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従二位 権大納言 豊臣秀長豊臣秀長の家紋
とよとみ ひでなが · 1540–1591

豊臣秀長

とよとみ ひでなが
大和・紀伊・和泉・河内一部(約110万石、実高約73万石)豊臣政権筆頭大名・大和大納言
— 誕生 —
1540年01月01日(天文9年)
尾張国愛知郡中村(現・名古屋市中村区)
出典: 天文9年。月日不詳。柴裕之編『豊臣秀長』(2024)が天文18年10月時点の都状に「五十一」とある記録から天文9年生を定説と支持

諸説

1541年01月01日(天文10年)- 天文10年説(『多聞院日記』享年51から逆算)
— 死没 —
1591年02月15日(天正19年)
大和郡山城 · 病死
出典: 天正19年1月22日。享年52
— 領域 —
大和・紀伊・和泉・河内一部(約110万石、実高約73万石)
従二位 権大納言
豊臣兄弟! 後編 (NHK大河ドラマ・ガイド)
書籍

豊臣兄弟! 後編 (NHK大河ドラマ・ガイド)

八津弘幸・NHKドラマ制作班

NHK出版

— 家族 —

※ 父・竹阿弥は通説。木下弥右衛門とする異説あり(『豊臣秀長のすべて』所収)

※ 大善院(おきく)の生母は不明

※ 智勝院は最初に実子・羽柴与一郎の妻となり、与一郎の死後に養女化された

両親

竹阿弥

大政所(なか)

配偶者

正室

慈雲院

慈雲院芳室紹慶

秀長の正室

側室

光秀尼

摂取院光秀

秋篠伝左衛門の娘

豊臣秀保室

母: 光秀尼

秀保正室

大善院

毛利秀元室

羽柴与一郎

母: 慈雲院

早世

(養子・養女)

藤堂高吉

実父: 丹羽長秀

藤堂高虎に譲渡

(養子・養女)

豊臣秀保

実父: 三好吉房

姉智の子・後継

(養子・養女)

智勝院

実父: 名古屋山三郎兄

森忠政室

ぶらり豊臣秀吉・秀長ゆかりの城めぐり【御城印情報付き】
書籍

ぶらり豊臣秀吉・秀長ゆかりの城めぐり【御城印情報付き】

佐藤強志

ぶらり戦国武将の城シリーズ

— 年表 —

1540年01月
(1歳)
誕生

尾張国愛知郡中村で竹阿弥の子(一説に木下弥右衛門の子)、秀吉の異父弟(一説に同父弟)として生まれる

1573年01月
(34歳)
秀吉が長浜城主に

兄・秀吉が浅井氏を滅ぼした功で長浜城主となる。秀長は城代を務めることもあった

1574年01月
(35歳)
長島一向一揆

秀吉が越前一向一揆と対峙して出陣できなかったため、代理人として長島一向一揆討伐に出陣(『信長公記』)

1575年01月
(36歳)
羽柴姓を賜る

秀吉から羽柴の名字を与えられる。以後「羽柴小一郎長秀」と名乗る

1576年01月
(37歳)
藤堂高虎の仕官

後に右腕となる藤堂高虎が仕官する。主従関係は養子・秀保が早世するまで続いた

1577年01月
(38歳)
中国攻め・但馬平定の指揮

秀吉に従い播磨に赴き、山陰道および但馬国平定の指揮を委ねられる。竹田城落城後、城代に任命される(『信長公記』)

