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従四位下 和泉守 藤堂高虎藤堂高虎の家紋
とうどう たかとら · 1556–1630

藤堂高虎

とうどう たかとら
伊勢・伊賀(津藩32万3000石)伊予今治藩主・伊勢津藩初代藩主
— 誕生 —
1556年02月16日(弘治2年)
近江国犬上郡藤堂村(現・滋賀県犬上郡甲良町在士)
出典: 弘治2年1月6日。近江の土豪・藤堂虎高の家に、次男として生まれた
— 死没 —
1630年11月09日
江戸の藤堂藩邸 · 不明(晩年は目を患い、亡くなる年には視力を失っていた)
出典: 寛永7年10月5日。享年75
— 領域 —
伊勢・伊賀(津藩32万3000石)
従四位下 和泉守
羽柴秀長と藤堂高虎
書籍

羽柴秀長と藤堂高虎

黒田基樹

NHK出版(NHK出版新書 753)

— 家族 —

※ 母は藤堂忠高の娘とされる。名は「とら」で、生家は多賀良氏、のちに忠高の養女になったという。多賀良氏の娘で名を盛とする説もある

※1 亀姫(1608-1660)は初め蒲生忠郷の正室となり、のちに専修寺の堯朝に嫁いだ

※ 藤堂高吉(1579-1670)は丹羽長秀の三男。豊臣秀長の養子を経て、高虎の養子に入った

※ 子はいずれも資料の系譜の記載順に並べている

両親

父

藤堂虎高

母

とら

配偶者

正室

久芳院

一色義直の娘

継室

松寿院

長連久の娘

子

嫡男

藤堂高次

母: 松寿院

津藩2代藩主

次男

藤堂高重

母: 松寿院

佐兵衛佐

男子

(養子・養女)

藤堂高吉

実父: 丹羽長秀

名張藤堂家祖

女

亀姫

母: 松寿院

蒲生忠郷に嫁ぐ

女

藤堂忠季室

母: 松寿院

藤堂家臣に嫁ぐ

女

前野小助室

母: 松寿院

前野小助に嫁ぐ

女子

(養子・養女)

藤堂高刑室

実父: 織田信清

藤堂高刑の妻

女子

(養子・養女)

岡部宣勝正室

実父: 桑山元晴

岡部宣勝の妻

女子

(養子・養女)

小堀政一正室

実父: 藤堂良政

小堀政一の妻

女子

(養子・養女)

生駒正俊正室

生駒正俊の妻

関白秀吉の九州一統
書籍

関白秀吉の九州一統

中野等

吉川弘文館

— 年表 —

1556年02月
(1歳)
誕生

近江国犬上郡の藤堂村(いまの滋賀県甲良町在士)で、土豪・藤堂虎高の次男として生まれる。幼い頃の名は与吉。体は並外れて大きく、13歳で兄の高則の背丈を追い越していたと伝わる

1570年07月
(15歳)
姉川の戦いで初陣

浅井長政の家臣として、父・虎高とともに磯野員昌の隊で初めて戦場に立ち、手柄を立てた。続く宇佐山城の攻撃でも働き、長政から感状と脇差を与えられている

1572年01月
(17歳)
浅井家を去る

元亀3年、手柄をめぐって同僚の山下某と言い争いになり、斬り捨てて逃げた。このとき大きな紋の入った羽織を裏返しに着ていたため、追っ手が大紋の男を尋ね回っても、誰も見分けられなかったという

1573年01月
(18歳)
主家を転々とする

浅井氏が小谷城で滅びた後、浅井の旧臣で山本山城主の阿閉貞征に手厚く迎えられたが、言うことを聞かない同僚を殺して浪人になる。その後は小川城主・磯野員昌に80石で仕え、佐和山城に入った信長の甥・織田信澄にも仕えたが、禄が増えないため長く続かなかった(『諸家深秘録』)

1576年01月
(21歳)
羽柴秀長に仕える

天正4年、羽柴秀吉の弟・秀長に300石で召し抱えられ、通称を与右衛門と改めた(『公室年譜略』)。これ以降、秀長の家が絶えるまで仕えることになる

1577年10月
(22歳)
竹田城を奇襲する

天正5年10月、秀長が3,000の兵で但馬へ攻め入り、岩洲城と竹田城を落とした。高虎は居相政貞に道案内をさせて竹田城への奇襲を成功させ、1,000石の加増とともに足軽大将に取り立てられた

