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修理亮 柴田勝家柴田勝家の家紋
しばた かついえ · 1522–1583

柴田勝家

しばた かついえ
越前国八郡(49万石)織田信長の宿老・越前北ノ庄城主・北陸方面軍司令官
— 誕生 —
1522年01月01日(大永2年)
尾張国愛知郡上社村(現・愛知県名古屋市名東区)
出典: 大永2年(『張州府誌』)。月日不詳のため 01-01 で代用。生年・生誕地とも確定していない

諸説

1526年01月01日(大永6年)- 大永6年説
1527年01月01日(大永7年)- 大永7年説
1530年01月01日(享禄3年)(下社城址(現・愛知県名古屋市名東区陸前町の明徳寺))- 享禄3年生説(下社村誕生地の異説)
— 死没 —
1583年06月14日(天正11年)
北ノ庄城(現・福井県福井市) · 自害(北ノ庄城の戦い)
出典: 天正11年4月24日。享年62(57歳・58歳など諸説あり)
— 領域 —
越前国八郡(49万石)
修理亮
豊臣兄弟! 後編 (NHK大河ドラマ・ガイド)
書籍

豊臣兄弟! 後編 (NHK大河ドラマ・ガイド)

八津弘幸・NHKドラマ制作班

NHK出版

— 家族 —

※ 出自は不明で、柴田勝義の子とする伝承があるが確実な資料はない(土豪階層出身とも)。生年・享年についても複数説がある

※ 継室・お市の方の連れ子である浅井三姉妹(茶々・初・江)は、清洲会議後に勝家・お市に引き取られ、北ノ庄落城直前に城を出て秀吉に保護された

※ 前妻については史料に確実な記載がなく、姉婿・吉田次兵衛の妻となった姉と混同されることがある

両親

柴田勝義

不明

配偶者

前妻

不詳(前妻)

詳細不明

継室

お市の方

自性院

織田信長の妹

庶子

柴田勝里

詳細不詳

末子

柴田勝忠

詳細不詳

(養子・養女)

柴田勝豊

実父: 吉田次兵衛

姉の子・長浜城主

(養子・養女)

柴田勝敏

実父: 不詳

甥(実子説あり)

(養子・養女)

柴田勝政

実父: 佐久間盛次

佐久間盛政の弟

(養子・養女)

柴田勝春

実父: 庶兄

庶兄の子

(養子・養女)

