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織田信長の妹・浅井長政継室のち柴田勝家継室 お市の方お市の方の家紋
おいち の かた · 1547–1583

お市の方

おいち の かた
織田信長の妹・浅井長政継室のち柴田勝家継室
— 誕生 —
1547年01月01日(天文16年)
尾張国那古野城(現・愛知県名古屋市中区)
出典: 天文16年(1547年)とするのが通説。月日不詳のため 01-01 で代用。生年・生誕地とも確定していない
— 死没 —
1583年06月14日(天正11年)
北ノ庄城(現・福井県福井市) · 自害(北ノ庄城の戦い)
出典: 天正11年4月24日。享年37
豊臣兄弟! 後編 (NHK大河ドラマ・ガイド)
書籍

豊臣兄弟! 後編 (NHK大河ドラマ・ガイド)

八津弘幸・NHKドラマ制作班

NHK出版

— 家族 —

※ 生母は不詳。土田御前とする説では織田信長・信行・秀孝・お犬の方と同腹の兄姉にあたる。また信長の妹ではなく従妹(織田広良の娘)とする説、信長の叔父・織田信光の娘とする説もある

※ 長女・茶々については、浅井長政の子ではなく連れ子とする説(『浅井氏家譜大成』)がある。三女・江についても、小谷城ではなく岐阜で生まれたとする史料(『安土創業録』)がある

※ 天文16年(1547年)生誕の通説には、当時の大名家の女性の初婚年齢(平均13〜14歳)と比べて浅井長政との婚姻が遅すぎるとして、生年そのものに疑問を呈する指摘がある

両親

織田信秀

不明

配偶者

浅井長政

北近江の大名

柴田勝家

織田家筆頭家老

長女

淀殿

父: 浅井長政

豊臣秀吉の妻

次女

父: 浅井長政

京極高次正室

三女

父: 浅井長政

徳川秀忠継室

大河ドラマ 豊臣兄弟! 超おもしろファンブック (小学館SJシリーズ)
書籍

大河ドラマ 豊臣兄弟! 超おもしろファンブック (小学館SJシリーズ)

小和田哲男・NHKエンタープライズ

小学館

— 年表 —

1547年01月
(1歳)
誕生

天文16年、織田信秀の娘として尾張国那古野城で生まれたとするのが通説。兄・信長とは13歳離れていたとされるが、生年・生母とも確定していない

1568年04月
(22歳)
浅井長政に嫁ぐ

兄・信長と北近江の浅井長政の同盟を結ぶ政略結婚として輿入れする。婚姻の時期は永禄2年から永禄11年まで諸説あり確定していない

1569年01月
(23歳)
長女・茶々の誕生

永禄12年頃、小谷城で長女・茶々(のちの淀殿)を産む。続いて次女・初、三女・江が生まれ、後に「浅井三姉妹」と呼ばれた

1570年04月
(24歳)
織田・浅井の同盟決裂

元亀元年4月、信長の越前朝倉攻めに際して長政が離反し、実家と婚家が敵対する立場に置かれる。信長に挟み撃ちの危機を知らせたという「小豆の袋」の逸話は後世の創作とされる

1570年07月
(24歳)
姉川の戦い

元亀元年6月、夫・長政が朝倉軍とともに織田・徳川連合軍と戦い敗れる

1573年09月
(27歳)
小谷城落城・救出

天正元年9月1日、小谷城が落城し夫・長政と義父・久政が自害。市は三人の娘とともに藤掛永勝に救出され、織田家に引き取られた

1574年01月
(28歳)
織田家での庇護

従来は兄・織田信包のもとに預けられたとされてきたが、近年は信長の叔父・織田信次に預けられたとする説(『渓心院文』)も出ている。信次が天正2年に戦死した後は信長の岐阜城へ移った

1582年06月
(36歳)
本能寺の変

天正10年6月2日、兄・信長が明智光秀に討たれる。市と三人の娘は再び後ろ盾を失った

1582年07月
(36歳)
清洲会議

天正10年6月27日、織田家の後継者と遺領を決める清洲会議が開かれる。市と柴田勝家の再婚も、この会議で諸将の承諾を得たものだった

1582年10月
(36歳)
柴田勝家と再婚

天正10年、織田家筆頭家老・柴田勝家の継室となる。婚儀は織田信孝の居城・岐阜城で行われ、三人の娘とともに越前北ノ庄城へ移った。同年、勝家の勧めで京都・妙心寺に信長の百箇日法要を営んでいる

1583年06月
(37歳)
賤ヶ岳の戦い

天正11年4月、勝家が羽柴秀吉に敗れる。勝家は越前北ノ庄城へ退却した

1583年06月
(37歳)
三人の娘を城外へ送る

天正11年4月23日、秀吉軍が北ノ庄城を包囲。市は勝家の勧めた城外退去を拒み、三人の娘だけを富永新六郎に託して秀吉のもとへ送り、身柄の保障を求める書状を添えた

1583年06月
(37歳)
北ノ庄城落城・自害

天正11年4月24日、勝家とともに自害する。享年37。辞世は「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ 郭公かな」

