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左衛門督・侍従 堀秀政堀秀政の家紋
ほり ひでまさ · 1553–1590

堀秀政

ほり ひでまさ
近江長浜2万5,000石・近江佐和山・越前北ノ庄18万石織田信長の側近・越前北ノ庄城主
— 誕生 —
1553年01月01日(天文22年)
美濃国厚見郡茜部(現在の岐阜県岐阜市)
出典: 天文22年(月日は資料に記載なし)
— 死没 —
1590年06月28日(天正18年)
相模国小田原・海蔵寺の本陣(現在の神奈川県小田原市) · 疫病による病死
出典: 天正18年5月27日。享年38
— 領域 —
近江長浜2万5,000石・近江佐和山・越前北ノ庄18万石
左衛門督・侍従
戦国武将列伝 別巻1 織田編
書籍

戦国武将列伝 別巻1 織田編

柴裕之 編

戎光祥出版

— 家族 —

※ 弟に多賀秀種がいる。秀政が戦で各地を回る間、父の秀重と秀種が代わる代わる佐和山城を預かった

※ 従兄の奥田直政(のちの堀直政)とは、ともに伯父の堀掃部太夫に養われた間柄である

※ 妻の名は資料からはわからない

両親

父

堀秀重

母

不明

子

長男

堀秀治

家督相続、16万石

堀親良

遺領2万石

織田信長の家臣 佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀
書籍

織田信長の家臣 佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀

小野之裕

KTC中央出版

— 年表 —

1553年01月
(1歳)
誕生

天文22年、美濃国厚見郡茜部で、斎藤道三に仕える堀秀重の長男として生まれる。少年期は一向宗の僧だった伯父の堀掃部太夫に預けられ、従兄の奥田直政(のちの堀直政)と一緒に育ったと伝わる

1565年01月
(13歳)
織田信長の小姓となる

大津長昌、木下秀吉の順に仕えたのち、永禄8年、13歳で信長の小姓に抜擢され、そば近くに仕えるようになる

1568年01月
(16歳)
本圀寺の普請奉行

16歳のとき、将軍足利義昭の仮御所となった本圀寺の工事を取り仕切る。ほかにもさまざまな奉行を任され、菅屋長頼、福富秀勝、大津長昌、矢部家定、長谷川秀一、万見重元らと並ぶ信長の側近の一人となる

1575年01月
(23歳)
越前一向一揆討伐

天正3年、越前の一向一揆攻めに加わる。このころから奉行の仕事に加えて戦場にも出るようになる

1577年01月
(25歳)
紀伊雑賀討伐

天正5年の雑賀攻めでは、佐久間信盛・羽柴秀吉らと同じく本陣を離れて一隊を任される

1577年11月
(25歳)
手取川の戦い

天正5年、上杉謙信に囲まれた能登七尾城を救うため、柴田勝家を総大将とする織田軍に加わって北陸へ向かう。軍は七尾城が落ちたことを知らないまま手取川を渡り、引き返す途中で上杉勢に追い討ちをかけられた

1578年01月
(26歳)
有岡城の戦い

天正6年、荒木村重の立てこもる有岡城攻めで、万見重元・菅屋長頼らとともに鉄砲衆を指揮する

1579年01月
(27歳)
安土宗論の奉行

天正7年、安土で行われた宗論の運営を、菅屋長頼・長谷川秀一らとともに担う

1580年01月
(28歳)
バテレン屋敷の造営奉行

天正8年、菅屋長頼・長谷川秀一らとバテレン屋敷の建設を監督する。同じ年、信長が蜂須賀正勝へ送った書状に添え状を付けている

1581年01月
(29歳)
第二次天正伊賀の乱、長浜城主に

天正9年の伊賀攻めでは信楽方面の部隊を指揮し、比自山城などで戦う。この年、伊賀での働きに荒木村重攻めと越前の一向宗鎮圧の功も合わせて評価され、長浜城と2万5,000石を与えられる

1582年01月
(30歳)
甲州征伐

天正10年、信長とともに甲斐・信濃へ入るが、武田氏は織田信忠の軍によってすでに滅んでおり、戦うことはなかった

1582年06月
(30歳)
本能寺の変

5月20日、丹羽長秀と連れ立って徳川家康をもてなしたのち、備中にいる羽柴秀吉のもとへ向かう。6月2日に信長が本能寺で討たれたとき、秀政は秀吉の軍監として備中にいた

1582年07月
(30歳)
山崎の戦い

秀吉とともに備中から急いで引き返し、山崎の戦いでは中川清秀・高山右近らと先手を担う。明智秀満が光秀を助けに出てくるとこれを坂本城へ追い詰め、秀満は家に伝わる宝物を従兄の堀直政に託すと告げたうえで城に火をかけて自害した