津田信澄

実父: 織田信勝

信勝の遺児を養育

大河ドラマ 豊臣兄弟! 超おもしろファンブック (小学館SJシリーズ)
書籍

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小和田哲男・NHKエンタープライズ

小学館

— 年表 —

1522年01月
(1歳)
誕生

大永2年、尾張国愛知郡上社村(現・名古屋市名東区)で誕生(『張州府誌』)。ただし生年・生誕地には諸説あり確定していない

1552年01月
(31歳)
萱津の戦い

天文21年、守護代・織田信友との戦いで大将格を務め、坂井甚介を討ち取るなど30騎を討ち取る武功を挙げる

1556年08月
(35歳)
稲生の戦い

弘治2年8月、林秀貞と共に織田信勝を担いで織田信長の排除を企図。信長軍1,000人と激突するが敗れて降伏。信長・信勝の生母・土田御前の願いで赦免された

1557年11月
(36歳)
織田信勝の謀反を密告

弘治3年、信勝が再び謀反を企てたことを信長に密告。信勝は仮病の信長を見舞いに来たところを河尻秀隆らに殺害され、勝家は信長の家臣となる

1565年07月
(44歳)
織田家奉行に列す

永禄8年、尾張国寂光院宛の所領安堵状に丹羽長秀・佐々主知と共に署名。この頃には信長の奉行の1人であった

1568年09月
(47歳)
上洛戦の先鋒

永禄11年、信長の上洛戦に先鋒として従軍。勝竜寺城の戦いなど畿内平定で最精鋭として活躍

1570年06月
(49歳)
長光寺城の防衛

元亀元年、六角義賢の琵琶湖南岸再進出に対し長光寺城に配置され、佐久間信盛らと共に六角勢を撃退。籠城時に「甕割り柴田」の逸話を残す

1570年07月
(49歳)
姉川の戦い

元亀元年6月、浅井・朝倉との姉川の戦いに従軍

1570年09月
(49歳)
志賀の陣

元亀元年9月、野田・福島の戦いの最中に朝倉・浅井連合軍が京都に進軍。勝家は明智光秀と共に京都守備に戻り、事態を重大視して信長に総軍撤退を進言した

1571年05月
(50歳)
長島一向一揆で負傷

元亀2年、石山本願寺と呼応した長島一向一揆討伐に出陣。退却時に殿を務めるが、一揆勢の奇襲を受けて負傷し、旗指物まで奪われた

1571年09月
(50歳)
比叡山焼き討ち

元亀2年9月、比叡山延暦寺の焼き討ちに参加

1573年04月
(52歳)
上京焼き討ちと二条御所開城

元亀4年、信長に反旗を翻した将軍・足利義昭への圧力として上京放火に参加。7月には三淵藤英を説得し二条御所を無血開城させた

1573年07月
(52歳)
槙島城攻めで足利義昭を追放

天正元年7月、7万の織田軍で槙島城を総攻撃し義昭を降伏させ、室町幕府事実上の滅亡に立ち会う

1573年08月
(52歳)
一乗谷城の戦い

天正元年8月、朝倉氏を滅ぼした信長総動員の遠征に従軍。以後の小谷城攻めにも参陣(先鋒は羽柴秀吉

1574年07月
(53歳)
第三次長島攻め

天正2年、7万の大軍による長島一向一揆の最終戦に参陣。賀鳥口(右翼)を佐久間信盛と共に指揮し、兵糧攻めで開城させた

1575年06月
(54歳)
長篠の戦い

天正3年5月、織田・徳川連合軍の一員として武田勝頼と戦う

1575年09月
(54歳)
越前一国平定・北ノ庄城拝領

天正3年、越前一向一揆を殲滅戦で平定。信長から越前国掟9条とともに越前八郡49万石と北ノ庄城を与えられた

1576年01月
(55歳)
北陸方面軍司令官に就任

天正4年、前田利家・佐々成政・不破光治らを与力として、加賀国の一向一揆平定を命じられる。織田家中で唯一「掟書黒印状」を発給するなど独自の領国支配を確立

1577年10月
(56歳)
手取川の戦い

天正5年9月、上杉謙信の加賀侵攻に対応するが、軍議で羽柴秀吉と衝突。秀吉が独断で戦線離脱するなか七尾城救援に間に合わず、退却中の9月23日に手取川で謙信軍の襲撃を受けた

1580年11月
(59歳)
加賀平定・織田家筆頭家老に

天正8年11月、金沢御堂を攻略し加賀を平定。能登・越中にも進出。佐久間信盛の失脚により名実ともに織田家筆頭家老の地位に就く

1581年02月
(60歳)
京都御馬揃え

天正9年、信長主催の京都御馬揃えに越前衆を率いて参加(『信長公記』)

1582年06月
(61歳)
魚津城陥落

天正10年、越中魚津城・松倉城を攻囲し6月3日に魚津城陥落。しかし前日の本能寺の変を知らず、事件を知って撤退。中国大返しを行った秀吉に光秀討伐の先を越された

1582年07月
(61歳)
清洲会議

織田氏の後継者を決める清洲会議に出席。信長の三男・信孝を推したが、秀吉の擁立した嫡孫・三法師(織田秀信)が家督を継ぐことに決着。北近江3郡と長浜城を得たが秀吉との立場は逆転

1582年10月
(61歳)
お市の方と結婚

天正10年10月、清洲会議で諸将の承諾を得て信長の妹・お市の方を継室に迎える。連れ子の浅井三姉妹(茶々・初・江)も北ノ庄城に引き取った

1583年06月
(62歳)
賤ヶ岳の戦い

天正11年3月、秀吉と近江で対峙。4月20日の佐久間盛政による大岩山砦奇襲後、秀吉の美濃大返しと前田利家の戦線離脱により柴田軍は総崩れとなる

1583年06月
(62歳)
北ノ庄城落城・自害

天正11年4月24日、北ノ庄城で妻・お市の方らとともに自害。享年62。辞世は「夏の夜の夢路はかなき跡の名を雲井にあげよ山郭公」。連れ子の浅井三姉妹は城外に落ち延び秀吉に保護された

