今日はなんの日 戦国のできごとカレンダーを見る
天正10年6月13日

山崎の戦い

やまざき の たたかい1582年07月02日
— 場所 —
山城国・摂津国境の山崎(天王山山麓、現在の京都府乙訓郡大山崎町)
— 結果 —
羽柴軍の勝利。
敗れた明智光秀は逃げる途中の小栗栖で命を落とした
— 歴史的意義 —
本能寺の変から11日後に秀吉が光秀を討った戦い。
秀吉はこの勝利を足がかりに、信長の後継者の座へ進んでいく
異聞 本能寺の変 『乙夜之書物』が記す光秀の乱
書籍

異聞 本能寺の変 『乙夜之書物』が記す光秀の乱

萩原大輔

洋泉社

— 戦場の位置 —

地図を読み込み中...

明智光秀 織田政権の司令塔
書籍

明智光秀 織田政権の司令塔

福島克彦

中公新書

— 両軍 —

— 羽柴軍 —
指揮官
羽柴秀吉事実上の総大将
織田信孝名目上の総大将
兵力
20,000-40,000人(諸説)
損害
最前線で戦った中川・高山両隊を中心に大きく損耗した(数は不詳)
参加武将
丹羽長秀3,000人を率い、右翼から光秀本隊の脇腹を突く
羽柴秀長秀吉本隊。天王山のふもと、旧西国街道沿いに陣を敷く
黒田孝高秀吉本隊。天王山のふもとに陣を敷き、松田・並河の部隊と戦う
池田恒興ひそかに円明寺川を渡り、津田信春の部隊を急襲
池田元助父の恒興とともに川を渡って急襲に加わる
加藤光泰池田父子とともに川を渡って急襲に加わる
中川清秀最前線の山崎に陣取り、伊勢貞興の部隊に攻められる
高山右近最前線の山崎に陣取り、斎藤利三の部隊に攻められる
木村重茲高山右近とともに2,000人を率いる
堀秀政苦戦する中川・高山両隊の後詰に駆けつける
蜂須賀正勝秀吉本隊
中村一氏秀吉本隊
堀尾吉晴秀吉本隊
神子田正治秀吉本隊。天王山のふもとに陣を敷く
蜂屋頼隆秀吉本隊
伊東祐兵秀吉本隊
加藤清正秀吉本隊の直番衆
福島正則秀吉本隊の直番衆
大谷吉継秀吉本隊の直番衆
山内一豊秀吉本隊の直番衆
増田長盛秀吉本隊の直番衆
仙石秀久秀吉本隊の直番衆
田中吉政秀吉本隊の直番衆
— 明智軍 —
指揮官
明智光秀総大将
兵力
約16,000人(『太閤記』)
損害
松田政近・伊勢貞興・御牧兼顕らが討死。勝龍寺城へ退いたあとも兵が逃げ散り、残ったのは700人あまり
参加武将
斎藤利三美濃衆。高山隊に攻めかかる。敗戦後、堅田で捕らえられ処刑される
斎藤利康美濃衆
斎藤利宗美濃衆
柴田勝定美濃衆
伊勢貞興旧足利幕臣。中川隊に襲いかかって戦いの口火を切り、しんがりを引き受けて討死
御牧兼顕旧足利幕臣。光秀に退くよう伝えたのち、部隊ごと討たれる
諏訪盛直旧足利幕臣
松田政近山城・丹波衆。天王山の中腹を進み、黒田隊らと戦って討死
並河易家山城・丹波衆。松田政近とともに天王山の中腹を進む
津田重久山城・丹波衆
津田信春川を渡ってきた池田隊に急襲され、三方から攻め立てられる
阿閉貞征近江衆。敗戦後、山本山城を捨てて逃げる
阿閉貞大近江衆
溝尾茂朝近江衆。敗戦後、坂本城で明智秀満らとともに自害
山崎長徳近江衆
木村吉清近江衆
津田正時河内衆
明智秀満光秀本隊。敗戦後、打出の浜で堀秀政に敗れ、坂本城で自害
明智光近光秀本隊
藤田行政光秀本隊
安田国継光秀本隊
可児吉長明智軍として参加
小川祐忠明智軍として参加
進士貞連明智軍として参加
四王天政孝明智軍として参加
妻木広忠明智軍として参加
考証 明智光秀
書籍

