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越前守 仙石秀久仙石秀久の家紋
せんごく ひでひさ · 1552–1614

仙石秀久

せんごく ひでひさ
淡路・讃岐・信濃小諸豊臣氏家臣・淡路洲本城主・讃岐国主・信濃小諸藩初代藩主
— 誕生 —
1552年02月20日(天文21年)
美濃国加茂郡黒岩村(現在の岐阜県加茂郡坂祝町)
出典: 天文21年1月26日。天文20年生まれとする説もある
— 死没 —
1614年06月13日(慶長19年)
武蔵国鴻巣(現在の埼玉県鴻巣市) · 病死(江戸から小諸へ帰る道中で発病)
出典: 慶長19年5月6日。享年63(64とも)
— 領域 —
淡路・讃岐・信濃小諸
越前守
増補新版 島津四兄弟の九州統一戦
書籍

増補新版 島津四兄弟の九州統一戦

新名一仁

志学社(志学社選書)

— 家族 —

※ 秀久は仙石久盛の四男。いったん越前の萩原国満の養子に出たが、兄たちが相次いで亡くなったため呼び戻されて家督を継いだ

※ 本家は三男・忠政が継ぎ、上田藩、さらに但馬出石藩へ移った。のちに長男・久忠の子孫から仙石政房が入って本家を継いでいる

※ 弟の正直は乱暴な振る舞いから秀久に山奥へ移され、若くして亡くなった

両親

父

仙石久盛

母

不明

配偶者

正室

本陽院

野々村幸成の娘

側室

慶宗院

子

長男

仙石久忠

母: 本陽院

盲目で検校に

次男

仙石秀範

母: 本陽院

西軍につき勘当

三男

仙石忠政

母: 本陽院

家督・小諸藩主

五男

仙石政能

母: 慶宗院

六男

仙石政直

母: 慶宗院

藩の郡代

七男

仙石久隆

母: 慶宗院

幕府旗本・分家

十男

仙石久清

藩の家老

娘

母: 慶宗院

古田重広に嫁ぐ

娘

母: 慶宗院

藤堂高清に嫁ぐ

関白秀吉の九州一統
書籍

関白秀吉の九州一統

中野等

吉川弘文館

— 年表 —

1552年02月
(1歳)
美濃国黒岩村に生まれる

斎藤氏に仕える土豪・仙石久盛の四男として生まれる。生まれた地は美濃国加茂郡黒岩村(現在の岐阜県加茂郡坂祝町)。生年を天文20年(1551年)とする説もある

1567年01月
(16歳)
織田家に入り、秀吉の寄騎となる

越前の萩原国満の養子に出ていたが、兄たちが相次いで亡くなったため呼び戻されて家督を継ぐ。主君の斎藤龍興が稲葉山城を追われた後、14歳で織田家に入る。たくましい顔つきを信長に気に入られ、羽柴秀吉の寄騎に付けられた。以後、秀吉の馬廻衆として各地を転戦する

1570年07月
(19歳)
姉川の戦い

羽柴隊として姉川の戦いに加わり、浅井方の山崎新平を討ち取る

1578年01月
(27歳)
4,000石を加増される

秀吉の中国攻めに従って戦功を挙げ、4,000石を加増される

1579年01月
(28歳)
茶臼山城を任される

三木城を囲む陣のなかで茶臼山城を任され、赤松峠越えの播磨道を守る。有馬温泉や湯の山街道を取り仕切る湯山奉行も務めた

1581年01月
(30歳)
淡路遠征

黒田孝高らと淡路島に渡り、岩屋城と由良城を落とす

1582年07月
(31歳)
淡路の明智方を討つ

本能寺の変の後、秀吉が明智光秀と戦った山崎の戦いのころ、淡路で光秀方についた豪族たちを討って島を平定する

1583年01月
(32歳)
四国へ渡り長宗我部勢と対陣

秀吉と柴田勝家の対決を前に、勝家方の長宗我部元親を抑えるため近江から淡路へ回される。菅達長を破り小豆島を押さえたのち、十河存保を助けに四国へ渡るが、喜岡城は落とせずに退く