1580年01月
(25歳)
三木合戦

天正8年正月、鷹の尾城の攻撃で別所友之の家老・加古六郎右衛門と一時間ほど渡り合って討ち取り、その愛馬「加古黒」を手に入れた。同月17日に三木城が落ちると、この働きで2,000石を加増された

1581年01月
(26歳)
但馬の一揆を鎮め、妻を迎える

秀長の領国・但馬で起きた小代の一揆を鎮めにかかる。小代大膳ら92人を討とうとした戦いでは、敵の加勢に押されて股に傷を負い、退くほどの苦戦だった。土豪を討った功で3,000石を加えられ、鉄砲大将となる。この年、一色義直の娘(久芳院)と結婚した

1583年06月
(28歳)
賤ヶ岳の戦い

佐久間盛政の隊を鉄砲で撃って退かせ、勝利のきっかけをつくった。この大きな手柄で1,300石を加増される

1584年05月
(29歳)
小牧・長久手の戦い

峯城・松ヶ島城の攻撃で手柄を立てた

1585年03月
(30歳)
紀州征伐と最初の築城

天正13年の紀州攻めに加わり、10月に湯川直晴を降参させ、山本主膳を討ち取った。戦いの後、紀伊国の粉河で1万石を与えられ、猿岡山城と和歌山城の普請奉行を任される。高虎が城づくりに携わったのはこれが最初だった

1585年07月
(30歳)
四国攻めで1万石の大名に

同じ年の四国攻めでも働き、秀吉から5,400石を加えられて1万石の大名となった。秀吉が方広寺に大仏殿を建てる際には、熊野から材木を集める役を命じられている

1586年01月
(31歳)
家康の屋敷を独断で造り替える

天正14年、秀長は聚楽第の中に上洛する徳川家康の屋敷を建てるよう命じられ、工事の責任者に高虎を選んだ。高虎は図面のままでは守りが甘いとみて自分の判断で造りを変え、かかった費用も自腹でまかなった。後で家康にその訳を問われると、家康の身に何かあれば主君の落ち度になるからだと答え、家康はその気配りを喜んだという

1587年05月
(32歳)
根白坂の戦い

九州攻めで、島津軍に攻められた宮部継潤を500の兵で助け、2万石に加増された。秀吉の推薦で正五位下・佐渡守にも任じられている

1589年01月
(34歳)
赤木城を築く

天正17年、北山一揆を抑える拠点として、いまの三重県熊野市紀和町に赤木城を築いた。一揆の鎮圧では田平子峠で多くの農民が首をはねられ、その厳しさは「行たら戻らぬ赤木の城へ、身捨てどころは田平子じゃ」という土地の歌に残っている

1591年02月
(36歳)
秀長の死と秀保への奉公

天正19年に秀長が亡くなると、秀長の甥で養子の羽柴秀保に仕えた。翌年(文禄元年)の朝鮮出兵には、秀保の代わりとして海を渡っている

1595年01月
(40歳)
高野山から呼び戻され宇和島7万石に

文禄4年に秀保が若くして亡くなり、高虎は髪を剃って高野山に入った。しかし高虎の力量を惜しんだ秀吉が生駒親正を遣わして説き伏せ、俗世に戻らせる。5万石を加えられ、伊予国板島(いまの宇和島市)で7万石の大名となった

1597年01月
(42歳)
慶長の役と漆川梁海戦

慶長2年からの再出兵では水軍を率い、漆川梁海戦で元均の朝鮮水軍を壊滅させた。南原城の戦いと鳴梁海戦にも加わり、帰国後に大洲城1万石を得て8万石となる。この頃、板島丸串城を大きく造り直し、完成後に宇和島城と名を改めた