※ 年齢は数え年で表記しています。数え年は生まれた年を1歳とし、元日を迎えるごとに加算する日本の伝統的な年齢の数え方です。

戦国武将列伝 別巻1 織田編
書籍

戦国武将列伝 別巻1 織田編

柴裕之 編

戎光祥出版

— 人物紹介 —

概要

柴田勝家は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。織田信長の宿老として天下統一事業を支え、北陸方面軍司令官として越前・加賀・能登・越中に勢力を広げた。武骨で戦場での突進力に優れた将で、「鬼柴田」「かかれ柴田」「甕割り柴田」の異名で知られる。

本能寺の変後、清洲会議で織田家の後継者を巡り羽柴秀吉と対立。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、居城・北ノ庄城で妻・お市の方(信長の妹)とともに自害した。享年62。

生涯

織田信秀・信勝時代

出自は明確でなく、柴田勝義の子とする伝承があるが確実な資料はなく、尾張の土豪階層の出身とも推測される。若い頃から織田信秀に仕え、天文20年(1551年)の信秀死後は嫡男・織田信勝(信行)に家老として仕えた。

天文21年(1552年)の萱津の戦いでは、清洲城主・織田信友との戦いで大将格を務め、坂井甚介を討ち取るなど30騎の武功を挙げた。

弘治2年(1556年)8月、勝家は林秀貞と共に信勝を織田家の後継者にしようと画策し、信長の排除を試みた。1,000人を率いて戦うが稲生の戦いで敗れて降伏(『信長公記』首巻)。信長・信勝兄弟の生母・土田御前の強い願いで赦免された。しかし、稲生の敗戦後に信勝が新参の津々木蔵人を重用して勝家を軽んじると、勝家は信勝を見限る。

弘治3年(1557年)、信勝が再び謀反を計画したとき、勝家はこれを信長に密告。信勝は仮病の信長を見舞いに来たところを河尻秀隆らに殺害された。以後、勝家は信長の家臣となり、信勝の遺児・津田信澄を養育することとなる。

織田信長時代

信勝に与した過去のためか、桶狭間の戦いや美濃斎藤氏攻めでは用いられなかった。しかし永禄8年(1565年)には尾張国寂光院宛の所領安堵状に丹羽長秀・佐々主知と共に署名しており、この頃には信長の奉行の1人であった。

永禄11年(1568年)の上洛作戦から再度重用され、勝竜寺城の戦いなど畿内平定戦で常に4人の先鋒武将の1人として最精鋭の活躍を見せた。

元亀元年(1570年)、浅井長政の離反により琵琶湖南岸を確保する必要から長光寺城に配置され、六角義賢の攻撃を撃退。籠城戦のさなかに残された最後の水を兵に振る舞い、水甕を割って背水の陣を敷いたと伝える「甕割り柴田」の逸話が生まれた。同年6月の姉川の戦いに従軍。9月の志賀の陣では京都守備に戻り、事態を重大視して信長に総軍撤退を進言した。

元亀2年(1571年)5月の長島一向一揆討伐では、退却中に殿を務めた勝家隊が奇襲を受けて負傷。氏家直元らが交代して戦死した。9月には比叡山焼き討ちに加わっている。

天正元年(1573年)、上京放火から槙島城攻めで足利義昭を追放し室町幕府事実上の滅亡に立ち会う。同年8月の一乗谷城の戦い、9月の第二次長島攻めにも参陣した。

天正2年(1574年)の第三次長島攻めでは、賀鳥口(右翼)を佐久間信盛と共に指揮。天正3年(1575年)の高屋城の戦い、長篠の戦いにも参加した。

北陸方面軍司令官

天正3年(1575年)9月、越前一向一揆平定の後、信長から越前国掟9条とともに越前八郡49万石と北ノ庄城(現・福井市)を与えられた。翌天正4年(1576年)には北陸方面軍司令官に任命され、前田利家・佐々成政・不破光治を与力として加賀国の平定を命じられる。この頃から勝家は「掟書黒印状」を発給するなど、織田家中で独自の領国支配を示すようになった。

