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従四位下 侍従・陸奥守 佐々成政佐々成政の家紋
さっさ なりまさ · 1536–1588

佐々成政

さっさ なりまさ
尾張比良城・越前府中2郡・越中一国・肥後一国越中富山城主・肥後国主
— 誕生 —
1536年02月06日(天文5年)
尾張国春日井郡比良城(現在の愛知県名古屋市西区)
出典: 天文5年1月15日。最も有力な享年53から割り出した年で、本当の生年ははっきりしない

諸説

1512年01月01日(永正9年)- 永正9年(1512年)説
1516年01月01日(永正13年)- 永正13年(1516年)説
1539年01月01日(天文8年)- 天文8年(1539年)説
— 死没 —
1588年07月07日(天正16年)
摂津国尼崎・法園寺(現在の兵庫県尼崎市) · 切腹(肥後で起きた国人一揆の責めを負わされた)
出典: 天正16年閏5月14日。享年は53が有力だが、50から73まで説が分かれる
— 領域 —
尾張比良城・越前府中2郡・越中一国・肥後一国
従四位下 侍従・陸奥守
戦国武将伝 東日本編
書籍

戦国武将伝 東日本編

今村翔吾

PHP研究所(PHP文芸文庫)

— 家族 —

※ 母は堀場宗氏の娘とする説がある

※1 松千代丸の名は後の時代の系図にしか出てこず、同時代の史料では確かめられない。松千代丸が早くに亡くなった後、佐久間盛政の弟・勝之をはじめ何人か養子を迎えたが、誰も家を継がなかったため、成政の血を男系で引く子孫は絶えた。娘を通じた子孫は続いている

※2 次女の輝子は、佐々清蔵、佐久間安政の妻となった後、鷹司信房に嫁いだ。成政は、徳川家光の正室・鷹司孝子(本理院)の母方の祖父にあたる

※ 早百合は黒百合伝説に出てくる側室。成政が城を空けている間に不義の噂が立ち、戻った成政に一族ごと殺されたと伝わる。確かめようのない話が多い

※ 天正12年(1584年)9月16日、秀吉のもとに人質として預けていた娘(資料では次女とする)が、乳母とともに京都の粟田口で磔にされたという

※ 秀吉に仕えた佐々成治(孫十郎)については、成政の子とも甥ともいわれる

※ 兄は政次と孫介。姉の家系からは、徳川光圀に仕えた佐々宗淳などが出ている

両親

父

佐々成宗

母

不明

配偶者

正室

慈光院

村井貞勝の娘

側室

早川主水の娘

側室

早百合

黒百合伝説

子

長男

松千代丸

長島で戦死

次男

早川雄介

母: 早川主水の娘

母方の祖父の養子

長女

随泉院

松原五郎兵衛に嫁ぐ

次女

輝子

鷹司信房に再嫁

三女

光秀院

織田信高に嫁ぐ

四女

松寿院

神保氏興に嫁ぐ

五女

女子

山岡景以に嫁ぐ

女子

狩野孝信に嫁ぐ

女子

不破盛国に嫁ぐ

(養子・養女)

佐久間勝之

のちに離縁

(養子・養女)

佐々成光

不破盛国室の子

(養子・養女)

佐々信宗

実弟。養子説

戦国武将列伝5 北陸編
書籍

戦国武将列伝5 北陸編

山田邦明・長谷川裕子・萩原大輔(編)

戎光祥出版

— 年表 —

1536年02月
(1歳)
誕生

天文5年1月15日、佐々成宗の三男として尾張の比良城で生まれたとされる。佐々家は比良城に拠った土豪で、近江の佐々木氏(宇多源氏)から分かれた家といわれる。生まれた年については、永正9年・永正13年・天文8年などの説もある

1550年01月
(15歳)
織田信長に仕える

天文19年、織田信長の家臣となった(『尾張佐々系譜』)