1583年06月
(32歳)
引田の戦い

讃岐の引田城に入り、押し寄せた香川信景らの隊を伏兵で迎え撃つ。はじめは押していたが、長宗我部の援軍が加わって巻き返され、翌日の総攻撃で城を落とされて敗走した

1583年01月
(32歳)
淡路5万石の大名となる

淡路平定の功で淡路国5万石を与えられ、洲本城に入る。秀吉の家臣のなかで最も早い大名への出世だった。淡路水軍や小西行長らの水軍も束ねた

1585年01月
(34歳)
紀州征伐

紀州征伐に加わり、湯川一族を討つ

1585年07月
(34歳)
四国攻め

秀吉の四国攻めで喜岡城を落とし、木津城攻めでは城の水源を断つ

1585年01月
(34歳)
讃岐一国を与えられる

四国攻めの恩賞として讃岐一国(うち2万石は十河氏の領地)を与えられ、聖通寺城または高松城に入る

1586年01月
(35歳)
九州へ渡る

九州征伐が始まると、先陣の四国勢の軍監を命じられる。十河存保・長宗我部元親と信親の父子とともに海を渡り、3千余の兵で豊後の府内に陣を置く

1587年01月
(35歳)
戸次川の戦い

持久戦に徹せよという秀吉の指示に背いて川を渡って攻めかかり、島津家久の軍に大敗する。長宗我部信親と十河存保が討ち死にした

1587年01月
(36歳)
改易され高野山へ

敗れた軍をまとめずに小倉城へ退き、さらに讃岐へ引き揚げたことも咎められ、讃岐を取り上げられて高野山へ追放される

1590年05月
(39歳)
小田原征伐で返り咲く

三男・忠政と旧臣20名を集め、徳川家康の取りなしで浪人衆として加わる。陣羽織に鈴を縫い付けた姿で「鈴鳴り武者」と呼ばれたと伝わり、山中城攻めの先陣や、小田原城早川口の虎口を占める働きを見せた

1590年01月
(39歳)
信濃小諸5万石の大名に復帰

秀吉に許されて金の団扇を授けられ、信濃国小諸に5万石を与えられる。このころ名を秀康と改めた

1597年01月
(46歳)
小諸城の大改修に取りかかる

「仙石越前守盛長」の名で龍雲寺に寄進状を出す。このころから領地の経営に力を入れ、小諸城の大改修を始めた

1600年01月
(49歳)
秀忠の軍に加わり上田城へ

小諸を本陣とした徳川秀忠の軍に加わる。真田昌幸の守る上田城で足止めされると、自分が人質になるから家康のもとへ急ぐよう秀忠に勧めた

1600年10月
(49歳)
関ヶ原の戦い

東軍について小諸を押さえ、戦後に旧領を安堵されて小諸藩の初代藩主となる。西軍についた次男・秀範は勘当した。本戦に遅れて家康を怒らせた秀忠のとりなしにも努めた

1601年01月
(50歳)
名を秀久に戻す

名を秀久に戻す(慶長7年とする説もある)

1608年01月
(57歳)
秀忠が江戸の屋敷を訪れる

将軍となった秀忠が、冬に江戸の秀久の屋敷を訪ねて語り合う。秀久は秀忠付きの役を与えられ、参府の道中に妻子を連れることも許されていた

1610年01月
(59歳)
佐久郡の逃散

大がかりな開発で重い負担を課したため、佐久郡の農民が郡ごと逃げ出す事態となる。秀久は年貢を減らすなどして農民を呼び戻す策をとった

1614年06月
(63歳)
鴻巣で死去

江戸から小諸へ帰る途中で病にかかり、武蔵国鴻巣で亡くなる。享年63(64とも)。家督は三男・忠政が継いだ

※ 年齢は数え年で表記しています。数え年は生まれた年を1歳とし、元日を迎えるごとに加算する日本の伝統的な年齢の数え方です。

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— 人物紹介 —

概要

仙石秀久は、美濃の土豪の家に生まれ、10代で織田家に入って羽柴秀吉の配下となった武将です。秀吉の家臣のなかでも最も古くから仕えた一人で、淡路の平定などの功により、家臣団で真っ先に大名へ取り立てられました。四国攻めの後には讃岐一国を任されています。

ところが九州征伐の先陣で軍監を務めた天正14年(1586年)、秀吉の指示に背いて戸次川で島津軍に攻めかかり、大敗します。長宗我部信親・十河存保を死なせたうえ、自分は兵をまとめずに讃岐へ引き揚げたため、領地を取り上げられて高野山へ追われました。

それでも小田原征伐に浪人の身で加わって大きな手柄を立て、信濃国小諸5万石の大名に返り咲きます。関ヶ原の戦いでは徳川方について徳川秀忠を支え、江戸幕府のもとで小諸藩の初代藩主となりました。