考証 明智光秀

渡邊大門 編

東京堂出版

— 戦いの経過 —

6月2日

本能寺の変

明智光秀が本能寺で織田信長を討つ。そのころ織田信孝と丹羽長秀は大坂・堺で四国攻めの軍を整えており、羽柴秀吉は備中高松城のあたりで毛利勢と戦っていた

6月3日

秀吉が変報を得て毛利と和睦

本能寺の変を知った秀吉は、すぐさま毛利方と和睦した

6月4日

清水宗治の自刃を検分

堀尾吉晴と蜂須賀正勝を立ち会わせて高松城主・清水宗治の切腹を見届け、5日から6日にかけて兵を引いた

6月5日

織田信澄の自刃と中川清秀への返書

信孝と長秀は、光秀の娘婿である津田信澄を自害に追い込んで態勢を整えた。同じ日、秀吉は中川清秀への返書で、信長と信忠は無事に難を逃れたという偽りの知らせを伝えている

6月7日

中国大返し

6日に沼、7日に姫路城、11日には尼崎へと、驚くほどの速さで畿内へ駆け戻った

6月9日

筒井順慶が郡山城で籠城支度

一度は光秀に応じて配下を山城へ送っていた筒井順慶が、ひそかに秀吉に味方すると決め、9日までに大和郡山城で籠城の準備に入った

6月10日

光秀が淀城・勝龍寺城を修築

秀吉が近づいていると知った光秀は、淀城と勝龍寺城の修築を急ぎ、男山に置いていた兵を引き揚げさせた

6月12日

富田の軍議と円明寺川の対陣

羽柴軍は富田で軍議を開いた。秀吉は総大将に長秀を、次に信孝を推したが、逆に二人から推されて秀吉自身が実質的な大将となる(名目上の総大将は信孝)。信孝・長秀の兵4,000も加わり、両軍は円明寺川(現在の小泉川)を挟んで向かい合った

6月13日 午後4時頃

伊勢貞興隊の攻撃で戦端が開く

天王山のふもとを横切って動いていた中川隊に伊勢貞興隊が襲いかかり、これに合わせて斎藤利三隊も高山隊に攻めかかった。追い込まれた中川・高山両隊は、堀秀政の後詰が来たことで踏みとどまった

6月13日 一刻後

池田隊の渡河奇襲と明智軍の総崩れ

淀川沿いを北へ進んだ池田恒興・元助父子と加藤光泰が、ひそかに円明寺川を渡って津田信春隊を急襲した。丹羽隊と信孝隊も右翼から一気に攻め寄せて光秀本隊の脇腹を突き、浮き足立った明智軍はやがて総崩れになった

6月13日 夜

光秀、勝龍寺城を脱出し小栗栖で落命

勝龍寺城へ退いた光秀のもとからは兵が次々に逃げ去り、残ったのは700人あまりだった。光秀は北門からひそかに抜け出して坂本城へ向かったが、途中の小栗栖の藪で落ち武者狩りに遭い、命を落とした

6月14日〜17日

明智秀満の敗死と斎藤利三の処刑

14日、光秀を助けに出てきた明智秀満を、堀秀政が打出の浜で破った。秀満は坂本城で光秀の妻子を手にかけ、自らも命を絶つ。17日には斎藤利三が隠れていた堅田で捕らえられ、六条河原で処刑された

