— 人物紹介 —
概要
堀秀政は、織田信長と豊臣秀吉の二人に仕え、最後は越前北ノ庄の大名にまでなった戦国武将である。通称は久太郎。
永禄8年(1565年)、わずか13歳で信長の小姓に抜擢され、普請や行事の奉行を次々に任されて信長の側近の一人となった。やがて戦場にも出るようになり、越前の一向一揆攻め、雑賀攻め、有岡城攻め、伊賀攻めなどで働いて、天正9年(1581年)には長浜城と2万5,000石を与えられている。
信長が本能寺で倒れると秀吉に付き、山崎の戦いでは先手を務めた。清洲会議のあとは近江国中郡を得て三法師の守り役となり、賤ヶ岳の戦いのあとに佐和山城、小牧・長久手の戦いのあとには越前北ノ庄18万石を与えられた。天正18年(1590年)の小田原攻めでは左翼の軍を率いたが、陣中で疫病にかかり38歳で急死した。後世の書物からは「名人左衛門佐」「名人太郎」という呼び名で知られる。
生涯
信長の側近
堀秀政は天文22年(1553年)、美濃国厚見郡茜部に生まれた。父の堀秀重は斎藤道三の家臣で、秀政はその長男にあたる。子どものころは、一向宗の僧になっていた伯父の堀掃部太夫に預けられ、従兄の奥田直政(のちの堀直政)と一緒に育ったと伝わる。
初めは大津長昌に、次に木下秀吉に仕えたが、永禄8年(1565年)、13歳で信長に見いだされて小姓となった。16歳のときには、将軍足利義昭の仮の御所となった本圀寺の工事を取り仕切っている。こうした奉行の仕事を重ねて、秀政は信長のそば近くに仕える側近の一人となった。同じ立場の者には、菅屋長頼、福富秀勝、大津長昌、矢部家定、長谷川秀一、万見重元らがいる。
そのうち秀政は、奉行の仕事に加えて戦にも出るようになる。天正3年(1575年)には越前の一向一揆攻めに加わり、天正5年(1577年)の雑賀攻めでは、佐久間信盛・羽柴秀吉らと同じく本陣とは別に一隊を任された。同じ年、上杉謙信に囲まれた能登七尾城を救うために柴田勝家を総大将として北陸へ送られた軍にも名がみえる(手取川の戦い)。天正6年(1578年)の有岡城攻めでは万見・菅屋らと鉄砲衆を指揮した。
奉行としての仕事も続き、天正7年(1579年)の安土宗論では菅屋・長谷川らと運営を担い、天正8年(1580年)には同じ顔ぶれでバテレン屋敷の建設を監督した。この年には、信長が蜂須賀正勝へ送った書状に秀政が添え状を付けている。
本願寺との関わりもあった可能性がある。秀政を育てた叔父が蓮照寺の住職だった縁から、石山本願寺と信長の和睦や、本願寺が紀州鷺森へ退くことを働きかけたのではないかという見方がある。ただしこれは推測の域を出ない。のちに秀政は顕如から「釋道哲」という法名を授かっている。
第二次天正伊賀の乱(天正9年・1581年)では、信楽方面から伊賀へ入る部隊を指揮し、比自山城などで戦った。この働きに、荒木村重攻めと越前の一向宗鎮圧での功も合わせて認められ、同じ年に長浜城と2万5,000石を与えられた。
天正10年(1582年)、秀政は甲州征伐に向かう信長に従って甲斐・信濃へ入ったが、武田氏は織田信忠の軍によってすでに滅んでおり、秀政が戦うことはなかった。5月20日には丹羽長秀と連れ立って徳川家康をもてなし、その足で備中にいる秀吉のもとへ向かっている。
山崎の戦いと清洲会議
6月2日に本能寺の変が起き、信長が討たれたとき、秀政は秀吉の軍監として備中にいた。知らせを受けると秀吉とともに急いで京へ引き返し、山崎の戦いでは中川清秀・高山右近らと先手を担った。光秀を助けに出てきた明智秀満を坂本城へ追い詰めると、もはや勝ち目がないと悟った秀満は、家に伝わる宝物を秀政の従兄の直政に託すと伝え、城に火をかけて自ら命を絶った。
6月27日の清洲会議の結果、秀政は近江国中郡を与えられ、三法師の守り役と、織田家の直轄地を預かる代官を任された。
賤ヶ岳の戦いから北ノ庄城主へ
清洲会議のあと織田家の中で争いが起きると、秀政は秀吉が主催した信長の百ヶ日の法要に同意するなど、秀吉の側に立って動いた。10月20日付の書状ではすでに羽柴の姓を名乗っており、秀吉の親族でない者として初めて羽柴姓を許されたのは秀政だったとみられている。