1598年01月
(43歳)
徳川家康に近づく

慶長3年8月に秀吉が亡くなる少し前から、家康との距離を縮めていった。もとから家康と親しく、豊臣家の家臣たちが武断派と文治派に割れると、家康の側についた

1600年10月
(45歳)
関ヶ原の戦い

会津攻めに加わり、続く河渡川の戦いにも出た。9月15日の本戦では朝のうちに大谷吉継の隊と戦い、のちに山中へ移って石田三成の軍とも戦ったとされる。近江にいた頃のつながりを使い、脇坂安治・小川祐忠・朽木元綱・赤座直保を東軍へ寝返らせる工作もした

1600年11月
(45歳)
今治20万石と層塔型天守

戦功により、宇和島の8万石はそのままに今治で12万石を加えられ、あわせて20万石となった。今治城を新たな居城として造り直し、宇和島城は従弟の藤堂良勝に預けた。今治城で初めて建てた層塔型天守は、四角い天守台の上に寸法をそろえた部材を積み上げる造りで、それまでの望楼型の弱点をなくし、工事の期間も縮めた。のちの天守の多くがこの形式にならっている

1608年01月
(53歳)
津へ移る(22万石)

慶長13年、伊賀上野の筒井定次が取り潰され、津の富田信高が伊予宇和島へ移されたのを受け、伊賀の10万石と伊勢安濃郡・一志郡の10万石、それに今治近くの越智郡2万石をあわせた22万石で津藩主となった。今治城には養子の高吉を城代として置いた

1614年01月
(59歳)
伊賀の「忍び衆」を召し抱える

慶長19年、伊賀の郷士10人を「忍び衆」として雇い入れ、上野の城下に屋敷を与えた(忍町)。参勤交代の道中の警固や、御殿と城内の見張り、武士・町人・百姓の様子を探ることが役目だったとされる

1614年12月
(59歳)
大坂冬の陣

徳川方で出陣した

1615年06月
(60歳)
大坂夏の陣・八尾の戦い

河内口の先鋒を自ら買って出て、八尾で長宗我部盛親の隊とぶつかった。激しい攻めを受け、一族の藤堂良勝・藤堂高刑を含む600人あまりが死傷している。戦後に5万石を加えられて27万石となり、閏6月には従四位下へ位が上がった。一方、この戦いで勝手に動いた家臣の渡辺了とは衝突し、袂を分かった

1616年01月
(61歳)
家康の最期を看取る

元和2年、家康は亡くなる10日前に高虎を枕元へ呼び、「世話になったが、来世ではそなたと会えぬのがつらい」と涙を流したという。高虎は、自分は日蓮宗だが家康と同じ天台宗に改めるので、あの世でもお仕えできると答えたと伝わる(『西嶋八兵衛留書』)。家康の死後は2代将軍・秀忠に仕えた

1617年01月
(62歳)
田丸5万石を加え32万3000石に

元和3年、伊勢度会郡の田丸城5万石を加えられ、弟・正高が下総国に持っていた3,000石も津藩に組み入れて、藩の石高は32万3000石となった。田丸の5万石は元和5年に紀州藩へ移され、代わりに大和国と山城国で5万石が与えられている

1620年01月
(65歳)
和子の入内で露払いを務める

元和6年、秀忠の五女・和子が天皇のもとへ嫁ぐ際、自分から願い出て行列の先導役を務めた。入内に反対する公家たちには、入内がかなわなければ自分が責めを負って御所で腹を切るとまで迫り、力ずくで話をまとめたという(およつ御寮人事件)

1627年01月
(72歳)
上野東照宮を建てる

寛永4年、自分の屋敷の敷地に上野東照宮を建てた。この頃、幕府の命令で会津藩・高松藩・熊本藩の後見役となり、家臣を送り込んでそれぞれの藩政を取り仕切っている

1630年11月
(75歳)
死去

寛永7年10月5日、江戸の藤堂藩邸で亡くなった。享年75。天海僧正が寒風の中に立つ松になぞらえて戒名(寒松院殿前伊州林道賢高山権大僧都)を付けたという。家督は長男の高次が継ぎ、養子の高吉はのちに伊賀名張へ移って分家(名張藤堂家)を立てた

