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天正14年12月12日〜13日(12日の夕方から13日にかけて戦う)

戸次川の戦い

へつぎがわ の たたかい1587年01月20日
— 場所 —
豊後国戸次川(現在の大分県大分市)
— 結果 —
島津軍の勝利。
豊臣方は長宗我部信親・十河存保を失って敗走し、鶴ヶ城も落ちた
— 歴史的意義 —
豊臣秀吉の九州平定で最初の本格的な戦い。
先陣の四国勢が大敗し、軍監の仙石秀久は改易、長宗我部家は跡継ぎの信親を失った
増補新版 島津四兄弟の九州統一戦
書籍

増補新版 島津四兄弟の九州統一戦

新名一仁

志学社(志学社選書)

— 戦場の位置 —

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関白秀吉の九州一統
書籍

関白秀吉の九州一統

中野等

吉川弘文館

— 両軍 —

— 島津軍 —
指揮官
島津家久大将。豊後に攻め入り鶴ヶ城を攻める
兵力
約10,000人(1万余とされる)
損害
資料に記載がない
参加武将
新納大膳亮5千の兵で長宗我部軍と戦う
鈴木大膳長宗我部信親を討ち取る
— 豊臣軍(四国勢)・大友軍 —
指揮官
仙石秀久軍監。川を渡って攻めることを主張し、先陣を務めて敗走
兵力
約6,000人(四国勢。大友勢を合わせれば2万に届く見込みだったとされる)
損害
長宗我部信親・十河存保が討ち死にし、信親に従った700人も討たれた。フロイスは戦死者を2,300人以上と記す
参加武将
長宗我部元親加勢を待つべきと反対した。敗れて伊予の日振島へ逃れる
長宗我部信親中津留の河原で鈴木大膳に討たれる。享年22
十河存保仙石の策に賛成。討ち死に
大友義統大友家の当主。豊臣方として加わる
田原親盛大友宗麟の三男。兵を率いて府内を出る
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ゲーム

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— 戦いの経過 —

天正14年4月5日(1586年)

大友宗麟が秀吉に救いを求める

豊後の大友宗麟が大坂で秀吉に会い、島津義久に攻め込まれていると訴えて救援を頼む。秀吉は黒田孝高に毛利の兵を率いさせて先に送り、讃岐の仙石秀久を主将、長宗我部元親・信親父子を加えて豊後へ向かわせた

天正14年(1586年)秋〜冬

秀吉、持久戦を命じる

四国勢は府内に陣を置く。秀吉は、毛利・小早川の軍を門司に置いたので島津はいずれ崩れる、自分が本隊を率いて行くまで待て、と書状で秀久に伝えた

12月(1587年1月)

島津家久が鶴ヶ城を攻める

島津家久が豊後に攻め込み、大友方の鶴ヶ城を囲む。フロイスの記録では、府内から三里の利光宗魚の城が1月16日(西暦)に襲われ、城主が討たれたとされる

12月11日(1587年1月19日)

戸次川の手前に布陣し軍議

秀久と信親らが鶴ヶ城を救うため戸次川の手前に陣を敷く。軍議で秀久は川を渡って攻めるべきと主張し、元親は加勢を待つべきと反対したが、城を救うのが先だとして聞き入れなかった。十河存保は秀久に同調した

12月12日夕方(1月20日)

川を渡って開戦

対岸の島津勢が少ないのを見た豊臣方は、ためらわずに川を渡って攻めかかり、はじめは優勢に見えた。しかしこれは、相手を渡り切らせるための島津方の策だった

12月12日〜13日(1月20日〜21日)

伏兵の反撃で総崩れ

隠れていた島津勢が一斉に打って出て、先陣の仙石隊が不意を突かれて敗走する。取り残された長宗我部軍3千は新納大膳亮の5千と戦い、乱戦のなかで元親と信親は離ればなれになった。土佐の鉄砲隊は撃つ間もなかったという

12月13日(1月21日)

信親・存保の討ち死に

信親は中津留の河原で鈴木大膳に討たれ、従っていた700人も討ち死にした。十河存保も戦死し、鶴ヶ城は落ちた。元親は戦場を離れて伊予の日振島まで逃れ、秀久は小倉城を経て讃岐へ退いた

信長の野望・新生 公式ガイドブック
書籍

信長の野望・新生 公式ガイドブック

ファミ通書籍編集部

KADOKAWA

— 戦いの内容 —

概要

戸次川の戦いは、天正14年12月12日から13日(1587年1月20日〜21日)にかけて、豊後国の戸次川で起きた戦いです。豊臣秀吉の九州平定のさなか、島津家久の率いる島津軍と、仙石秀久・長宗我部元親と信親の父子・十河存保・大友義統らの豊臣方が戦いました。

島津勢に囲まれた鶴ヶ城を救おうと、軍監の秀久は秀吉の指示に背いて川を渡り、攻めかかりました。豊臣方ははじめ優勢に見えましたが、島津方の伏兵に反撃されて総崩れとなり、長宗我部信親と十河存保が討ち死にしています。九州平定の最初の戦いは、豊臣方の大敗に終わりました。

