— 人物紹介 —
概要
真田信繁は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。信濃上田城主・真田昌幸の次男として生まれ、大坂の陣で徳川家康の本陣に突撃した奮戦で「日本一の兵」と讃えられた。実名は「信繁」だが、江戸中期の軍記物『難波戦記』以降「真田幸村」の名で広く知られるようになった。
若くして武田家、上杉家、豊臣家の人質を歴任し、豊臣秀吉の馬廻衆として19,000石を有した独立した大名でもあった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父・昌幸とともに西軍に属して第二次上田合戦を戦い、敗戦後は父とともに紀伊国九度山に流された。
蟄居生活のさなか、慶長19年(1614年)に方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川と豊臣の対立が激化すると、豊臣家に召し出されて大坂城に入城。冬の陣では真田丸を築いて徳川軍を撃退し、翌年の夏の陣では天王寺岡山合戦で家康の本陣に決死の突撃を敢行、越前松平家の西尾宗次に討ち取られた。享年49。その勇名は幕府編纂の史料にも記され、講談や軍記物によって庶民の間にも語り継がれ、日本の国民的英雄の一人となった。
生涯
出生と人質時代
真田信繁は永禄10年(1567年)、真田昌幸の次男として生まれた。生年には元亀元年(1570年)とする説もあり、確定していない。幼名は源二郎で、兄・信之が源三郎を名乗ったのに対応する。
天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍の甲州征伐で武田氏が滅亡すると、真田氏は織田信長に恭順した。信繁は関東守護として上野厩橋城に入った滝川一益のもとに人質として送られる。しかし同年6月、本能寺の変で信長が横死。関東を離れる一益に同行して木曾福島城まで移り、木曾義昌に引き渡された。
天正13年(1585年)、父・昌幸が徳川家康と手切れとなり第一次上田合戦を戦う際、信繁は上杉景勝への従属の証として越後国の人質となった。この時、上田領のうち屋代氏の旧領・西塩田千貫(現在の上田市西塩田の前山村)を与えられ、屋代氏旧臣に安堵状を発給している。
豊臣秀吉の馬廻衆
天正14年(1586年)、父・昌幸が羽柴秀吉に服属すると、信繁は人質として大坂に移された。以後は豊臣家の馬廻衆となり、大坂・伏見に屋敷を与えられて父とは別に1万9,000石の知行を得た。実質的には独立した大名として遇されており、父・昌幸の家臣・原昌貞らに知行地の支配を任せていた。
文禄3年(1594年)11月、従五位下・左衛門佐に叙任され、豊臣姓を賜る。この叙任には義父・大谷吉継とその母・東殿の意向が働いていたとされる。この頃、吉継の娘・竹林院を正室に迎えた。
豊臣政権期の信繁の動向は史料が乏しく、詳細は不明だが、伏見城の普請役を担い、天正18年(1590年)の小田原征伐では義父・吉継とともに石田三成の指揮下で忍城攻めに参加したと伝わる。
関ヶ原と九度山幽閉
慶長5年(1600年)、徳川家康が会津の上杉景勝討伐の兵を挙げるとこれに従軍したが、途上の下野犬伏で石田三成挙兵の報を受ける。信繁は父・昌幸とともに西軍に、兄・信之は東軍につくことを決めた。信之の妻が本多忠勝の娘・小松姫だったこともあり、いずれが勝っても真田家が残るよう父子で袂を分かった、いわゆる「犬伏の別れ」である。
上田城に戻った昌幸・信繁は徳川秀忠率いる約38,000の大軍をわずか2,000の兵で迎え撃ち、秀忠を関ヶ原本戦に遅参させる一因をつくった(第二次上田合戦)。しかし本戦で西軍が敗れ、昌幸・信繁は死罪となるところを兄・信之と本多忠勝の助命嘆願で救われ、紀伊国高野山を経て九度山へ蟄居することとなる。
10年以上に及ぶ九度山の配流生活の中で、慶長16年(1611年)に父・昌幸が病死。翌慶長17年(1612年)、信繁は出家して「好白」と号した。
大坂の陣
慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川と豊臣の関係が悪化する。大名の参陣を期待できない豊臣家は浪人を集める策を採り、九度山の信繁のもとにも使者を送って黄金200枚・銀30貫を贈った。信繁は上田の父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、嫡男・大助(幸昌)とともに九度山を脱出して大坂城に入城する。
大坂冬の陣にあたり信繁は籠城策に反対し、瀬田川まで積極的に討って出て徳川軍を迎え撃つべきだと主張した。しかし採用されず、籠城策が決まると大坂城南側の玉造口外に土作りの出城「真田丸」を築いた。12月4日、この真田丸に前田利常・松平忠直・井伊直孝ら徳川方が攻めかかったが、信繁は寄せ手を撃退。この戦いで初めて武名を天下に知らしめた。冬の陣は同月20日に和議が成立し、真田丸は堀の埋め立てとともに取り壊された。
翌慶長20年(1615年)2月、家康は信繁の叔父・真田信尹を使者として「信州で十万石下さるべく候」、次いで「信濃一国を与える」と信繁を寝返らせようとしたが、信繁は「信濃一国などで裏切るような者だと思ったか」と対面もせず拒絶したと伝わる。
天王寺岡山合戦と最期
慶長20年(1615年)4月の再開戦後、5月6日の道明寺の戦いに参加。濃霧のために戦場到着が遅れ、先行した後藤基次の隊を救えなかったことを毛利勝永に嘆いたが、殿軍として伊達政宗の隊を撃退し、豊臣全軍の撤収を成功させた。この時「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」と徳川軍を嘲笑しながら悠然と引き揚げたと伝わる。
5月7日、信繁は毛利勝永・大野治房・明石全登らと最後の作戦を立案する。天王寺口には信繁と毛利勝永ら14,500人、岡山口には大野治房ら4,600人が布陣した。正午頃、幕府方の本多忠朝と毛利隊の間で射撃戦が始まると、当初の作戦は齟齬をきたして本格的戦闘に突入する。信繁は徳川家康の本陣のみを目掛けて決死の突撃を敢行。松平忠直隊15,000を突破し、10部隊以上の徳川勢と交戦しつつ家康本陣に二度にわたり突入した。家康の本陣は混乱し馬印が倒された。これは三方ヶ原の戦い以来のことであった。
しかし井伊直孝の軍勢が真田隊に横槍を入れて突き崩し、真田隊は次第に討ち減らされ、兵力に勝る徳川勢に押し返されて信繁は撤退を余儀なくされる。四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)付近で疲れた身体を休ませていたところを、越前松平家鉄砲組頭・西尾宗次に発見され、「この首を手柄にされよ」との言葉を残して討ち取られた。享年49。
評価
真田信繁の名を不朽のものとしたのは、大坂夏の陣・天王寺岡山合戦での家康本陣への突撃である。島津忠恒は書状に「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由。惣別これのみ申す事に候」と記し、細川忠興も「古今これなき大手柄」と評した。徳川方の史料にも家康本陣が二度突き崩された事実は残されている。
徳川に敵対したにもかかわらず、幕府はこの武名の流布を敢えて禁じなかった。「主君に最後まで忠義を尽くすという筋立てが幕府に容認された」「秀忠の関ヶ原遅参を糊塗するため真田を名将にしたほうが都合が良かった」など諸説あるが、いずれにせよ江戸中期の軍記物『難波戦記』『真田三代記』を経て、明治大正期の立川文庫の講談で「猿飛佐助」ら真田十勇士を従える英雄として庶民の間に広まり、日本の国民的英雄の一人となった。
兄・信之は「左衛門佐(信繁)は柔和で辛抱強く、物静かで怒るようなことは無い」と語ったといい、勇猛な武将のイメージとはかけ離れた人物であったようである。父・昌幸から兵書の問答を欠かさず教わり、九度山の配流生活の中でも武備を怠らなかったという伝えが、その後の奮戦と符合する。