※ 年齢は数え年で表記しています。数え年は生まれた年を1歳とし、元日を迎えるごとに加算する日本の伝統的な年齢の数え方です。

藤堂高虎伝 七人の主君に仕え乱世を生きた武将
書籍

藤堂高虎伝 七人の主君に仕え乱世を生きた武将

安田稔

文芸社

— 人物紹介 —

概要

藤堂高虎は、戦国時代の終わりから江戸時代の初めにかけて活躍した武将で、のちに大名となりました。はじめ伊予今治の藩主となり、その後伊勢津藩に移って初代藩主となります。津藩藤堂家の本家は、この高虎から始まります。

城づくりの名手として知られ、黒田孝高(官兵衛)・加藤清正とともに「築城三名人」と呼ばれます。数多くの城で縄張りを任され、層塔型と呼ばれる新しい形の天守を生み出しました。高い石垣を積む技術や、石垣の上に多聞櫓を連ねる造りも得意としています。豊臣家に仕えた外様の大名でありながら、徳川家康からは側近として扱われ、幕府の重臣に劣らない重みを持っていました。

近江の土豪の家に生まれた高虎は、浅井長政・阿閉貞征・磯野員昌・織田信澄と次々に主君を替えた末、21歳で羽柴秀長に仕えて力を発揮し始めます。秀長の死後は豊臣秀保、ついで秀吉に仕え、秀吉が亡くなると家康に近づいて、関ヶ原の戦いでは東軍につきました。生涯で7度主君を替えたことから、主家を渡り歩く「渡り奉公人」の代表格ともいわれます。

生涯

生まれと主家を渡り歩いた時代

高虎は弘治2年1月6日(1556年2月16日)、近江国犬上郡の藤堂村(いまの滋賀県甲良町在士)に、土豪・藤堂虎高の次男として生まれました。幼い頃の名は与吉です。母の「とら」は多賀良氏の生まれで、のちに藤堂忠高の養女となった人でした。

幼い頃から体が並外れて大きく、乳母一人の乳では足りずに何人もの女性から乳をもらったといいます。気性も荒く、3歳で餅を5つ6つ平らげるのは珍しくなく、けがをしても痛がらなかったと伝わります。13歳のときには兄の高則より背が高く、たくましい体つきでした。『公室年譜略』の永禄11年(1568年)の項には、父と兄が村の家に立てこもった賊を捕らえに向かった際、留守を言いつけられた高虎が後を追って裏口に潜み、逃げ出してきた賊を斬り倒して首を持ち帰ったという話が載っています。兄が戦死した後、若くして家を継ぎました。

最初に仕えたのは近江の戦国大名・浅井長政です。元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは、父・虎高とともに磯野員昌の隊に加わって初陣を果たし、手柄を立てました。続く宇佐山城の攻撃でも働き、長政から感状と脇差を与えられています。ところが元亀3年(1572年)、手柄をめぐる言い争いから同僚の山下某を斬り捨て、浅井家を去りました。

天正元年(1573年)、浅井氏が小谷城で織田信長に滅ぼされると、高虎は浅井の旧臣で山本山城主の阿閉貞征のもとで手厚く迎えられます。しかし言うことを聞かない同僚を殺してしまい、ふたたび浪人になりました。次には同じく浅井の旧臣だった小川城主・磯野員昌に80石で仕え、信長の甥・織田信澄が佐和山城に入るとその家臣になります(『諸家深秘録』)。ただ、ここでも禄が増えなかったため長くは続きませんでした。

羽柴秀長との出会い

天正4年(1576年)、高虎は羽柴秀吉の弟・秀長に300石で召し抱えられました。秀吉はこのとき信長の重臣です。高虎はこれを機に通称を与右衛門と改めています(『公室年譜略』)。

天正5年(1577年)10月、秀長は3,000の兵で但馬へ攻め入り、岩洲城と竹田城を落としました。高虎は居相政貞に道案内をさせて竹田城への奇襲を成功させ、1,000石を加えられて足軽大将となります。一方で、120騎を率いて尾代谷・古城山の一揆勢を攻めたときは激しく抵抗され、多くの死者を出しながら、最後は高虎がただ一騎で一揆勢と栃谷の兵を打ち破るという苦しい戦いだったと伝わります。

