国愛知郡荒子の前田利昌の四男として誕生。幼名は犬千代。生年については天文5年(1536年)説や天文6年(1537年)説もある

1551年01月
(14歳)
元服・織田信長に仕官

14歳のころ織田信長に仕え、元服して孫四郎利家と名乗る。当初は派手な格好をしたかぶき者であった

1552年01月
(15歳)
萱津の戦いで初陣

織田信友との萱津の戦いで初陣。朱塗りの三間半柄の槍を持って首級ひとつを挙げ、信長から「肝に毛が生えておるわ」と賞賛された

1556年09月
(19歳)
稲生の戦い

信長と弟・信行の家督争いで参戦。右目の下に矢を受けながらも矢を抜かずに敵将・宮井勘兵衛を討ち取り、信長を驚嘆させた

1558年01月
(21歳)
又左衛門・赤母衣衆筆頭・まつと婚姻

通称を又左衛門と改める。浮野の戦いの後、信長親衛隊・赤母衣衆の筆頭に抜擢され、従妹のまつを正室に迎えた

1559年01月
(22歳)
笄斬り事件で出奔

信長の同朋衆・拾阿弥を斬殺して織田家を出奔。柴田勝家らの取り成しで成敗は免れたが出仕停止処分となり、浪人暮らしとなる

1560年06月
(23歳)
桶狭間の戦いに無断参戦

出仕停止中ながら無断で桶狭間の戦いに参加し、朝の合戦で首一つ、本戦で二つの計三つの首級を挙げるが、帰参は許されなかった

1561年06月
(24歳)
森部の戦いで帰参

斎藤家の豪傑「頸取足立」こと足立六兵衛を討ち取る功績を挙げ、信長から300貫の加増を受けて織田家への帰参を許された

1569年01月
(32歳)
前田家家督相続

病弱な兄・利久に代わり信長から前田家の家督を継ぐよう命じられる。荒子前田家の当主となる

1570年05月
(33歳)
金ヶ崎の戦い

浅井・朝倉氏との金ヶ崎の戦いで、浅井氏の裏切りにより撤退する信長の警護を担当

1570年07月
(33歳)
姉川の戦い

織田・徳川連合軍として参戦。浅井助七郎を討ち取る功績を上げ、信長から「今にはじまらず比類なき槍」と賞賛された

1575年06月
(38歳)
長篠の戦い

佐々成政・野々村正成らと共に鉄砲奉行として参戦。撤退する武田軍を追撃中に右足を深く切られる重傷を負った

1575年09月
(38歳)
越前国府中3万3000石を拝領

越前一向一揆平定後、佐々成政・不破光治と共に「府中三人衆」と呼ばれ、柴田勝家与力として北陸方面軍に編成された

1581年08月
(44歳)
能登一国23万石拝領

信長から能登一国を与えられ、七尾城に入って大名となる。翌年、港湾部の小山に小丸山城を築城した

1582年06月
(45歳)
石動山の戦い

本能寺の変直後、能登国内の反乱勢力を討伐。石動山を焼き討ちし、千を超える首を晒すなど苛烈な処断で能登支配を強化した

1583年06月
(46歳)
賤ヶ岳の戦い

柴田軍として5,000を率いて布陣するが、合戦の最中に突如撤退。これが羽柴軍の勝利を決定づけた。戦後、降伏して秀吉に臣従

1583年06月
(46歳)
北ノ庄城の戦い・加賀加増

北ノ庄城攻めの先鋒を務め、柴田勝家を自害させる。戦後、加賀国2郡を加増され、本拠を能登から金沢城に移した

1584年10月
(47歳)
末森城の戦い

小牧・長久手の戦いに呼応した佐々成政の侵攻を、能登末森城で撃破。北陸方面で秀吉方の勝利に貢献した

1585年09月
(48歳)
富山の役

秀吉が10万の大軍で越中に侵攻。利家が先導役を務め、佐々成政を降伏させた。嫡子・利長が越中3郡を加増され前田一族で76万5千石となる

1586年04月
(49歳)
羽柴姓・筑前守に任官

秀吉から羽柴氏(名字)を名乗ることを許され、従四位下・左近衛権少将兼筑前守に叙任。北陸道の惣職的地位に上る

1590年02月
(53歳)
参議補任

正四位下に昇叙し、参議に補任。清華家の家格に列する。豊臣姓も下賜されていた

1590年08月
(53歳)
小田原征伐

上杉景勝・真田昌幸と共に北国勢の総指揮を執り、松井田城・鉢形城・八王子城などを攻略。戦後は奥羽の鎮圧に従事した

1592年04月
(55歳)
文禄の役で名護屋へ

朝鮮出兵の命により8,000の兵を率いて名護屋に到着。家康と共に秀吉の渡海を諫止し、名護屋に留まって諸将を統括した

1594年05月
(57歳)
権中納言に補任

従三位・権中納言に昇叙。毛利輝元・上杉景勝と並ぶ官位序列となり、豊臣政権内での地位を確立した

1598年05月
(61歳)
嫡子利長に家督譲り隠居・五大老就任

嫡子利長に家督を譲り隠居。しかし秀吉により五大老の上首として家康と並ぶ地位に任じられ、秀頼の傅役を託された

1598年09月
(61歳)
秀吉死去・秀頼の傅役