※ 年齢は数え年で表記しています。数え年は生まれた年を1歳とし、元日を迎えるごとに加算する日本の伝統的な年齢の数え方です。

柴田勝家-織田軍の「総司令官」
書籍

柴田勝家-織田軍の「総司令官」

和田 裕弘

中央公論新社(中公新書 2758)

— 人物紹介 —

概要

お市の方は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。織田信秀の娘で、織田信長の妹とするのが通説である。小谷の方・小谷殿とも呼ばれた。

北近江の戦国大名・浅井長政の継室として輿入れし、茶々・初・江の三人の娘(浅井三姉妹)を産んだ。浅井氏の滅亡後は織田家に引き取られ、本能寺の変の後に織田家筆頭家老・柴田勝家の継室となる。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いに敗れた勝家とともに越前北ノ庄城で自害した。享年37。

江戸時代の『祖父物語』や『賤嶽合戦記』は市を「天下一の美人」と伝え、その名は後世の物語や芸能で広く知られることになった。一方で前半生の記録はほとんど残っておらず、実名も一次史料には見えない。

生涯

出生

天文16年(1547年)、尾張国那古野城で織田信秀の娘として生まれたとするのが通説である。兄・信長とは13歳離れていたとされ、生母は不詳。土田御前を生母とする説では、信長・信行・秀孝・お犬の方と同腹の兄姉にあたる。

ただし江戸時代の『織田系図』は市を信長の従兄弟・織田広良の娘とし、『以貴小伝』にも従妹を妹と披露して嫁がせたとする記述がある。信長の叔父・織田信光の娘とする説もあり、信長との血縁は確定していない。実名も一次史料には見えず、通説の「於市」のほか、『好古類纂』所収の『織田家系譜』には「秀子」の名が記されている。

浅井長政との婚姻

美濃の斎藤氏と対峙していた信長は、北近江の浅井長政との同盟を求めた。両家は政略結婚で結ばれ、市が長政のもとへ輿入れする。長政は主家・六角氏の重臣である平井定武の娘と婚約していたが、市との婚姻によって破談となった。

婚姻の時期は確定していない。古くは永禄7年(1564年)と考えられてきたが、永禄8年12月に六角承禎の命を受けた和田惟政が織田・浅井両家の縁組に奔走して一度頓挫していることから、次の機会である永禄10年(1567年)9月、あるいは永禄11年(1568年)初頭とする説が有力とされる。一方で、永禄2年から永禄6年までの間とする見方もある。

長政との間には、茶々(のちの淀殿)、初(のちの常高院)、江(のちの崇源院)の三人の娘が生まれた。長政には少なくとも二人の息子がいたが、いずれも市の子ではないと考えられている。

元亀元年(1570年)、信長が浅井氏と関係の深い越前の朝倉義景を攻めたことで、織田家と浅井家の友好関係は断絶した。実家と婚家が敵対するなかでも、市が娘を産み続けていることから、長政との夫婦仲は良好であったとみられている。

なお『朝倉家記』が伝える、金ヶ崎の戦いの際に市が両端を縛った「小豆の袋」を陣中見舞いとして送り、信長に挟み撃ちの危機を知らせたという逸話は、後世の創作とされる。もっとも当時の政略結婚では、嫁いだ女性が実家と婚家をつなぐ情報の担い手となる側面があり、市も両家の情勢を実家へ伝える役割を果たしていたとみられている。

浅井氏滅亡と織田家での日々

天正元年(1573年)、姉川の戦いの敗北を経て小谷城が落城し、長政と父・久政は自害した。市は三人の娘とともに藤掛永勝によって救出され、織田家に引き取られた。

その後の身柄については、従来は兄・織田信包のもとで庇護を受けたとされてきたが、近年は尾張守山城主で信長の叔父にあたる織田信次に預けられたとする説(『渓心院文』)も出ている。信次が天正2年(1574年)9月に戦死した後は、信長の岐阜城へ移ったとされる。

柴田勝家との再婚

天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が横死する。同月の清洲会議を経て、市は織田家筆頭家老・柴田勝家の継室となった。

従来この再婚は信長の三男・織田信孝の仲介によるものとされてきたが、勝家の書状(『南行雑録』所収の堀秀政宛「覚書」)に「秀吉と申し合わせ、主筋の者との結婚へ皆の承諾を得た」とあることから、勝家の意向を汲み、清洲会議の結果への勝家の不満を抑える意味も込めて秀吉が動いたとする説もある。婚儀は信孝の居城・岐阜城で行われた。同年、市は勝家の勧めで京都の妙心寺に信長の百箇日法要を営んでいる。

