— 人物紹介 —
概要
北条氏政は、相模国を本拠とした戦国大名で、後北条氏の4代目の当主である。父は3代目の北条氏康、母は今川氏親の娘の瑞渓院で、今川義元から見ると甥にあたる。正室の黄梅院は武田信玄の娘だったため、武田義信や武田勝頼とは義理の兄弟になる。通称は新九郎で、官位の左京大夫や相模守でも呼ばれた。号は截流斎。
もとは次男だったが、兄の氏親が若くして亡くなったため跡継ぎとなり、永禄2年(1559年)に家を継いだ。上杉謙信や武田信玄と渡り合いながら、関東で上杉方に付く勢力をほぼ退け、相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野に常陸・下野・駿河の一部まで加えた、およそ240万石の領国を築いた。これは後北条氏の歴史で最も広い範囲である。
しかし、天下統一を進める豊臣秀吉とは折り合いをつけられず、天正18年(1590年)の小田原征伐で降伏に追い込まれた。戦を招いた責めを負って切腹し、戦国大名としての後北条氏はここで途絶えた。
生涯
家督相続まで
氏政は天文7年(1538年)、北条氏康の次男として生まれた(「北条系図」『群書系図部集第四』による)。幼い頃の名は松千代丸である。ただし黒田基樹は、『石川忠総留書』に「氏政亥五十二」とあることを手がかりに、本当の生年は天文8年(1539年)だと考えている。
天文18年(1549年)、公家の飛鳥井雅綱が氏康の息子の西堂丸と松千代丸に蹴鞠を教えたという記録がある。西堂丸は兄の新九郎氏親の幼名とみられ、もう一人の松千代丸が氏政にあたると考えられている。
次男の氏政には本来、家を継ぐ見込みはなかった。ところが天文21年(1552年)ごろ、兄の氏親が16歳で亡くなり、氏政が跡継ぎとなって北条新九郎氏政を名乗る。元服は兄の死から2年後、天文23年(1554年)6月までには済ませていたとみられる。初めて戦に出た時期ははっきりしないものの、20歳になるころには父の後継ぎとして働いていた様子が史料からうかがえる。
永禄2年(1559年)12月23日、氏康が隠居し、氏政が北条家の4代目当主となった(『年代記配合抄』)。このころ領内では永禄の飢饉が広がっており、当主を替えて新しい体制のもとで立て直しを図ったものとみられる。ただし、その後もしばらくは氏康が国の舵取りを続け、父子は「御両殿」「二屋形」と並び称された。
上杉・武田との戦いと関東制覇
永禄12年(1569年)、氏政は武田と手を切った三河の徳川家康と和議を結び、掛川城に閉じこもっていた今川氏真を助け出して引き取った。さらに自分の次男の氏直を氏真の猶子とし、北条が駿河を治めることの名分を整えている。同じころ、信玄に対抗するため、長年の敵だった上杉謙信とも手を結んだ(越相同盟)。弟の三郎(のちの上杉景虎)を養子の形で謙信のもとへ送り、上野国で北条が押さえていた土地も譲っている。
信玄との仲がこじれたことで、氏政は愛する妻の黄梅院と別れさせられたと長く語られてきた。しかし近年では、この離縁の話は史料を読み違えたことから生まれた誤りだとする見方が出ている。
元亀2年(1571年)10月に氏康が亡くなると、氏政は12月に信玄と改めて同盟を結び(甲相同盟)、謙信との同盟は打ち切った。謙信との同盟は条件が十分に詰められておらず、武田への備えとしては期待したほどの効果がなかったからである。そもそも両家は目指すところが食い違っており、謙信の関心も越中の攻略へ移っていた。
こうして北条と上杉の戦いが再び始まる。天正2年(1574年)に謙信が上野へ出てくると、氏政も兵を率いて利根川を挟んでにらみ合ったが、謙信の目はすでに越中へ向いており、大きな戦にはならなかった。その年の閏11月には、氏康が「一国に等しい城」と呼んだ簗田晴助の関宿城を落とし、翌天正3年(1575年)には下野にある小山秀綱の祇園城も手に入れた。下総の結城晴朝も北条に従うようになり、関東で上杉に付く勢力はほとんど残らなくなった。天正5年(1577年)には上総へ攻め込み、長く争ってきた里見義弘と和睦を結んでいる(房相一和)。嫡男の氏直はこの戦で初めて戦場に出た。
