— 戦いの内容 —
概要
小田原征伐は、天正18年(1590年)、関白太政大臣の豊臣秀吉が小田原の北条氏(後北条氏)を屈服させた戦いです。小田原合戦・小田原攻め・小田原の役とも呼ばれます。北条氏と真田氏(その後ろには上杉氏)の領地争いを秀吉が裁いたものの、北条氏はその沼田領の取り決めの一部を兵の力で破り、しかも自分たちの行いを正しいと言い張りました。これが大名同士の私戦を禁じた豊臣政権の惣無事令に背くとされ、北条氏は豊臣の大軍に攻められることになります。
よく知られているのは本拠・小田原城を囲んだ戦いですが、その裏では北条氏の領国各地の城を一つずつ攻め落とす戦いも同時に進んでいました。豊臣方は、東海道を進む本隊およそ17万、中山道から攻め入る前田・上杉・真田らの部隊3万5千に、豊臣方についた関東の大名勢1万8千と水軍1万を加え、あわせて約21万を動かしました。迎え撃つ北条方は、配下の武将たちに小田原城へ集まるよう命じ、5万あまりの兵で城にこもります。
3月29日に山中城がたった一日で落ちたことは、北条方に大きな衝撃を与えました。4月から始まった小田原城の籠城はおよそ3か月続きましたが、各地の城が次々に失われるなかで、7月5日に氏直が降参します。氏政・氏照は腹を切らされ、戦国大名としての後北条氏は滅びました。後陽成天皇は北条を討てという勅書こそ出しませんでしたが、出陣を前に秀吉へ節刀を授けており、秀吉は関白として、天皇の政治を代わりに行う立場でこの戦いに臨んでいます。
背景
沼田をめぐる争いと秀吉の裁定
武田氏の滅亡後に起きた天正壬午の乱の和睦で、上野国は北条氏のものと決まりました。ところが、徳川に従っていた真田昌幸は、自分の勢力下にあった沼田を北条へ渡すことが和睦の条件にされたことに怒り、徳川から離れて上杉景勝を頼ります。これ以後、北条氏は天正13年(1585年)9月と翌14年4月に沼田へ攻め込むなど、沼田をめぐる争いが続きました。
北条氏直は天正16年(1588年)2月、笠原康明を京へ送り、沼田を引き渡してもらえるなら豊臣政権に従うと申し入れます。同じ年の4月、後陽成天皇が聚楽第に行幸した際、氏政は列席を断ったため両者の間は一時張りつめましたが、8月に氏政の弟・北条氏規が代わりに上洛したことで落ち着きを取り戻しました。
天正17年(1589年)2月、氏直の家臣・板部岡江雪斎が上洛すると、秀吉は沼田の扱いについて裁定を下します。北条氏と家康から事情を聞いたうえで、沼田領の3分の2を北条氏、3分の1を真田氏に分けるという、北条側にかなり歩み寄った内容でした。本来は北条の当主が上洛した後に沼田を渡す約束でしたが、秀吉はここでも先に譲り、7月21日、秀吉の家臣・富田一白と津田盛月、家康の家臣・榊原康政が立ち会って沼田城は北条氏に引き渡されます。真田氏には代わりの土地として信濃国伊那郡の箕輪が与えられました。
秀吉は天正13年に関白となっており、天皇から天下の政治(「一天下之儀」)を任された立場にありました。そのため、秀吉の裁定に逆らうことは、天皇の意思に逆らうことと同じ意味を持っていました。
名胡桃城事件と宣戦布告
ところが天正17年10月下旬、沼田城を預かる北条家臣の猪俣邦憲が、真田領として残された名胡桃城に攻め込んで奪い取ってしまいます。秀吉の裁定を兵の力で覆したのです。この知らせは真田氏から家康を通じて秀吉に届きました。北条方は石巻康敬を京へ送って言い訳をしましたが、豊臣方が求めた責任者の引き渡しと処罰には応じませんでした。秀吉は朱印状の中で、氏政が上洛するというのでこれまでの非を許し、沼田の支配まで認めてやったのに、名胡桃を攻めて裁定を覆したのは許しがたい裏切りだ、と強く非難しています。