1556年09月
(21歳)
兄・孫介の討死

弘治2年8月24日、すぐ上の兄・孫介が稲生の戦いに武者大将として出て、懸命に戦ったものの29歳で討死した

1560年06月
(25歳)
家督相続・比良城主

永禄3年、いちばん上の兄・政次も桶狭間の戦いで討死した。二人の兄を続けて失った成政が、25歳で父・成宗の跡を継ぎ、比良城の主となる

1561年01月
(26歳)
森部の戦い

永禄4年の森部の戦いで、池田恒興とともに稲葉一鉄の叔父にあたる敵将・稲葉又右衛門(常通)を討ち取り、大きな手柄を挙げた(『信長公記』)

1567年01月
(32歳)
黒母衣衆の筆頭

永禄10年、黒母衣衆10人の筆頭に選ばれる。黒母衣衆は、信長の馬廻の中から戦功のある者をえりすぐった集団とみられている

1568年01月
(33歳)
信長の上洛に従う

永禄11年、足利義昭を立てて6万の兵で京へ向かう信長に従った。軍は近江で六角義賢の蓑作城と観音寺城を落とし、9月28日に京へ入る。成政もその中にいた

1569年01月
(34歳)
大河内城攻め

永禄12年、信長が伊勢の北畠具教がこもる大河内城を攻めたとき、柴田勝家・森可成・不破光治と並んで城の東から攻める部隊を指揮した(『信長公記』)

1570年07月
(35歳)
八相山の退口

元亀元年6月、姉川の戦いの前に行われた「八相山の退口」で、簗田広正・中条家忠らとわずかな馬廻を率いて退却の最後尾を受け持ち、鉄砲隊を使って働いたとされる(『信長公記』『当代記』)

1574年01月
(39歳)
長男・松千代丸を失う

天正2年、長島一向一揆との戦いで長男の松千代丸を亡くしたとされる。ただし松千代丸は後の時代の系図にしか名が出てこず、本当にいたかどうかは同時代の史料では確かめられない

1575年06月
(40歳)
長篠の戦い

天正3年5月21日の長篠の戦いでは、前田利家らとともに3,000人の鉄砲隊を率いた

1575年10月
(40歳)
府中三人衆

天正3年9月、越前を押さえた信長は柴田勝家を北陸攻めの責任者とし、府中周辺の2郡(10万石ほど)を成政・前田利家・不破光治の3人にまとめて与えた(府中三人衆)。3人は政務もいつも連名で行っている。成政は小丸城を築いて住み、石山合戦、播磨の平定、荒木村重攻め(有岡城の戦い)にも出陣した

1577年11月
(42歳)
手取川の戦い

天正5年8月、能登に入り込んだ上杉勢を討とうと、柴田勝家らと加賀へ攻め込んだ。しかし七尾城が落ちたため、10月に兵を引いた

1580年01月
(45歳)
越中へ進出・佐々堤を築く

天正8年、柴田勝家による加賀の平定に加わり、そのまま能登・越中へ進んだ。越中では神保長住を助けて国の平定にあたる。この年の秋には、富山の城下を水害から守るため、常願寺川に「佐々堤」と呼ばれる堤を築いた

1581年01月
(46歳)
富山城に入城

天正9年の正月下旬から2月下旬ごろに富山城へ入った。神保長住をはじめ越中の武士たちは、成政の指揮のもとに組み入れられる

1582年04月
(47歳)
越中一国を任される

天正10年3月、神保長住がかつての家臣の小島職鎮・唐人親広らに富山城を襲われ、捕らえられた。織田軍が取り返して長住は救い出されたが、その後追放される。代わって越中一国を任された成政は、富山城を大きく造り直した。成政の勢いが最も盛んだったのはこの頃である

1582年06月
(47歳)
魚津城攻略と本能寺の変

北陸の織田軍は、越中に残る上杉方最後の拠点・魚津城を3か月かけて落とした。ところがその直前の6月2日、京では本能寺の変が起きていた。知らせを受けた武将たちがそれぞれの領地へ戻ると、上杉軍が反撃に出て、成政はその守りに追われて動けなくなった