天正6年(1578年)に謙信が亡くなると、跡目をめぐって、謙信の甥の上杉景勝と、氏政の弟で謙信の養子となっていた上杉景虎が争った(御館の乱)。このとき氏政は下野で佐竹・宇都宮の軍と向き合っていて動けなかったため、5月に弟の氏照・氏邦らを越後へ送り、景虎を助けさせた。8月下旬には自らも上野の厩橋城まで兵を進めたが、まもなく小田原へ引き返している。
織田・徳川との関係と天正壬午の乱
天正8年(1580年)3月10日、氏政は本願寺を屈服させて勢いに乗る織田信長に、配下に加わりたいと申し入れた。同じ年の8月19日には、戦の最中に氏直へ当主の座を譲るという珍しい形で隠居している。父と同じように、隠居後も政治と軍事の実権は氏政が握っていたとするのが通説である。これに対して黒田基樹は、氏政・氏直の出した文書を調べ、領内の政治と軍事の一部は早いうちに氏直へ任され、氏政は外交と軍事の中心を受け持っていたとみている。
『信長公記』によると、天正10年(1582年)の3月26日・4月2日・4月3日と、氏政は端山という使者を続けざまに信長のもとへ送り、祝いの品を贈った。長年争ってきた武田をあっという間に滅ぼした信長の力を目の当たりにして、織田家とよい関係を保ちたいと強く願っていたのである。京都へは雉500羽を献上のために送っている。それでも信長は北条氏に好意を見せず、かえって北条を刺激するような振る舞いもあった。
その年の6月2日、信長は京都の本能寺で明智光秀に討たれる(本能寺の変)。知らせを受けた氏政は、はじめ滝川一益に対し、これまでどおり協力すると伝えた。しかし表向きの友好とは裏腹に両者の疑いは深まっており、氏政が深谷へ兵を向けると一益も兵を出し、数日のうちにはっきりと敵対するようになった。北条氏は上野の半分を手にしていたが、信長の勢力が伸びたことで一益にそれを明け渡さざるを得なくなっていた。上野を取り戻したいという思いは強かったとみられる。
氏政は氏直と氏邦に上野を取り戻すよう命じ、5万6千と号する大軍を送り込んで滝川軍と向き合わせた。北条軍の兵は滝川軍のおよそ3倍にのぼった。最初のぶつかり合いでは先手が痛手を受けたものの、数日後の決戦で大勝し、一益を敗走させた(神流川の戦い)。北条軍は逃げる一益を追って碓氷峠を越えて信濃へ入り、真田昌幸・木曾義昌・諏訪頼忠らを味方に付けたうえで小諸城を拠点に、信濃の東部から中部までを押さえた。
一方、一益が去って空白となった甲斐へは徳川家康が攻め込んだ。家康は依田信蕃を通じて真田昌幸を寝返らせ、小笠原貞慶にも肩入れして北条とぶつかった(天正壬午の乱)。甲斐の若神子で氏直と家康が向き合う間に、信濃では昌幸が北条から離れ、甲斐でも北条氏忠・北条氏勝が黒駒で徳川方の鳥居元忠らに敗れて、北条側の形勢は悪くなった。そこで氏直が家康の娘・督姫を妻に迎える形で講和し、領地は甲斐と信濃を徳川、上野を北条とすることで決着した。ただ、信濃の佐久・小県の2郡と甲斐の郡内を手放すことになったこの講和は、北条にとって分の悪いものだった。そのうえ徳川方に付いた昌幸は、上野の沼田城を北条に渡すことを拒んで上杉方へ移ってしまう。これがのちの沼田問題、さらには名胡桃事件へとつながっていく。
天正11年(1583年)に古河公方の足利義氏が亡くなると、氏政は官途を与える権限を手にし、関東の武家の序列の頂点に立った。江戸周辺と岩付領も支配下に入れて、利根川と常陸川の水運を押さえ、関東の物流と交通を握った。その結果、北条に対抗してきた関東の諸勢力は、北条に従うか、最後まで戦うかのどちらかを選ぶしかなくなった。
天正13年(1585年)、佐竹義重と宇都宮国綱らが那須資晴と壬生義雄らに攻めかかると、氏政は那須方と組んで下野へ本格的に攻め込み、国の南半分を手に入れた。常陸南部でも、江戸崎城の土岐氏と牛久城の岡見氏を後押しして影響力を広げている。こうして北条氏の領国は、相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野に常陸・下野・駿河の一部を加えた範囲に及び、石高はおよそ240万石と、北条氏として最も大きな規模になった。