生涯

美濃の土豪から織田家へ

秀久は天文21年(1552年)1月26日、美濃国加茂郡黒岩村(現在の岐阜県加茂郡坂祝町)で、仙石久盛の四男として生まれました。天文20年生まれとする説もあります。仙石氏はもとは藤原姓を名乗っていましたが、土岐氏の血を引く久重が家を継いでからは、土岐源氏の流れとして源姓を称していました。父の久盛は、土岐氏に代わって美濃を握った斎藤氏の三代に仕えています。

四男の秀久は家を継ぐ見込みが薄く、父と親しかった越前の豪族・萩原国満の養子となっていました。しかし織田氏と斎藤氏が争うなかで兄たちが次々に命を落とし、父に呼び戻されて仙石家の家督を継ぎます。

永禄10年(1567年)、主君の斎藤龍興が稲葉山城を信長に奪われて落ちのびると、秀久は14歳で織田家に入りました。信長はたくましい顔立ちの秀久を気に入り、羽柴秀吉の寄騎に付けたといいます。

秀吉のもとで大名へ

秀久は秀吉の馬廻衆として各地を転戦し、元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは浅井方の山崎新平を討ち取りました。秀吉が中国攻めを任されるとこれに従い、天正6年(1578年)に4,000石を加増され、翌年には三木城を囲む陣のなかで茶臼山城を任されています。有馬温泉一帯を取り仕切る湯山奉行も務めました。天正9年(1581年)には、黒田孝高らとともに淡路島へ攻め込み、岩屋城・由良城を落としています。

天正10年(1582年)に本能寺の変が起こると、秀吉が明智光秀を討ちに戻るあいだ、秀久は淡路で光秀方についた豪族たちを平らげました。翌年、秀吉と柴田勝家の対決では十二番隊を率いる予定でしたが、勝家と結んだ四国の長宗我部元親を抑えるため、急ぎ淡路へ回されます。菅達長を破って小豆島を押さえ、十河存保を助けに讃岐へ渡りましたが、天正11年(1583年)4月の引田の戦いでは長宗我部勢の総攻撃を受けて引田城を落とされ、敗走しました。

それでも淡路平定の功は認められ、同じ年に淡路国5万石の大名となって洲本城に入ります。秀吉の家臣のなかで最も早い出世でした。淡路では水軍を束ね、紀州征伐では湯川一族を討ち、天正13年(1585年)の四国攻めでは喜岡城を落とし、木津城の水の手を断っています。戦後、讃岐一国(うち2万石は十河氏の領地)を与えられました。

戸次川の敗戦と改易

天正14年(1586年)に九州征伐が始まると、秀久は先に送られる四国勢の軍監に任じられ、3千余の兵で豊後の府内に陣を置きました。四国勢は十河存保や長宗我部元親・信親父子など、ついこの間まで争っていた者どうしの寄せ集めで、まとまりを欠いていました。秀吉は、毛利・小早川の軍を門司に置いてあるので島津はいずれ崩れる、自分が本隊を率いて行くまで待て、と書状で持久戦を命じています。

しかし本隊がなかなか来ないことに焦った秀久は、先陣だけで攻めに出ることを決めます。十河存保は賛成し、長宗我部父子は反対しました。12月12日、冬の川を渡って攻めかかった豊臣方は、島津家久の軍と戦ってはじめは押したものの、前に出すぎた秀久の本隊が反撃を受けて崩れます。続く信親と存保の隊も総崩れとなって両将は討ち死にし、元親の隊は伊予へ逃れました(戸次川の戦い)。

秀久は敗れた軍をまとめる役目を果たさないまま小倉城へ入り、さらに20名ほどの家臣と讃岐へ引き揚げてしまいます。命令に背いて戦ったうえでのこの振る舞いに秀吉は怒り、讃岐を取り上げて秀久を高野山へ追放しました。

小田原征伐での復帰

しばらく高野山で過ごした秀久は、天正18年(1590年)の小田原征伐で再び立ち上がります。三男の忠政とともに美濃で旧臣20名を集め、浪人衆を率いて秀吉の陣に加わりました。陣に加わるにあたっては、徳川家康の取りなしを受けています。陣羽織一面に鈴を縫い付けて敵の目を引きつけ、「鈴鳴り武者」と呼ばれたという逸話も残ります。秀久は十文字槍を手に伊豆の山中城攻めで先陣を務め、小田原城の早川口では虎口の一つを奪いました。

戦いの後、秀吉は秀久の働きをたたえて自分の金の団扇を手ずから与え、信濃国小諸に5万石を与えました。かつての讃岐の半分にあたる石高です。小諸に入ったころに名を秀康と改め、慶長2年(1597年)ごろには盛長とも名乗っています。豊臣政権のもとでは京にいることが多かったとみられますが、このころから小諸城の大改修にも取りかかりました。