秀吉が死去。利家は秀頼を抱いて大坂城に入り、秀頼の傅役として大坂城の実質的主となる

1599年03月
(62歳)
家康と誓紙を交換

家康の無断婚姻政策に反発し対立。諸大名が家康・利家両邸に集結する騒ぎとなったが、四大老五奉行と家康が誓紙を交換して和解した

1599年04月
(62歳)
死去

大坂の自邸で病没。享年62。法名は高徳院殿桃雲浄見大居士。死の8ヶ月後、息子・利長は家康への対抗を断念し、母まつを人質に出した

※ 年齢は数え年で表記しています。数え年は生まれた年を1歳とし、元日を迎えるごとに加算する日本の伝統的な年齢の数え方です。

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書籍

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永井 豪, ダイナミックプロ作品

宝島社

— 人物紹介 —

概要

前田利家は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名で、加賀藩前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人で、俗に「加賀百万石の祖」とも称される。

尾張国荒子の小領主の四男として生まれ、織田信長の小姓から青年期は赤母衣衆筆頭として従軍。「槍の又左」と称される武勇で頭角を現した。柴田勝家の与力として北陸方面軍の一員となり、能登一国の大名にまで出世する。本能寺の変後の権力争いでは賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を離反し、戦後は秀吉に臣従して加賀・能登・越中にまたがる大領国を築いた。

豊臣政権下では五大老の上首として家康と並び、秀吉の遺児・秀頼の傅役を任じられたが、秀吉の死の8ヶ月後に病没。その死は徳川家康による豊臣政権簒奪の引き金となった。

生涯

出生と仕官

天文7年(1539年)12月25日、尾張国荒子城主・前田利昌の四男として誕生した。幼名は犬千代。荒子前田家は2,000貫程度の小領主であったとされる。

天文20年(1551年)、14歳のころに織田信長に仕え、元服して孫四郎利家と名乗った。若い頃は短気で喧嘩早く、派手な格好をしたかぶき者であった。

槍の又左

天文21年(1552年)の萱津の戦いで初陣を飾り、首級ひとつを挙げる。弘治2年(1556年)の稲生の戦いでは、敵将・宮井勘兵衛が放った矢が右目下に当たったものの、矢を抜かずに勘兵衛を討ち取る武勇を見せた。

永禄元年(1558年)には赤母衣衆の筆頭に抜擢され、従妹のまつを正室に迎えた。三間半柄(約6m30cm)の長槍を持ち歩き、緒戦で槍先による功を挙げる武辺者として「槍の又左衞門」「槍の又左」の異名で呼ばれるようになった。

笄斬りと帰参

永禄2年(1559年)、信長の寵愛を受けた同朋衆・拾阿弥を斬殺して織田家を出奔(笄斬り事件)。柴田勝家らの取り成しで成敗は免れたが、出仕停止処分となり浪人暮らしを送る。

永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いに無断参戦して三つの首級を挙げるも帰参は許されず、永禄4年(1561年)の森部の戦いで斎藤家の豪傑・足立六兵衛を討ち取る功績を挙げ、ようやく帰参を許された。

永禄12年(1569年)には病弱な兄・利久に代わって前田家の家督を継ぐよう命じられ、荒子前田家の当主となる。

北陸方面軍の一員

その後は信長の統一事業に従い、姉川の戦い、長篠の戦いなど主要な合戦に参加した。天正2年(1574年)に柴田勝家の与力となり、越前一向一揆の苛烈な鎮圧に従事。天正3年(1575年)9月、越前国府中3万3000石を与えられ、佐々成政・不破光治と共に「府中三人衆」と呼ばれた。

天正9年(1581年)8月、信長から能登一国23万石を与えられ、七尾城に入って大名となる。旧加賀藩領では、この時点で「加賀藩」が成立したと解釈されている。

賤ヶ岳の戦いと秀吉への臣従

天正10年(1582年)の本能寺の変では、利家は越中魚津城を攻略中で、山崎の戦いには加わらなかった。清洲会議の後、勝家と秀吉の対立が深まる中、利家は勝家の与力として勝家方に与する一方、旧交のある秀吉との関係にも苦しんだ。

天正11年(1583年)4月の賤ヶ岳の戦いでは、5,000の兵を率いて柴田軍として布陣したが、戦線を放棄するように突如撤退。これが羽柴軍の勝利を決定づけた。戦後、利家は降伏して秀吉に臣従し、北ノ庄城攻めの先鋒となる。佐久間盛政の旧領・加賀国のうち2郡を加増され、本拠を能登の小丸山城から加賀の金沢城に移した。

