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慶長20年4月29日〜5月8日(1615年)

大坂夏の陣

おおさかなつのじん1615年06月03日
— 場所 —
天王寺・岡山(現在の大阪府大阪市天王寺区・生野区付近)
— 結果 —
徳川方の勝利。大坂城落城、豊臣家滅亡
— 歴史的意義 —
大坂の陣の後半戦であり、応仁の乱以来約150年続いた戦国期の大規模戦闘の終焉。真田信繁が天王寺岡山合戦で徳川家康の本陣に突撃、豊臣家は滅亡し、以後「元和偃武」として長い平和の時代が始まった
論争 大坂の陣
書籍

論争 大坂の陣

笠谷和比古

新潮社

— 戦場の位置 —

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今村翔吾と読む 真田風雲記 (中公文庫 い 143-1)
書籍

今村翔吾と読む 真田風雲記 (中公文庫 い 143-1)

今村 翔吾

中央公論新社

— 両軍 —

— 豊臣方(迎撃方) —
指揮官
豊臣秀頼総大将。大坂城主だが最後まで出陣せず
兵力
約78,000人
損害
真田信繁・毛利勝永・後藤基次・木村重成・薄田兼相・塙直之ら多数の武将が戦死。大坂城落城の翌8日に秀頼・淀殿以下32名が山里丸で自害し豊臣家は滅亡
参加武将
真田信繁天王寺口の主力。家康本陣に突撃、松平忠直隊の西尾宗次に討ち取られる
毛利勝永天王寺口で本多忠朝隊を破り、家康本陣に迫った。信繁とともに奮戦
大野治房岡山口の指揮官。秀忠本陣に突入した
大野治長豊臣家宿老。後詰として七手組を指揮
明石全登別働隊として明石隊300を率い、家康本陣を横撃する作戦を担った
後藤基次(又兵衛)道明寺の戦いで小松山に進出、伊達政宗・松平忠明ら2万以上と交戦して戦死
木村重成八尾若江の戦いで井伊直孝と交戦、討死
長宗我部盛親八尾若江の戦いで藤堂高虎隊を破ったが、戦後捕縛・処刑
塙直之(団右衛門)樫井の戦いで浅野長晟勢と戦い戦死
薄田兼相道明寺の戦いで戦死
淀殿秀頼生母。落城時に秀頼とともに自害
— 幕府方(攻撃方) —
指揮官
徳川家康総大将。茶臼山の後方に本陣を置くも、信繁の突撃で本陣は二度崩された
徳川秀忠2代将軍。岡山口の後方に本陣を置く
兵力
約155,000人
損害
本多忠朝・小笠原秀政・小笠原忠脩・榊原康勝ら大名クラスが戦死。藤堂高刑・桑名吉成ら藤堂勢の主要武将も八尾若江で戦死した
参加武将
松平忠直越前福井藩主。天王寺口先鋒として真田隊と激戦、家臣の西尾宗次が信繁を討ち取る
伊達政宗道明寺の戦いで後藤基次隊を撃破。片倉重長を先鋒に真田隊と交戦した
井伊直孝八尾若江で木村重成を討取り、天王寺岡山では真田隊への横槍で戦況を決した
藤堂高虎八尾若江で長宗我部盛親隊と交戦、藤堂高刑・桑名吉成らが戦死する損害を受ける
前田利常岡山口先鋒として大野治房隊と交戦
本多忠朝天王寺口先鋒。毛利勝永隊に討たれ戦死
松平忠明大和路軍として道明寺の戦いに参加。戦後大坂城主となる
水野勝成大和路軍の指揮を執り、道明寺の戦いに参加
浅野長晟紀州から北上、樫井の戦いで大野治房隊の塙直之を討ち取る
大坂の陣全史 1598-1616
書籍

