— 人物紹介 —
概要
仙石秀久は、美濃の土豪の家に生まれ、10代で織田家に入って羽柴秀吉の配下となった武将です。秀吉の家臣のなかでも最も古くから仕えた一人で、淡路の平定などの功により、家臣団で真っ先に大名へ取り立てられました。四国攻めの後には讃岐一国を任されています。
ところが九州征伐の先陣で軍監を務めた天正14年(1586年)、秀吉の指示に背いて戸次川で島津軍に攻めかかり、大敗します。長宗我部信親・十河存保を死なせたうえ、自分は兵をまとめずに讃岐へ引き揚げたため、領地を取り上げられて高野山へ追われました。
それでも小田原征伐に浪人の身で加わって大きな手柄を立て、信濃国小諸5万石の大名に返り咲きます。関ヶ原の戦いでは徳川方について徳川秀忠を支え、江戸幕府のもとで小諸藩の初代藩主となりました。
生涯
美濃の土豪から織田家へ
秀久は天文21年(1552年)1月26日、美濃国加茂郡黒岩村(現在の岐阜県加茂郡坂祝町)で、仙石久盛の四男として生まれました。天文20年生まれとする説もあります。仙石氏はもとは藤原姓を名乗っていましたが、土岐氏の血を引く久重が家を継いでからは、土岐源氏の流れとして源姓を称していました。父の久盛は、土岐氏に代わって美濃を握った斎藤氏の三代に仕えています。
四男の秀久は家を継ぐ見込みが薄く、父と親しかった越前の豪族・萩原国満の養子となっていました。しかし織田氏と斎藤氏が争うなかで兄たちが次々に命を落とし、父に呼び戻されて仙石家の家督を継ぎます。
永禄10年(1567年)、主君の斎藤龍興が稲葉山城を信長に奪われて落ちのびると、秀久は14歳で織田家に入りました。信長はたくましい顔立ちの秀久を気に入り、羽柴秀吉の寄騎に付けたといいます。
秀吉のもとで大名へ
秀久は秀吉の馬廻衆として各地を転戦し、元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは浅井方の山崎新平を討ち取りました。秀吉が中国攻めを任されるとこれに従い、天正6年(1578年)に4,000石を加増され、翌年には三木城を囲む陣のなかで茶臼山城を任されています。有馬温泉一帯を取り仕切る湯山奉行も務めました。天正9年(1581年)には、黒田孝高らとともに淡路島へ攻め込み、岩屋城・由良城を落としています。
天正10年(1582年)に本能寺の変が起こると、秀吉が明智光秀を討ちに戻るあいだ、秀久は淡路で光秀方についた豪族たちを平らげました。翌年、秀吉と柴田勝家の対決では十二番隊を率いる予定でしたが、勝家と結んだ四国の長宗我部元親を抑えるため、急ぎ淡路へ回されます。菅達長を破って小豆島を押さえ、十河存保を助けに讃岐へ渡りましたが、天正11年(1583年)4月の引田の戦いでは長宗我部勢の総攻撃を受けて引田城を落とされ、敗走しました。
それでも淡路平定の功は認められ、同じ年に淡路国5万石の大名となって洲本城に入ります。秀吉の家臣のなかで最も早い出世でした。淡路では水軍を束ね、紀州征伐では湯川一族を討ち、天正13年(1585年)の四国攻めでは喜岡城を落とし、木津城の水の手を断っています。戦後、讃岐一国(うち2万石は十河氏の領地)を与えられました。
戸次川の敗戦と改易
天正14年(1586年)に九州征伐が始まると、秀久は先に送られる四国勢の軍監に任じられ、3千余の兵で豊後の府内に陣を置きました。四国勢は十河存保や長宗我部元親・信親父子など、ついこの間まで争っていた者どうしの寄せ集めで、まとまりを欠いていました。秀吉は、毛利・小早川の軍を門司に置いてあるので島津はいずれ崩れる、自分が本隊を率いて行くまで待て、と書状で持久戦を命じています。