1582年07月
(47歳)
清洲会議・柴田勝家方につく

清洲会議で越中の支配をそのまま認められた。勝家と秀吉が争い始めると勝家の側につく。勝家の娘婿の佐久間勝之を養子に迎えていたことも、その理由とみられる。本能寺の変の後に上杉勢が入っていた魚津城は、もう一度攻めて取り返した

1583年06月
(48歳)
賤ヶ岳の戦いと秀吉への降伏

天正11年の賤ヶ岳の戦いでは勝家の側に立ったが、上杉景勝を警戒して越中を離れられず、叔父の佐々平左衛門に600人を預けて送るのが精いっぱいだった。勝家が敗れると、娘を人質に差し出し、髪を剃って秀吉に降り、越中一国はそのまま認められた。畿内では、勝家が滅んだのは成政が裏切ったからだといううわさが立ったという(『多聞院日記』)

1584年02月
(49歳)
陸奥守に任官

天正12年の正月4日、前田玄以とともに秀吉の茶会に呼ばれた(『宗及茶湯日記』)。同じ月の12日には、陸奥守に任じられた礼を述べに宮中へ参っている

1584年05月
(49歳)
小牧・長久手の戦い

はじめは秀吉の求めに応じて、佐々平左衛門を小牧の秀吉軍へ送った。一方で3月からは、家康や大久保忠世とのやりとりも見られるようになる。7月に北陸の兵が戻って秀吉軍の苦しい戦況を知り、信雄・家康の側へ移ると決めたとする見方がある

1584年10月
(49歳)
朝日山城を攻める

天正12年8月28日、秀吉についた前田利家の朝日山城に攻めかかったが、前田家の家臣・村井長頼に追い返された。確かな史料で裏づけられてはいないものの、秀吉に背いてから最初の出兵とされる

1584年10月
(49歳)
末森城の戦い

天正12年9月9日、前田領の加賀と能登を切り離そうと、宝達山を越えて坪山砦に陣を置き、15,000人で末森城を囲んだ。城はあと一歩で落ちるところだったが、金沢城から駆けつけた利家に後ろを突かれて敗れる。このころは越後の上杉景勝とも敵対しており、前と後ろの両方に敵を抱えていた

1584年12月
(49歳)
さらさら越え

秀吉と信雄が和睦し、家康も兵を収めると、成政は真冬の飛騨山脈・立山の山々を自分の足で越えて浜松へ行き、もう一度秀吉と戦うよう家康に迫ったとされる(さらさら越え)。けれども家康は動かず、信雄や滝川一益からもよい返事はもらえないまま、成政は気落ちして越中へ戻った。どの道を通ったかは説が分かれ、確かなことはわかっていない

1585年09月
(50歳)
富山の役で降参

天正13年8月、秀吉が自ら大軍を連れて越中へ攻め入り、富山城を取り囲んだ。8月26日、成政は信雄の取りなしで降参し、頭を丸め、僧の衣を着て従う意思を示したとされる。命は助けられたが、越中の新川郡を残して領地はすべて取り上げられ、妻子とともに大坂へ移される。その後しばらくは秀吉の話し相手を務める御伽衆となり、摂津国能勢郡で1万石を与えられた

1587年07月
(52歳)
肥後一国を与えられる

天正15年、九州攻めでの働きが認められ、6月に九州の領地が割り振られた際に肥後一国を与えられた。肥後の国人52人は領地をそのまま認められたうえで、成政の家臣に組み入れられている。同じ年、羽柴の名字も許された

1587年08月
(52歳)
肥後国人一揆

天正15年7月、隈部親永・親泰の父子が検地を拒んで兵を挙げた。成政は7,000人を連れて鎮めに向かったが、一揆に加わる国人は35,000あまりにふくれ上がり、甥の佐々成能も討たれてしまう。自分の力では抑えきれず、秀吉に援軍を頼んだ。九州と四国の大名が駆り出され、一揆がようやく収まったのは12月だった