6月27日

清洲会議

信長の弔い合戦に勝った秀吉は、清洲会議を経て信長の後継者としての立場を固め、天下人への歩みを始めた

信長の野望・新生 with パワーアップキット Complete Edition
ゲーム

信長の野望・新生 with パワーアップキット Complete Edition

コーエーテクモゲームス

PS5

— 戦いの内容 —

概要

天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変が起きてから11日後の6月13日、摂津と山城の国境にあたる山崎から勝龍寺城にかけての一帯で、羽柴秀吉の軍と明智光秀の軍が戦った。これが山崎の戦いである。秀吉は備中高松城を攻めていた陣から引き返してきたところで、光秀は織田信長を討ったばかりであった。羽柴方の名目上の総大将は織田信孝である。

昔から「天王山の戦い」と呼ばれてきた合戦で、今では山崎の戦い、あるいは「山崎合戦」と呼ぶのが一般的である。

戦いに敗れた光秀は勝龍寺城から逃れたものの、小栗栖で命を落とした。信長の弔い合戦に勝った秀吉は、清洲会議を経て信長の後継者としての立場を固め、天下人への道を歩みはじめる。

背景

本能寺の変が起きたとき、織田家の主な武将と、同盟相手の徳川家康は、それぞれ京から離れた場所にいた。柴田勝家は越中の魚津城で上杉勢と戦っており、滝川一益は上野の厩橋城で北条勢ににらみをきかせていた。織田信孝と丹羽長秀は大坂・堺で四国攻めの軍を編成している最中で、羽柴秀吉は備中高松城のあたりで毛利勢と対峙していた。徳川家康はわずかな供を連れて堺を見物していた。

秀吉は毛利軍が籠もる高松城を囲んでいたが、城将の清水宗治が申し出た条件を受け入れており、宗治が切腹すれば城は近く開かれる手はずだった。そこへ6月3日、本能寺の変の知らせが届く。秀吉はすぐに毛利方と和睦を結び、4日に堀尾吉晴と蜂須賀正勝を立ち会わせて宗治の切腹を見届けた。5日から6日にかけて兵を引くと、6日に沼、7日に姫路城、11日には尼崎へと駆け抜ける。のちに「中国大返し」と呼ばれる、驚くほど素早い畿内への帰還であった。

秀吉が気にかけていたのは、京へ向かう道筋に勢力を持つ摂津衆がどう動くかだった。ちょうどそのころ、摂津衆の一人である中川清秀から書状が届く。秀吉は6月5日付の返書で、信長と信忠は危ういところを切り抜けて膳所へ逃れたと伝えた。これは事実ではなかった。

大坂では、四国の長宗我部氏を攻めるため集まっていた織田信孝と丹羽長秀が、徳川家康をもてなすために軍を離れていた。その間に変の噂が広まり、雑兵の多くは逃げてしまう。ただ、光秀は安土や近江の平定を先にしたため、大坂・摂津への手当ては後回しになった。長秀と信孝は5日、光秀と通じているのではと疑われた光秀の娘婿・津田信澄を自害に追い込むなどして立て直し、光秀と戦う構えを示した。これを受けて、中川清秀・高山右近をはじめ摂津衆の多くが秀吉につき、信孝・長秀も4,000の兵をまとめて加わる。秀吉の軍は最終的に20,000人を超えた。

12日、羽柴軍は富田で軍議を開いた。秀吉は総大将に長秀を、次に信孝を推したが、逆に二人から推されて秀吉自身が実質的な大将となる(名目上の総大将は信孝)。軍議では山崎を主な戦場と見込んで、各部隊の持ち場が決められた。

一方の光秀は、変のあと京の治安を保つことに努め、そのうえで武田元明や京極高次らの軍を近江へ送り、京より東の足場を急いで固めた。自分の居城である坂本城や、織田家の本拠だった安土城の周りを押さえ、あわせて当時の織田家中で最も力のあった柴田勝家に備えることを、何より優先したためとみられる。近江は数日のうちに、瀬田城・日野城などを除いて光秀の手に入った。光秀は並行して、配下の有力な大名たちにも加勢を求めた。しかし縁戚の細川藤孝・忠興父子は、3日に髪を下ろして「喪に服す」と称し、どちらにもつかない姿勢を示すことで、やんわりと断った。筒井順慶も一度は配下を山城へ送ったが、ひそかに秀吉方につくと決め、9日までに居城の大和郡山城で籠城の準備を始めている。