背景

天正14年(1586年)4月5日、豊後の大友宗麟は大坂で秀吉に会い、島津義久に領地を攻められていると訴えて助けを求めました。秀吉はこれを受け入れ、まず黒田孝高に毛利の兵を率いさせて送り出し、続いて讃岐の仙石秀久を主将に、長宗我部元親・信親の父子を付けて豊後へ向かわせます。

四国勢はおよそ6千で、豊後の府内に陣を置きました。大友勢を合わせれば2万に届き、島津軍をしのぐはずでしたが、大友勢は士気が低く、四国勢もつい最近まで争っていた者どうしの寄せ集めでした。秀吉は秀久に、門司に毛利・小早川の軍を置いたので島津はいずれ崩れる、自分が本隊を率いて行くまで待て、と書状で持久戦を命じていました。

そうしたなか、島津家久が豊後に攻め込み、大友方の鶴ヶ城を攻め始めます。

戦いの経過

12月11日、秀久と信親らは鶴ヶ城を救うため、戸次川の手前に陣を敷きました。軍議で秀久は川を渡って攻めるべきだと主張します。元親は加勢を待ってから戦うべきだと反対しましたが、秀久は城を救うことが先だとして退け、十河存保も秀久の考えに理があるとして賛成しました。こうして豊臣方は川を渡ることになります。

戦いは12日の夕方に始まりました。フロイスの記録によれば、対岸に現れた島津勢がわずかだったため、豊臣方はためらわずに流れの速い川を渡って攻めかかり、はじめは自分たちが勝っていると思えたといいます。しかしこれは、相手を残らず渡らせるための島津方の策でした。隠れていた兵が一斉に打って出ると、土佐の鉄砲隊は撃つ間もないまま押し込まれ、豊臣方は鉄砲や武具を捨てて逃げ出しました。

先陣の仙石隊が崩れたことで、長宗我部軍3千は取り残され、島津方の新納大膳亮が率いる5千と戦うことになります。乱戦のなかで元親と信親ははぐれ、信親は中津留の河原で鈴木大膳に討たれました。22歳でした。信親に従った700人も討ち死にし、十河存保も戦死、鶴ヶ城も落ちています。フロイスは、土地の者である豊後勢は浅瀬を知っていて助かったが、他国から来た仙石・長宗我部の兵は川で溺れ、戦死者は2,300人を超えたと記しています。

元親は戦場を離れて九州からも脱し、伊予の日振島まで逃れました。秀久も敗れた軍をまとめないまま小倉城へ入り、讃岐へ引き揚げています。

結果と影響

戦いを始めるなと命じていた秀吉は、秀久の命令違反と、豊臣政権の威信を損なう敗戦に怒りました。秀久の讃岐の領地は取り上げられて尾藤知宣に与えられ、秀久は高野山へ追われます。もっとも、その尾藤も九州平定の根白坂の戦いで逆に消極的な策をとったことを咎められて所領を失い、小田原征伐で大名に返り咲いた秀久とは反対に、のちに処刑されました。

長宗我部元親にとっては、跡継ぎの信親を失った戦いとなりました。島津軍はこの勝利で豊後の中部・西部をほぼ手中に収めましたが、秀吉の本隊が九州に入ると押し返され、翌年の根白坂の戦いで敗れて降伏に向かいます。

— 問答 —
問
仙石秀久はなぜ戸次川を渡って攻めたのですか?
答
島津家久に囲まれた鶴ヶ城を救うことを最優先にしたためです。軍議で秀久は川を渡って攻めるべきだと主張し、長宗我部元親は加勢を待ってから戦うべきだと反対しましたが、秀久は聞き入れず、十河存保も秀久に同調しました。秀吉からは本隊が着くまで持久戦に徹するよう書状で命じられており、秀久は本隊がなかなか来ないことに焦っていたともいわれます。戦いは秀吉の命令に背いた独断となりました。
問
戸次川の戦いは長宗我部家にどんな影響を与えましたか?
答
長宗我部元親は、跡継ぎの信親をこの戦いで失いました。信親は中津留の河原で島津方の鈴木大膳に討たれ、22歳でした。信親に従っていた700人もほとんどが討ち死にしています。元親自身は乱戦のなかで信親とはぐれ、伊予の日振島まで落ちのびました。信親の死はのちに長宗我部家の跡継ぎをめぐる争いのもとになります。
問
敗れた仙石秀久はどうなりましたか?
答
秀吉は、戦いを始めるなという命令を破ったうえ、豊臣政権の威信を傷つける負け方をした秀久に激怒しました。秀久の讃岐の領地は取り上げられて尾藤知宣に与えられ、秀久は高野山へ追放されます。ただし秀久は天正18年(1590年)の小田原征伐で手柄を立てて大名に返り咲きました。一方の尾藤は、その後の九州平定の根白坂の戦いで軍監として慎重すぎる策をとったことを咎められて所領を失い、のちに処刑されています。
— 関連文献・史料 —
元親記一次史料
土佐物語二次史料
フロイス日本史ルイス・フロイス一次史料
戸次川合戦寺石正路研究書

最終更新日: 2026年10月11日