1582年07月
(30歳)
清洲会議

天正10年6月27日の清洲会議の結果、近江国中郡を与えられ、三法師の守り役と直轄地の代官を任される。その後の織田家の内紛では秀吉の側に立ち、10月20日付の書状ではすでに羽柴姓を名乗っている。秀吉の親族でない者が羽柴姓を許されたのは、秀政が最初だったとみられる

1583年06月
(31歳)
賤ヶ岳の戦い

天正11年、秀吉の側で賤ヶ岳の戦いに加わる。戦後の論功で11月に佐和山城を得て、12月には左衛門督に任じられる。秀政が戦で城を空ける間は、父の堀秀重と弟の多賀秀種が城代を務めた

1584年05月
(32歳)
小牧・長久手の戦い

天正12年、秀吉方として三河へ回り込む別働隊に加わり、その三番手を務める。4月9日の朝に羽柴秀次の隊が徳川勢の奇襲で崩れると、逃げてきた兵をまとめて桧ヶ根に布陣し、追ってきた大須賀康高・榊原康政らを打ち破った(桧ヶ根の戦い)。家康本人が出てきたと知ると、池田・森の隊とは合流せずに引き揚げた

1585年09月
(33歳)
越前北ノ庄18万石

天正13年8月13日、丹羽長重が若狭へ移されたあとを受けて、越前北ノ庄18万石の領主となる

1586年01月
(34歳)
侍従に任官

天正14年正月14日、侍従となって公家の列に加わる。このとき豊臣の姓も授けられたと考えられている

1587年01月
(35歳)
九州平定

天正15年、九州攻めで先手の部隊を任される。この遠征中、近臣の山下甚五兵衛が錯乱して後ろから斬りつけてきたが、秀政はすぐに振り向いて斬り捨てたと伝わる(『名将言行録』)

1590年05月
(38歳)
小田原征伐

天正18年、小田原攻めで左翼の軍を率いる。箱根口から攻め上って山中城を落とし、早川口まで進んで海蔵寺を本陣とした

1590年06月
(38歳)
死去

5月下旬に疫病にかかり、27日に小田原の陣で急死する。38歳だった。長男の秀治が跡を継いで遺領のうち16万石を受け継ぎ、残る2万石は親良に分けられた

※ 年齢は数え年で表記しています。数え年は生まれた年を1歳とし、元日を迎えるごとに加算する日本の伝統的な年齢の数え方です。

織田信長の家臣団―派閥と人間関係
書籍

織田信長の家臣団―派閥と人間関係

和田 裕弘

中央公論新社(中公新書 2421)

— 人物紹介 —

概要

堀秀政は、織田信長と豊臣秀吉の二人に仕え、最後は越前北ノ庄の大名にまでなった戦国武将である。通称は久太郎。

永禄8年(1565年)、わずか13歳で信長の小姓に抜擢され、普請や行事の奉行を次々に任されて信長の側近の一人となった。やがて戦場にも出るようになり、越前の一向一揆攻め、雑賀攻め、有岡城攻め、伊賀攻めなどで働いて、天正9年(1581年)には長浜城と2万5,000石を与えられている。

信長が本能寺で倒れると秀吉に付き、山崎の戦いでは先手を務めた。清洲会議のあとは近江国中郡を得て三法師の守り役となり、賤ヶ岳の戦いのあとに佐和山城、小牧・長久手の戦いのあとには越前北ノ庄18万石を与えられた。天正18年(1590年)の小田原攻めでは左翼の軍を率いたが、陣中で疫病にかかり38歳で急死した。後世の書物からは「名人左衛門佐」「名人太郎」という呼び名で知られる。

生涯

信長の側近

堀秀政は天文22年(1553年)、美濃国厚見郡茜部に生まれた。父の堀秀重は斎藤道三の家臣で、秀政はその長男にあたる。子どものころは、一向宗の僧になっていた伯父の堀掃部太夫に預けられ、従兄の奥田直政(のちの堀直政)と一緒に育ったと伝わる。

初めは大津長昌に、次に木下秀吉に仕えたが、永禄8年(1565年)、13歳で信長に見いだされて小姓となった。16歳のときには、将軍足利義昭の仮の御所となった本圀寺の工事を取り仕切っている。こうした奉行の仕事を重ねて、秀政は信長のそば近くに仕える側近の一人となった。同じ立場の者には、菅屋長頼、福富秀勝、大津長昌、矢部家定、長谷川秀一、万見重元らがいる。

