耳川の戦い
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大友軍、高城を包囲
耳川以北に布陣していた大友軍が南下を再開し、島津家久・山田有信の守る高城を包囲。鉄砲と大筒「国崩し」で3度にわたり攻撃するが城は落ちず
島津義久出陣
島津義久が薩摩・大隅の軍勢3万を率いて鹿児島を出陣。佐土原城に入り日向の兵と合流して約4万の大軍となる
島津軍の前哨戦
島津義弘・征久・伊集院忠棟らが財部城で軍議。陽動部隊300名が松原の大友軍を攻撃し荷駄を破壊。伏兵が大友軍を攻撃し松原の陣に火を放つ。島津主力も渡河し高城川南岸に布陣
大友軍内の対立
前哨戦の損害を受けて大友方は講和を申し出るが、田北鎮周が主戦論を主張。田原親賢は講和を進めるも、田北と佐伯宗天が独断で島津軍に攻撃を仕掛け、大友軍はやむなく交戦に
本戦開始
田北・佐伯の軍勢が島津軍前衛を攻撃し壊滅させる。北郷時久・久盛らが討死。大友軍は小丸川を渡り島津義久本隊を攻撃
島津軍の反撃・伏兵展開
島津義弘・歳久・伊集院忠棟が大友軍を迎撃。征久が伏兵を展開し、高城の家久・根白坂の義久も攻撃に参加。大友軍は包囲され総崩れに
大友軍壊滅・耳川での悲劇
大友軍は耳川方面へ撤退を開始。佐伯宗天らは竹鳩ヶ淵で溺死。耳川を渡りきれず溺死する者や島津兵に討たれる者が続出
大友宗麟撤退
戦況を受けて大友宗麟は無鹿の本陣から豊後へ撤退。耳川の合戦は島津軍の大勝に終わる
概要
耳川の戦いは、天正6年(1578年)11月に日向国高城川原(現在の宮崎県木城町)で行われた島津氏と大友氏の大規模な合戦である。「高城川の戦い」「高城川原の戦い」とも呼ばれ、通称の「耳川」は大友軍が撤退時に溺死した川の名に由来する。
大友宗麟が3万〜4万の大軍で日向に侵攻したのに対し、島津義久は約4万の軍を動員して迎撃した。大友軍内部の指揮系統の混乱と島津軍の巧みな伏兵戦術により、大友軍は壊滅的な敗北を喫した。
背景
大友氏と島津氏の関係
豊後の大友氏と薩摩の島津氏との関係は長い間良好であり、お互いの勢力圏に干渉しない事実上の同盟関係にあった。島津氏にとっては領内安定のため、大友氏にとっては海上交易の安全のため、双方にとって重要な関係であった。
大友軍の日向侵攻
天正5年(1577年)、日向の伊東義祐が島津氏に敗北して大友氏のもとに身を寄せた。天正6年(1578年)に入ると、大友宗麟は伊東氏を日向に復帰させるため3万〜4万の大軍で日向への遠征を決定。大友軍は肥後口と豊後口の二手に分かれて進軍した。
大友軍は耳川以北の日向制圧に成功したが、この過程で領内の神社仏閣を徹底的に破壊した。その背景にはキリシタンであった宗麟の意向があり、一説では日向にキリシタン王国の建設を目指したという。宗麟のキリスト教への傾倒は家臣団との間に不和を生じさせた。
足利義昭の御内書
9月には室町幕府将軍・足利義昭が島津氏に大友領を奪い大友氏の毛利領侵攻を止めさせるよう命じる御内書を発した。島津義久はこれを大義名分として北上を決定し、軍備を整えた。
戦いの経過
高城包囲
10月20日、大友軍が高城を包囲した。島津家久と城主・山田有信は数千丁の鉄砲と大筒「国崩し」による3度の攻撃に耐えて城を守り抜いた。
10月24日、島津義久は薩摩・大隅の軍勢3万を率いて鹿児島を出陣。佐土原城で日向の兵と合流し約4万の大軍となった。
前哨戦と大友軍の内部分裂
11月9日、島津義弘・征久・伊集院忠棟らは財部城で軍議を開いた。陽動部隊300名が松原の大友軍を攻撃して荷駄を破壊し、伏兵が追撃してきた大友軍を攻撃、松原の陣に火を放った。島津主力も渡河して高城川南岸に布陣した。
前哨戦の損害を受けて大友方は田原親賢ら16人の使者を島津の陣へ派遣し講和を申し出た。しかし大友軍内は講和派と主戦派に割れ、田北鎮周が交戦を主張。軍師・角隈石宗も「戦うべきでない」と進言したが聞き入れられなかった。田北鎮周と佐伯宗天が独断で島津軍に攻撃を仕掛けたため、大友軍はやむなく交戦に追い込まれた。
本戦
11月12日朝、田北・佐伯の軍勢が小丸川北岸の島津軍前衛を攻撃し壊滅させた。北郷時久・久盛らが討死した。大友軍本隊も小丸川を渡って島津義久本隊を攻撃した。
島津義弘・歳久・伊集院忠棟が大友軍を迎え撃ち、伏兵部隊を指揮する島津征久が馬標を立てた。伏兵が大友軍を攻撃し、高城の島津家久、根白坂の島津義久も攻撃に加わった。包囲された大友軍は総崩れとなった。
大友軍の壊滅
大友軍は耳川方面へ撤退を開始したが、佐伯宗天らは竹鳩ヶ淵で溺死した。耳川を渡りきれず溺死する者や島津兵に討たれる者が続出した。同日夜、大友宗麟は無鹿の本陣から豊後へ撤退した。
結果と影響
大友氏はこの戦いで佐伯宗天・田北鎮周・蒲池鑑盛をはじめとする多数の有力武将と兵力を失った。足利義昭の御内書を受けた国人衆の離反も相次ぎ、秋月種実や龍造寺隆信の反抗を招いて急速に衰退した。
一方の島津氏は、九州内で拮抗する敵が減少し勢力を拡大した。肥後国の相良氏が降伏、阿蘇氏も侵略を受けて投降し、龍造寺氏も後の沖田畷の戦いで敗れた。島津氏は大友氏の本拠・豊後にまで迫るが、最終的には大友宗麟の要請を受けた豊臣秀吉の九州征伐により敗北・降伏することになる。
最終更新日: 2026年04月12日