大坂の陣全史 1598-1616

渡邊大門

草思社

— 戦いの経過 —

慶長20年3〜4月

和議破綻・堀の掘り返し

冬の陣の講和後、大坂方は埋められた堀の一部を掘り返し、大野治房らを中心に主戦派が台頭。徳川方は浪人の解雇か豊臣家の移封を要求したが、豊臣方が拒否したため再開戦は不可避となった

4月29日

樫井の戦い

大野治房の一隊が郡山城を落として堺を焼き討ち。紀州の浅野長晟勢を攻めたが、先鋒の塙直之・淡輪重政らが単独で交戦し戦死した

5月6日

道明寺の戦い

大和路から進軍する幕府軍35,000を豊臣勢が迎撃。後藤基次隊2,800が単独で小松山に進出し、伊達政宗・松平忠明ら2万以上と交戦して基次は戦死。遅れて到着した真田信繁隊は伊達勢の先鋒・片倉重長を撃退し、殿軍として豊臣全軍の撤収を成功させた

5月6日

八尾・若江の戦い

河内路の徳川本軍12万を長宗我部盛親と木村重成が迎撃。盛親は藤堂高虎隊を破り高刑・桑名吉成らを討取ったが、木村重成が井伊直孝隊に討たれ、後退を余儀なくされた

5月7日 正午

天王寺岡山合戦開始

大坂城南方の天王寺口に真田信繁・毛利勝永ら14,500、岡山口に大野治房ら4,600が布陣。本多忠朝隊と毛利隊の間で射撃戦が始まると、当初の計画が齟齬をきたし本格的な戦闘に突入した

5月7日 午後

信繁、家康本陣に二度突入

信繁は松平忠直隊15,000を突破し、10部隊以上の徳川勢と交戦しつつ家康の本陣に二度突入。家康は自害を覚悟したと伝わる。毛利勝永も本多忠朝隊を破って家康本陣に迫った。家康本陣の馬印が倒されたのは三方ヶ原の戦い以来のことであった

5月7日 午後

真田隊壊滅、信繁討死

井伊直孝の軍勢が真田隊に横槍を入れて突き崩し、越前松平隊の反撃で真田隊は数を減らして分断された。信繁は撤退中、四天王寺近くの安居神社付近で越前松平家鉄砲組頭・西尾宗次に討ち取られる。享年49

5月7日 夕〜8日

大坂城炎上・落城

大坂方は総崩れとなり大坂城へ退却。松平忠直勢が城内一番乗りを果たし、台所頭・大角与左衛門の内応で大台所に火が放たれた。全体に延焼した大坂城は灰燼に帰し、その炎は京からも見えたと伝わる

5月8日

秀頼・淀殿自害、豊臣家滅亡

大野治長は千姫を脱出させた上で秀頼・淀殿の助命を嘆願したが、家康は秀忠の判断に委ね、秀忠は秀頼らに切腹を命じた。井伊直孝勢が包囲した山里丸の蔵の中で、秀頼・淀殿以下32名が自害。豊臣家は滅亡し、応仁の乱以来約150年続いた戦国時代の大規模戦闘が終焉した(元和偃武)

幸村を討て (単行本)
書籍

幸村を討て (単行本)

今村 翔吾

中央公論新社

— 戦いの内容 —

概要

大坂夏の陣は、慶長20年(1615年)4月から5月にかけて、江戸幕府と豊臣家との間で行われた合戦。前年の大坂冬の陣と合わせて「大坂の陣」と総称される。冬の陣の講和で大坂城の堀を失った豊臣方は野戦決戦を強いられ、樫井・道明寺・八尾若江・天王寺岡山と連戦。5月7日の天王寺岡山合戦で真田信繁が徳川家康の本陣に突撃し、家康を自害寸前まで追い詰めたと伝わる。しかし兵力に勝る徳川方が態勢を立て直し、豊臣軍は壊滅、翌8日に秀頼・淀殿以下32名が自害して豊臣家は滅亡した。この合戦をもって戦国時代の大規模戦闘が終焉し、以後260年余の徳川泰平の世が始まる(元和偃武)。

