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豊臣秀吉の妻・豊臣秀頼の生母 淀殿淀殿の家紋
よど どの · 1569–1615

淀殿

よど どの
豊臣秀吉の妻・豊臣秀頼の生母
— 誕生 —
1569年01月01日(永禄12年)
近江国小谷(現・滋賀県長浜市)
出典: 永禄12年(1569年)。井上安代の推定による現在の通説。月日不詳のため 01-01 で代用

諸説

1567年01月01日(永禄10年)- 永禄10年説。『翁草』の享年49から逆算した旧通説
— 死没 —
1615年06月04日(慶長20年)
大坂城山里曲輪(現・大阪府大阪市中央区) · 自害(大坂夏の陣)
出典: 慶長20年5月8日。秀頼とともに山里曲輪の糒蔵で自害
論争 大坂の陣
書籍

論争 大坂の陣

笠谷和比古

新潮社

— 家族 —

※ 実名は茶々。「淀殿」「淀君」はいずれも江戸時代以降の呼称で、同時代の史料には見えない。生存中は居所にちなむ「淀の方」「二の丸殿」「西の丸殿」、出産後は「御袋様」「御台様」などと呼ばれた。福田千鶴は同時代の呼び方としては「淀様」が正しいとする

※ 側室とするのは江戸時代以降の理解で、同時代の史料は「御台様」「北の御方」など正室に準じる扱いで記録している。福田千鶴は高台院と同様の正室であったとし、小和田哲男は鶴松の出産により側室から二人目の正室へ格上げされたとする

※ 生年は永禄12年(1569年)とするのが現在の通説。『翁草』の享年49から逆算した永禄10年(1567年)説が長く採られていたが、慶長11年の有卦の記録から井上安代が永禄12年と推定し、これが通説となった

両親

浅井長政

お市の方

配偶者

豊臣秀吉

関白・太閤

長男

豊臣鶴松

父: 豊臣秀吉

3歳で夭折

次男

豊臣秀頼

父: 豊臣秀吉

大坂夏の陣で自害

猶子

(養子・養女)

完子

実父: 豊臣秀勝

実母: 江

九条幸家室

大坂の陣全史 1598-1616
書籍

大坂の陣全史 1598-1616

渡邊大門

草思社

— 年表 —

1569年01月
(1歳)
誕生

永禄12年頃、浅井長政お市の方の長女として近江国小谷に生まれる。実名は茶々。生年には永禄10年説もある

1573年09月
(5歳)
小谷城落城・救出

天正元年9月1日、父・長政が自害して小谷城が落城。母・お市の方と妹の初・江とともに藤掛永勝に救出された。兄・万福丸は捕らえられ処刑されている

1574年01月
(6歳)
織田家での庇護

伯父・織田信包のもとに置かれたとされてきたが、近年は尾張守山城主の織田信次に預けられたとする説(『渓心院文』)が出ている。信次が天正2年に戦死した後は信長の岐阜城へ移った

1582年10月
(14歳)
北ノ庄城へ移る

天正10年、本能寺の変で信長が横死。母・お市の方柴田勝家と再婚すると、妹たちとともに越前北ノ庄城へ移った

1583年06月
(15歳)
賤ヶ岳の戦い

天正11年4月、勝家が羽柴秀吉に敗れる。北ノ庄城の落城に際して母と勝家は自害し、三姉妹は城を出て秀吉の保護を受けた

1586年11月
(18歳)
秀吉の妻となる

天正14年10月1日、秀吉の妻となっていることが史料上はじめて確認される(『言経卿記』)。『渓心院文』によれば、求婚に対して先に妹たちの縁組を整えるよう求めたという

