— 人物紹介 —
概要
丹羽長秀は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。織田氏の宿老であり、主君・織田信長に従って天下統一事業に貢献した。朝廷から「惟住」の姓を賜ったため、惟住長秀ともいう。
天文18年(1549年)もしくは同19年(1550年)に信長へ仕え、美濃攻めや上洛戦で戦功を重ねた。合戦のみならず、禁裏への使者、近江国の指出検地、蘭奢待截香の奉行、安土城の普請奉行など、軍事と行政の双方で信長の命を果たしている。天正元年(1573年)には若狭一国を与えられ、織田家臣で最初の国持大名となった。
本能寺の変後は織田信孝とともに羽柴秀吉の軍に合流して山崎の戦いで明智光秀を破り、清洲会議には織田家宿老の一人として参加した。以後は秀吉方として動き、賤ヶ岳の戦いを経て越前国と加賀2郡、約60万石を領した。天正13年(1585年)、積寸白(寄生虫病)のため死去した。享年51。
生涯
織田家臣時代
天文4年(1535年)9月20日、丹羽長政の長男として尾張国春日井郡児玉村(現在の名古屋市西区)に生まれた。天文18年(1549年、『丹羽家譜』)もしくは同19年(1550年、『寛永諸家系図伝』)に織田信長へ仕えたとされる。
天文21年(1552年)の萱津の戦い、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いに従軍し、戦功を挙げたと伝わる(『丹羽家譜』)。永禄8年(1565年)から同9年(1566年)にかけては、加治田城の佐藤忠能父子の内応、水の手を断った猿啄城攻め、天主構まで攻め寄せた堂洞城攻めなど、信長の美濃攻めで活躍し、織田家中で頭角を現した(『信長公記』)。
永禄11年(1568年)、足利義昭を奉じて上洛の途についた信長が南近江の六角氏と交戦すると、9月12日に佐久間信盛・木下秀吉・浅井信広と共に箕作城を攻略した(『信長公記』)。上洛後は合戦以外でも活躍を見せ、10月12日には明院良政と共に信長の使者として禁裏へ赴き(『御湯殿上日記』)、同年10月から11月にかけては村井貞勝と共に近江国内の指出検地を担当している。軍事面でも永禄12年(1569年)8月の大河内城の戦い、翌13年(1570年)の金ヶ崎の戦いに従軍した。
元亀元年(1570年)6月28日の姉川の戦いに参陣し、戦後の佐和山城攻めを担当した。元亀2年(1571年)2月24日、城将の磯野員昌が開城勧告を受けて退城すると、代わって長秀が佐和山城主となった。
天正元年(1573年)8月には朝倉義景勢に向けて北近江へ出陣した信長に従軍し、退却した朝倉勢を織田勢が追撃して撃破した(一乗谷城の戦い)。戦後、義景の母・光徳院と子の愛王丸を処刑している(『信長公記』「越州軍記」)。
若狭の支配
天正元年9月、長秀は近江佐和山領に加えて若狭一国を与えられ、織田家臣で最初の国持大名となった。若狭国内での当初の大まかな知行宛行は、遠敷郡が長秀、三方郡が粟屋勝久・熊谷伝左衛門、大飯郡が逸見昌経であり、各領主は所領内に独立した支配権を持っていた。
このころの長秀の家臣には溝口秀勝・長束正家・建部寿徳・山田吉蔵・沼田吉延などがおり、与力としては信長直臣となった若狭衆(武田元明・粟屋勝久・逸見昌経・山県秀政・内藤・熊谷等の若狭武田氏および旧臣)が、他国への出兵時に長秀の指揮下として軍事編制に加えられた。軍事のほか、若狭の治安維持や流通統制など一国単位の取りまとめについても長秀が担っていた。
大飯郡は逸見昌経の死によって、溝口秀勝が長秀家臣から信長直臣に取り立てられ、独立した知行を受けた。本能寺の変に際して若狭では武田元明が明智方について没落したのに対し、粟屋・熊谷・山県・寺西の与力各氏は長秀の支配下に入り、家臣となった。
天正期の活躍
天正2年(1574年)3月、蘭奢待を截香した際には柴田勝家らと共に奉行を務めた(『信長公記』)。同年8月には越前一向一揆の征伐に参陣している。
天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いに参陣し、戦後の7月3日には信長の奏請によって朝廷から「惟住」の姓を賜った(『信長公記』)。天正4年(1576年)に安土城の築城が開始されると、その奉行を務めた(『信長公記』)。
その後も天正5年(1577年)の紀州攻めや信貴山城の戦い、天正9年(1581年)の天正伊賀の乱など多くの戦に参陣した(『信長公記』)。天正7年(1579年)には但馬の羽柴秀長とともに丹波へ攻め込み、氷上城の波多野宗長に勝利している。
天正9年、越中国木舟城主の石黒成綱を信長の命令で近江において誅殺した。越中願海寺城主・寺崎盛永父子も信長の命令により、長秀が城主を務める近江佐和山城で幽閉の後に切腹となっている。同年の京都御馬揃えにおいては、一番に入場するという厚遇を与えられた。
