— 人物紹介 —
概要
黒田官兵衛は、播磨国姫路に生まれ、小寺氏に仕えたのち羽柴秀吉の重臣として活躍した武将である。諱は孝高、剃髪後は如水と号し、キリスト教の洗礼名シメオンも持った。
織田氏への臣従を主君に進言し、秀吉の中国攻めでは姫路城を提供して参謀格として活動した。有岡城に幽閉される苦難を経ながら復帰し、備中高松城の戦いでは水攻めと毛利氏との和睦に関与した。信長横死後の中国大返しにも結びつく局面で、秀吉の天下取りの転機を支えた人物として知られる。
九州平定後は豊前中津を領し、のちに家督を長政へ譲った。関ヶ原の戦いでは九州で東軍方として挙兵し、大友義統を破るなど独自に軍事行動を展開したが、戦後は恩賞を辞退して隠居生活に入った。
生涯
播磨小寺氏の重臣
天文15年11月29日(1546年12月22日)、黒田職隆の嫡男として播磨国姫路に生まれた。黒田氏は小寺氏に仕え、祖父・重隆の代から姫路城代を務めるなど、播磨で地歩を固めていた。
永禄4年(1561年)に小寺政職の近習となり、永禄5年(1562年)には父と共に土豪を征伐して初陣を飾った。永禄10年(1567年)頃には父から家督と家老職を継ぎ、櫛橋伊定の娘・光を正室に迎えて姫路城代となる。
永禄12年(1569年)には赤松政秀の姫路攻撃を奇襲で撃退した。天正3年(1575年)、信長の勢力を見て小寺政職に織田氏への臣従を進言し、岐阜城で信長に謁見して名刀「圧切長谷部」を授かった。
秀吉の播磨進出と有岡城幽閉
天正5年(1577年)、毛利方が播磨へ動くと、官兵衛は英賀に上陸した兵を奇襲して撃退した。同年、長男・松寿丸を信長のもとへ人質として送り、羽柴秀吉の播磨進出に際しては自らの居城である姫路城本丸を提供した。
天正6年(1578年)、別所長治が反旗を翻して三木合戦が始まる。同年、摂津の荒木村重が信長に謀反を起こすと、官兵衛は村重を翻意させるため有岡城へ入ったが、逆に捕らえられ幽閉された。
天正7年(1579年)11月、有岡城開城により官兵衛は救出された。長期の幽閉により足が不自由になったと伝わる。天正8年(1580年)には小寺氏が滅び、官兵衛は織田家臣として秀吉の与力となった。この頃から黒田姓を用いるようになったと考えられている。
中国攻めと備中高松城
天正9年(1581年)、官兵衛は秀吉に従って鳥取城攻めに参加した。翌天正10年(1582年)、秀吉は毛利方の清水宗治が守る備中高松城を包囲し、水攻めを行う。水攻めは官兵衛の献策として語られることが多いが、資料上は家臣・吉田長利から孝高へ提案されたとも記され、同時代史料から直接確認できる部分には限界がある。
高松城攻めの最中、本能寺の変によって織田信長が横死した。秀吉方はこの情報を秘しつつ毛利氏との講和を急ぎ、清水宗治の自刃と城兵助命を条件に和睦を成立させた。官兵衛は安国寺恵瓊との交渉など、秀吉陣営の幕僚として重要な役割を果たした。
秀吉は和睦後ただちに東へ戻り、山崎の戦いで明智光秀を破る。官兵衛も天王山に布陣し、明智軍と戦った。
豊臣政権下の活動
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、佐久間盛政の攻撃に対して守り抜き、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは大坂城の留守居や本営防備にあたった。天正13年(1585年)の四国攻めでは宇喜多秀家軍の軍監として加わり、この頃にキリスト教へ入信してシメオンの洗礼名を受けた。
天正14年(1586年)には従五位下・勘解由次官に叙任され、九州平定では豊臣秀長軍の先鋒として島津軍と戦った。平定後は石田三成と共に博多復興を監督し、豊前国のうち6郡を与えられて中津城の築城を始めた。
天正17年(1589年)、官兵衛は家督を嫡男の長政に譲った。天正18年(1590年)の小田原征伐では、北条氏政・氏直父子を説得して小田原城の無血開城に大きく貢献した。文禄の役では宇喜多秀家の軍監として渡海したが、作戦をめぐり秀吉の不興を買い、文禄2年(1593年)に剃髪して如水軒円清と号した。
関ヶ原と晩年
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、長政は東軍主力として本戦に参加した。一方、中津にいた如水は九州で兵を集め、西軍方の大友義統軍と石垣原で戦って勝利した。その後も西軍方の諸城を攻略し、立花宗茂を降伏させるなど軍事行動を続けたが、家康と島津氏の和睦成立により停戦命令を受け、軍を解散した。
戦後、長政は筑前福岡52万石に加増移封された。如水にも恩賞が提示されたが、これを辞退し、以後は中央政治から離れて隠居生活を送った。慶長9年3月20日(1604年4月19日)、京都伏見藩邸で死去した。享年59。
評価
官兵衛は、秀吉の「軍師」として語られることが多い。戦国期の軍師という語には占術的な軍配者の意味もあるが、官兵衛の場合は、政治・外交・軍事の助言を行う側近・幕僚としての性格が強い。
一方で、備中高松城水攻めや中国大返しをすべて官兵衛一人の発案とする見方には注意が必要である。資料には後世の伝聞も多く、同時代史料で直接確認できる範囲と、後世に形成された名軍師像を分けて理解する必要がある。
関ヶ原期の九州での行動から、後世には天下を狙った野心家としても描かれた。しかし戦後は恩賞を辞退して隠居しており、史料上は、状況を読んで大胆に動く現実的な戦略家だったと見るのが妥当である。