1589年07月
(21歳)
鶴松の出産

天正17年5月27日、山城淀城で長男・棄(鶴松)を産む。この居所にちなんで「淀の女房」と呼ばれるようになった

1589年12月
(21歳)
両親の追善供養

天正17年12月、父の十七回忌と母の七回忌の追善供養を行い、高野山持明院へ両親の肖像画を納めた

1591年09月
(23歳)
鶴松の夭折

天正19年8月5日、大坂へ移る途上の淀で鶴松が体調を崩し、数え3歳で夭折した

1592年01月
(24歳)
名護屋城へ同行

天正20年、朝鮮出兵のため秀吉が肥前名護屋城へ移ると同行する。この時期に第二子を懐妊した

1593年08月
(25歳)
秀頼の出産

文禄2年8月3日、大坂城二の丸で次男・拾(秀頼)を産む。以後「二の丸殿」と呼ばれた

1598年09月
(30歳)
秀吉の死去

慶長3年8月18日、秀吉が伏見城で死去。翌年正月に秀頼とともに大坂城本丸へ移り、秀頼の後見として豊臣家を支える立場となった

1600年10月
(32歳)
大津城の講和を仲介

慶長5年9月、西軍に攻められた大津城の京極高次のもとへ饗庭局と木食応其を派遣し、講和を成立させた。城には妹・初が籠城していた

1603年09月
(35歳)
千姫の輿入れ

慶長8年7月28日、妹・江と徳川秀忠の娘である千姫が、秀頼の妻として大坂城へ輿入れした

1604年07月
(36歳)
完子を九条家へ嫁がせる

慶長9年6月3日、猶子として育てた完子(妹・江と豊臣秀勝の娘)を九条幸家に嫁がせる。五摂家との縁組を実現させた

1614年12月
(46歳)
大坂冬の陣

慶長19年、方広寺鐘銘事件を機に片桐且元が大坂城を去り、開戦に至る。武具を着けて番所の武士を激励したと伝わり、12月20日に和睦が成立した

1615年06月
(47歳)
大坂夏の陣

慶長20年5月、再戦となった大坂夏の陣で豊臣方は敗れ、大坂城は落城した

1615年06月
(47歳)
自害

慶長20年5月8日、山里曲輪の糒蔵で秀頼とともに自害する。大野治長は助命を願ったが叶わなかった。大蔵卿局・饗庭局らも運命をともにしている

※ 年齢は数え年で表記しています。数え年は生まれた年を1歳とし、元日を迎えるごとに加算する日本の伝統的な年齢の数え方です。

お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像
書籍

お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像

黒田基樹

朝日新書

— 人物紹介 —

概要

淀殿は、戦国時代から江戸時代初頭にかけての女性。実名は茶々。北近江の戦国大名・浅井長政と、織田信長の妹・お市の方の長女として生まれた。妹に初(常高院)と江(崇源院)がおり、三人あわせて浅井三姉妹と呼ばれる。

父・長政は信長と対立して小谷城で自害し、母の再婚相手である柴田勝家も羽柴秀吉に敗れて自害した。二度の落城を生き延びた茶々は、やがて秀吉の妻となり、鶴松と秀頼を産む。

秀吉の死後は幼い秀頼の後見として大坂城に入り、京都の高台院とともに豊臣家を支える立場となった。慶長20年(1615年)、大坂夏の陣に敗れ、秀頼とともに山里曲輪で自害した。

生涯

二度の落城

永禄12年(1569年)頃、近江国小谷(現・滋賀県長浜市)に生まれた。生年は『翁草』の享年49から逆算した永禄10年(1567年)説が長く採られてきたが、慶長11年(1606年)に淀殿と秀頼が有卦に入る修法を義演に行わせた記録から井上安代が永禄12年と推定し、現在はこちらが通説となっている。

天正元年(1573年)、父・長政が伯父・信長に敵対して攻められ、小谷城が落城する。茶々は母・お市の方と妹たちとともに藤掛永勝に救出された。父と祖父・久政は自害し、兄・万福丸は捕らえられて羽柴秀吉により処刑されている。

その後は伯父・織田信包のもとに置かれたとされてきたが、近年は尾張守山城主で信長の叔父にあたる織田信次に預けられたとする説(『渓心院文』)が出ている。天正2年(1574年)に信次が戦死した後は、信長の岐阜城へ移った。

天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が横死する。母・お市の方が柴田勝家と再婚すると、茶々は妹たちとともに越前北ノ庄城へ移った。しかし翌天正11年(1583年)、勝家は賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、北ノ庄城の落城とともに勝家・お市の方は自害する。三姉妹は城を落ち延びて秀吉の保護を受けた。

この時期の三姉妹の所在ははっきりしない。安土城に入ったのち織田信雄が後見したとする記録(『玉興記』)、信長の妹・お犬の方が一年ほど世話をしたとする記録(『大雲山誌稿』)などが伝わる。

秀吉の妻として

『渓心院文』によれば、茶々は秀吉の求婚に対し、まず妹たちの縁組を整えるよう求めたという。実際に初は京極高次に、江は秀吉の甥・小吉秀勝に嫁いでおり、茶々が正式に秀吉の妻となったのはその後のこととみられる。妻となっていることが史料で確認できる最初は、天正14年(1586年)10月1日である(『言経卿記』)。