そのうち秀政は、奉行の仕事に加えて戦にも出るようになる。天正3年(1575年)には越前の一向一揆攻めに加わり、天正5年(1577年)の雑賀攻めでは、佐久間信盛・羽柴秀吉らと同じく本陣とは別に一隊を任された。同じ年、上杉謙信に囲まれた能登七尾城を救うために柴田勝家を総大将として北陸へ送られた軍にも名がみえる(手取川の戦い)。天正6年(1578年)の有岡城攻めでは万見・菅屋らと鉄砲衆を指揮した。

奉行としての仕事も続き、天正7年(1579年)の安土宗論では菅屋・長谷川らと運営を担い、天正8年(1580年)には同じ顔ぶれでバテレン屋敷の建設を監督した。この年には、信長が蜂須賀正勝へ送った書状に秀政が添え状を付けている。

本願寺との関わりもあった可能性がある。秀政を育てた叔父が蓮照寺の住職だった縁から、石山本願寺と信長の和睦や、本願寺が紀州鷺森へ退くことを働きかけたのではないかという見方がある。ただしこれは推測の域を出ない。のちに秀政は顕如から「釋道哲」という法名を授かっている。

第二次天正伊賀の乱(天正9年・1581年)では、信楽方面から伊賀へ入る部隊を指揮し、比自山城などで戦った。この働きに、荒木村重攻めと越前の一向宗鎮圧での功も合わせて認められ、同じ年に長浜城と2万5,000石を与えられた。

天正10年(1582年)、秀政は甲州征伐に向かう信長に従って甲斐・信濃へ入ったが、武田氏は織田信忠の軍によってすでに滅んでおり、秀政が戦うことはなかった。5月20日には丹羽長秀と連れ立って徳川家康をもてなし、その足で備中にいる秀吉のもとへ向かっている。

山崎の戦いと清洲会議

6月2日に本能寺の変が起き、信長が討たれたとき、秀政は秀吉の軍監として備中にいた。知らせを受けると秀吉とともに急いで京へ引き返し、山崎の戦いでは中川清秀・高山右近らと先手を担った。光秀を助けに出てきた明智秀満を坂本城へ追い詰めると、もはや勝ち目がないと悟った秀満は、家に伝わる宝物を秀政の従兄の直政に託すと伝え、城に火をかけて自ら命を絶った。

6月27日の清洲会議の結果、秀政は近江国中郡を与えられ、三法師の守り役と、織田家の直轄地を預かる代官を任された。

賤ヶ岳の戦いから北ノ庄城主へ

清洲会議のあと織田家の中で争いが起きると、秀政は秀吉が主催した信長の百ヶ日の法要に同意するなど、秀吉の側に立って動いた。10月20日付の書状ではすでに羽柴の姓を名乗っており、秀吉の親族でない者として初めて羽柴姓を許されたのは秀政だったとみられている。

天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いの論功で11月に佐和山城を得て、12月には左衛門督に任じられた。秀政は戦で城を空けることが多く、その間は父の秀重と弟の多賀秀種が城代として佐和山を治めた。

小牧・長久手の戦い(天正12年・1584年)では秀吉方に付き、三河へ回り込む中入りの別働隊で三番手を任された。4月9日の朝、羽柴秀次の隊が徳川勢の奇襲を受けて崩れると(白山林の戦い)、秀政は逃げてきた兵を自分の隊に加えて桧ヶ根に陣を構え、追ってきた大須賀康高・榊原康政らを打ち破った(桧ヶ根の戦い)。しかし家康本人が出てきたと知ると、池田・森の隊とは合流せず、そのまま戦場から引き揚げている。

天正13年(1585年)8月13日、丹羽長重が若狭へ移されると、そのあとを受けて越前北ノ庄18万石の領主となった。翌天正14年(1586年)正月14日には侍従となって公家の列に加わり、このとき豊臣の姓も授けられたと考えられている。

九州平定と小田原征伐

天正15年(1587年)の九州攻めでは、秀政は先手の部隊を任された。『名将言行録』は、この遠征中の出来事を伝えている。近臣の山下甚五兵衛が錯乱して後ろから斬りかかってきたとき、秀政はすぐに振り向いて山下を斬り、同時に山下の後ろにいた直政も背中から斬りつけた。秀政が直政に「自分が先だった」と声をかけたことについて、とっさの場でその一言が出たことこそ見事だと人々は評したという。

天正18年(1590年)の小田原攻めでは、秀政は左翼の軍の大将を命じられた。箱根口から攻め上って山中城を落とし、小田原の早川口まで進んで海蔵寺に本陣を置いた。ところが5月下旬に疫病にかかり、27日に陣中で急死した。38歳だった。