10日、秀吉が近づいているとの知らせを受けた光秀は、淀城と勝龍寺城の修築を急ぎ、男山に置いていた兵を引き揚げさせた。とはいえ秀吉軍の進み方は光秀の読みをはるかに超えており、備えは間に合わなかった。光秀は、相手の2倍から3倍ともいわれる兵力差を抱えたまま決戦に臨むことになる。

戦いの経過

12日ごろから、両軍は円明寺川(現在の小泉川)を挟んで向かい合った。羽柴軍では、中川清秀・高山右近ら摂津衆が前の晩に山崎の集落を押さえて最前線に陣取った。池田恒興らは右翼に、黒田孝高・羽柴秀長・神子田正治らは天王山のふもとを通る旧西国街道に沿って陣を敷く。秀吉の本陣はさらに後ろの宝積寺にあったとされる。対する明智軍は、御坊塚に光秀の本陣を構えた。

小競り合いはあったものの、13日も両軍のにらみ合いが続いた。この日は雨だったとも伝わる。午後4時ごろ、高山隊の隣に陣を移そうと天王山のふもとを横切っていた中川隊に、斎藤隊の右手にいた伊勢貞興隊が襲いかかった。これに合わせて斎藤隊も高山隊に攻めかかり、戦いの火ぶたが切られる。中川・高山両隊は追い込まれたが、秀吉本隊から堀秀政の手勢が後詰に駆けつけたことで持ちこたえた。天王山のふもとにいた黒田・秀長・神子田らの部隊は前へ出て、中川・高山両隊の脇を突こうと天王山の中腹を進んできた松田政近・並河易家の両隊とぶつかった。

形勢が大きく動いたのは、それから一刻ほど後のことである。淀川の旧流路に沿って北へ進んだ池田恒興・元助父子と加藤光泰の手勢が、ひそかに円明寺川を渡り、津田信春の部隊に不意討ちをかけた。三方から攻め立てられた津田隊は、雑兵が逃げ出したこともあって乱れる。池田隊に続いて丹羽隊と信孝隊も右翼から一気に押し寄せ、光秀本隊の脇腹を突く形になった。これを見て、押されていた中川・高山両隊も勢いを取り戻し、斎藤・伊勢の両隊を押し戻す。動揺が全体に広がった明智軍は、やがて総崩れとなった。

御牧兼顕の部隊は、「我討死の間に引き給え」と光秀に使いを送ったのち、勢いに乗る羽柴軍の前に崩れ去った。光秀は後方の勝龍寺城へ退くしかなかった。主力の斎藤隊は敗走して戦場を離れ、黒田隊らと戦っていた松田政近や、しんがりを買って出た伊勢貞興らは乱戦の中で討死する。明智軍の痛手は大きかった。

羽柴軍も前線の部隊が大きく消耗し、日暮れも近かったため、追撃はとぎれとぎれにしか行われなかった。それでも明智軍の士気の落ち込みはそれ以上に深刻だった。勝龍寺城は大軍を入れられない平城だったこともあり、兵は次々に逃げ散って、700人あまりしか残らなかった。光秀は勝龍寺城の北門からひそかに抜け出し、居城の坂本城をめざして落ちのびる。しかしその途中、小栗栖の藪(今は「明智藪」と呼ばれる)にさしかかったところで、落ち武者を狙う農民たちに襲われた。竹槍で刺されて殺されたとも、その場は逃れたものの深手を負い、力尽きて家臣の介錯で自害したともいわれる。光秀の首は翌日には羽柴軍のもとに届き、京都の本能寺、次いで粟田口でさらされた。