加能越の太守

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに呼応した佐々成政の侵攻を、末森城で撃破(末森城の戦い)。翌天正13年(1585年)の富山の役では先導役として越中の佐々成政を降伏させ、嫡子・利長が越中3郡を加増されて前田一族で76万5千石に達した。

天正14年(1586年)には秀吉から羽柴氏を名乗ることを許され、従四位下・左近衛権少将兼筑前守に叙任。北陸道の惣職ともいうべき地位に上り、諸大名の連絡役を務めた。

天正18年(1590年)の小田原征伐では北国勢総指揮として上野の松井田城・武蔵の鉢形城・八王子城を攻略。陸奥の伊達政宗に対する尋問にも当たった。

文禄元年(1592年)の朝鮮出兵では諸将に先んじて名護屋に出陣。徳川家康と共に秀吉の渡海を諫止し、秀吉の留守中は政務を代行するなど、後の五大老の原型を担った。文禄4年(1595年)には越中新川郡も加増されて加能越83万石余となり、利家の生涯で最大の領国に達する。

五大老・秀頼の傅役

慶長3年(1598年)4月、嫡子・利長に家督を譲り隠居した。しかし五大老・五奉行制が定められると、家康と並ぶ大老の上首に任じられ、秀吉死去後は秀頼の傅役として大坂城の実質的主となった。

慶長4年(1599年)正月、家康が秀吉の遺命に背いて伊達政宗・福島正則らと無断で婚姻政策を進めると、利家は強く反発。諸大名が利家・家康両邸に集結する騒ぎとなったが、2月2日に四大老・五奉行と家康が誓紙を交換し、利家自身も家康のもとを訪問して和解した。

しかしまもなく利家は病に倒れ、慶長4年閏3月3日(1599年4月27日)、大坂の自邸で病没した。享年62。法名は高徳院殿桃雲浄見大居士。

利家の死後、家康により加賀征伐が検討される事態となったが、嫡子・利長は母・芳春院(まつ)を人質に出すことを受け入れ、加賀征伐は撤回された。

評価

利家は「槍の又左」と呼ばれる武勇で名を馳せた一方、計算高く世渡り上手な一面もあり、賤ヶ岳の戦いで勝家を裏切りながら落ちてきた勝家を厚遇するなど、人間関係の機微に通じた武将であった。秀吉は遺言覚書の中で利家の性格を「律義者」と呼び、その信頼から秀頼の後見人を任せたとされる。

豊臣政権内では加藤清正・福島正則ら武断派と石田三成ら文治派の双方から尊敬を集め、両派の争いの仲裁役として働いた。秀吉側近の大野治長は「人望は家康より利家のほうがはるかに大きい」と評している。

利家が築いた前田家は、徳川幕府下でも加賀藩100万石の大大名として存続し、近代まで続く大名家としての基礎が築かれた。

不埒なり利家 豊臣天下事件帖
書籍

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谷津 矢車

実業之日本社

銀嶺のかなた(一) 利家と利長
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銀嶺のかなた(一) 利家と利長

安部 龍太郎

文藝春秋

— 問答 —
なぜ「加賀百万石」の祖と呼ばれる?
賤ヶ岳の戦い後に加賀国2郡を加増され、富山の役の戦功で嫡子・利長が越中3郡を加増されて前田一族で76万5千石に達しました。さらに文禄4年に越中新川郡を加増されて加能越にまたがる83万石余となり、後に加賀藩100万石として確立した領国の基礎を築いたためです。
賤ヶ岳の戦いでなぜ柴田勝家から離反した?
利家は柴田勝家の与力でしたが、秀吉とは清洲時代から夫婦ぐるみの親交があり、合戦前から秀吉の勧誘に応じていたと推測されています。合戦のたけなわで5,000の兵を率いて突如撤退し、これが羽柴軍の勝利を決定づけました。戦後、敗走する勝家を厚遇し、その後は秀吉に降伏して北ノ庄城攻めの先鋒を務めています。
「槍の又左」の異名はどこから?
利家は三間半柄(約6m30cm)の長く派手な槍を使い、初陣の萱津の戦い以降、緒戦で槍先による功を挙げる武辺者でした。永禄元年の浮野の戦いで赤母衣衆筆頭に抜擢された頃から「槍の又左衞門」「槍の又左」と呼ばれるようになり、姉川の浅井攻めや石山合戦の戦功から「日本無双の槍」「堤の上の槍」とも称えられました。
— 参考史料 —
前田利家岩沢愿彦研究書
前田利家のすべて花ヶ前盛明 編研究書
前田利家・利長大西泰正 編研究書
加賀藩史料一次史料
利家夜話一次史料

最終更新日: 2026年05月03日