— 人物紹介 —
概要
柴田勝家は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。織田信長の宿老として天下統一事業を支え、北陸方面軍司令官として越前・加賀・能登・越中に勢力を広げた。武骨で戦場での突進力に優れた将で、「鬼柴田」「かかれ柴田」「甕割り柴田」の異名で知られる。
本能寺の変後、清洲会議で織田家の後継者を巡り羽柴秀吉と対立。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、居城・北ノ庄城で妻・お市の方(信長の妹)とともに自害した。享年62。
生涯
織田信秀・信勝時代
出自は明確でなく、柴田勝義の子とする伝承があるが確実な資料はなく、尾張の土豪階層の出身とも推測される。若い頃から織田信秀に仕え、天文20年(1551年)の信秀死後は嫡男・織田信勝(信行)に家老として仕えた。
天文21年(1552年)の萱津の戦いでは、清洲城主・織田信友との戦いで大将格を務め、坂井甚介を討ち取るなど30騎の武功を挙げた。
弘治2年(1556年)8月、勝家は林秀貞と共に信勝を織田家の後継者にしようと画策し、信長の排除を試みた。1,000人を率いて戦うが稲生の戦いで敗れて降伏(『信長公記』首巻)。信長・信勝兄弟の生母・土田御前の強い願いで赦免された。しかし、稲生の敗戦後に信勝が新参の津々木蔵人を重用して勝家を軽んじると、勝家は信勝を見限る。
弘治3年(1557年)、信勝が再び謀反を計画したとき、勝家はこれを信長に密告。信勝は仮病の信長を見舞いに来たところを河尻秀隆らに殺害された。以後、勝家は信長の家臣となり、信勝の遺児・津田信澄を養育することとなる。
織田信長時代
信勝に与した過去のためか、桶狭間の戦いや美濃斎藤氏攻めでは用いられなかった。しかし永禄8年(1565年)には尾張国寂光院宛の所領安堵状に丹羽長秀・佐々主知と共に署名しており、この頃には信長の奉行の1人であった。
永禄11年(1568年)の上洛作戦から再度重用され、勝竜寺城の戦いなど畿内平定戦で常に4人の先鋒武将の1人として最精鋭の活躍を見せた。
元亀元年(1570年)、浅井長政の離反により琵琶湖南岸を確保する必要から長光寺城に配置され、六角義賢の攻撃を撃退。籠城戦のさなかに残された最後の水を兵に振る舞い、水甕を割って背水の陣を敷いたと伝える「甕割り柴田」の逸話が生まれた。同年6月の姉川の戦いに従軍。9月の志賀の陣では京都守備に戻り、事態を重大視して信長に総軍撤退を進言した。
元亀2年(1571年)5月の長島一向一揆討伐では、退却中に殿を務めた勝家隊が奇襲を受けて負傷。氏家直元らが交代して戦死した。9月には比叡山焼き討ちに加わっている。
天正元年(1573年)、上京放火から槙島城攻めで足利義昭を追放し室町幕府事実上の滅亡に立ち会う。同年8月の一乗谷城の戦い、9月の第二次長島攻めにも参陣した。
天正2年(1574年)の第三次長島攻めでは、賀鳥口(右翼)を佐久間信盛と共に指揮。天正3年(1575年)の高屋城の戦い、長篠の戦いにも参加した。
北陸方面軍司令官
天正3年(1575年)9月、越前一向一揆平定の後、信長から越前国掟9条とともに越前八郡49万石と北ノ庄城(現・福井市)を与えられた。翌天正4年(1576年)には北陸方面軍司令官に任命され、前田利家・佐々成政・不破光治を与力として加賀国の平定を命じられる。この頃から勝家は「掟書黒印状」を発給するなど、織田家中で独自の領国支配を示すようになった。
天正5年(1577年)7月、上杉謙信が加賀まで進出してきたのに対応するが、軍議で羽柴秀吉と衝突。秀吉が独断で戦線離脱し、勝家は七尾城救援に間に合わず、退却中の9月23日に手取川で謙信軍の襲撃を受けた(手取川の戦い)。
天正6年(1578年)に謙信が急死すると、勝家は攻勢に転じる。天正8年(1580年)3月に本願寺との講和が結ばれると、金沢御堂を攻略して同年11月に加賀を平定。さらに能登・越中へと進出した。佐久間信盛の失脚もあり、勝家は名実ともに織田家筆頭家老の地位に就く。