同じころ、北条氏邦も下野の宇都宮国綱を攻めていました。これも惣無事令に背く行いとされ、北条を討つ理由の一つになります。
11月24日、秀吉は北条氏と手を切ることを記した書状を、北条氏と諸大名に送りました。同じ日付で、宣戦布告にあたるとされる5か条の書状も出され、12月5日に三枚橋城へ着いた津田盛月と富田一白の手で北条氏に届けられています。諸大名にあてた書状で秀吉は、「氏直天道の正理に背き、帝都に対して奸謀を企つ」と書き、天皇の命令に従わない氏直を討つと宣言しました。北条氏とはどちらかといえば親しかった家康も、間を取り持つのをあきらめて12月10日に上洛し、秀吉に賛成すると伝えて、自らも北条攻めの支度に取りかかります。氏直のほうは12月17日、領国の家臣や従う国衆に、翌年1月15日までに小田原へ集まるよう命じました。
双方の戦略と兵力
北条氏は関東の諸勢力を従えていく中で、早くから秀吉の存在を意識していました。いざというときに備えて、15歳から70歳までの男子を兵に取る仕組みを整え、大砲をつくるために寺の鐘を差し出させるなど、戦の支度を進めています。豊臣軍がどう攻めてくるかもある程度読んでおり、小田原城を大きく広げる工事(相府大普請)や、八王子城・山中城・韮山城などの改修を進め、それらと連携する砦も箱根の山を中心に整えていきました。
豊臣方は、配下の大名に領地の石高に応じて兵を出させることにしました。出陣命令の直後には長束正家に命じて米や雑穀を20万石あまり集め、天正大判1万枚で馬や穀物を買い入れています。集めた米は、長宗我部元親・宇喜多秀家・九鬼嘉隆らの水軍に運ばせました。毛利輝元には水軍を出させる一方、本人には京都の守りを命じ、留守中の不安を取り除いています。
豊臣軍は大きく二手に分かれていました。東海道を進む秀吉の本隊と徳川勢からなる主力20万と、中山道から攻め入る前田・上杉・真田らの3万5千です。これに、秀吉に従った佐竹・真壁・結城・宇都宮・大田原・大関・里見などの関東の大名勢1万8千が加わり、総勢はおよそ21万と見積もられています。
豊臣方の作戦は、北からの部隊で北条方の兵を引きつけておき、その間に本隊が小田原への道をふさぐ山中・韮山・足柄の三つの城を力ずくで破る、というものでした。あわせて水軍を伊豆半島に沿って回り込ませ、小田原の沖をふさいで海からの補給を断つ狙いです。
北条方は配下の武将たちを小田原城に集め、5万あまりの兵の中から腕の立つ者を選んで、山中・韮山・足柄の三城に置きました。軍議では北条氏邦・北条氏照・伊勢貞運らが城を出て戦うべきだと説き、特に氏邦は駿河まで打って出て富士川あたりで決戦しようと訴えましたが、採られたのは北条氏規や松田憲秀らの籠城策でした。これに不満を抱いた氏邦は、自分の兵を連れて居城の鉢形城へ帰り、そこで単独で戦っています。主な兵を小田原へ引き抜かれた各地の城には、ふだんは兵として数えない年配の男たちまで駆り出して残しましたが、最後まで守り抜けるとは初めから考えられていませんでした。
戦いの経過
山中城の落城
天正18年(1590年)3月1日、秀吉は後陽成天皇から節刀を授かり、大軍とともに聚楽第を発ちました。19日に駿府城、27日には沼津に着きます。29日、行く手をふさぐ山中城には豊臣秀次と徳川の軍勢を、韮山城には織田信雄の軍勢を差し向け、それぞれ攻撃を始めました。
山中城を攻めた軍勢は合計6万7千8百。守るのは城主の松田康長以下4千人です。山中城は大がかりな要塞として築かれ、戦いの直前まで工事が続いていた未完成の城で、それを守るには4千人ではまるで足りなかったといわれます。