1588年07月
(53歳)
切腹

天正16年2月、わびを入れに大坂へ出向いたが、秀吉は会おうとせず、成政は尼崎に閉じ込められた。安国寺恵瓊が命乞いをしても聞き入れられず、閏5月14日、加藤清正の見届けのもと、尼崎の法園寺で腹を切った。享年は53とみる説が有力。辞世は「このごろの 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今やぶるなり」

※ 年齢は数え年で表記しています。数え年は生まれた年を1歳とし、元日を迎えるごとに加算する日本の伝統的な年齢の数え方です。

佐々成政(シリーズ・織豊大名の研究11)
書籍

佐々成政(シリーズ・織豊大名の研究11)

萩原大輔

戎光祥出版

— 人物紹介 —

概要

佐々成政は、戦国時代の終わりから安土桃山時代にかけて活躍した武将で、のちに大名となりました。通称は内蔵助です。家紋は棕櫚(シュロ)ですが、戦場の旗には佐々木一族に共通する四つ目結(隅立て四つ目)を掲げていたといいます。馬印は金の三階菅笠でした。徳川家光の正室・鷹司孝子は、成政の娘の子にあたります。

尾張国春日井郡の比良城を本拠とする土豪・佐々成宗の三男に生まれ、二人の兄が続けて戦死したことから家を継ぎました。織田信長のもとでは黒母衣衆の筆頭を務め、長篠の戦いでは前田利家らと鉄砲隊を率いています。越前が平定されると、利家・不破光治とともに「府中三人衆」として柴田勝家の北陸攻めに加わり、天正10年(1582年)には越中一国を任されて富山城に入りました。

本能寺の変の後は勝家の側につき、賤ヶ岳の戦いの後に髪を剃って羽柴秀吉に降ります。ところが小牧・長久手の戦いでは徳川家康・織田信雄の側に移り、前田利家の末森城を攻めて敗れました。真冬の北アルプスを越えて家康に再起を迫ったとされる「さらさら越え」も実を結ばず、天正13年(1585年)の富山の役で降参します。その後、九州攻めでの働きから肥後一国を与えられましたが、国人たちの一揆を招いて自力で鎮められず、その責めを負って天正16年(1588年)に腹を切りました。

生涯

尾張で過ごした時代

佐々家は、尾張国春日井郡の比良城(いまの名古屋市西区)に拠った土豪で、はじめは織田信安に従っていたといわれます(『武功夜話』)。近江の佐々木氏(宇多源氏)から分かれた家で、尾張へ移ってきて斯波氏に、ついで織田氏に仕えるようになったと考えられています。ほかにも、上総国の佐々庄から尾張へ移ってきたとする説、藤原氏の流れとする説、菅原姓を名乗っていたとする説があります。

成政は佐々成宗の三男として比良城で生まれ、天文19年(1550年)に信長の家臣となりました(『尾張佐々系譜』)。上には政次と孫介という二人の兄がいましたが、すぐ上の孫介は弘治2年(1556年)の稲生の戦いに武者大将として出て、29歳で討死します。さらに長兄の政次も、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで命を落としました。こうして成政は同じ年に父の跡を継ぎ、25歳で比良城の主となります。

永禄4年(1561年)の森部の戦いでは、池田恒興とともに、稲葉一鉄の叔父にあたる敵将・稲葉又右衛門(常通)を討ち取るという大きな手柄を立てました(『信長公記』)。そして永禄10年(1567年)には、黒母衣衆10人の筆頭に選ばれています。信長は黒母衣衆と赤母衣衆をそれぞれちょうど10人にそろえており、側近の中でも戦で名を上げた者をえりすぐったものと考えられています。黒母衣衆は馬廻から、赤母衣衆は小姓から選ばれたようです。