しかし本隊がなかなか来ないことに焦った秀久は、先陣だけで攻めに出ることを決めます。十河存保は賛成し、長宗我部父子は反対しました。12月12日、冬の川を渡って攻めかかった豊臣方は、島津家久の軍と戦ってはじめは押したものの、前に出すぎた秀久の本隊が反撃を受けて崩れます。続く信親と存保の隊も総崩れとなって両将は討ち死にし、元親の隊は伊予へ逃れました(戸次川の戦い)。
秀久は敗れた軍をまとめる役目を果たさないまま小倉城へ入り、さらに20名ほどの家臣と讃岐へ引き揚げてしまいます。命令に背いて戦ったうえでのこの振る舞いに秀吉は怒り、讃岐を取り上げて秀久を高野山へ追放しました。
小田原征伐での復帰
しばらく高野山で過ごした秀久は、天正18年(1590年)の小田原征伐で再び立ち上がります。三男の忠政とともに美濃で旧臣20名を集め、浪人衆を率いて秀吉の陣に加わりました。陣に加わるにあたっては、徳川家康の取りなしを受けています。陣羽織一面に鈴を縫い付けて敵の目を引きつけ、「鈴鳴り武者」と呼ばれたという逸話も残ります。秀久は十文字槍を手に伊豆の山中城攻めで先陣を務め、小田原城の早川口では虎口の一つを奪いました。
戦いの後、秀吉は秀久の働きをたたえて自分の金の団扇を手ずから与え、信濃国小諸に5万石を与えました。かつての讃岐の半分にあたる石高です。小諸に入ったころに名を秀康と改め、慶長2年(1597年)ごろには盛長とも名乗っています。豊臣政権のもとでは京にいることが多かったとみられますが、このころから小諸城の大改修にも取りかかりました。
徳川の世の小諸藩主
秀吉の死後、陣借りの恩がある家康と親しかった秀久は、早くから徳川方に近づいたとみられます。慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こると、中山道と北国街道が交わる小諸を押さえ、信濃に来た徳川秀忠を一騎で出迎えました。秀忠の軍が上田城の真田昌幸に足止めされると、自分を人質にして家康のもとへ急ぐよう勧め、本戦に遅れて家康の怒りを買った秀忠のとりなしにも努めています。次男の秀範は自分の判断で西軍についたため、勘当されました。
戦後、秀久は旧領を安堵され、小諸藩の初代藩主となります。24年にわたる治世のあいだに小諸城の大手門・黒門・二の丸を築き足し、宿場や伝馬の制度を整えました。一方で開発の負担が重く、佐久郡では慶長15年(1610年)を頂点に農民が郡ごと逃げ出す事態も起きています。秀久は年貢を減らしたり待ったりして農民を呼び戻し、村の有力者を家臣に取り立てるなどして立て直しを図りました。
外様大名でありながら秀忠の信頼は厚く、秀忠付きの役を与えられ、慶長13年(1608年)には秀忠が江戸の秀久の屋敷を訪れています。慶長19年(1614年)、小諸へ戻る道中で病にかかり、5月6日に武蔵国鴻巣で亡くなりました。家督は三男の忠政が継いでいます。
評価
戸次川の敗戦は当時から厳しく責められ、『豊薩軍記』などには、秀久を「三国一の臆病者」とあざける落書が書き留められています。宣教師ルイス・フロイスも、秀久の家来たちが豊後で略奪を働いたと非難しました。ただしフロイスは、秀久が上品な人物ではないものの決断力に富み、すぐれた武将として知られていたとも記しています。
秀吉の古くからの家臣で、処分を受けた後に大名へ戻ることを許された数少ない一人です。徳川家からも重んじられ、仙石家の江戸城での詰所は譜代大名に準じる帝鑑の間とされました。小諸ではそばを名産に育てようとしたと伝わり、のちに仙石家が但馬出石へ移った際に信州のそば職人が技を持ち込んだことが、出石皿そばの始まりとされています。講談では、石川五右衛門を捕らえた怪力の豪傑として描かれることもあります。