1578年01月
(39歳)
三木合戦

別所長治の反旗に対し、兄と共に東播磨の制圧に明け暮れる。黒井城の戦いに援軍として参戦

1579年01月
(40歳)
三木城の補給遮断

三木城への補給を断つため丹生山を襲撃、淡河城を攻める。丹波北部の綾部城を攻略

1580年01月
(41歳)
但馬平定完了

有子山城を落城させ但馬国平定が完了。但馬7郡と播磨2郡を与えられ、有子山城に入る

1581年01月
(42歳)
鳥取城の戦い

毛利方の吉川経家が籠る鳥取城を秀吉と共に包囲。陣城の一つを指揮し兵糧攻めを実施

1582年05月
(43歳)
備中高松城の戦い

秀吉軍の備中高松城水攻めに参戦。鼓山付近に陣を張る

1582年06月
(43歳)
本能寺の変・中国大返し

織田信長明智光秀に討たれる。秀吉軍は毛利と和睦し、中国大返しに従い畿内へ撤退

1582年07月
(43歳)
山崎の戦い

中国大返しに続き、黒田孝高と共に天王山の守備にあたる

1583年06月
(44歳)
賤ヶ岳の戦い

田上山に布陣し、秀吉が美濃大返しを行うまで木ノ本の本陣を守備。戦後、美濃守に任官し但馬・播磨2ヶ国を拝領

1584年05月
(45歳)
小牧・長久手の戦い

織田信雄領の伊勢へ進軍し松ヶ島城を開城させる。信雄との講和交渉では秀吉の名代として直接交渉に赴く。この頃「羽柴長秀」から「羽柴秀長」に改名

1585年03月
(46歳)
紀州征伐

秀次と共に秀吉の副将として太田城攻めなどに参加。制圧後、紀伊・和泉などの約64万石を与えられる

1585年07月
(46歳)
四国攻め・総大将

病気で出陣できない秀吉の代理として10万を超える軍勢の総大将に任命され阿波へ進軍。一宮城を落とし長宗我部元親を降伏させる。閏8月に大和加増で約100万石、郡山城に入城

1585年08月
(46歳)
大和大納言・豊臣姓賜与

元親降伏の功により紀伊・和泉に大和を加増され、合計100万石で郡山城に入城(実高約73万4千石)。この頃「豊臣」の本姓を賜る

1586年03月
(47歳)
有馬湯山で湯治

摂津国有馬湯山へ入る(『多聞院日記』)。この頃から体調が崩れやすくなり、以後も数度湯治に訪れる

1586年12月
(47歳)
徳川家康、秀長邸に宿泊

上洛を拒み続けた家康が大坂に到着、秀長邸に宿泊。その晩、秀吉自らが現れて臣従を求めた(『家忠日記』『徳川実紀』)

1586年01月
(47歳)
大友宗麟の上洛

島津氏の圧迫を受けた大友宗麟が救援を求めて上洛。秀吉は「公儀の事は宰相(秀長)存じ候」と述べ、豊臣政権の大名統制を秀長に委ねていることを示した(『大友家文書録』)