信長は永禄11年(1568年)、足利義昭を立てて6万の兵で京へ向かいました。途中の近江では六角義賢の蓑作城と観音寺城を落とし(観音寺城の戦い)、9月28日に京へ入ります。その軍勢の中に成政もいました。翌永禄12年(1569年)、信長が伊勢の北畠具教がこもる大河内城を攻めたときには、柴田勝家・森可成・不破光治と並んで、城の東から攻める部隊を指揮しています(『信長公記』)。

元亀元年(1570年)6月、姉川の戦いの前に行われた「八相山の退口」では、簗田広正・中条家忠らとわずかな馬廻を率いて退却の最後尾を受け持ち、鉄砲隊を使って働いたとされます(『信長公記』『当代記』)。続く天正2年(1574年)には長島一向一揆との戦いで長男の松千代丸を亡くしたとされ、長篠の戦い(天正3年・1575年5月21日)では、前田利家らとともに3,000人の鉄砲隊を率いました。

もっとも、越前に入る前の成政の働きは、そのほとんどが『信長公記』にしか記録がなく、実際にどんな経歴をたどったのかはよくわかっていません。

府中三人衆

天正3年(1575年)9月、越前を押さえた信長は、柴田勝家を北陸攻めの責任者に据えました。越前12郡のうち8郡は勝家に、府中まわりの2郡は成政・前田利家・不破光治の3人にまとめて与えられます。これが府中三人衆です。2郡はあわせて10万石ほどだったとされ、3人がいつも連名で政務を行っていることから、土地を分けずに、上がる収入だけを分け合う形だったとみられています。成政は小丸城を築いて住まいとしました。

府中三人衆は勝家の配下でありながら、織田軍が必要に応じて各地へ差し向ける、半ば独立した部隊のような役割も担っていました。上杉氏とにらみ合う一方、北陸の戦いが一段落するとたびたび畿内へ呼び出され、石山合戦、播磨の平定、荒木村重攻め(有岡城の戦い)にも出ています。荒木攻めでは、荒木の一族を処刑する役を命じられ、三人衆が実際にその手を下しました。

天正5年(1577年)8月には、能登に入り込んだ上杉勢を討つため、勝家らと加賀へ攻め込みました。しかし七尾城が落ちたため、10月に兵を引いています(手取川の戦い)。それでも翌天正6年(1578年)3月に上杉謙信が亡くなると、形勢は少しずつ織田方に傾いていきます。天正8年(1580年)3月に信長と石山本願寺が和睦すると北陸の戦いは勢いを増し、11月に勝家が加賀を平定すると、成政もこれに加わって能登・越中へと進みました。

越中の国主

天正8年(1580年)から、成政は神保長住を助けて越中の平定にあたります。越中は、一向一揆と上杉景勝の双方と向き合う最前線でした。この年の秋には川の治水にも取りかかり、富山の城下を水害から守るため、常願寺川に「佐々堤」と呼ばれる堤を築いています。常願寺川は中流の馬瀬口のあたりでたびたび堤が切れ、富山の城下に被害を出していました。成政は大勢の人手で大きな石を集め、馬瀬口の上手に、底の幅40メートル、長さ150メートルのかまぼこ形の霞堤を築いたといいます。

天正9年(1581年)の正月下旬から2月下旬ごろ、成政は富山城に入り、神保長住をはじめ越中の武士たちは成政の指揮のもとに組み入れられました。越前の旧領の後始末は、少なくとも同じ年の11月まで続いていたことがわかっています。

天正10年(1582年)3月、長住がかつての家臣の小島職鎮・唐人親広らに富山城を襲われ、捕らえられるという事件が起きました。長住は織田軍に助け出されたものの、その後追放されます。代わって越中一国を任された成政は、富山城を大がかりに造り直しました。この富山城を取り返す戦いの最中、考えの違いから勝家と言い争いになったという話も伝わります。成政の勢いが最も盛んだったのはこの頃でした。

