— 人物紹介 —
概要
お市の方は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。織田信秀の娘で、織田信長の妹とするのが通説である。小谷の方・小谷殿とも呼ばれた。
北近江の戦国大名・浅井長政の継室として輿入れし、茶々・初・江の三人の娘(浅井三姉妹)を産んだ。浅井氏の滅亡後は織田家に引き取られ、本能寺の変の後に織田家筆頭家老・柴田勝家の継室となる。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いに敗れた勝家とともに越前北ノ庄城で自害した。享年37。
江戸時代の『祖父物語』や『賤嶽合戦記』は市を「天下一の美人」と伝え、その名は後世の物語や芸能で広く知られることになった。一方で前半生の記録はほとんど残っておらず、実名も一次史料には見えない。
生涯
出生
天文16年(1547年)、尾張国那古野城で織田信秀の娘として生まれたとするのが通説である。兄・信長とは13歳離れていたとされ、生母は不詳。土田御前を生母とする説では、信長・信行・秀孝・お犬の方と同腹の兄姉にあたる。
ただし江戸時代の『織田系図』は市を信長の従兄弟・織田広良の娘とし、『以貴小伝』にも従妹を妹と披露して嫁がせたとする記述がある。信長の叔父・織田信光の娘とする説もあり、信長との血縁は確定していない。実名も一次史料には見えず、通説の「於市」のほか、『好古類纂』所収の『織田家系譜』には「秀子」の名が記されている。
浅井長政との婚姻
美濃の斎藤氏と対峙していた信長は、北近江の浅井長政との同盟を求めた。両家は政略結婚で結ばれ、市が長政のもとへ輿入れする。長政は主家・六角氏の重臣である平井定武の娘と婚約していたが、市との婚姻によって破談となった。
婚姻の時期は確定していない。古くは永禄7年(1564年)と考えられてきたが、永禄8年12月に六角承禎の命を受けた和田惟政が織田・浅井両家の縁組に奔走して一度頓挫していることから、次の機会である永禄10年(1567年)9月、あるいは永禄11年(1568年)初頭とする説が有力とされる。一方で、永禄2年から永禄6年までの間とする見方もある。
長政との間には、茶々(のちの淀殿)、初(のちの常高院)、江(のちの崇源院)の三人の娘が生まれた。長政には少なくとも二人の息子がいたが、いずれも市の子ではないと考えられている。
元亀元年(1570年)、信長が浅井氏と関係の深い越前の朝倉義景を攻めたことで、織田家と浅井家の友好関係は断絶した。実家と婚家が敵対するなかでも、市が娘を産み続けていることから、長政との夫婦仲は良好であったとみられている。
なお『朝倉家記』が伝える、金ヶ崎の戦いの際に市が両端を縛った「小豆の袋」を陣中見舞いとして送り、信長に挟み撃ちの危機を知らせたという逸話は、後世の創作とされる。もっとも当時の政略結婚では、嫁いだ女性が実家と婚家をつなぐ情報の担い手となる側面があり、市も両家の情勢を実家へ伝える役割を果たしていたとみられている。
浅井氏滅亡と織田家での日々
天正元年(1573年)、姉川の戦いの敗北を経て小谷城が落城し、長政と父・久政は自害した。市は三人の娘とともに藤掛永勝によって救出され、織田家に引き取られた。
その後の身柄については、従来は兄・織田信包のもとで庇護を受けたとされてきたが、近年は尾張守山城主で信長の叔父にあたる織田信次に預けられたとする説(『渓心院文』)も出ている。信次が天正2年(1574年)9月に戦死した後は、信長の岐阜城へ移ったとされる。
柴田勝家との再婚
天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が横死する。同月の清洲会議を経て、市は織田家筆頭家老・柴田勝家の継室となった。
従来この再婚は信長の三男・織田信孝の仲介によるものとされてきたが、勝家の書状(『南行雑録』所収の堀秀政宛「覚書」)に「秀吉と申し合わせ、主筋の者との結婚へ皆の承諾を得た」とあることから、勝家の意向を汲み、清洲会議の結果への勝家の不満を抑える意味も込めて秀吉が動いたとする説もある。婚儀は信孝の居城・岐阜城で行われた。同年、市は勝家の勧めで京都の妙心寺に信長の百箇日法要を営んでいる。
市は三人の娘とともに越前北ノ庄城へ移った。
北ノ庄城の最期
天正11年(1583年)4月、勝家は賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れ、北ノ庄城へ退いた。秀吉はこれを追撃して城を包囲する。
落城の前夜、城を枕に切腹する覚悟を決めた勝家は市に城外退去を勧めたが、市はこれを拒み、ともに自決すると誓った。三人の娘については死出の道連れにすることを憐れみ、富永新六郎という武士に預けて秀吉のもとへ届けさせ、自身は「主筋」であるから娘たちを大切にしてほしいとの書状を添えている。
勝家と市、一族・直臣・女中衆は夜を徹して酒宴を催し今生の別れをしたうえで、4月24日、80名余でともに自害した。享年37。北ノ庄城は火を放たれて焼け落ちた。市が勝家と夫婦であった期間は、わずか半年ほどであった。
辞世は「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ 郭公(ほととぎす)かな」と伝えられる。墓所は福井県福井市の西光寺で、菩提寺は同市の自性院のほか、滋賀県高島市の幡岳寺、高野山持明院がある。
人物
『祖父物語』は市を「天下一の美人の聞へ」と記し、『賤嶽合戦記』も「天下第一番の御生付」と伝えて、貴人として尊敬される姿を描いている。戦国一の美女と称されるとともに、聡明であったとも伝えられる。
長女・淀殿は、父・長政の十七回忌と母・市の七回忌にあたって両親の肖像画を描かせた。高野山持明院に伝わるこの肖像画は、戦国末期から安土桃山時代の貴婦人の正装を示す典型例として知られる。
『渓心院文』によれば、市は37歳の時点で実年齢よりはるかに若く、22、23歳に見えるほどであったという。同書はまた、北ノ庄城落城の際に市が秀吉へ直筆の書状を送り、三人の娘の身柄の保障を求めたことを伝えている。
評価
市の生涯は、織田・浅井・柴田という三つの家の興亡と重なっている。政略結婚によって二度嫁ぎ、二度とも婚家が実家またはその後継勢力に滅ぼされるという境遇にありながら、落城のたびに三人の娘の生存を確保した点に、市自身の判断が働いていたことが史料から読み取れる。
その娘たちは豊臣秀吉の側室・淀殿、京極高次の正室・常高院、徳川秀忠の継室・崇源院となり、市の血筋は豊臣・京極・徳川の各家へ受け継がれた。崇源院の産んだ徳川家光は三代将軍となり、同じく娘の徳川和子は後水尾天皇の中宮となってその娘は明正天皇として即位した。江の娘・豊臣完子の子孫は大正天皇の皇后・貞明皇后につながり、市の血筋は現在の皇室にも及んでいる。





