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天正元年8月8日〜9月1日

小谷城の戦い

おだにじょう の たたかい1573年09月26日
— 場所 —
小谷城(現在の滋賀県長浜市湖北町伊部)
— 結果 —
織田軍の勝利。浅井氏は3代で滅亡
— 歴史的意義 —
浅井氏を滅ぼして北近江を平定し、信長包囲網の一角を崩した戦い
学習まんが 日本の伝記 SENGOKU 浅井三姉妹(茶々・初・江)戦国の姫たち 2
書籍

学習まんが 日本の伝記 SENGOKU 浅井三姉妹(茶々・初・江)戦国の姫たち 2

河合敦・東園子・和田奈津子

集英社

— 戦場の位置 —

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信長の野望・新生 with パワーアップキット Complete Edition
ゲーム

信長の野望・新生 with パワーアップキット Complete Edition

コーエーテクモゲームス

PS5

— 両軍 —

— 織田軍 —
指揮官
織田信長総大将として3万の軍を率い虎御前山に本陣を置く
兵力
30,000人
損害
記録に乏しい
参加武将
羽柴秀吉3,000の兵で京極丸を夜襲し、長政と久政を分断する
柴田勝家織田軍の主力として従軍
丹羽長秀織田軍の主力として従軍
明智光秀織田軍の主力として従軍
阿閉貞征浅井家重臣から織田方へ寝返り、侵攻の契機をつくる
— 浅井軍 —
指揮官
浅井長政小谷城本丸に籠城し、赤尾屋敷で自害する
兵力
5,000人
損害
浅井長政・久政父子ほか一族・重臣が自害または討死。嫡男・万福丸は捕らえられ処刑
参加武将
浅井久政小丸に籠城し、京極丸陥落後に自害する
赤尾清綱長政に従い赤尾屋敷で最期をともにする
海北綱親京極丸の攻防で討死
三田村定頼京極丸の攻防で討死
浅井政元長政の弟。ともに自害する
信長の野望・新生 公式ガイドブック
書籍

信長の野望・新生 公式ガイドブック

ファミ通書籍編集部

KADOKAWA

— 戦いの経過 —

元亀3年(1572年)7月

虎御前山の築城

信長が3万の軍で小谷城の目前にある虎御前山に本陣を築き、横山城まで長大な要害を構築する。以後、浅井氏は締め上げられていく

天正元年8月8日

阿閉貞征の寝返り

浅井家重臣で山本山城主の阿閉貞征が織田方へ寝返る。信長はこれを好機と見て3万の軍で北近江へ侵攻し、虎御前山に本陣を置いた

天正元年8月

小谷城籠城

長政は5,000の兵とともに小谷城に籠城するが離反が相次ぎ孤立を深める。朝倉義景は反対を押し切って2万の軍を率い、小谷城の北方まで進出した

天正元年8月13日

刀根坂の戦い

朝倉軍は前哨戦に敗れて大嶽砦などを失い撤退を始めるが、織田軍の夜襲を受けて壊滅する

天正元年8月20日

朝倉氏の滅亡

一乗谷城を焼かれた朝倉義景は大野郡へ逃れ、朝倉景鏡の裏切りもあって自刃。浅井氏は唯一の後ろ盾を失った

天正元年8月26日

総攻撃の下令

越前を制圧した信長が虎御前山の本陣へ帰還し、全軍に小谷城の総攻撃を命じる

天正元年8月27日

京極丸の陥落

羽柴秀吉が3,000の兵で夜半に京極丸を占拠し、本丸の長政と小丸の久政を分断する。三田村定頼・海北綱親らが討死し、追い詰められた久政は小丸で自害した

天正元年8月末

万福丸の脱出とお市の方の引き渡し

本丸に残った長政は嫡男・万福丸を家臣に託して城外へ逃がし、妻のお市の方と三人の娘を織田軍に引き渡した

天正元年9月1日

長政自害・小谷城落城

袖曲輪の赤尾屋敷で、長政は赤尾清綱・弟の浅井政元らとともに自害する。享年29。亮政から3代続いた北近江の戦国大名・浅井氏はここに滅亡した

— 戦いの内容 —

概要

小谷城の戦いは、天正元年(1573年)8月から9月にかけて、織田信長が北近江の浅井長政の居城・小谷城を攻略した戦いである。

元亀元年(1570年)の金ヶ崎の戦いで同盟を破棄して以来、3年にわたって信長と争ってきた浅井氏は、この戦いで滅亡した。9月1日、長政は小谷城赤尾屋敷で自害し、初代・亮政から3代で北近江の戦国大名・浅井氏は幕を閉じる。

落城の直前、長政は妻のお市の方と三人の娘を織田軍に引き渡した。この三人が後の浅井三姉妹であり、長女・茶々は豊臣秀吉の妻・淀殿となる。

背景

元亀元年(1570年)4月、信長が浅井氏と関係の深い越前の朝倉義景を攻めると、長政は同盟を破棄して信長の背後を襲った(金ヶ崎の戦い)。同年6月の姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍は織田・徳川連合軍に敗れ、直後には小谷城の南方拠点である横山城を奪われる。横山城には木下秀吉(羽柴秀吉)が守将として置かれ、浅井氏を監視した。

それでも浅井氏は抵抗を続け、同年9月には信長が摂津へ出兵した隙を突いて朝倉氏と再挙兵し、志賀の陣で一矢報いている。しかし佐和山城主の磯野員昌や宮部継潤が織田方へ降り、小谷城周辺は毎年のように放火と刈田を受けて、浅井氏は追い詰められていった。