結果と影響

翌日、秀吉は勝龍寺城に入って態勢を整え、堀秀政を近江へ送って道筋を断たせるとともに、光秀の行方を探させた。14日、堀隊は、光秀を助けるため急いで出てきた明智秀満の軍を打出の浜で迎え撃ち、打ち破る。兵300あまりを討たれて逃げた秀満は、坂本城で家宝を敵方に贈ったのち、光秀の妻子を手にかけ、溝尾茂朝・明智光忠とともに自害した。中川・高山両隊は丹波の亀山城へ向かい、光秀の子・明智光慶を自害させて城を押さえた。こうして明智氏は、出家していた者などを除いて絶えた。

京に入った羽柴軍は16日、近江も平定した。山崎片家、山本山城の阿閉貞征・貞大父子、佐和山城の荒木行重、長浜城の妻木範賢らが、城を捨てて逃げるか降るかしたためである。17日には斎藤利三が隠れていた堅田で生け捕られ、六条河原で首を斬られたとも、はりつけにされたともいう。

信長の弔い合戦に勝った秀吉は、6月27日の清洲会議を経て信長の後継者としての立場を固め、天下人への道を歩みはじめる。清洲会議のあとの7月19日には、光秀方で最後まで残っていた武田元明が丹羽長秀に攻められて自害した。京極高次は、妹とも姉ともいわれる竜子(松の丸殿)を秀吉に差し出して降った。

研究の動向

山崎の戦いについての一次史料は少なく、これまでは『太閤記』や軍記物など、後の時代にまとめられた書物をもとに語られてきた。秀吉はのちに山崎の戦いに触れた書状を出しているが、『フロイス日本史』などと合わない点もあり、自分の手柄を大きく見せるために書き換えたのではないかという指摘もある。

秀吉が宝積寺に本陣を置いたという通説も、同じ時代の史料には見当たらず、そう書かれるようになったのは20世紀に入ってからである。1668年の『雍州府志』には、千利休が山崎の妙喜庵に住んでいたころ秀吉がたびたび訪れたとあるだけだった。ところが1895年に京都市参事会が出した『京華要誌』には「天正年間に秀吉が本営とした」とあり、やがて一般向けの本でも、山崎の戦いのとき秀吉が宝積寺を本陣にしたと書かれるようになったという。

『フロイス日本史』によれば、光秀の軍と戦ったのは摂津衆で、池田恒興が大将となり、高山重友・中川清秀らが加わっていた。秀吉と信孝の軍は戦場から遠くない所にいながら、結局戦いに加われなかったという。ただ、キリシタン大名である高山の働きを大げさに書いたものとみられ、あまり重視されてこなかった。

ところが2024年、合戦当日の6月13日付で、小寺職隆と生駒七郎右衛門尉に宛てた羽柴秀吉の書状が見つかった。書状には、勝龍寺城に拠る光秀の軍勢と12日に戦いがあったこと、秀吉は翌14日に勝龍寺城のある西岡へ向かうことが書かれている。馬部隆弘はこれをもとに、山崎の戦いのとき秀吉は摂津の富田(現在の大阪府高槻市)にいて、戦いには遅れて着いたと考えている。戦後、池田恒興が宿老の一人として連署状に名を連ねる地位に就いたことも、これまでは恒興が信長の乳兄弟だったからだと説明されてきた。これに対し馬部は、光秀を討った一番の功労者だったからこそ、名目上とはいえ二番目の序列を与えられたのだとみる。秀吉は合戦に遅れ、池田恒興が中心になって勝敗を決めたというこの説によって、合戦の流れの説明は今後大きく書き換えられるかもしれない。

成句

この戦いからは「洞ヶ峠」「天王山」「三日天下」という言い回しが生まれた。ただ、どれも史実どおりというわけではなく、むしろ後に語られた伝説から来ている。

「洞ヶ峠」は、二つの勢力が争っているとき、形勢を見て有利な側につこうとすることを指す。しかし、筒井順慶が洞ヶ峠に陣を敷いたことは、信頼できる史料ではまったく確かめられない。俗書とされる『太閤記』でさえ、洞ヶ峠に陣を構えて順慶を待ったのは光秀の側だと書いている。『増補筒井家記』には、順慶が島左近に勧められて洞ヶ峠に陣を敷いたとあるが、この本は誤りだらけで信用できず、この話も誤りとされる。それでも「日和見順慶」という言葉はかなり古くからあったようで、このときの順慶の態度を言い表したものである。