徳川の世の小諸藩主

秀吉の死後、陣借りの恩がある家康と親しかった秀久は、早くから徳川方に近づいたとみられます。慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こると、中山道と北国街道が交わる小諸を押さえ、信濃に来た徳川秀忠を一騎で出迎えました。秀忠の軍が上田城の真田昌幸に足止めされると、自分を人質にして家康のもとへ急ぐよう勧め、本戦に遅れて家康の怒りを買った秀忠のとりなしにも努めています。次男の秀範は自分の判断で西軍についたため、勘当されました。

戦後、秀久は旧領を安堵され、小諸藩の初代藩主となります。24年にわたる治世のあいだに小諸城の大手門・黒門・二の丸を築き足し、宿場や伝馬の制度を整えました。一方で開発の負担が重く、佐久郡では慶長15年(1610年)を頂点に農民が郡ごと逃げ出す事態も起きています。秀久は年貢を減らしたり待ったりして農民を呼び戻し、村の有力者を家臣に取り立てるなどして立て直しを図りました。

外様大名でありながら秀忠の信頼は厚く、秀忠付きの役を与えられ、慶長13年(1608年)には秀忠が江戸の秀久の屋敷を訪れています。慶長19年(1614年)、小諸へ戻る道中で病にかかり、5月6日に武蔵国鴻巣で亡くなりました。家督は三男の忠政が継いでいます。

評価

戸次川の敗戦は当時から厳しく責められ、『豊薩軍記』などには、秀久を「三国一の臆病者」とあざける落書が書き留められています。宣教師ルイス・フロイスも、秀久の家来たちが豊後で略奪を働いたと非難しました。ただしフロイスは、秀久が上品な人物ではないものの決断力に富み、すぐれた武将として知られていたとも記しています。

秀吉の古くからの家臣で、処分を受けた後に大名へ戻ることを許された数少ない一人です。徳川家からも重んじられ、仙石家の江戸城での詰所は譜代大名に準じる帝鑑の間とされました。小諸ではそばを名産に育てようとしたと伝わり、のちに仙石家が但馬出石へ移った際に信州のそば職人が技を持ち込んだことが、出石皿そばの始まりとされています。講談では、石川五右衛門を捕らえた怪力の豪傑として描かれることもあります。

信長の野望・新生 公式ガイドブック
書籍

信長の野望・新生 公式ガイドブック

ファミ通書籍編集部

KADOKAWA

— 問答 —
問
仙石秀久は戸次川の戦いの後、どうやって大名に戻ったのですか?
答
戸次川で大敗した秀久は、讃岐を取り上げられて高野山へ追放されました。天正18年(1590年)に小田原征伐が始まると、三男の忠政と旧臣20名を美濃で集め、浪人衆を率いて秀吉の陣に駆けつけます。このとき徳川家康が取りなしをしたといわれます。秀久は山中城攻めで先陣を務め、小田原城の早川口では虎口の一つを奪う働きを見せました。戦いの後、秀吉から金の団扇を手ずから与えられ、信濃国小諸に5万石を得て大名に返り咲いています。秀吉の古くからの家臣で、処分を受けた後に大名へ戻れた人はわずかでした。
問
「鈴鳴り武者」とは何ですか?
答
小田原征伐での秀久の姿から生まれた呼び名です。敵の目を自分に引きつけるため、陣羽織一面に鈴を縫い付けて戦に出たという逸話があり、そこから「鈴鳴り武者」と呼ばれたと伝わります。ほかにも、日の丸を付けた白練りの陣羽織に糟尾の兜をかぶり、紺地に白く「無」の字を抜いた馬印を先頭に立てて進んだといわれます。箱根の地名「仙石原」が秀久の武勇にちなむという俗説まで生まれましたが、確かな根拠はありません。
問
出石の皿そばは仙石秀久と関係があるのですか?
答
関係があるとされています。小諸藩主だった秀久はそばを名産品にしようと力を入れ、そば切りを通じて領民と親しみ、「仙石さん」と呼ばれて慕われたと伝わります。仙石家はのちに信濃の上田から但馬の出石へ移りますが、そのとき一緒に移った信州のそば職人が技を伝え、これが出石の名物・皿そばの始まりになったといわれます。
— 関連文献・史料 —
改選仙石家譜二次史料
フロイス日本史ルイス・フロイス一次史料
シリーズ藩物語 小諸藩塩川友衛研究書

最終更新日: 2026年10月11日