天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いの論功で11月に佐和山城を得て、12月には左衛門督に任じられた。秀政は戦で城を空けることが多く、その間は父の秀重と弟の多賀秀種が城代として佐和山を治めた。
小牧・長久手の戦い(天正12年・1584年)では秀吉方に付き、三河へ回り込む中入りの別働隊で三番手を任された。4月9日の朝、羽柴秀次の隊が徳川勢の奇襲を受けて崩れると(白山林の戦い)、秀政は逃げてきた兵を自分の隊に加えて桧ヶ根に陣を構え、追ってきた大須賀康高・榊原康政らを打ち破った(桧ヶ根の戦い)。しかし家康本人が出てきたと知ると、池田・森の隊とは合流せず、そのまま戦場から引き揚げている。
天正13年(1585年)8月13日、丹羽長重が若狭へ移されると、そのあとを受けて越前北ノ庄18万石の領主となった。翌天正14年(1586年)正月14日には侍従となって公家の列に加わり、このとき豊臣の姓も授けられたと考えられている。
九州平定と小田原征伐
天正15年(1587年)の九州攻めでは、秀政は先手の部隊を任された。『名将言行録』は、この遠征中の出来事を伝えている。近臣の山下甚五兵衛が錯乱して後ろから斬りかかってきたとき、秀政はすぐに振り向いて山下を斬り、同時に山下の後ろにいた直政も背中から斬りつけた。秀政が直政に「自分が先だった」と声をかけたことについて、とっさの場でその一言が出たことこそ見事だと人々は評したという。
天正18年(1590年)の小田原攻めでは、秀政は左翼の軍の大将を命じられた。箱根口から攻め上って山中城を落とし、小田原の早川口まで進んで海蔵寺に本陣を置いた。ところが5月下旬に疫病にかかり、27日に陣中で急死した。38歳だった。
跡は長男の秀治が継ぎ、遺領のうち16万石を受け継いだ。残る2万石は親良に分けられている。秀政の亡骸はいったん本陣の海蔵寺に葬られ、髷だけが越前へ運ばれて、北之庄の屋敷に近い長慶寺に墓が築かれた。長慶寺には今も位牌と墓の一つが残り、命日の5月27日には毎年供養が営まれている。慶長3年(1598年)4月に秀治が越後春日山へ移されると、墓は春日山城のふもとの林泉寺へ移された。林泉寺には父の秀重と息子の秀治の墓も並び、堀家3代を弔う寺となっている。
評価
秀政は後世、『武家事紀』と『名将言行録』で「名人左衛門佐」、『常山紀談』で「名人太郎」と呼ばれている。その理由について、『常山紀談』は家来の使い方に心を配ったからだとし、『名将言行録』は天下の手本となる人物で過ちがなかったからだとしている。
『名将言行録』には山崎の戦いでの話がある。天王山を押さえるため、一番手の堀尾吉晴が先に山を登り、秀政がそれに続こうとしたとき、家臣の堀七郎兵衛が、先の味方が崩れれば巻き込まれるので別の道から登るべきだと止めた。秀政がそれに従うと、はたして堀尾の隊は崩れ、秀政はその脇から攻めかかって、敵将の松田政近を鉄砲で追い散らしたという。
同じく『名将言行録』は、小牧・長久手の戦いでの話も伝える。銃声が聞こえたあと続く音がないのを秀政が怪しんでいると、田中吉政がただ一騎で駆けてきて、後方で戦が始まったから備えを急げと言い残して去った。秀政は、旗本の小姓頭が自ら伝令に来るような場面ではないとたしなめ、銃声が途切れたのは味方が負けたからだと見抜いた。その言葉のとおり味方は敗れ、大須賀・榊原らの軍が押し寄せてきたという。
『常山紀談』には、家来の使い方にまつわる話が二つ載っている。一つは、奉行の供の者と荷運びの者が荷の重さをめぐって言い争ったときの話で、秀政は自分で荷を背負って歩いてみたうえで、力のある自分でも長い道のりなら疲れるのだから、運べないという言い分にも理があると裁いた。もう一つは行軍中の話で、旗持ちが遅れて叱られていると、秀政は自分で旗を担いでみて、遅れる原因は自分の馬の足が速すぎることだと気づいた。そこで足の遅い馬に乗り換えると、旗持ちが遅れることはなくなったという。





