— 人物紹介 —
概要
鳥居元忠は、徳川家康が今川氏の人質だった少年時代からそばに仕えた、三河以来の家臣です。父の鳥居忠吉も松平氏に仕えて岡崎奉行などを務めた人物で、元忠は三男ながら兄たちに代わって家を継ぎました。姉川・三方ヶ原・長篠など家康の主な戦いに加わり、天正壬午の乱では黒駒合戦で北条軍の別働隊を退けています。
その功で甲斐国都留郡を任され、家康の関東移封の後は下総国矢作城4万石の城主となりました。どちらの領地でも、家康から広い裁量を与えられていたとみられています。
慶長5年(1600年)、家康が会津へ向かった留守に石田三成らが挙兵すると、元忠はわずかな兵で伏見城に籠もり、13日間戦った末に討ち死にしました。この最期は「三河武士の鑑」と称えられ、伏見城の血に染まった床板は「血天井」として今も京都の寺々に残っています。
生涯
出生と家康への近侍
鳥居元忠は天文8年(1539年)、三河国碧海郡渡郷(現在の愛知県岡崎市渡町)に生まれました。父は松平氏に仕えた鳥居忠吉で、元忠はその三男です。上の兄のうち、忠宗は天文16年(1547年)に地元の渡で起きた戦いで命を落とし、本翁意伯は僧になっています。
天文20年(1551年)、13歳の元忠は、今川氏のもとで人質となっていた松平竹千代(のちの徳川家康)のそば近くに仕え始めました。竹千代は弘治元年(1555年)に元服し、今川義元から「元」の字を受けて松平元信と名乗ります。歴史学者の柴裕之は、3歳年上の元忠もこのとき一緒に元服し、同じく「元」の字を受けたのではないかと推測しています。
三河・遠江での戦い
家康が三河を平定した後、元忠は家康の旗本の先手役となり、旗本の部隊を率いて戦いました。加わった戦いには、永禄元年(1558年)の寺部城攻めのほか、姉川の戦い(元亀元年・1570年6月)や三方ヶ原の戦い(元亀3年・1572年12月)があります。元亀3年に父・忠吉が亡くなると、鳥居家の家督を継ぎました。
諏訪原城の戦いでは、物見として敵陣に忍び込んだところを見つかり、足を撃たれます。この傷のため、その後は歩くのにいくらか不自由が残りました。それでも天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは石川数正とともに馬防柵を設ける役を受け持ち、天正9年(1581年)には高天神城の戦いにも加わっています。
甲斐都留郡の支配
天正10年(1582年)、本能寺の変の後に旧武田領をめぐる天正壬午の乱が起こると、北条氏忠・氏勝が率いる1万の別働隊が家康の背後を突こうとしました。元忠は甥の三宅康貞・水野勝成らと2千の兵でこれを迎え撃ち、北条勢およそ300を討ち取って退けます(黒駒合戦)。
乱の後、元忠は家康から甲斐国都留郡を与えられ、はじめ岩殿城、のちに谷村城に入りました。都留郡は武田氏の時代にも小山田氏が独自に治めてきた土地で、北条氏との国境にもあたるため、重臣の元忠が置かれたとみられています。ただし郡の北部など小山田氏の支配が及んでいなかった地域は、徳川方についた甲斐の国衆が治めていました。元忠には印判状を出すことが許され、家康直属の奉行であっても元忠の了承なしに領内に関わることはできませんでした。
天正13年(1585年)、上杉景勝についた真田昌幸を討つため、元忠は大久保忠世・平岩親吉とともに7千の兵で上田城を攻めました。しかし大きな損害を受けて退けられています(第一次上田合戦)。
下総矢作城主
天正18年(1590年)の小田原征伐では岩槻城攻めに加わりました。戦後に家康が関東へ移ると、元忠は下総国矢作城4万石を与えられます。常陸の佐竹氏や東北の大名が南へ攻めてくるのに備える役目で、ここでも強い支配の権限を任されていたとみられます。後に鳥居家が東北の要地へ移されたのも、この位置づけを受け継いだものと考えられています。
矢作城は手狭だったため、元忠は岩ヶ崎に新しい城を本格的に築こうと普請奉行を決めて工事を始めましたが、城は完成しないまま廃城となりました。慶長4年(1599年)には矢作領84か村で検地を行い、石高をそれまでの2.5倍ほどに引き上げています。厳しい検地で、「矢作縄」とも呼ばれました。
伏見城の戦い
慶長5年(1600年)、家康は会津の上杉景勝を討つため諸将を率いて東へ向かい、伏見城を元忠に預けました。6月16日、伏見城に泊まった家康と元忠は酒を酌み交わします。家康が、残せる兵は3千ほどで苦労をかけると言うと、元忠は、自分と松平近正の二人がいれば十分で、大坂方の大軍に囲まれれば城に火をかけて討ち死にするしかないのだから、天下を取るために家臣は一人でも多く連れて行ってほしいと応じたといいます。家康はこれを喜び、夜が更けるまで酒を飲んでから別れたと伝わります。
家康の留守中、石田三成ら五奉行の側が家康に対して兵を挙げると、伏見城は最初の戦いの場となりました。元忠は松平家忠・松平近正・内藤家長らと、矢作などから集めた1,800人の兵で城に籠もります。元忠ははじめから生きて城を出るつもりはなく、三成が送ってきた降伏を勧める使者を斬って、亡骸を送り返しました。13日間の攻防の末、8月1日に元忠は鈴木重朝と一騎打ちをして討たれます。62歳でした。
元忠の首は京橋口にさらされましたが、親しくしていた京の商人・佐野四郎右衛門が引き取り、知恩院の中にある長源院に葬ったといわれます。墓は京都市左京区の百万遍知恩寺と、福島県いわき市平の長源寺にあります。
評価
元忠の忠節は、大久保忠教に「三河武士の鑑」と称されました。
家康は元忠の死を悲しみ、伏見城に残された血染めの畳を江戸城伏見櫓の上の階に置いて、登城する大名たちの頭上に掲げました。明治維新で江戸城が明け渡された後、この畳は新政府から壬生藩の鳥居家に下げ渡され、元忠を祭神とする壬生城内の精忠神社に「畳塚」を築いて埋められています。城の床板は「血天井」として、京都市の養源院をはじめ宝泉院・正伝寺・源光庵・瑞雲院、宇治市の興聖寺に今も伝わります。ただし、床板を移したことを裏付ける記録はなく、言い伝えがどこまで本当かははっきりしていません。
元忠の功は子孫も守りました。嫡男の忠政は、まず磐城平藩で10万石を与えられ、のちに山形藩へ移って22万石を領する大名となります。その後、元忠の孫・忠恒と玄孫・忠則がそれぞれ不行跡を咎められて改易されかけましたが、いずれも元忠の功が大きいとして、領地を減らして移すだけで家の断絶を免れました。