1587年01月
(48歳)
九州平定・日向方面総大将

日向方面の総大将として出陣。高城を包囲し、援軍の島津義弘の夜襲を宮部継潤と共に撃退(根白坂の戦い)。島津家久が講和に秀長を訪れ日向方面の進軍を終了

1587年08月
(48歳)
従二位権大納言に叙任

九州平定の功で従二位権大納言に叙任され、以後「大和大納言」と称される。同日に徳川家康も同位に任官

1588年01月
(49歳)
材木代金着服事件

紀伊の代官・吉川平介が熊野の材木代金を着服し処刑される。秀長も責任を問われ、秀吉から年頭挨拶を拒否された

1589年03月
(50歳)
淀城改修を担当

懐妊した秀吉の側室・茶々の産所とするため淀城の改修を担当。茶々は5月にここで鶴松を生む

1590年01月
(51歳)
病悪化・小田原征伐不参加

この頃から病が悪化し、小田原征伐には参加できず畿内の留守居を務める。4月に大和郡山城で静養

1590年10月
(51歳)
秀吉、郡山城の秀長を見舞う

秀吉が大和郡山城の秀長を見舞う。11月以降、死亡説が流れ始め、秀長の発給文書は花押から黒印に変わる

1591年02月
(52歳)
死去

大和郡山城で病死。享年52。男子がいなかったため、家督は姉・智の子で養嗣子の秀保が継いだ

※ 年齢は数え年で表記しています。数え年は生まれた年を1歳とし、元日を迎えるごとに加算する日本の伝統的な年齢の数え方です。

豊臣兄弟 前編 NHK大河ドラマ・ガイド
書籍

豊臣兄弟 前編 NHK大河ドラマ・ガイド

八津弘幸

NHK出版

— 人物紹介 —

概要

豊臣秀長は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣秀吉の弟(異父弟説と同父弟説がある)で、当初は木下小一郎長秀を名乗り、兄と共に織田信長に仕えた。秀吉の補佐や代理を多く務めて戦功を挙げ、豊臣政権では大和・紀伊・和泉の3か国に河内国の一部を加えた約110万石を領する大大名となった。官位は従二位権大納言に栄進し、居城の大和郡山城にちなみ「大和大納言」と尊称された。

秀吉は秀長を隣に配して重用し、秀長もまた天下人となった秀吉に異を唱え、制御できる貴重な人物であった。徳川家康や伊達政宗など外様大名を多く抱えていた豊臣政権において、秀長は秀吉と大名の間を取り持ち、各大名間の調整役を果たすなど、前期豊臣政権の安定には不可欠な存在だった。

生涯

出生・秀吉の弟として

天文9年(1540年)、竹阿弥の子(一説には木下弥右衛門の子)、秀吉の異父弟(一説に同父弟)として尾張国愛知郡中村に生まれる。具体的な時期は不明であるが、秀吉に連れられて信長に出仕し、兄と共に信長の家臣となった。斎藤龍興との戦いでは、合戦に参加する秀吉に代わって城の留守居役を務めることが多かった。

中国攻めと但馬平定

天正元年(1573年)、秀吉が浅井氏を滅ぼした功により長浜城主となると、秀長は城代を務めることもあった。天正2年(1574年)には秀吉の代理人として長島一向一揆討伐に出陣する。天正3年(1575年)に秀吉から羽柴の名字を与えられ、以後「羽柴小一郎長秀」と名乗った。

秀吉が中国攻めの総司令官となると、山陰道および但馬国平定の指揮を委ねられる。天正6年(1578年)に別所長治が反旗を翻すと、兄と共に三木合戦に従事し、天正8年(1580年)には有子山城を落として但馬国を平定した。戦後は但馬7郡と播磨2郡を与えられ、有子山城に入った。

山崎・賤ヶ岳・小牧長久手

天正10年(1582年)、備中高松城の水攻めに参戦した直後に本能寺の変が起きる。秀長は秀吉の中国大返しに従い、山崎の戦いでは黒田孝高と共に天王山の守備を務めた。翌天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは田上山に布陣し、秀吉が美濃大返しを行うまで木ノ本の本陣を守った。戦後、美濃守に任官して但馬・播磨2ヶ国を拝領した。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、家康と連合していた織田信雄領の伊勢へ進軍し、松ヶ島城を開城させた。信雄との講和交渉では秀吉の名代として直接交渉に赴いている。この頃、「羽柴長秀」から「羽柴秀長」へと改名した。

紀州・四国・大和大納言

天正13年(1585年)3月、紀州征伐では秀次と共に秀吉の副将として太田城攻めに参加し、制圧後は紀伊・和泉などの約64万石を与えられた。

同年6月、病気で出陣できない秀吉の代理として四国攻めの総大将に任命され、10万を超える軍勢を率いて阿波へ進軍する。長宗我部氏の抵抗は激しかったが、秀吉からの援軍申し出を断って自ら指揮を執り、一宮城を落として長宗我部元親を降伏させた。閏8月18日、この功績を賞されて大和国を加増され、合計100万石で郡山城に入城した(実高約73万4千石)。この頃、豊臣の本姓も賜っている。

秀長の領国である紀伊・大和・和泉地方は寺社勢力が強く決して治めやすい土地柄ではなかったが、大和入国と同時期に盗賊追捕を通達し、検地を実施、全5ヶ条の掟を制定するなど多岐にわたる政策を実施し、内政面でも辣腕を振るった。