成政が越中をどう治めたのかは、はっきりしないところが多く残っています。家臣に領地を与えたり認めたり、寺社に土地を寄進したりした文書は、偽物も含めて25点ほど見つかっており、どれも米の量を「石」ではなく「俵」で表しています。一向一揆や上杉氏と戦いながら、力で切り取った土地をそのつど割り当てていく厳しい支配で、石高を基準にした落ち着いた検地とは性格の違うものだったとみられます。

同じ年の6月、北陸の織田軍は、越中に残る上杉方最後の拠点・魚津城を3か月囲んだ末に落とし、景勝の本拠・春日山城をうかがうところまで迫っていました(魚津城の戦い)。ところがその直前に、京で本能寺の変が起きていました。知らせが届くと北陸の武将たちはそれぞれの領地へ戻り、そこへ上杉軍が反撃に出たため、成政はその守りに追われて動けなくなります。その間に、毛利輝元と和睦して急ぎ畿内へ引き返した羽柴秀吉が、山崎の戦いで明智光秀を討ち取りました。

6月27日の清洲会議をきっかけに、勝家と秀吉の間で織田家の主導権をめぐる争いが表に出ると、成政は勝家の側につきます。会議での領地の割り振りでは、越中をそのまま認められました。勝家の娘婿で佐久間盛政の弟にあたる佐久間勝之を養子に迎えていたことも、勝家に味方した理由とみられています。本能寺の変の後、いったん空になった魚津城には、須田満親の率いる上杉勢が入り込んでいましたが、成政はもう一度攻めて取り返しました。

秀吉との対立

天正11年(1583年)4月の賤ヶ岳の戦いでも勝家の側に立ちましたが、上杉景勝を警戒して越中を離れられず、叔父の佐々平左衛門に600人の兵を預けて送るのがやっとでした。前田利家の寝返りや景勝の動きもあって勝家が敗れると、成政は娘を人質に差し出し、髪を剃って秀吉に降参します。越中一国はそのまま認められました。畿内では、勝家が滅んだのは成政が裏切ったからだといううわさが流れていたといいます(『多聞院日記』)。

天正12年(1584年)の正月4日には、前田玄以とともに秀吉の茶会に呼ばれ(『宗及茶湯日記』)、同じ月の12日には陸奥守に任じられた礼を述べに宮中へ参っています。ところが家康が秀吉に逆らう姿勢をはっきりさせた3月からは、家康や大久保忠世とやりとりしていたことが確かめられるようになります。小牧・長久手の戦いが始まった当初、成政は丹羽長秀を通じて届いた秀吉の求めに応じ、佐々平左衛門を秀吉軍へ送っていました。家康の側に移った時期については5月中旬とも8月ともいわれ、7月に越中へ戻った平左衛門から秀吉軍の苦しい戦いぶりを聞いて決めたとする見方もあります。

8月28日、成政は秀吉についた前田利家の朝日山城に攻めかかりましたが、前田家の家臣・村井長頼に追い返されました。確かな史料の裏づけはないものの、これが秀吉に背いてから最初の出兵です。9月9日には、利家の領国の加賀と能登を切り離そうと宝達山を越えて坪山砦に陣を置き、15,000人で利家の末森城を囲みました。城はあと一歩で落ちるところまで追い詰められましたが、金沢城から駆けつけた利家に後ろを突かれて敗れます(末森城の戦い)。このころは越後の上杉景勝とも敵対しており、前後に敵を抱えた苦しい戦いが続きました。

小牧・長久手の戦いの途中で秀吉と信雄が和睦し、家康も兵を収めると、成政は真冬の飛騨山脈(北アルプス)・立山の山々を自分の足で越えて浜松まで行き、もう一度立ち上がるよう家康に迫ったとされます(さらさら越え)。けれども家康を動かすことはできず、信雄や滝川一益からもよい返事はもらえないまま、気落ちして越中へ帰りました。ただ、家康が成政を見捨てたわけではなく、富山の役の最中に秀吉方の真田昌幸を攻めた(第一次上田合戦)のは、秀吉の目をそらして成政を助けるためだったとする見方もあります。それでも成政は、豊臣にも前田にも背を向けたままでした。

