— 人物紹介 —
概要
滝川一益は、織田信長のもとで重臣として働いた戦国武将・大名です。名前はふつう「たきがわ かずます」と読まれますが、江戸幕府がまとめた2つの系譜集(『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』)では、どちらも諱を「いちます」と読ませています。通称は左近で、官途名の左近将監でも呼ばれました。
家は近江国甲賀郡の出とされ、甲賀の国人の一族とみる説もあります。信長の家臣としては、伊勢攻めの先鋒で頭角を現して北伊勢5郡を本拠とし、長島一向一揆との戦いでは船団を、長篠の戦いでは鉄砲隊を率いるなど、各地で働きました。天正10年(1582年)の武田攻めでは武田勝頼を討ち取り、恩賞として上野一国と信濃2郡を与えられて、関東の諸将をとりまとめる立場に就きます。
ところがその3ヶ月後に本能寺の変が起こります。上野へ攻め込んできた北条氏直・氏邦と神流川で戦って敗れ、一益は関東を捨てて伊勢へ戻りました。清洲会議に間に合わなかったことで織田家中での発言力を失い、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家に味方して領地を没収されます。小牧・長久手の戦いでは秀吉方として蟹江城を攻めましたが、これも失敗に終わり、天正14年(1586年)に越前大野で亡くなりました。
生涯
家の出自と信長への仕官
江戸幕府の系譜集によると、滝川家は紀氏の流れで、もとは河内国の出身です。河内の高安庄司の子孫が近江国甲賀郡に移り、一宇野城から滝の城へ移り住んだことで滝川を名乗るようになったといいます。これとは別に、甲賀伴党と呼ばれる国人集団の大原氏の一族とみる説も有力で、一益が甲賀衆に宛てた文書には「大原滝川」と署名したものが残っています。一益を甲賀の忍者とする見方もありますが、甲賀の武士の家とされること以外に裏付けはありません。
信長に仕えるまでの一益については、確かなことがほとんどわかっていません。『寛永諸家系図伝』は、若い頃から鉄砲が得意で、河内で一族の高安某を殺して国を離れたと記します。水戸藩の佐々宗淳は、博打と素行の悪さから一族に追い出され、尾張津島の知人を頼ったと書き残しました。ただ、一益より前の時代から尾張で滝川姓の武士が織田氏に仕えていた記録もあり、もともと尾張の武士だったとする説もあります。
信長の家臣としての最初の記録は、『信長公記』首巻の一節です。信長が催した踊りで「滝川左近衆」が餓鬼の役を演じたとあります。ここから、遅くとも永禄元年(1558年)まで、早ければ天文24年(1555年)には織田家に仕えていたとみられます。信長の乳兄弟・池田恒興を一益の従兄弟とする説もあり、織田家の周辺とは早くから縁続きだったともいわれます。
伊勢攻めと長島一向一揆
一益の名が大きく出てくるのは、永禄10年(1567年)と翌11年の伊勢攻めです。先鋒として北伊勢の小領主たちを次々に滅ぼし、続く北畠氏との戦いでは、木造氏出身の僧・源浄院主玄(のちの滝川雄利)を仲立ちにして北畠具教の弟・木造具政を味方に引き入れました。大河内城が開城すると、津田一安とともに城の受け取りにあたり、その後は安濃津・渋見・木造の3城を守っています。永禄12年(1569年)には北伊勢5郡を与えられ、ここが一益の本拠となりました。主玄には滝川の名字を名乗らせ、北畠家を継いだ信長の次男・信雄の家老に据えています。
元亀元年(1570年)、石山本願寺が信長に対して兵を挙げると、長島の門徒もいっせいに蜂起しました。11月に信長の弟・信興が小木江城で討たれたとき、一益は桑名城にこもって持ちこたえています。以後は北伊勢で一揆勢とにらみ合いながら、尾張の守りや各地の戦いに駆り出されました。天正元年(1573年)4月末に足利義昭と信長の重臣たちが起請文を取り交わした際、一益は義昭が宛てた側にも、信長方の差出人の側にも名前がみえ、すでに重臣の一人とみなされていたことがわかります。
天正2年(1574年)、長島への3度目の攻撃では、九鬼嘉隆らとともに船団を率い、海から銃撃を浴びせて陸の織田軍を支えました。長島一向一揆が鎮められると、一益は長島城と北伊勢の5郡を与えられています。