3月29日の朝8時半ごろに攻撃が始まると、攻め手はまず岱崎出丸に押し寄せました。出丸を守る間宮康俊の兵は鉄砲を撃ちかけて激しく抵抗し、康俊自身も手勢を率いて打って出ては引くことを繰り返しましたが、2時間ほどで出丸は落ち、続いて三の丸も落ちます。大手から三の丸を攻める途中、一柳直末が鉄砲に撃たれて討死しましたが、攻め手は構わず押し続けました。岱崎出丸と大手を激しく攻めて守り手をそちらに引きつけ、その隙に徳川軍に西の丸を攻めさせるという配置で、城の弱点と兵の少なさを突いた攻め方でした。
西の丸が落ちたところで、本丸の松田康長は北条氏勝の兄弟や自分の弟・松田康郷を城から逃がし、自らは2百の手勢と本丸の建物にこもって最後まで戦いました。しかし昼前には城は落ち、松田康長や間宮兄弟らは討死します。秀吉が島津義久に送った書状には「中納言(秀次)自身が突入し、城主以下、首2千余討ち取り候」とあり、これによれば守り手の半分を超える2千人ほどが命を落としたことになります。
小田原の西の守りの要で、落ちるはずがないと思われていた山中城が、わずか数時間の戦いで失われました。北条方の受けた衝撃は大きく、足柄城なども捨てられたり落とされたりして、豊臣方の先頭の部隊は早くも4月3日に小田原まで達しています。
一方の韮山城では、攻め手の10分の1にすぎない3千6百ほどの兵が織田信雄の軍勢を食い止め、長い包囲戦になりました。秀吉は韮山城を無理に落とそうとはせず、囲むのに必要なだけの兵を残して、主力を小田原へ向かわせています。
小田原城を囲む
秀吉の本隊は4月1日に箱根山へ本陣を移し、4日から家康や堀秀政らが小田原城を取り囲み始めました。5日、秀吉は箱根湯本にある北条氏の菩提寺を押さえて本営とします。海からは九鬼嘉隆・加藤嘉明・脇坂安治らの水軍が近づきました。こうして包囲の輪ができていく間、城からはほとんど反撃がありませんでした。
包囲が始まると、秀吉は小田原城を見渡せる石垣山に城を築き始めました。千利休に大きな茶会を何度も開かせ、茶々などの妻や、話し相手の御伽衆まで陣に呼び寄せています。5月27日には、包囲に加わっていた堀秀政が陣中で病死しました。
囲んでいる間、戦らしい戦はわずかしかありません。北条方から攻めかかったのは、7月2日に北条氏房(太田氏房)の家臣・広沢重信が蒲生氏郷・関一政の陣に夜討ちをかけ、広沢と蒲生が一騎打ちになった一度だけでした。囲む側から仕掛けたものも、井伊直政が蓑曲輪に夜襲をかけた戦い、6月22日の雨の夜更けに井伊直政と松平康頼が堀を越えて山王口の篠曲輪を攻め取った戦い、6月25日の夜に捨曲輪をめぐって争った戦いくらいです。それ以外は、互いの陣から時おり鉄砲を撃ち合う程度でした。
北からの部隊と各地の城
前田・上杉らの北国勢に信濃の軍勢を加えた北からの部隊は、3月15日に碓氷峠へ進みました。松井田城主の大道寺政繁は峠で迎え撃ちましたが、兵の数が比べものにならず、城へ引いてこもります。3月28日から始まった攻撃に政繁は激しく抵抗したものの、曲輪を一つずつ奪われ、水の手を断たれ、兵糧を焼かれて、4月22日に城を明け渡しました。これ以後、政繁は北からの部隊の道案内を務めることになります。
北からの部隊は、上野から武蔵北西部にかけての城を、降参させたり攻め落としたりしながら進みました。ほとんどの城では当主や主な兵が小田原城に入っていて、留守を守る程度の兵しか残っていませんでした。松山城では城代の山田直安以下2千3百人ほどがこもりましたが、前田利家・真田昌幸・上杉景勝らの軍勢に囲まれて城を明け渡しました。降った3千騎あまりは前田軍の先頭に回されて八王子城攻めに加わっています。