「天王山」は、勝ち負けを左右する大事な局面、運命の分かれ目を指す。山崎の戦いでは天王山を押さえたことが勝敗を決めたとされ、『太閤記』や『川角太閤記』にもそう書かれてきた。しかし、天王山の奪い合いは信頼できる史料からはまったく確かめられない。天王山で戦いがあったとはっきり書いた一次史料も見つかっておらず、以前はよく使われた「天王山の戦い」という呼び名は、今では「山崎の戦い(山崎合戦)」に置き換わっている。「天下分け目の天王山」という言い方もよく聞かれるが、正しい使い方ではないとされる。

「三日天下」は、ごく短い間だけ権力を握ることを指す。光秀の天下はそうたとえられるが、実際には本能寺の変のあった天正10年6月2日から、山崎の戦いのあった同じ月の13日までで、11日か12日ほどの間であった。

信長の野望・新生 公式ガイドブック
書籍

信長の野望・新生 公式ガイドブック

ファミ通書籍編集部

KADOKAWA

— 問答 —
問
「天下分け目の天王山」は史実ですか?
答
天王山を奪い合ったことが勝敗を分けたという話は、『太閤記』や『川角太閤記』といった後の時代に編まれた書物に出てくるもので、信頼できる史料からはまったく確かめられません。『竹森家記』は黒田孝高が天王山を早く押さえるよう主張したと書き、『永源師檀紀年録』は合戦に加わっていない細川忠興まで登場させています。天王山で戦いがあったとはっきり記した一次史料は見つかっておらず、以前はよく使われた「天王山の戦い」という呼び名も、今では「山崎の戦い(山崎合戦)」に置き換わっています。また「天下分け目の天王山」という言い方も、本来の使い方からは外れているとされます。
問
羽柴秀吉は山崎の戦場にいたのですか?
答
秀吉が宝積寺に本陣を置いたというのが通説ですが、同じ時代の史料にはそうした記述がなく、そう書かれるようになったのは20世紀以降だと指摘されています。2024年には、合戦当日の6月13日付で小寺職隆らに宛てた秀吉の書状が見つかりました。そこには、翌14日に勝龍寺城のある西岡へ向かうと書かれています。馬部隆弘はこの書状をもとに、合戦のとき秀吉は摂津の富田にいて、戦いには間に合わなかったと見ています。『フロイス日本史』も、光秀と戦ったのは池田恒興を大将とする摂津衆で、秀吉と信孝の軍は結局戦いに加われなかったと書いています。合戦の経過の説明は、今後大きく変わるかもしれません。
問
明智光秀の敗因は何ですか?
答
第一の理由は兵力の差です。その差が生まれた背景には、秀吉の動きが光秀の予想よりはるかに速かったこと、中国攻めのために秀吉が信長軍の主力を預かっていたこと、細川・筒井という畿内の有力大名が味方につかなかったこと、安土城を押さえるために兵を近江へ回していたことなど、いくつもの事情が重なっています。こうして光秀は兵を十分に集められないまま、京と西国をつなぐ最後の要地・山崎で決戦に臨むしかありませんでした。羽柴方にも無理な行軍で将兵が疲れているという弱みはありましたが、勝負は戦う前の段階でほぼついていたといえます。
— 関連文献・史料 —
明智光秀(人物叢書)高柳光寿研究書
山崎の合戦と池田恒興(中京大学文学部紀要60-2)馬部隆弘論文
[特別寄稿]山崎合戦像の行方(Web中公新書)福島克彦論文
謎とき 本能寺の変藤田達生研究書
日本戦史 山崎役帝国陸軍参謀本部編研究書
太閤記小瀬甫庵史料
フロイス日本史ルイス・フロイス一次史料

最終更新日: 2026年08月23日