天正17年(1589年)5月27日、山城淀城で長男・棄(鶴松)を産んだ。この居所にちなみ「淀の女房」と呼ばれるようになる。同年12月には父の十七回忌と母の七回忌の追善供養を行い、高野山持明院へ両親の肖像画を納めた。現在に伝わる浅井長政・お市の方の肖像画は、この時の奉納によるものである。

しかし天正19年(1591年)8月5日、鶴松は数え3歳で夭折する。翌天正20年(1592年)、朝鮮出兵のため秀吉が肥前名護屋城へ移ると同行し、この地で第二子を懐妊した。文禄2年(1593年)8月3日、大坂城二の丸で拾(秀頼)を産む。以後「二の丸殿」、伏見城西の丸に移ってからは「西の丸殿」と呼ばれた。

慶長3年(1598年)8月、秀吉が伏見城で死去する。翌年正月、秀頼とともに大坂城本丸へ移り、以後はここを住まいとした。京都の高台院が朝廷との連絡や豊国社の運営にあたる一方、淀殿は大坂で秀頼の後見にあたるという役割分担がなされていたとみられている。

関ヶ原から大坂の陣へ

慶長5年(1600年)、石田三成らの挙兵の情報が入ると、淀殿は三奉行とともに徳川家康へ上洛を促す書状を送っている。その後、毛利輝元が大坂城に入って西軍の総大将となるが、淀殿は秀頼の墨付きの発給や出陣を許さず、豊臣家としては観望する姿勢を保った。

一方、西軍に攻められた大津城の京極高次のもとへは饗庭局と木食応其を派遣し、講和を成立させている。大津城には妹・初と従姉妹の松の丸殿が籠城しており、この仲介によって命が助かった。

関ヶ原の戦いの後、家康は豊臣家の蔵入地を諸将への恩賞に分配し、豊臣家の支配地は大きく減る。慶長8年(1603年)に家康が征夷大将軍となって江戸幕府を開くと、豊臣家の立場はさらに弱まった。同年、妹・江と徳川秀忠の娘である千姫が秀頼に輿入れしている。

この時期、淀殿は「気鬱」により不食・眩暈・頭痛に悩まされ、曲直瀬玄朔から薬を処方されている(『玄朔道三配剤録』)。家老の片桐且元宛の手紙には、自分にはしっかりした親も相談できる人もいないので、幼い秀頼ともども頼りにしていると書き送っていた。

慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件を機に片桐且元と大野治長らが対立し、且元は大坂城を去る。家康との交渉役を失った豊臣家は開戦に至った(大坂冬の陣)。淀殿は武具を着け、武装した女房を従えて番所の武士を激励したと伝わる(『当代記』)。12月20日、和睦が成立した。

最期

慶長20年(1615年)、和睦は破れて再戦となる(大坂夏の陣)。大坂城は落城し、5月8日、淀殿は山里曲輪の糒蔵で秀頼とともに自害した。大野治長は二人の助命を願ったが叶わなかった。

ともに自害した女中に大蔵卿局・饗庭局・右京大夫局らがおり、蔵を出て生き延びた者に千姫とその侍女たちがいる。

最期を目撃した者の証言も遺体の確認も残らなかったため、秀頼と同様に淀殿にも逃亡・生存説が生まれた。薩摩の島津氏を頼ったとする説、上野国厩橋へ逃れたとする説などが伝えられている。墓所は京都市東山区の養源院と、大阪市北区の太融寺である。

人物

淀殿は寺社への寄進を数多く行っている。文禄3年(1594年)には父母の菩提寺として養源院を建立し、石山寺の堂舎再興、法華寺・慶光院・宇治橋の再興にも関わった。慶長12年(1607年)の秀頼による北野社造営も、淀殿の意向が働いたものとみられている。

末妹・江が徳川秀忠に再嫁する際には、前夫・羽柴秀勝との間に生まれた完子を引き取って育てた。後に完子を猶子として五摂家の九条幸家に嫁がせており、政治的な縁組を成立させる力量を示している。

高台院とは対立していたという逸話が『絵本太閤記』などに伝わるが、近年の研究では信用できないとされ、特に対立関係にはなかったとみられている。従来の通説は、後世に淀殿を悪女とみなす風潮によるところが大きいと考えられている。