天正5年(1577年)7月、上杉謙信が加賀まで進出してきたのに対応するが、軍議で羽柴秀吉と衝突。秀吉が独断で戦線離脱し、勝家は七尾城救援に間に合わず、退却中の9月23日に手取川で謙信軍の襲撃を受けた(手取川の戦い)。

天正6年(1578年)に謙信が急死すると、勝家は攻勢に転じる。天正8年(1580年)3月に本願寺との講和が結ばれると、金沢御堂を攻略して同年11月に加賀を平定。さらに能登・越中へと進出した。佐久間信盛の失脚もあり、勝家は名実ともに織田家筆頭家老の地位に就く。

天正10年(1582年)3月から越中魚津城を攻囲し、6月3日に落城させた。しかしその前日の本能寺の変で信長は横死。事件を知り撤退したが、上杉方の反攻や国衆の離反で動けず、光秀討伐は中国大返しを敢行した秀吉に先を越された。

清洲会議と秀吉との対立

天正10年(1582年)6月27日の清洲会議では、勝家は信長の三男・織田信孝を後継者に推したが、秀吉が擁立した嫡孫・三法師(後の織田秀信)が家督を継ぐことに決着。遺領配分でも河内・丹波・山城を増領した秀吉に対し、勝家は北近江3郡と長浜城を得たにとどまり、両者の立場は逆転した。

同会議で諸将の承諾を得て、勝家は信長の妹・お市の方を継室に迎えた。従来は織田信孝の仲介とされてきたが、勝家自身の書状(『南行雑録』所収堀秀政宛書状)から、勝家自身のお市への意向を汲んで秀吉が動いたとする指摘もある。お市の連れ子・浅井三姉妹(茶々・初・江)も勝家・お市に引き取られた。

その後、秀吉は長浜城の勝家養子・柴田勝豊を圧迫して寝返らせ、岐阜の織田信孝を屈服させて、勝家を包囲。天正11年(1583年)正月には秀吉が7万の大軍で伊勢の滝川一益を攻めた。

賤ヶ岳の戦いと最期

天正11年(1583年)3月12日、勝家はついに雪解けを待って北近江に出兵し、秀吉と対峙した(賤ヶ岳の戦い)。事前に足利義昭を通じ毛利氏の後方攪乱を求めたが実現しなかった。

4月16日、秀吉に降伏していた織田信孝が再び挙兵。秀吉が岐阜へ向かった隙を突いて、勝家は佐久間盛政に大岩山砦への奇襲を許可した。中川清秀を討ち取る戦果を挙げたものの、盛政は再三の撤退命令に従わず前線に留まり続けた。翌4月20日、秀吉は美濃大返しを敢行して大垣から木ノ本まで52kmを5時間で駆け戻り、翌21日未明に総攻撃を仕掛けた。前田利家の戦線離脱で柴田軍は総崩れとなり、勝家は北ノ庄城へ退却した。

4月24日、勝家は北ノ庄城で妻・お市の方らとともに自害した(北ノ庄城の戦い)。享年62(享年には諸説あり)。辞世は「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山郭公(やまほととぎす)」。勝家は十字切りで切腹し、中村文荷斎が介錯した。殉死する者80余人、聞荷斎はかねてから用意した火薬に火をつけ、天主とともに勝家の一類はことごとく亡くなった(『毛利家文書』所収秀吉書状)。連れ子の浅井三姉妹は城外に脱出し、後に豊臣・京極・徳川の各家に嫁いだ。

人物

ルイス・フロイスは勝家を「信長の重立ちたる将軍二人中の一人」「信長の時代の日本でもっとも勇猛な武将であり果敢な人」と評した(『フロイス日本史』・1584年1月20日付書簡)。その武骨で戦場での突進力に優れた性格から「鬼柴田」「かかれ柴田」と呼ばれた。

一方、フロイス『日本報告』は、賤ヶ岳の敗戦後の勝家が離反した家臣に恨み言を言わず、最後まで付き添った家臣たちに生き延びることを許した温情ある人柄も伝えており、単なる猛将にとどまらない一面を示している。