政権の調整役として

天正14年(1586年)10月、上洛を拒み続けていた徳川家康が大坂に到着し秀長邸に宿泊した。その晩、秀吉自らが現れて臣従を求めるという場面が生じている(『家忠日記』『徳川実紀』)。

同年、大友宗麟が島津氏の圧迫を受けて救援を求めて上洛した際、秀吉は宗麟に「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候」と述べた。豊臣政権の大名統制の権限が秀長に委託されていたことが知られる(『大友家文書録』)。

天正15年(1587年)の九州平定では日向方面の総大将として出陣。耳川の戦いの舞台となった高城を包囲すると、援軍として駆けつけた島津義弘が宮部継潤の陣に夜襲を仕掛けたが(根白坂の戦い)、宮部の抗戦の間に藤堂高虎・戸川達安らが合流して夜襲を撃退。島津軍は撤退し、家久が講和に秀長を訪ねて日向方面の進軍は終了した。この功により、8月に従二位権大納言に叙任され、以後「大和大納言」と称された。

病と死去

天正17年(1589年)を過ぎたころから病が悪化し、天正18年(1590年)の小田原征伐には参加できず畿内の留守居を務めた。4月には大和郡山城で静養、10月には秀次が秀長の病気回復の祈願のため談山神社を訪れており、10月19日には秀吉が郡山城に秀長を見舞っている。11月頃から死亡説が流れ始め、秀長の発給文書は花押から黒印に変わっていった。

天正19年1月22日(1591年2月15日)、大和郡山城で病死した。享年52。男子がいなかったため、家督は姉・智の息子で養嗣子となっていた秀保が継いだ。戒名は「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」。秀長の大和羽柴家は4年後の文禄4年(1595年)、秀保が17歳で死去したことにより断絶した。

評価

秀長は兄の秀吉を補佐し、彼の偉業達成に貢献した温厚寛仁の人物であった。諸大名は秀長に秀吉へのとりなしを頼み、多くの者がその地位を守ることができた。寺社の多い大和を治めながら大きな諍いもなく、実務能力の高さもうかがえる。もし寿命が長ければ豊臣の天下を永く継続させることができたかもしれないと評価されており、秀長の死によって重要な参謀を失った豊臣政権は終わりが始まったともいわれる。

一方で、奈良市中に対しては「ならかし(奈良貸し)」と呼ばれる強引な高利貸行為が秀長主導で行われ、彼の死後も豊臣政権が旧臣を介して継続させていることも判明している(柴裕之『豊臣秀長』2024)。

大河ドラマ 豊臣兄弟! 超おもしろファンブック (小学館SJシリーズ)
書籍

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小和田哲男・NHKエンタープライズ

小学館

豊臣秀長 我、日輪の柱たらん (潮文庫)
書籍

豊臣秀長 我、日輪の柱たらん (潮文庫)

髙橋 直樹

潮出版社

— 問答 —
豊臣秀長はなぜ「大和大納言」と呼ばれたのですか?
天正15年(1587年)の九州平定の功により従二位権大納言に叙任され、居城を大和郡山城に置いていたことから「大和大納言」と尊称されました。義弟にあたる徳川家康と同日に権大納言に任じられており、豊臣政権内での序列の高さを示しています。
豊臣秀長がいなければ豊臣政権はどうなっていたのですか?
秀長は諸大名と秀吉の間を取り持ち、外様大名の多い政権の調整役を果たしていました。秀吉は「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)」と述べており、政権の実務は秀長に委ねられていたと考えられます。天正19年(1591年)の秀長死去後、翌年には利休も切腹させられ、豊臣政権は次第に不安定化していきました。
豊臣秀長と豊臣秀吉の関係は?
秀長は秀吉の弟で、通説では異父弟(一説に同父弟)とされます。竹阿弥の子として尾張中村に生まれ、秀吉に従って織田信長の家臣となりました。秀吉が黒田孝高宛の直筆書状で「其方の儀は、我ら弟の小一郎め同然に心安く存じ候」と信頼の代名詞に秀長の通称を用いており、二人の絆の深さがうかがえます。
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最終更新日: 2026年07月19日