評価

淀殿の人物像は、長く「豊臣家を滅ぼした悪女」という枠組みで語られてきた。しかしその枠組み自体が、豊臣家を滅ぼした徳川の時代に形づくられ、明治以降の戯曲によって広まったものであることが指摘されている。「淀君」という呼称の定着も、その過程と重なっている。

近年の研究は、同時代の史料が淀殿を正室に準じる立場で記録していること、関ヶ原に際して観望の姿勢を保ち、大津城の講和を仲介し、完子の縁組を五摂家との間に成立させるなど、政治的な判断を重ねていたことを明らかにしてきた。二度の落城を生き延び、豊臣家の後継者を産み、その後見として二十年近く大坂城にあった生涯は、悪女という一語では捉えきれない。

その血筋は妹たちを通じても受け継がれた。次女・初は京極高次の正室・常高院となり、三女・江は徳川秀忠の継室・崇源院として三代将軍・徳川家光を産んでいる。滅亡した浅井氏の血は、豊臣家と徳川将軍家の双方へと流れ込んだ。

学習まんが 日本の伝記 SENGOKU 浅井三姉妹(茶々・初・江)戦国の姫たち 2
書籍

学習まんが 日本の伝記 SENGOKU 浅井三姉妹(茶々・初・江)戦国の姫たち 2

河合敦・東園子・和田奈津子

集英社

羽柴家崩壊 茶々と片桐且元の懊悩
書籍

羽柴家崩壊 茶々と片桐且元の懊悩

黒田基樹

平凡社

— 問答 —
淀殿と茶々は同じ人物?
同じ人物です。実名(諱)は茶々で、本人の署名や秀吉からの書状の宛名にも「ちやちや」と記されています。生存中は居所の変化にともなって「淀の方」「二の丸殿」「西の丸殿」などと呼ばれ、鶴松・秀頼の出産後は「御袋様」「御台様」とも呼ばれました。現在広く使われる「淀殿」も、かつて使われた「淀君」も同時代の史料には見えず、いずれも江戸時代以降の呼称です。「淀君」が定着したのは明治時代に坪内逍遥の戯曲『桐一葉』が上演されて以降で、悪女の印象と結びついた呼び方だという指摘があります。NHK大河ドラマでも昭和62年(1987年)の『独眼竜政宗』を最後に「淀君」は使われていません。
淀殿は秀吉の側室だった?正室だった?
確定していません。秀吉の正室は高台院(寧々)であるため、江戸時代の『翁草』『系図纂要』などは淀殿を側室として扱い、これが長く通説とされてきました。しかし淀殿の生存中の史料で側室・妾と記録したものは、一夫一妻制をとる宣教師によるものしかありません。むしろ同時代人は「よどの御前様」「御台様」(『平塚瀧俊書状』)、「北の御方」「北政所」(『太閤さま軍記のうち』)と、正室に準じる扱いで記録しています。福田千鶴は、一夫一妻多妾制という江戸時代の枠組みを秀吉に当てはめたのが側室説の由来だとして、淀殿も高台院と同様の正室であったとします。小和田哲男は、当初は側室だったが鶴松の出産により二人目の正室へ格上げされたとみています。
淀殿はどのような最期を迎えた?
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で大坂城は落城し、5月8日、山里曲輪の糒蔵で秀頼とともに自害しました。享年47(永禄12年生誕説による)。大野治長が二人の助命を願いましたが叶わず、大蔵卿局・饗庭局ら側近の女中も運命をともにしています。一方、秀頼の妻・千姫とその侍女たちは蔵を出て生き延びました。最期を目撃した者の証言も遺体の確認も残らなかったため、秀頼と同じく淀殿にも生存説が生まれ、薩摩へ落ち延びたとする説などが伝えられています。墓所は京都市東山区の養源院と、大阪市北区の太融寺です。
— 関連文献・史料 —
淀殿Wikipedia取得資料
福田千鶴『淀殿 われ太閤の妻となりて』福田千鶴研究書
黒田基樹『羽柴家崩壊 茶々と片桐且元の懊悩』黒田基樹研究書
小和田哲男『北政所と淀殿 豊臣家を守ろうとした妻たち』小和田哲男研究書
宮本義己『誰も知らなかった江』宮本義己研究書
言経卿記一次史料
渓心院文一次史料

最終更新日: 2026年08月09日