天正10年(1582年)3月から越中魚津城を攻囲し、6月3日に落城させた。しかしその前日の本能寺の変で信長は横死。事件を知り撤退したが、上杉方の反攻や国衆の離反で動けず、光秀討伐は中国大返しを敢行した秀吉に先を越された。
清洲会議と秀吉との対立
天正10年(1582年)6月27日の清洲会議では、勝家は信長の三男・織田信孝を後継者に推したが、秀吉が擁立した嫡孫・三法師(後の織田秀信)が家督を継ぐことに決着。遺領配分でも河内・丹波・山城を増領した秀吉に対し、勝家は北近江3郡と長浜城を得たにとどまり、両者の立場は逆転した。
同会議で諸将の承諾を得て、勝家は信長の妹・お市の方を継室に迎えた。従来は織田信孝の仲介とされてきたが、勝家自身の書状(『南行雑録』所収堀秀政宛書状)から、勝家自身のお市への意向を汲んで秀吉が動いたとする指摘もある。お市の連れ子・浅井三姉妹(茶々・初・江)も勝家・お市に引き取られた。
その後、秀吉は長浜城の勝家養子・柴田勝豊を圧迫して寝返らせ、岐阜の織田信孝を屈服させて、勝家を包囲。天正11年(1583年)正月には秀吉が7万の大軍で伊勢の滝川一益を攻めた。
賤ヶ岳の戦いと最期
天正11年(1583年)3月12日、勝家はついに雪解けを待って北近江に出兵し、秀吉と対峙した(賤ヶ岳の戦い)。事前に足利義昭を通じ毛利氏の後方攪乱を求めたが実現しなかった。
4月16日、秀吉に降伏していた織田信孝が再び挙兵。秀吉が岐阜へ向かった隙を突いて、勝家は佐久間盛政に大岩山砦への奇襲を許可した。中川清秀を討ち取る戦果を挙げたものの、盛政は再三の撤退命令に従わず前線に留まり続けた。翌4月20日、秀吉は美濃大返しを敢行して大垣から木ノ本まで52kmを5時間で駆け戻り、翌21日未明に総攻撃を仕掛けた。前田利家の戦線離脱で柴田軍は総崩れとなり、勝家は北ノ庄城へ退却した。
4月24日、勝家は北ノ庄城で妻・お市の方らとともに自害した(北ノ庄城の戦い)。享年62(享年には諸説あり)。辞世は「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山郭公(やまほととぎす)」。勝家は十字切りで切腹し、中村文荷斎が介錯した。殉死する者80余人、聞荷斎はかねてから用意した火薬に火をつけ、天主とともに勝家の一類はことごとく亡くなった(『毛利家文書』所収秀吉書状)。連れ子の浅井三姉妹は城外に脱出し、後に豊臣・京極・徳川の各家に嫁いだ。
人物
ルイス・フロイスは勝家を「信長の重立ちたる将軍二人中の一人」「信長の時代の日本でもっとも勇猛な武将であり果敢な人」と評した(『フロイス日本史』・1584年1月20日付書簡)。その武骨で戦場での突進力に優れた性格から「鬼柴田」「かかれ柴田」と呼ばれた。
一方、フロイス『日本報告』は、賤ヶ岳の敗戦後の勝家が離反した家臣に恨み言を言わず、最後まで付き添った家臣たちに生き延びることを許した温情ある人柄も伝えており、単なる猛将にとどまらない一面を示している。
長光寺城籠城戦での「甕割り柴田」の逸話や、越前一揆平定後に一揆勢の刀を鋳潰して九頭竜川に舟橋を架けたと伝える「知恵柴田」の逸話(『明智軍記』・史実性は疑問)など、勝家にまつわる逸話は多い。信長の下で戦功およそ二十四度に及ぶと自ら『武家事紀』に語ったとされ、生涯を軍事に費やした武将であった。
評価
勝家は織田家筆頭家老として天下統一事業を支えた宿老であり、越前・加賀・能登・越中に及ぶ北陸方面の支配を担った。信長からの独立性を認められ、織田家中で唯一領国支配の「掟書黒印状」を発給できた点は、勝家の政治的地位の高さを示している。
賤ヶ岳の戦いでの敗北と自害は、織田家の旧体制が完全に崩壊し、羽柴秀吉が天下人への道を歩み始める転換点となった。勝家の与力・前田利家は敗走する勝家を厚遇したうえで秀吉に降伏し、後に加賀百万石を築くことになる。