秀吉は小田原を囲む軍からも兵を割き、2万を超える軍勢を浅野長政に預けて武蔵へ向かわせました。この部隊は玉縄城(4月21日)、江戸城(4月27日)を手に入れた後、命令に反して下総へ入り込み、房総の城を次々に明け渡させていきます。あまりに進みが速かったため、秀吉は房総の城をいくら取っても手柄とは認めないという書状を送り、鉢形城へ向かわないことについても長い詰問状で叱りつけました。5月19日から22日にかけての岩槻城攻めでは、城を守る兵のおよそ半分、1千人あまりが死傷して降参しています。
5月14日に始まった鉢形城攻めには、前田利家の1万8千、上杉景勝の1万、真田昌幸の3千に加え、小田原から浅野長政・木村重茲・本多忠勝らが援軍として加わりました。兵の数は10倍以上の差がありましたが、城主の北条氏邦は助けの来るあてもないまま、家臣たちと戦い続けます。6月13日、忍城を攻めていた北からの部隊と浅野の部隊が分かれて鉢形城の攻略に本腰を入れ、本多忠勝が近くの山に大砲を担ぎ上げて撃ち込むと、城の損害は一気に大きくなりました。氏邦は兵の命を助けてもらうのと引き換えに、6月14日に城を明け渡します。攻め手の前田利家が命乞いをしたこともあり、氏邦は頭を丸めることで死を免れました。
忍城と八王子城
石田三成・長束正家らは5月29日に館林城を落とし、6月4日ごろから忍城に取りかかりました。忍城は周りの沼や川をうまく堀として使った守りの固い城です。秀吉の命令で水攻めも試みましたが、利根川の水が少なくて効き目が薄く、豊臣軍は攻めあぐねました。度重なる攻撃にも耐えた忍城は、最後まで落ちないまま、先に小田原城が明け渡されることになります。
6月23日には、上杉景勝・前田利家らの1万5千ほどが八王子城を攻めました。城主の氏照は小田原城にいて、城には城代の横地吉信のほか、家臣の狩野一庵・中山家範・近藤綱秀・設楽能久と、近くの村の農民や女性・子どもを含む3千人ほどがこもっていたとされます。豊臣方は前の晩のうちに表と裏の両方から攻め入り、夜明けには城の中心部まで守り手を追い込みました。そこからは激しい戦いとなり、攻め手にも1千人を超える死傷者が出て、一時は攻撃が止まります。しかし上杉景勝のもとにいた藤田信吉の家臣・平井無心がこのあたりの地理に詳しく、抜け道へ案内したことで、裏手に回った部隊の不意打ちが成功し、城はその日のうちに落ちました。
城内にいた氏照の正室・比左をはじめとする女性たちは、自ら命を絶ったり、御主殿の滝に身を投げたりしました。滝は三日三晩、血で赤く染まったと言い伝えられています。討ち取られた兵の首は大量に小田原へ運ばれ、船に並べて堀に浮かべられました。捕らえられた者は小田原城の門の近くにさらされ、豊臣方はこうして城内に早く降参するよう迫ったのです。
開城へ
5月9日、伊達政宗が秀吉の呼び出しに応じて本拠を出たことで、城の外から北条氏を助けに来る勢力はいなくなりました。城を明け渡すよう勧める働きかけは、5月下旬ごろから始まっています。
北条方の中からも、離れていく者が出始めました。4月9日には、小田原城にいた皆川広照が100人あまりの手勢とともに城を抜け出して豊臣方に降り、6月の初めには家康の働きかけで、上野の和田家と箕輪城の家臣たちが城を出ていきます。6月に入ると、氏房・氏規や氏直の側近たちが、親戚にあたる家康と織田信雄を窓口に和睦の話を進めるようになりました。6月7日には信雄の家臣・岡田利世が小田原城に入り、二日にわたって氏直と話し合っています。城内では和睦して城を明け渡すといううわさが広がって見張りがゆるみ、12日には氏直が小幡信貞に、城内の規律を引き締めるよう命じました。同じ12日、氏政の母の瑞渓院と後妻の鳳翔院が、同じ日に亡くなっています。
6月16日には、重臣・松田憲秀の長男である笠原政晴が、何人かの仲間と豊臣方に通じていたことが明らかになりました。政晴の弟・松田直秀が知らせたもので、政晴は氏直に討たれています。