元亀3年(1572年)7月、信長は3万の軍を率いて小谷城の目前にある虎御前山に本陣を布き、横山城まで長大な要害の構築を始める。浅井氏は朝倉氏に援軍を求め、義景自ら1万5,000を率いて出陣したが、義景はほとんど攻勢に出ないまま、朝倉勢からは織田方への寝返りが相次いだ。同年12月、朝倉軍は越前へ撤兵してしまう。

戦いの経過

天正元年(1573年)7月、信長は足利義昭を京から放逐し、背後の憂いを断った。8月8日、浅井家重臣で山本山城主の阿閉貞征が織田方へ寝返ると、信長はこれを好機と見て3万の軍で北近江へ侵攻し、虎御前山に本陣を置く。

長政は5,000の兵とともに小谷城へ籠城したが、離反は止まらなかった。朝倉義景は家中の反対を押し切って2万の軍で救援に向かうが、前哨戦に敗れて大嶽砦などを失い、撤退を始めたところを織田軍に夜襲されて壊滅する(刀根坂の戦い)。8月17日には居城の一乗谷城を焼かれ、20日、朝倉景鏡の裏切りもあって義景は自刃した。浅井氏は唯一の後ろ盾を失った。

越前を制圧した信長は26日に虎御前山へ帰還し、小谷城への総攻撃を命じる。

決着をつけたのは羽柴秀吉であった。小谷城は尾根に曲輪が連なる山城で、南の本丸に長政が、北の小丸に父・久政が籠っていた。8月27日の夜半、秀吉は3,000の兵で両者の間にある京極丸を占拠し、父子を繋ぐ曲輪を分断する。この攻防で三田村定頼・海北綱親らが討死した。やがて小丸への攻撃が激しくなり、800の兵を指揮していた久政は追い詰められて自害する。

本丸に残された長政はしばらく持ちこたえ、その間に嫡男・万福丸を家臣に託して城外へ逃がし、さらに妻のお市の方を三人の娘とともに織田軍へ引き渡した。

その務めを果たしたのち、9月1日、長政は袖曲輪の赤尾屋敷で重臣・赤尾清綱、弟・浅井政元らとともに自害した。享年29。小谷城は落城し、浅井氏は滅亡した。

結果と影響

信長の浅井氏への処断は厳しかった。久政・長政父子の首は京で獄門にかけられ、城外へ逃がされた万福丸も敦賀で捕らえられて関ヶ原で処刑された。浅井亮親・浅井井規ら一族、家臣の大野木秀俊も処刑され、寝返った将も処分されている。

久政・長政父子の頭蓋骨は朝倉義景のそれとともに薄濃にされた。長らく信長の残虐性を示す行為とされてきたが、近年は敵将への敬意を示し、改元にあたって三将の菩提を弔ったものとする再評価がなされている。

小谷城は秀吉に与えられたが、琵琶湖から離れた立地を嫌われて廃城となり、代わりに長浜城が築かれた。北近江は秀吉の領国となり、以後の秀吉の飛躍の基盤となる。

救出されたお市の方と三人の娘は織田家に引き取られた。お市の方は後に柴田勝家と再婚して北ノ庄城で自害するが、三人の娘は生き延びる。長女・茶々は豊臣秀吉の妻・淀殿として豊臣秀頼を産み、次女・初は京極高次の正室・常高院、三女・江は徳川秀忠の継室・崇源院となった。滅亡した浅井氏の血筋は、豊臣家と徳川将軍家の双方へと受け継がれていくことになる。

— 問答 —
浅井長政はなぜ小谷城で滅んだ?
元亀元年(1570年)に織田信長との同盟を破棄して以降、浅井氏は朝倉氏と結んで抵抗を続けましたが、姉川の戦いの敗北で横山城を失い、元亀3年(1572年)には虎御前山に信長の本陣と要害を築かれて締め上げられていました。頼みの朝倉義景は積極的に攻勢へ出ず、天正元年(1573年)8月に刀根坂で壊滅して一乗谷城も落ち、朝倉氏そのものが滅亡します。後ろ盾を失った小谷城は5,000の兵で3万の織田軍に囲まれ、重臣の阿閉貞征をはじめ離反も相次いでいました。落城は孤立の帰結でした。
小谷城はどのように落とされた?
決め手は羽柴秀吉による京極丸の奇襲です。小谷城は尾根に曲輪が連なる山城で、本丸には長政が、北側の小丸には父・久政が籠っていました。天正元年8月27日の夜、秀吉は3,000の兵で両者の間にある京極丸を占拠し、父子を分断します。孤立した久政は小丸で自害し、本丸の長政も9月1日に赤尾屋敷で自害しました。落城後、小谷城は秀吉に与えられましたが、琵琶湖から離れた立地を嫌われて廃城となり、代わりに長浜城が築かれています。
お市の方と三人の娘はどうなった?
長政は落城の直前、妻のお市の方と茶々・初・江の三人の娘を織田軍に引き渡し、救出させました。四人は藤掛永勝に保護されて織田家に引き取られています。一方、嫡男の万福丸は城外へ逃がされたものの敦賀で捕らえられ、関ヶ原で処刑されました。助けられた三人の娘は後に浅井三姉妹と呼ばれ、長女・茶々は豊臣秀吉の妻となって淀殿と呼ばれ、次女・初は京極高次の正室、三女・江は徳川秀忠の継室となります。滅びた浅井氏の血は、こうして豊臣家と徳川家の双方へ受け継がれました。
— 関連文献・史料 —
小谷城の戦いWikipedia取得資料
信長公記一次史料
小和田哲男『近江浅井氏の研究』小和田哲男研究書
太田浩司『浅井長政と姉川合戦』太田浩司研究書

最終更新日: 2026年08月09日