市は三人の娘とともに越前北ノ庄城へ移った。

北ノ庄城の最期

天正11年(1583年)4月、勝家は賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れ、北ノ庄城へ退いた。秀吉はこれを追撃して城を包囲する。

落城の前夜、城を枕に切腹する覚悟を決めた勝家は市に城外退去を勧めたが、市はこれを拒み、ともに自決すると誓った。三人の娘については死出の道連れにすることを憐れみ、富永新六郎という武士に預けて秀吉のもとへ届けさせ、自身は「主筋」であるから娘たちを大切にしてほしいとの書状を添えている。

勝家と市、一族・直臣・女中衆は夜を徹して酒宴を催し今生の別れをしたうえで、4月24日、80名余でともに自害した。享年37。北ノ庄城は火を放たれて焼け落ちた。市が勝家と夫婦であった期間は、わずか半年ほどであった。

辞世は「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ 郭公(ほととぎす)かな」と伝えられる。墓所は福井県福井市の西光寺で、菩提寺は同市の自性院のほか、滋賀県高島市の幡岳寺、高野山持明院がある。

人物

『祖父物語』は市を「天下一の美人の聞へ」と記し、『賤嶽合戦記』も「天下第一番の御生付」と伝えて、貴人として尊敬される姿を描いている。戦国一の美女と称されるとともに、聡明であったとも伝えられる。

長女・淀殿は、父・長政の十七回忌と母・市の七回忌にあたって両親の肖像画を描かせた。高野山持明院に伝わるこの肖像画は、戦国末期から安土桃山時代の貴婦人の正装を示す典型例として知られる。

『渓心院文』によれば、市は37歳の時点で実年齢よりはるかに若く、22、23歳に見えるほどであったという。同書はまた、北ノ庄城落城の際に市が秀吉へ直筆の書状を送り、三人の娘の身柄の保障を求めたことを伝えている。

評価

市の生涯は、織田・浅井・柴田という三つの家の興亡と重なっている。政略結婚によって二度嫁ぎ、二度とも婚家が実家またはその後継勢力に滅ぼされるという境遇にありながら、落城のたびに三人の娘の生存を確保した点に、市自身の判断が働いていたことが史料から読み取れる。

その娘たちは豊臣秀吉の側室・淀殿、京極高次の正室・常高院、徳川秀忠の継室・崇源院となり、市の血筋は豊臣・京極・徳川の各家へ受け継がれた。崇源院の産んだ徳川家光は三代将軍となり、同じく娘の徳川和子は後水尾天皇の中宮となってその娘は明正天皇として即位した。江の娘・豊臣完子の子孫は大正天皇の皇后・貞明皇后につながり、市の血筋は現在の皇室にも及んでいる。

お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像
書籍

お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像

黒田基樹

朝日新書

戦国「おんな家長」の群像
書籍

戦国「おんな家長」の群像

黒田基樹

笠間書院

— 問答 —
お市の方と織田信長はどういう関係?
通説では織田信秀の娘で、信長の妹(五女)にあたります。信長とは13歳離れていたとされ、生母は不詳です。土田御前を生母とする説では、信長・信行・秀孝・お犬の方と同腹の兄姉ということになります。ただし江戸時代の『織田系図』は信長の従兄弟・織田広良の娘とし、『以貴小伝』にも従妹を妹と披露して嫁がせたとする記述があるなど、妹ではなく従妹とする説、信長の叔父・織田信光の娘とする説もあり確定していません。いずれにせよ信長・信包の市に対する待遇は姉妹のなかで特に厚く、織田家中で重い位置にあった女性でした。
お市の方はどのような最期を迎えた?
天正11年(1583年)4月、夫・柴田勝家が賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れ、越前北ノ庄城に退きます。秀吉軍に城を包囲されると、勝家は市に城外へ退くよう勧めましたが、市はこれを拒んで運命を共にすると誓いました。三人の娘だけは富永新六郎に託して秀吉のもとへ送り、身柄の保障を求める書状を添えています。4月24日、市は勝家や一族・家臣ら80名余とともに自害しました。享年37。辞世は「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ 郭公かな」と伝えられます。墓所は福井市の西光寺にあります。
お市の方の子孫にはどんな人物がいる?
浅井長政との間に生まれた三人の娘(浅井三姉妹)を通じて、その血筋は豊臣・京極・徳川の各家へ広がりました。長女・茶々は豊臣秀吉の側室(淀殿)となって豊臣秀頼を産み、次女・初は京極高次の正室(常高院)、三女・江は徳川秀忠の継室(崇源院)となって三代将軍・徳川家光や、後水尾天皇の中宮となった徳川和子を産んでいます。和子の娘は明正天皇として即位しました。また江の娘・豊臣完子は九条幸家に嫁ぎ、その子孫が大正天皇の皇后・貞明皇后(節子)にあたるため、お市の方の血筋は現在の皇室にもつながっています。
— 関連文献・史料 —
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最終更新日: 2026年08月02日