天正13年(1585年)、逆らい続ける成政を討つため、秀吉は自ら越中へ乗り込み、大軍で富山城を囲みました。成政は信雄の取りなしで降参し(富山の役)、命は助けられましたが、越中東部の新川郡を残して領地はすべて取り上げられます。新川郡の城々にも、残った家臣が立ち上がらないよう前田家の青山氏や上杉家の舟見氏らが置かれ、富山城は壊されました。成政は越中にとどまることを許されず、妻子とともに大坂へ移され、しばらくは秀吉の話し相手を務める御伽衆として仕えます。暮らしを支える分として、摂津国能勢郡で1万石が与えられました。

肥後の国主と最期

成政は天正15年(1587年)に羽柴の名字を許されました。同じ年の九州攻めで手柄を立てたことから、戦後の九州の領地の割り振りでは肥後一国を与えられます。秀吉は急な改革を控えるよう言いつけたともいわれますが、病を抱えていた成政はすぐに検地に取りかかろうとし、これに反発した隈部親永を中心に国人たちがいっせいに兵を挙げました(肥後国人一揆)。成政は、自分の力ではこの一揆を収められませんでした。

天正16年(1588年)2月、成政はわびを入れに大坂へ出向きましたが、秀吉は会おうとせず、尼崎に閉じ込めます。安国寺恵瓊が命乞いをしても秀吉は聞き入れず、加藤清正を見届け役として、成政に腹を切るよう命じました。閏5月14日、成政は尼崎の法園寺で自害します。短刀を真横に引いた後、はらわたをつかみ出して天井へ投げつけたといわれます。

戒名は成政寺庭月洞閑大居士です。辞世は「このごろの 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今やぶるなり」で、呼び出されてから思い悩み続けた災いや迷いを詰め込んだ鉄鉢袋のような自分の体を、いま破って死んでいく、という悟りの境地を詠んだものとされます。墓は尼崎の法園寺にあり、平成10年(1998年)には、境内に建てられた新しい墓の向かいに辞世の碑も置かれました。亡くなったときの年齢は、二人の兄や娘の年齢から53歳とみる説が有力ですが、50歳から73歳までさまざまな説があります。

評価

成政は勇ましい武士を好み、召し抱えることに熱心でした。5,000石で約束しておきながら、実際には6,000石、7,000石と上乗せして与えることもあったため、腕に覚えのある者が次々に集まってきたといいます(『名将言行録』)。小田原征伐(天正18年・1590年)のとき、蒲生氏郷が金の三階菅笠の馬印を使いたいと願い出たとき、秀吉は、これは勇名を馳せた佐々成政の馬印だから簡単には許せない、と答えたという話も残っています(『常山紀談』)。

命取りとなった肥後の検地については、見方が分かれています。これまでは、小さいながらも武士である国人がひしめく肥後に対し、秀吉は慎重に治めるよう求めたのに、成政が強引に押し進めたため一揆を招いたと説明されてきました。そこから逆に、成政を陥れるための秀吉の策略だったとする説まで唱えられています。しかし、秀吉が慎重な統治を求めた証拠とされる『太閤記』の「五箇条の定書」は、宛名や文体が不自然なことから疑いが持たれています。成政が腹を切った日に秀吉が出した「陸奥守前後悪逆条々事」も、検地には触れず、成政と隈部親永の仲の悪さを一揆の原因と決めつけています。同じころに検地を進めて豊前で国人一揆を招いた黒田孝高は罰せられていないことから、一揆を起こされたことではなく、自分の力で鎮められなかったことを咎められたとする説や、そもそも一揆の原因は九州の領地の割り振りに対する国人の不満だったとする見方もあります。