跡は長男の秀治が継ぎ、遺領のうち16万石を受け継いだ。残る2万石は親良に分けられている。秀政の亡骸はいったん本陣の海蔵寺に葬られ、髷だけが越前へ運ばれて、北之庄の屋敷に近い長慶寺に墓が築かれた。長慶寺には今も位牌と墓の一つが残り、命日の5月27日には毎年供養が営まれている。慶長3年(1598年)4月に秀治が越後春日山へ移されると、墓は春日山城のふもとの林泉寺へ移された。林泉寺には父の秀重と息子の秀治の墓も並び、堀家3代を弔う寺となっている。

評価

秀政は後世、『武家事紀』と『名将言行録』で「名人左衛門佐」、『常山紀談』で「名人太郎」と呼ばれている。その理由について、『常山紀談』は家来の使い方に心を配ったからだとし、『名将言行録』は天下の手本となる人物で過ちがなかったからだとしている。

『名将言行録』には山崎の戦いでの話がある。天王山を押さえるため、一番手の堀尾吉晴が先に山を登り、秀政がそれに続こうとしたとき、家臣の堀七郎兵衛が、先の味方が崩れれば巻き込まれるので別の道から登るべきだと止めた。秀政がそれに従うと、はたして堀尾の隊は崩れ、秀政はその脇から攻めかかって、敵将の松田政近を鉄砲で追い散らしたという。

同じく『名将言行録』は、小牧・長久手の戦いでの話も伝える。銃声が聞こえたあと続く音がないのを秀政が怪しんでいると、田中吉政がただ一騎で駆けてきて、後方で戦が始まったから備えを急げと言い残して去った。秀政は、旗本の小姓頭が自ら伝令に来るような場面ではないとたしなめ、銃声が途切れたのは味方が負けたからだと見抜いた。その言葉のとおり味方は敗れ、大須賀・榊原らの軍が押し寄せてきたという。

『常山紀談』には、家来の使い方にまつわる話が二つ載っている。一つは、奉行の供の者と荷運びの者が荷の重さをめぐって言い争ったときの話で、秀政は自分で荷を背負って歩いてみたうえで、力のある自分でも長い道のりなら疲れるのだから、運べないという言い分にも理があると裁いた。もう一つは行軍中の話で、旗持ちが遅れて叱られていると、秀政は自分で旗を担いでみて、遅れる原因は自分の馬の足が速すぎることだと気づいた。そこで足の遅い馬に乗り換えると、旗持ちが遅れることはなくなったという。

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信長の野望・新生 公式ガイドブック
書籍

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ファミ通書籍編集部

KADOKAWA

— 問答 —
問
堀秀政はなぜ「名人」と呼ばれたのですか?
答
『武家事紀』と『名将言行録』は「名人左衛門佐」、『常山紀談』は「名人太郎」という呼び名を伝えています。理由として、『常山紀談』は家来の使い方に気を配ったことを、『名将言行録』は天下の手本となる人で過ちがなかったことを挙げています。『常山紀談』には、奉行の供と荷運びの者が荷の重さで言い争ったとき、秀政が自分で荷を担いで歩いてみて、自分でも長く運べば疲れるから荷運びの言い分にも理があると裁いた話があります。また、行軍で旗持ちが遅れて叱られたときも、自分で旗を担いで原因は自分の馬の足の速さだと気づき、足の遅い馬に替えたという話も載っています。
問
山崎の戦いで堀秀政はどのような働きをしましたか?
答
本能寺の変が起きたとき、秀政は軍監として備中の羽柴秀吉のもとにいました。知らせを受けると秀吉と一緒に京へ急ぎ戻り、山崎の戦いでは中川清秀・高山右近らと先手を務めています。その後、光秀を助けに来た明智秀満を坂本城へ追い詰めました。秀満は家伝の宝物を秀政の従兄の堀直政に渡すと伝えてから、城に火を放って命を絶っています。『名将言行録』には、天王山へ向かう途中で家臣の堀七郎兵衛に止められて別の道を登ったところ、先に登っていた堀尾吉晴の隊が崩れたため、秀政がその脇から攻めかかって敵将の松田政近を鉄砲で追い散らしたという話も載っています。
問
堀秀政の死後、堀家はどうなりましたか?
答
秀政は天正18年(1590年)5月27日、小田原攻めの陣中で疫病により38歳で急死しました。遺領のうち16万石は跡を継いだ長男の秀治に、2万石は親良に分けられています。亡骸はまず本陣の海蔵寺に葬られ、髷だけが越前へ運ばれて北之庄の屋敷に近い長慶寺に墓が築かれました。慶長3年(1598年)4月に秀治が越後春日山へ移されると、墓は春日山城のふもとの林泉寺へ移されます。林泉寺には父の秀重と息子の秀治の墓も並び、堀家3代を弔う寺となりました。
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最終更新日: 2026年09月13日