秀吉との対立
光秀を倒して信長の事業を引き継いだ豊臣秀吉とは、やがてぶつかることになる。天正16年(1588年)、秀吉は聚楽第への行幸に氏政・氏直の父子も列なるよう求めたが、氏政はこれを断った。京では北条を攻めるという噂が立ち、北条側も「京勢催動」として戦の備えに入った。そこへ徳川家康が起請文を送り、自分は北条父子を悪く言わず北条の領地も一切望まないこと、今月中に氏政の兄弟を京へ出すこと、もし豊臣に仕えることを拒むなら督姫を氏直と離縁させることを示して、思いとどまるよう説いた。
8月に弟の北条氏規が氏政の代わりに京へ上ったことで、北条と豊臣の関係はひとまず落ち着いた。武州文書によると、氏政はこのころ名実ともに身を引くと表明している。秀吉に完全に従うことに反対だった氏政が、徳川寄りの氏直を表に立てたともいわれる。しかし氏政はのちに自ら京へ上ると家臣や国衆に知らせており、氏政が戦を望んでいたという見方には疑問も残る。沼尻の合戦のあと、氏政は自ら兵を率いることはなく、官途名の左京大夫も氏直に譲って、表向きは氏直を北条の当主として扱っていた。
天正17年(1589年)2月、評定衆の板部岡江雪斎が京へ上り、沼田をめぐる争いを収めてほしいと秀吉に願い出た。秀吉は沼田領の3分の2を北条に返すと裁き(沼田裁定)、6月には氏政が12月に上洛すると約束した書面を受け取った。沼田領は7月に北条へ渡されている。ところが氏政は、上洛の時期を天正18年(1590年)の春か夏へ延ばしたいと改めて申し入れ、秀吉がこれを退けたことで、両者の関係は再び悪くなっていった。
その最中の10月、氏邦の家臣・猪俣邦憲が名胡桃城を奪う事件が起きる。秀吉は家康や上杉景勝らを京へ呼び、諸大名には翌年春に北条を攻めるための準備を求めた。北条氏へは津田盛月・富田一白を使者として送り、事件の首謀者を罰したうえですぐに上洛するよう迫った。これに対して氏直は、京へ行けば氏政が引き留められる、あるいは国替えを命じられるという噂があるため上洛できないと答えた。さらに、家康が臣従したときには朝日姫を妻に迎え、大政所を人質として差し出されたうえで上洛するという手厚い扱いを受けたことを引き合いに出し、名胡桃の件での北条への扱いとの違いを訴えて、引き留めや国替えの心配なく上洛できるよう求めた。名胡桃城については、氏政や氏直が命じたのではなく、真田方の城主が北条方へ寝返ったために起きたことで、城はすでに真田方へ返したと釈明している。
上洛をずるずると延ばす氏政に業を煮やした秀吉は、上洛と出仕を拒むのは豊臣に従わないことと同じだと判断し、12月23日、諸大名に北条を討つための出陣を正式に命じた。これより先、駿河と伊豆の国境で両者の関係が切れたことを知った氏政・氏直は、17日に家臣と従う国衆に対し、1月15日までに小田原へ集まるよう命じて迎え撃つ構えを整えていた。
小田原征伐と最期
天正18年(1590年)3月、四方から攻め寄せる豊臣軍との戦いが始まった(小田原征伐)。北条軍ははじめ、碓氷峠を越えてきた真田昌幸らを退け、駿河・伊豆の国境でも陣を構える豊臣方の諸将に探りを入れるなどした。しかし秀吉が沼津に着くと、最初の戦いで山中城が落ち、4月からはおよそ3か月にわたって小田原城に立てこもることになる。その間に、下田・松井田・玉縄・岩槻・鉢形・八王子・津久井など、領内の城は次々に落とされた。22万ともいわれる豊臣の大軍を前に、北条氏はついに降伏した。
秀吉は、氏政らには切腹を、氏直らには高野山への追放を申し渡すことにした。7月5日、氏直は自分の命と引き換えに城兵を助けてほしいと願い出て降伏した。氏直の舅にあたる家康も氏政の助命を願ったが、秀吉は北条攻めを招いた責任者として、氏政と弟の氏照、重臣の松田憲秀・大道寺政繁に切腹を命じた。
7月11日、氏政は氏照とともに腹を切った。享年53。江戸幕府の奥医師だった田村安栖の家の系譜(「寛政重修諸家譜」)などによれば、切腹の場所は侍医の田村長傳(安栖)の屋敷だったという。長傳は京都紫野の大徳寺の住職・日新和尚の兄にあたる。氏政の首塚は静岡県富士市の源立寺にあり、墓は神奈川県の小田原市内(小田原駅東口)と箱根町にある。