各地を転戦する
天正3年(1575年)の長篠の戦いでは鉄砲隊をまとめて指揮し、同じ年の越前一向一揆攻めにも加わりました。天王寺合戦(天正4年・1576年)と、翌年の紀州征伐にも出陣しています。第二次木津川口の戦い(天正6年・1578年)では、九鬼嘉隆の黒船6隻に一益の白船1隻が加わって出撃しており、一益も鉄甲船づくりに関わっていました。荒木村重が背いた有岡城の戦いでは、上﨟塚砦を守る将を寝返らせて城の守りを崩し、天正7年(1579年)11月の落城につなげています。木津川口と有岡城での勝利によって石山本願寺への補給は細り、翌年4月、本願寺の顕如は信長に屈しました。
天正8年(1580年)、北条氏政が信長のもとへ使者を送った際、一益は武井夕庵・佐久間信盛とともにその取次を命じられました。同じ年に信盛が追放されると、北条氏との窓口は一益が一手に引き受けるようになります。翌天正9年(1581年)の伊賀攻めでは甲賀方面から攻め入りました。この年には、京都の妙心寺の中に、子の九天宗瑞を開祖とする暘谷庵を建てています。
武田攻めと上野の領主
天正10年(1582年)、信長は嫡男・信忠を総大将に武田攻めを始めます。一益は2月12日に出陣し、河尻秀隆とともに軍監として信忠を補佐しながら、森長可らと並んで攻撃の中心を担いました。3月11日には、逃げる武田勝頼を天目山のふもとで追い詰めて討ち取っています。信長は一益に名馬「海老鹿毛」と短刀を贈り、3月23日には上野一国と信濃の小県・佐久2郡を与えました。一益はこのとき伊予守に任じられています。
一益に求められたのは、関東の諸将を従えるだけでなく、甲斐・信濃も含めた東国の武将たちをまとめ、上杉氏などの敵に備えることでした。江戸時代の軍記物はこの地位を「関東管領」と呼びますが、室町幕府の役職を信長が任じたとは考えにくく、当時の史料にもその呼び名はみえません。
一益は箕輪城に入った後、5月下旬に厩橋城へ移りました。沼田城には甥の滝川益重、松井田城には津田秀政、小諸城には道家正栄を置いています。上野の国衆には元からの領地を保証すると約束したため、周りの領主たちは人質を差し出して次々に一益のもとへ出向きました。天徳寺宝衍と倉賀野秀景を身近に置き、北条氏政・氏直父子や佐竹義重、里見義頼に加え、東北の伊達輝宗・蘆名盛隆とも連絡をとっています。北条氏政に命じて下野の祇園城を元の城主・小山秀綱へ返させたことからも、一益の権限の大きさがうかがえます。5月上旬には上野の領主たちを厩橋城に招いて能を催し、息子2人とともに自ら「玉蔓」を舞いました。
本能寺の変と神流川の戦い
6月2日、信長は本能寺で討たれました。一益のもとに知らせが届いたのは6月7日です。10日、一益は重臣たちの反対を押し切って上野の諸将を集め、信長父子の死を包み隠さず伝えました。そのうえで、北条氏と一戦を交えてから上方へ戻るつもりであり、自分の首を手土産に北条へ寝返りたい者は遠慮なくかかってこい、と言い放ったと伝わります(『上毛古戦記』)。変の知らせに乗じて沼須城の藤田信吉が背き、沼田城を攻めましたが、一益は2万の兵で駆けつけてこれを退けました(沼田城の戦い)。
北条氏政は6月11日付の手紙で、これまでどおり友好を保つと一益に伝えていました。しかし翌12日には領国に動員をかけ、16日には北条氏直・氏邦らの大軍が上野の倉賀野へ攻め込みます。一益は厩橋城に滝川忠征、松井田城に津田秀政らを残し、1万8千の兵で迎え撃ちました。18日の戦いには勝ったものの、19日の決戦で敗れ、味方の上野衆からも木部貞朝や倉賀野秀景の息子たちが討死しています(神流川の戦い)。
一益はその夜のうちに倉賀野城を経て厩橋へ戻り、長昌寺で戦死した者たちを弔いました。20日には預かっていた北条高広の次男などの人質を返し、太刀や金銀、秘蔵の掛物を上野の諸将に分け与えてから、夜になって箕輪城を発ちます。松井田城の兵を加えて碓氷峠を越え、21日に小諸城へ入りました。一行は依田康国や真田昌幸の母など、佐久・小県の国衆から預かった人質も連れていました。伊勢の長島へ帰ろうとする一益に対し、木曽の木曾義昌は通行を拒みます。一益はその人質を引き渡すことを条件に義昌と話をつけ、28日にようやく織田領の美濃へ入りました。