残っていた拠点も次々に失われていきました。北の鉢形城は6月14日に明け渡され、伊豆の韮山城も6月24日に開かれて、北条氏規は秀吉のもとに出ています。同じ日、黒田孝高と滝川雄利が小田原城に入って降参を勧め、先に降っていた氏規も城に入って説得にあたりました。6月26日には、小田原城を見下ろす石垣山に、関東で初めての近世城郭となる「一夜城(石垣山城)」ができあがり、北条方の気力をさらにくじきます。城内では、最後まで戦うか降参するかをめぐって一族と重臣の話し合いがいつまでもまとまりませんでした。この様子が後の世に強く残ったことから、もとは定例の重臣会議を指していた「小田原評定」という言葉が、いつまでも結論の出ない話し合いのたとえとして使われるようになりました。
7月5日、氏直は太田氏房と連れ立って滝川雄利の陣に出向き、滝川と黒田孝高を介して、自分が腹を切るので城の兵は助けてほしいと願い出ました。こうして、氏直が降参したことが秀吉に伝えられます。
結果と影響
はじめに示された降参の条件は、北条氏の領地を武蔵・相模・伊豆に限ることと、氏直を上洛させることでした。しかし秀吉は、前当主の氏政、一門の筆頭の氏照、それに家臣の代表として重臣の松田憲秀と大道寺政繁の4人に戦を招いた責めがあるとして、腹を切るよう命じます。
7月7日から9日にかけて、片桐且元・脇坂安治・榊原康政の3人が検使となって小田原城を受け取りました。10日に氏政と氏照は城を出て徳川の陣に移り、11日、城下にある医師・田村安栖の屋敷で腹を切ります。榊原康政・石川貞清・蒔田広定・佐々行政・堀田一継が見届け役を務め、介錯したのは兄弟の氏規でした。氏政と氏照の首は16日に京へ送られ、聚楽第の橋でさらされています。松田憲秀は5日に、大道寺政繁は19日に、それぞれ腹を切りました。
氏直は家康の娘婿だったこともあって命を助けられ、高野山で謹慎するよう命じられます。7月21日、30人ほどの家臣を連れて小田原を発ち、8月12日に高野山に入りました。翌天正19年(1591年)2月には家康を通じて許しが伝えられ、8月に1万石を与えられましたが、11月に病気で亡くなっています。北条の家は、氏規の子孫がいくつもの曲折を経て河内の狭山藩の大名となり、続いていきました。
小田原城が明け渡された後も戦い続けていた忍城には、降参した城主・成田氏長の名で使者が送られ、7月16日に城が開かれました。
7月13日、秀吉が小田原城に入り、同じ日に徳川家を関東へ移すことが公にされました。北条氏の旧領はほぼそのまま家康に与えられ、7月18日には家康が江戸城に入っています。空いた徳川の旧領へ移るよう命じられた織田信雄は、これを断ったために領地を取り上げられ、下野国の烏山城で謹慎させられました。正二位内大臣で、しかも秀吉のかつての主家である織田家の当主でも、秀吉は取り潰すことができる。この一件でそのことがはっきりし、同時に、官位でも領地でも家康が豊臣政権の大名の中で抜きんでた存在であることも定まりました。
真田氏が北条氏に譲っていた上野の沼田城は真田家に戻され、昌幸の長男・信幸が、半ば独立した城主として沼田領を治めることになります。常陸は一国まるごと佐竹義宣に与えられました。秀吉の怒りを買った里見義康は、家康のとりなしで安房一国こそ残されましたが、上総の領地は取り上げられています。
秀吉は7月16日に小田原城を発ち、奥州を平らげた源頼朝にならって鎌倉に入り、鶴岡八幡宮に幣を捧げました。7月26日には宇都宮大明神にも幣を捧げて宇都宮城に入り、1週間ほどとどまって関東と奥州の大名の処分を決めています(宇都宮仕置)。その後、豊臣の大軍は伊達政宗の案内で陸奥へ向かい、8月中に奥州の仕置も済ませました。天下を手中にした秀吉が京に戻ったのは、9月1日のことです。