その一方で、秀吉は朝鮮や明への出兵を見すえて九州を重んじており、兵や物資を送り出す要となる肥後を成政に任せたのは、それだけ成政を買っていた証しだとする説もあります。羽柴の名字や陸奥守の官職を与えていたことが、その裏づけとされています。

富山では、常願寺川の水害と戦った領主としても覚えられています。富山市西ノ番の正源寺は、成政をはじめ代々の領主が水難よけを祈った寺と伝わり、毎年7月の後半には富山市上滝地区で、観光おおやま佐々成政戦国時代祭りなどの催しが開かれています。ほかにも、秀吉軍に攻められる直前に黄金100万両を鍬崎山に埋めたという埋蔵金の言い伝えや黒百合伝説など、本当かどうかわからない話が数多く残されています。

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— 問答 —
問
佐々成政の「さらさら越え」とは何ですか?
答
天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いの途中で秀吉と織田信雄が和睦し、家康も兵を収めました。納得できない成政は、真冬の飛騨山脈・立山の山々を自ら越えて浜松へ向かい、もう一度立ち上がるよう家康に迫ったとされます。越中と信濃を結ぶ抜け道だった針ノ木峠が「さらさら越え」と呼ばれる峠です。ただし確かなことはわかっておらず、この話は『太閤記』が物語に仕立て、地元の『肯搆泉達録』がさらに大きく脚色したものです。通った道については、ザラ峠と針ノ木峠を越えて立山連峰を抜けたとする説、飛騨から安房峠を越えて信濃へ出たとする説、越中から日本海沿いに越後の糸魚川まで行き、千国街道を南へ下ったとする説の三つがあります。家康を説き伏せることはできませんでしたが、家康が富山の役の最中に真田昌幸を攻めた(第一次上田合戦)のは、秀吉の目をそらして成政を助けるためだったとする見方もあります。
問
佐々成政はなぜ切腹を命じられたのですか?
答
天正15年(1587年)に肥後を与えられた成政が、入国してすぐ検地に取りかかると、隈部親永らの国人がいっせいに反発して兵を挙げました(肥後国人一揆)。成政は自分の力でこれを収められず、翌年2月にわびを入れに大坂へ出向きましたが、秀吉は会わずに尼崎へ閉じ込め、腹を切るよう命じました。これまでは、秀吉が慎重に治めるよう言いつけたのに成政が検地を押し通したためだと説明されてきました。しかし、その言いつけの根拠とされる「五箇条の定書」には、本物かどうか疑いが持たれています。同じように一揆を招いた豊前の黒田孝高は罰せられていないことから、一揆を起こされたことではなく、自力で鎮められなかったことを咎められたとする説があります。また、一揆の本当の原因は、九州の領地の割り振りそのものに対する国人たちの不満だったとする見方もあります。
問
佐々成政の「黒百合伝説」とはどのような話ですか?
答
成政には、とりわけかわいがっていた早百合という側室がいたといいます。成政が城を留守にしている間に、早百合がほかの男と通じているといううわさが広まりました。戻った成政は激しく怒り、神通川のほとりで早百合を殺したうえ、その一族18人の首まではねたとされます。早百合は死にぎわに、立山に黒百合が咲いたら佐々家は滅びると呪ったと伝わり、これが黒百合伝説です。別の話では、成政が秀吉の正室・北政所に珍しい黒百合を贈ったところ、淀殿が黒百合を山ほど取り寄せて飾り、少しも珍しくないと見せつけたため、恥をかかされた北政所が成政を恨んだともいいます。どちらも本当かどうかはわかりません。
— 関連文献・史料 —
佐々成政のすべて花ヶ前盛明(編)研究書
シリーズ・織豊大名の研究 第十一巻 佐々成政萩原大輔研究書
史伝 佐々成政遠藤和子研究書
信長公記一次史料
多聞院日記一次史料
宗及茶湯日記一次史料

最終更新日: 2026年09月20日