賤ヶ岳の戦いと出家
一益が尾張に戻ったとき、清洲会議はすでに終わっていました。関東を失って発言力の落ちた一益は、信長の遺領をあらためて分け直すよう求めましたが、会議の取り決めが崩れることを嫌った秀吉ら重臣に退けられます。その後、会議の結果に不満を持つ信長の三男・信孝と、これを支える柴田勝家が、三法師を立てた秀吉と対立するようになりました。
天正11年(1583年)の元日、一益は勝家の側に立って秀吉と戦い始めます。北伊勢の城を次々に落とし、7万近い秀吉方の軍勢を相手に3月まで持ちこたえました。勝家が北から攻め上った後も、織田信雄と蒲生氏郷の2万近い兵を長島城の前に引きつけています。しかし勝家は賤ヶ岳の戦いに敗れて4月23日に北ノ庄で自害し、29日には信孝も岐阜城を失って、一益は孤立しました。長島城での抵抗は7月まで続きましたが、ついに降伏して領地をすべて取り上げられます。一益は京都の妙心寺で髪を剃り、入庵と名乗りました。伊勢の旧領は信雄のものになりました。
蟹江城合戦と晩年
領地を失った一益は、丹羽長秀を頼って越前で謹慎しました。それでも秀吉を茶会に招くなど、上方との関わりは保っています。
天正12年(1584年)になると、信長の次男・信雄が徳川家康と組んで秀吉に対抗すると(小牧・長久手の戦い)、一益は秀吉方につきました。信雄方の九鬼嘉隆と前田長定を寝返らせ、6月16日に伊勢の白子浦から3千の兵を船で運んで蟹江浦に上陸し、蟹江城・下市場城・前田城を押さえます。当時の蟹江城は海に面し、信雄の長島城と家康の清洲城のちょうど間にある要地でした。しかし大野城は落とせず、家康と信雄の本隊に下市場城・前田城を取り返され、蟹江城も囲まれてしまいます。一益は城を明け渡す交渉も交えながら半月あまり粘りましたが、7月3日に開城しました。城を出る途中で襲われて前田長定が討たれ、一益はかろうじて船で伊勢へ逃れています(蟹江城合戦)。
それでも秀吉は一益の働きを認め、7月12日、かねての約束どおり次男・一時に1万2千石、一益に3千石を与える判物を出しました。一方で長男・一忠は、負けた責任を負わされて追放されています。晩年の一益は、天徳寺宝衍・山上道及らとともに関東・東北の大名との交渉を受け持ち、佐竹義重や梶原政景への書状で、秀吉がいずれ北条氏を攻めることを伝えていました。こうした働きかけは、のちに北条氏を追い詰める一因になったと考えられています。
一益が越前大野で亡くなったのは天正14年(1586年)9月9日のことです。享年62とされます。一方、越前の今立大滝には、目を患って出家した一益がこの地に立ち寄った際、かつての一向一揆攻めで村を焼かれた恨みから村人に襲われて殺されたという言い伝えも残ります。ただしこの話は、同じく信長の家臣で越前の一揆に殺された前波吉継の最期とよく似ており、取り違えではないかともいわれています。
評価
一益は伊勢・長島の平定から本願寺との戦い、武田攻めまで、信長の主要な戦いのほとんどに関わった重臣でした。とくに鉄砲隊や船団の指揮、敵方の武将を寝返らせる調略で成果を挙げており、天正元年の起請文で信長方の重臣に名を連ねていることからも、家中での重みがわかります。
その一方で、上野を任されてわずか3ヶ月で本能寺の変に遭い、神流川で敗れて関東を手放したことが、その後の転落の始まりになりました。清洲会議に出られなかったことで織田家中の主導権争いから外れ、賤ヶ岳・蟹江城と続けて敗れています。ただ、晩年も秀吉の東国外交を支えており、その活動は小田原征伐へ向かう流れの中で北条氏を不利に追い込むことにつながったとされます。
茶の湯を好んだ武将としても知られます。上野を与えられた際に茶入「珠光小茄子」を望んでかなわず、「遠国にをかせられ候条、茶の湯の冥加つき候」と嘆いた手紙が残っています。信長から拝領したと伝わる古備前高綱の太刀は国の重要文化財に指定され、静嘉堂文庫美術館が所蔵しています。