長光寺城籠城戦での「甕割り柴田」の逸話や、越前一揆平定後に一揆勢の刀を鋳潰して九頭竜川に舟橋を架けたと伝える「知恵柴田」の逸話(『明智軍記』・史実性は疑問)など、勝家にまつわる逸話は多い。信長の下で戦功およそ二十四度に及ぶと自ら『武家事紀』に語ったとされ、生涯を軍事に費やした武将であった。

評価

勝家は織田家筆頭家老として天下統一事業を支えた宿老であり、越前・加賀・能登・越中に及ぶ北陸方面の支配を担った。信長からの独立性を認められ、織田家中で唯一領国支配の「掟書黒印状」を発給できた点は、勝家の政治的地位の高さを示している。

賤ヶ岳の戦いでの敗北と自害は、織田家の旧体制が完全に崩壊し、羽柴秀吉が天下人への道を歩み始める転換点となった。勝家の与力・前田利家は敗走する勝家を厚遇したうえで秀吉に降伏し、後に加賀百万石を築くことになる。

柴田勝家-織田軍の「総司令官」
書籍

柴田勝家-織田軍の「総司令官」

和田 裕弘

中央公論新社(中公新書 2758)

お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像
書籍

お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像

黒田基樹

朝日新書

— 問答 —
柴田勝家はなぜ賤ヶ岳の戦いで敗れた?
直接の敗因は、佐久間盛政の大岩山砦奇襲後に撤退命令を受け入れず前線に留まったこと、秀吉の「美濃大返し」の速さを読み誤ったこと、そして与力の前田利家が戦線離脱したことの3点が重なった結果です。より広く見れば、清洲会議後の調略戦で秀吉が上杉景勝や織田家臣団を切り崩しており、勝家が期待した毛利氏の後方攪乱も足利義昭の呼びかけに毛利が応じず実現しませんでした。フロイス『日本報告』は敗戦後の勝家が離反した家臣に恨み言を言わず、付き添った家臣に生きることを許した温情ある姿を伝えています。
柴田勝家とお市の方の関係は?
天正10年(1582年)10月、清洲会議後に諸将の承諾を得て結婚しました。従来は信長の三男・信孝の仲介とされてきましたが、勝家自身の書状(『南行雑録』所収堀秀政宛書状)に「秀吉と申し合わせ主筋の者との結婚へ皆の承諾を得た」とあり、勝家のお市への意向を汲んで秀吉が動いた指摘されています。翌年4月24日、北ノ庄城落城の際にお市も勝家と運命を共にしましたが、連れ子の浅井三姉妹(茶々・初・江)は城外に落ち延び、後に淀殿・常高院・崇源院として豊臣・京極・徳川の各家へ嫁ぐことになります。
秀吉との対立はなぜ生まれた?
対立の芽は天正5年(1577年)の手取川の戦い前後に遡ります。上杉謙信への対応をめぐる軍議で衝突し、秀吉が信長の許可なく戦線離脱する事件が起きました。本能寺の変後の清洲会議では後継者候補で意見が対立(勝家は信孝、秀吉は三法師)し、遺領配分でも河内・丹波・山城を得た秀吉に対し勝家は北近江3郡どまりで、織田家中の立場が逆転しました。以後、秀吉は勝家の養子・柴田勝豊が守る長浜城を圧迫して寝返らせ、織田信孝を屈服させ、伊勢の滝川一益を攻めるなど周囲から切り崩したうえで、雪解けを待って出陣した勝家と賤ヶ岳で決戦することになります。
— 関連文献・史料 —
柴田勝家Wikipedia取得資料
谷口克広『信長軍の司令官―武将たちの出世競争』谷口克広研究書
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで』谷口克広研究書
高柳光寿『戦史ドキュメント 賤ヶ岳の戦い』高柳光寿研究書
山本博文『信長の血統』山本博文研究書
柴辻俊六「柴田勝家発給文書とその地域支配」柴辻俊六論考
信長公記一次史料
フロイス日本史一次史料

最終更新日: 2026年07月26日