辞世として次の2首が伝わっている。
- 「雨雲の おほえる月も 胸の霧も はらいにけりな 秋の夕風」
- 「我身今 消ゆとやいかに おもふへき 空よりきたり 空に帰れば」
戦国大名の後北条氏は、こうして滅亡した。家康の婿だった氏直は命を助けられ、暮らしのための扶持を与えられた。翌天正19年(1591年)8月には秀吉から1万石を与えられ、大名として家を立て直す動きもあったとされるが、氏直はその年の11月に亡くなった。家の血筋は氏政の弟の氏規が受け継ぎ、江戸時代には氏規の子の北条氏盛が河内狭山藩の藩主となって、明治維新まで続いた。
評価
氏政は家族を大切にする人物だったようで、優れた弟たちとはいつも仲がよかった。妻の黄梅院についても、武田の駿河攻めをきっかけに離縁させられたものの、氏政は最後まで別れることを渋り、氏康の死後に武田と和睦するとまっさきに妻の遺骨を引き取って丁重に葬った、という話が語られてきた。ところがこの離縁の話そのものが、1970年代に史料を読み違えたことから生まれたもので、同じ時代の他の史料では確かめられない。実際には、黄梅院は最後まで氏政のそばで暮らしていたとされる。
北条氏が滅んだときに実権を握っていたのは氏政だが、父の代よりも領国を広げたこと、仲のよい弟たちと力を合わせ、よい家臣に支えられて戦でも手柄を立てたことを考えれば、けっして無能な武将ではなかった。秀吉に最後まで抵抗した理由については、以前は、氏政が愚かで時代の流れも秀吉との大きな力の差も読めなかったからだとする見方が主流だった。ほかに、源頼朝の時代から東国の武士には中央の政権から離れて立とうとする気風が強く、そうした東国の伝統が抵抗の背景にあったとする見方や、秀吉ははじめから北条を滅ぼすつもりだったとする見方もある。
黒田基樹は、東国の伝統や氏政の愚かさに理由を求めるこれらの見方に異を唱えている。徳川・長宗我部・島津といった有力な大名はたいてい一度は秀吉と戦っており、早くに従った上杉景勝と毛利輝元は、それ以前に織田政権との戦いで追い詰められ、中央の政権の強さを身にしみて知っていたから従ったのだという。つまり、抵抗の理由は当主の出来や土地柄ではなく、有力な大名ならどこにでもある事情だったと黒田は論じる。そのうえで、島津や長宗我部は本拠を攻められる前に降ったのに対し、北条は本拠まで攻め込まれる最後の段階まで戦い続けたのだから、滅ぼされたのは当然の成り行きだったと述べている。
逸話
氏政について伝わる逸話には、評判を落とすようなものが多い。しかし氏政はかならずしも無能な当主ではなく、こうした話の多くは後の時代に作られたものと考えられる。
よく知られているのが汁かけ飯の話である。食事の席で氏政が飯に汁をかけたところ、足りなかったのでもう一度かけ足した。それを見た父の氏康は、毎日食べている飯にかける汁の量も見当がつかないようでは北条家も自分の代で終わりだ、と嘆いたという。飯にかける汁の加減もわからない者に、国や家臣の心を推し量れるはずがない、という意味の話である。ただし、同じ筋の話が毛利元就と輝元の話としても伝わっている。氏政を愚か者とする見方は、18世紀半ばに書かれた『関八州古戦録』(巻十七)のあたりが古い例になる。
もう一つが麦の話で、17世紀前半に成立した『甲陽軍鑑』(巻十一)に出てくる。農民が麦を刈り取っているのを見た氏政が、あの刈りたての麦で昼食にしようと言った。これを伝え聞いた武田信玄は、麦が口に入るまでにどれほど手間がかかるかも知らないのかと、氏政を見下したという。こうした話が、氏政を低く見る下地になったのかもしれない。
なお、後北条氏は鎌倉時代の北条氏とは血がつながっていない。しかし母の瑞渓院を通じて今川氏の系譜をさかのぼると、北条時政の娘の時子(足利義兼の妻)から足利義氏・吉良長氏・今川国氏を経て今川氏親、さらに瑞渓院へと続く流れがあり、氏政が当主となったことで両家の間に系譜の上でのつながりが生まれた。また氏政の和歌一首が、後水尾天皇が選んだと伝わる『集外三十六歌仙』に32番として収められている。