天正10年(1582年)3月の甲州征伐にも従軍し、戦後には信長から暇を与えられ、堀秀政と共に草津へ湯治に赴いた。徳川家康と穴山信君が上洛すると、5月20日に安土で秀政らと饗応役を務め、同21日には織田信澄と大阪見物をもてなしている(『信長公記』)。
本能寺の変後
天正10年6月2日に本能寺の変が発生した際、長秀は蜂屋頼隆と共に織田信孝の四国派遣軍(長宗我部征討軍)の副将を命じられており、出陣を控えて上方でこれを迎えた。6月5日には信孝らと共に、明智光秀の娘婿にあたる織田信澄を自刃に追い込み、大坂城を占拠している。
変に際して大坂で四国出陣の準備中だった長秀と信孝は、光秀を討つには最も有利な位置にいた。しかし両者は岸和田で蜂屋頼隆の接待を受けており、住吉に駐軍していた四国派遣軍とは別行動をとっていた。大将不在のときに変報が届いたことで四国派遣軍は混乱のうちに四散し、動員できる兵力が激減したため、大規模な軍事行動に移ることができなかった。長秀と信孝はやむをえず守りを固めて羽柴軍の到着を待つ形となり、山崎の戦いにおける名目上の大将こそ信孝としたものの、その後の局面は秀吉の主導にまかせるほかなかった。
6月13日、信孝と共に羽柴秀吉軍と合流し、山崎の戦いで光秀を破った。本能寺の変の直後に明智方についた荒木氏綱父子へ入城されていた佐和山城も、山崎の戦いの後に回復している。
6月27日、今後の織田家の運営を決めるために開かれた清洲会議には、秀吉・柴田勝家・池田恒興と共に織田家宿老の一人として参加した。会議の結果、山崎の戦いでの戦功もあり、新たな所領として近江国高島郡と滋賀郡を得た一方、佐和山城を堀秀政に譲った(『多聞院日記』「浅野家文書」)。
清洲会議後の織田家中の抗争では秀吉方として動き、清洲会議の合意に反して織田信雄を名代として織田家家督に据えるという、秀吉の謀叛に与した。またこの頃には庶出である三男の千丸を羽柴秀長へ養子に出しており、縁戚関係になることで秀吉と関係を密接なものとしている。一方で、秀吉が主導した信長の葬礼には反対の立場だったと推察されている(「蓮成院記録」)。
天正11年(1583年)、秀吉が対立する柴田勝家と戦った賤ヶ岳の戦いでは、秀吉方として参陣した。戦後、若狭国と近江国志賀・高島2郡の代わりに、越前国(敦賀郡・南条郡の一部・大野郡の一部を除く)および加賀国江沼・能美2郡を与えられ、越前国北庄に入部した。石高は約60万石と推定されている。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは秀吉方として8月19日に出陣して尾張へ向かったが、9月28日に佐々成政へ備えるために国許へ帰陣した。
最期
天正13年(1585年)4月16日、長秀は積寸白(寄生虫病)のために死去した。死に際しては自刃したとも伝わる(『多聞院日記』)。享年51。跡目は嫡男の長重が継いだ。
『秀吉譜』によれば、長秀は平生「積聚」に苦しんでおり、苦痛に勝てず自刃したという。火葬の後、灰の中から焼け尽くさない積聚が出てきたと記され、秀吉はこれを竹田法印に与えたと伝わる。後年、平戸藩主・松浦静山がこの品を借り受けようとした顛末が『甲子夜話続篇』に残されている。宮本義己は、石亀に似て鳥のような嘴をもつというこの怪物を寸白の虫(真田虫ではなく蛔虫)と見るのが妥当とし、割腹して2日後に死亡したことから、いわゆる切腹ではなかったとしている。
評価
織田家中では「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」という風評があった(『翁草』)。木綿(羽柴秀吉)は華美ではないが重宝であるのに対し、「米五郎左」は長秀を評したもので、非常に器用でどのような任務でもこなし、米のように上にとっても下にとっても毎日の生活上欠くことのできない存在である、というような意味である。
丹羽家と織田家は縁戚関係にあり、長秀は信長の兄・織田信広の娘である桂峯院(信長の姪であり養女でもある)を妻に迎え、嫡男の長重も信長の五女を娶った。
一方で、清洲会議に織田家の今後を決める宿老の一人として参加したこのころの長秀は、決して秀吉と対等な立場ではなく、勢力差は歴然としていたとの指摘がある。山崎の戦いの後に毛利輝元が、秀吉の一家臣である蜂須賀正勝と、立場上は織田家の重臣である長秀に送った戦勝祝いは、贈答品の内容から書状の中身まで一言一句同じもので、他大名からも「秀吉の家臣」という認識があったとみられている(「蜂須賀文書」「毛利家四代実録考証」)。
長秀は名刀「あざ丸」を所有していたことがあった。しかし手に入れてからというもの眼病に悩まされるようになる。この刀はかつて熱田神宮の神職でもあった織田方の武将・千秋季光が所有していたもので、加納口の戦いで千秋が戦死した際に斎藤道三の家臣・陰山一景が鹵獲したものの、直後の織田方との戦いで陰山は両目を射抜かれたといういわくつきの刀剣であった。そこで長秀は周囲の助言に従って「あざ丸」を熱田神宮へ奉納し、以降は眼病に悩まされなくなったという(『信長公記』)。





