— 戦いの内容 —
概要
大坂夏の陣は、慶長20年(1615年)4月から5月にかけて、江戸幕府と豊臣家との間で行われた合戦。前年の大坂冬の陣と合わせて「大坂の陣」と総称される。冬の陣の講和で大坂城の堀を失った豊臣方は野戦決戦を強いられ、樫井・道明寺・八尾若江・天王寺岡山と連戦。5月7日の天王寺岡山合戦で真田信繁が徳川家康の本陣に突撃し、家康を自害寸前まで追い詰めたと伝わる。しかし兵力に勝る徳川方が態勢を立て直し、豊臣軍は壊滅、翌8日に秀頼・淀殿以下32名が自害して豊臣家は滅亡した。この合戦をもって戦国時代の大規模戦闘が終焉し、以後260年余の徳川泰平の世が始まる(元和偃武)。
背景
慶長19年(1614年)12月20日、大坂冬の陣は和議によって終わり、その条件として大坂城の外堀・二の丸・三の丸の堀が埋め立てられた。徳川方はこの工事を突貫で進め、大坂城は本丸のみを残す裸城となる。
翌慶長20年(1615年)3月、大坂に浪人の乱暴・堀の復旧・京や伏見への放火の風聞といった不穏な動きがあるとする報が京都所司代・板倉勝重より駿府へ届き、徳川方は浪人の解雇か豊臣家の移封を要求した。豊臣方はこれを拒否し、埋められた堀を掘り返して再戦に備え始めた。4月上旬、家康は九男・徳川義直の婚儀を名目に駿府を発って名古屋に向かい、諸大名に鳥羽・伏見への集結を命じた。冬の陣で江戸に留め置かれた黒田長政・加藤嘉明も出陣を許され、幕府方の兵力は約15万5,000に達した。
豊臣方は和議による一部浪人の解雇や、勝ち目なしと見て離脱する者が出て約7万8,000に減少していた。もはや籠城は不可能と判断した豊臣方は、大坂城外で野戦決戦を挑むことを決めた。
戦いの経過
樫井の戦い(4月29日)
大野治房の一隊が暗峠を越え、4月26日に筒井定慶の郡山城を落とし、28日には徳川方の兵站基地・堺を焼き討ちした。29日には紀州の浅野長晟勢を攻めようとしたが、先鋒の塙直之・淡輪重政らが単独で交戦して戦死。大野治房らは浅野勢と対峙しつつ堺攻防戦を続けた。
道明寺・八尾若江の戦い(5月6日)
大和路から進む幕府軍35,000を豊臣勢が迎撃した道明寺の戦いでは、寄せ集めの豊臣方は緊密な連絡が取れず、後藤基次隊2,800が単独で小松山に進出。伊達政宗・松平忠明ら2万以上と交戦して基次は戦死した。続いて到着した明石全登・薄田兼相らも交戦して兼相らが戦死し、さらに遅れて到着した真田信繁・毛利勝永ら12,000が伊達勢の先鋒・片倉重長を押し止めた。八尾・若江での敗戦の報を受け、真田隊は殿軍として豊臣全軍を撤収させた。
同日、河内路から進む徳川本軍12万を長宗我部盛親・木村重成が迎撃した八尾・若江の戦いでは、盛親が藤堂高虎隊を撃破して高刑・桑名吉成らを討ち取り、木村重成は井伊直孝隊と交戦の末に討死した。
天王寺・岡山合戦(5月7日)
5月7日、豊臣軍は現在の大阪市阿倍野区から平野区にかけて迎撃態勢を構築した。天王寺口には真田信繁・毛利勝永ら14,500、岡山口には大野治房ら4,600、後詰として大野治長・七手組15,000が布陣。別働隊として明石全登300が待機した。
これに対する幕府方は、天王寺口に本多忠朝ら16,200を先鋒、その後方に家康15,000が本陣を置いた。岡山口には前田利常ら27,500、その後方に秀忠23,000が本陣を構えた。茶臼山方面には松平忠直15,000と大和路軍・浅野長晟40,000が展開している。
正午頃に開始された戦いは、本多忠朝と毛利勝永隊の間の射撃戦から本格的な戦闘に突入した。真田信繁は当初計画(家康本陣を孤立させて明石隊が横撃)が崩れるや、家康本陣のみを目掛けて決死の突撃を敢行。松平忠直隊15,000を突破し、10部隊以上の徳川勢と交戦しながら家康本陣に二度突入した。徳川本陣は混乱し、馬印が倒されたのは三方ヶ原の戦い以来のことであった。毛利勝永も本多忠朝を討ち取って家康本陣に迫った。
しかし井伊直孝の軍勢が真田隊に横槍を入れて突き崩し、越前松平隊の反撃で真田隊は分断される。信繁は疲弊しつつ撤退中、四天王寺近くの安居神社付近で越前松平家鉄砲組頭・西尾宗次に討ち取られた。享年49。真田隊の撤退を見た毛利隊も攻撃を諦め、豊臣軍は総崩れとなって大坂城への退却を開始した。
大坂城落城
本丸のみを残して裸同然だった大坂城には、殺到する徳川方を防ぐ術がなかった。松平忠直の越前勢が一番乗りを果たし、豊臣方の台所頭・大角与左衛門が徳川方に寝返って大台所に火を放ったことで、大坂城は全体に延焼して灰燼に帰した。その炎は京からも見えたという。
7日夕方、大野治長は千姫を脱出させたうえで、自身以下の切腹と引き換えに秀頼・淀殿の助命を嘆願した。家康は判断を秀忠に委ね、秀忠は秀頼らに切腹を命じた。翌8日、井伊直孝勢が包囲した山里丸の焼け残りの蔵の中で、秀頼・淀殿以下32名が自害し、豊臣家は滅亡した。
結果と影響
大坂の陣の終結をもって、応仁の乱以来約150年続いた戦国期の大規模戦闘は終焉を迎えた。これを「元和偃武」といい、以後260年余にわたる徳川泰平の世が始まる。
真田信繁の家康本陣突撃は、徳川方諸大名の記録にも「日本一の兵」「古今これなき大手柄」と記された。徳川方はこの武名を封じるどころか、二代将軍・秀忠の関ヶ原遅参の糊塗という政治的理由も相まって、江戸時代を通じて信繁を稀代の名将として認めた。この土壌の上に江戸中期の軍記物『難波戦記』『真田三代記』、明治大正期の立川文庫における真田十勇士の講談が積み重なり、真田信繁は「幸村」の名で庶民の英雄として今日まで広く語り継がれることとなった。