背景

慶長19年(1614年)12月20日、大坂冬の陣は和議によって終わり、その条件として大坂城の外堀・二の丸・三の丸の堀が埋め立てられた。徳川方はこの工事を突貫で進め、大坂城は本丸のみを残す裸城となる。

翌慶長20年(1615年)3月、大坂に浪人の乱暴・堀の復旧・京や伏見への放火の風聞といった不穏な動きがあるとする報が京都所司代・板倉勝重より駿府へ届き、徳川方は浪人の解雇か豊臣家の移封を要求した。豊臣方はこれを拒否し、埋められた堀を掘り返して再戦に備え始めた。4月上旬、家康は九男・徳川義直の婚儀を名目に駿府を発って名古屋に向かい、諸大名に鳥羽・伏見への集結を命じた。冬の陣で江戸に留め置かれた黒田長政・加藤嘉明も出陣を許され、幕府方の兵力は約15万5,000に達した。

豊臣方は和議による一部浪人の解雇や、勝ち目なしと見て離脱する者が出て約7万8,000に減少していた。もはや籠城は不可能と判断した豊臣方は、大坂城外で野戦決戦を挑むことを決めた。

戦いの経過

樫井の戦い(4月29日)

大野治房の一隊が暗峠を越え、4月26日に筒井定慶の郡山城を落とし、28日には徳川方の兵站基地・堺を焼き討ちした。29日には紀州の浅野長晟勢を攻めようとしたが、先鋒の塙直之・淡輪重政らが単独で交戦して戦死。大野治房らは浅野勢と対峙しつつ堺攻防戦を続けた。

道明寺・八尾若江の戦い(5月6日)

大和路から進む幕府軍35,000を豊臣勢が迎撃した道明寺の戦いでは、寄せ集めの豊臣方は緊密な連絡が取れず、後藤基次隊2,800が単独で小松山に進出。伊達政宗・松平忠明ら2万以上と交戦して基次は戦死した。続いて到着した明石全登・薄田兼相らも交戦して兼相らが戦死し、さらに遅れて到着した真田信繁・毛利勝永ら12,000が伊達勢の先鋒・片倉重長を押し止めた。八尾・若江での敗戦の報を受け、真田隊は殿軍として豊臣全軍を撤収させた。

同日、河内路から進む徳川本軍12万を長宗我部盛親・木村重成が迎撃した八尾・若江の戦いでは、盛親が藤堂高虎隊を撃破して高刑・桑名吉成らを討ち取り、木村重成は井伊直孝隊と交戦の末に討死した。

天王寺・岡山合戦(5月7日)

5月7日、豊臣軍は現在の大阪市阿倍野区から平野区にかけて迎撃態勢を構築した。天王寺口には真田信繁・毛利勝永ら14,500、岡山口には大野治房ら4,600、後詰として大野治長・七手組15,000が布陣。別働隊として明石全登300が待機した。

これに対する幕府方は、天王寺口に本多忠朝ら16,200を先鋒、その後方に家康15,000が本陣を置いた。岡山口には前田利常ら27,500、その後方に秀忠23,000が本陣を構えた。茶臼山方面には松平忠直15,000と大和路軍・浅野長晟40,000が展開している。

正午頃に開始された戦いは、本多忠朝と毛利勝永隊の間の射撃戦から本格的な戦闘に突入した。真田信繁は当初計画(家康本陣を孤立させて明石隊が横撃)が崩れるや、家康本陣のみを目掛けて決死の突撃を敢行。松平忠直隊15,000を突破し、10部隊以上の徳川勢と交戦しながら家康本陣に二度突入した。徳川本陣は混乱し、馬印が倒されたのは三方ヶ原の戦い以来のことであった。毛利勝永も本多忠朝を討ち取って家康本陣に迫った。

しかし井伊直孝の軍勢が真田隊に横槍を入れて突き崩し、越前松平隊の反撃で真田隊は分断される。信繁は疲弊しつつ撤退中、四天王寺近くの安居神社付近で越前松平家鉄砲組頭・西尾宗次に討ち取られた。享年49。真田隊の撤退を見た毛利隊も攻撃を諦め、豊臣軍は総崩れとなって大坂城への退却を開始した。

大坂城落城

本丸のみを残して裸同然だった大坂城には、殺到する徳川方を防ぐ術がなかった。松平忠直の越前勢が一番乗りを果たし、豊臣方の台所頭・大角与左衛門が徳川方に寝返って大台所に火を放ったことで、大坂城は全体に延焼して灰燼に帰した。その炎は京からも見えたという。

7日夕方、大野治長は千姫を脱出させたうえで、自身以下の切腹と引き換えに秀頼・淀殿の助命を嘆願した。家康は判断を秀忠に委ね、秀忠は秀頼らに切腹を命じた。翌8日、井伊直孝勢が包囲した山里丸の焼け残りの蔵の中で、秀頼・淀殿以下32名が自害し、豊臣家は滅亡した。

結果と影響

大坂の陣の終結をもって、応仁の乱以来約150年続いた戦国期の大規模戦闘は終焉を迎えた。これを「元和偃武」といい、以後260年余にわたる徳川泰平の世が始まる。

真田信繁の家康本陣突撃は、徳川方諸大名の記録にも「日本一の兵」「古今これなき大手柄」と記された。徳川方はこの武名を封じるどころか、二代将軍・秀忠の関ヶ原遅参の糊塗という政治的理由も相まって、江戸時代を通じて信繁を稀代の名将として認めた。この土壌の上に江戸中期の軍記物『難波戦記』『真田三代記』、明治大正期の立川文庫における真田十勇士の講談が積み重なり、真田信繁は「幸村」の名で庶民の英雄として今日まで広く語り継がれることとなった。

兵
書籍

木下 昌輝

講談社

— 問答 —
真田信繁は本当に家康を自害寸前まで追い詰めたのか?
徳川方の史料にも家康本陣が二度突き崩され、馬印が倒されたことは記されています。島津忠恒は書状に「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由」と記し、藤堂高虎の一代記『高山公実録』にも「御旗本大崩れ」とあります。徳川方の大久保彦左衛門も『三河物語』で家康を残して逃走した旗本衆を糾弾しており、家康の危機は当時から広く知られていました。ただし「家康が本当に自害を考えたか」については徳川方の一次史料に明記はなく、後世の講談・軍記物による誇張の可能性もあります。
なぜ豊臣方は野戦を選んだのか?
冬の陣の和議で外堀と二の丸・三の丸の堀が埋め立てられ、大坂城が本丸のみを残す裸城となっていたためです。もはや籠城戦は不可能で、真田信繁ら浪人衆は「総大将の首を討つ機会のある野戦」で決着をつけるしかないと判断しました。5月7日の作戦は、真田隊と毛利隊で家康本陣を孤立させ、明石全登の別働隊が横撃する高度なものでしたが、本多忠朝の先制射撃で計画が崩れ、豊臣方は正面決戦を強いられました。
大坂夏の陣後、豊臣家の生き残りはどうなった?
秀頼の側室が生んだ子・国松(8歳)は5月21日に捕らえられ23日に処刑されました。娘(後の天秀尼)は千姫の養女として鎌倉東慶寺で出家することを条件に助命されました。真田信繁の子・大助(幸昌)も秀頼に殉じて自害しましたが、次男・大八は伊達家重臣の片倉重長のもとに匿われ、後に「片倉守信」として仙台真田家の祖となりました。信繁の三男・三好幸信も姉・顕性院の縁で出羽亀田藩士として存続しています。
— 関連文献・史料 —
関ヶ原合戦と大坂の陣笠谷和比古研究書
大坂落城 戦国終焉の舞台渡邊大門研究書
大坂夏の陣後の落人探索について渡邊大門研究論文
真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実平山優研究書
薩藩旧記雑録一次史料
大坂夏の陣図屏風(黒田屏風)絵画資料

最終更新日: 2026年07月12日