翌年からは播磨の三木合戦に加わりました。天正8年(1580年)正月の鷹の尾城攻めでは、別所友之の家老・加古六郎右衛門と一時間ほど戦い続けた末に討ち取り、その愛馬「加古黒」を自分のものにしています。同じ月の17日に三木城が落ちると、この働きで2,000石を加えられました。

天正9年(1581年)には、秀長の領国・但馬で起きた小代の一揆を鎮めにかかります。小代大膳ら92人を討とうと、栃尾加賀祐善らと示し合わせて攻めましたが、敵に加勢が入って押し返され、高虎は股に傷を負って退きました。苦しい戦いが続いたものの、但馬の土豪を討った功で3,000石を加えられ、鉄砲大将となっています。この年、一色義直の娘を妻に迎えました。

その後も秀長のもとで中国攻めや賤ヶ岳の戦いに加わります。賤ヶ岳では佐久間盛政の隊に鉄砲を浴びせて退かせ、勝利のきっかけをつくる大きな手柄を立てて、1,300石を加増されました。小牧・長久手の戦いでも、峯城と松ヶ島城の攻撃で働いています。

天正13年(1585年)の紀州攻めでは、10月に湯川直晴を降参させ、山本主膳を斬りました。戦後、紀伊国粉河で1万石を与えられ、猿岡山城と和歌山城の普請奉行を任されます。高虎が城づくりに携わったのは、これが最初でした。同じ年の四国攻めでも功を挙げ、秀吉から5,400石を加えられて1万石の大名となっています。秀吉が方広寺に大仏殿を建てたときには、熊野から材木を集める役を命じられました。

関白となった秀吉は天正14年(1586年)、上洛してくる徳川家康のために聚楽第の中へ屋敷を建てるよう秀長に命じ、秀長はその工事の責任者に高虎を選びます。高虎は渡された図面では警備に不安があると考え、自分の判断で造りを変え、費用も自腹でまかないました。のちに家康から図面と違う理由を尋ねられた高虎は、天下の武将である家康にもしものことがあれば主君・秀長の落ち度となり、秀吉の面目にも傷がつくので独断で改めた、お気に召さなければ手討ちにしてほしい、と答えたといいます。家康はこの気配りをありがたく思ったと伝わります。

天正15年(1587年)の九州攻めでは、根白坂の戦いで宮部継潤が島津軍に攻められると、その救援に駆けつけ、2万石に加増されました。この働きが認められ、秀吉の推薦で正五位下・佐渡守に任じられています。天正17年(1589年)には、北山一揆を抑える拠点として、いまの三重県熊野市紀和町に赤木城を築きました。一揆の鎮圧では田平子峠で多くの農民が首をはねられ、土地には「行たら戻らぬ赤木の城へ、身捨てどころは田平子じゃ」という歌が、その厳しさを伝えるものとして残っています。

大名としての歩み

天正19年(1591年)に秀長が亡くなると、高虎は秀長の甥で養子の羽柴秀保に仕え、翌年の朝鮮出兵(文禄の役)には秀保の代わりとして出陣しました。文禄4年(1595年)に秀保が若くして亡くなると、高虎は出家して高野山に入ります。けれども高虎の将としての力を惜しんだ秀吉は、生駒親正に説得させて呼び戻しました。高虎は俗世に戻り、5万石を加えられて伊予国板島(いまの宇和島市)で7万石の大名となります。

慶長2年(1597年)に始まる2度目の朝鮮出兵(慶長の役)では水軍を率い、漆川梁海戦で朝鮮の将・元均の水軍を壊滅させました。南原城の戦いや鳴梁海戦にも加わり、帰国後に大洲城1万石を得て8万石となっています。この頃に板島丸串城を大がかりに造り直し、完成後に宇和島城と名を改めました。朝鮮の官人・姜沆を捕らえて日本へ連れてきたのも、この時期のことです。

関ヶ原の戦い

慶長3年(1598年)8月に秀吉が亡くなる少し前から、高虎は家康との距離を縮めていきます。もともと家康とは親しい間柄で、豊臣家の家臣たちが武断派と文治派に割れると、家康の側につきました。

慶長5年(1600年)、家康の会津攻めに加わり、続く河渡川の戦いにも出ています。9月15日の関ヶ原の本戦では、朝のうちに大谷吉継の隊と戦い、その後は山中へ移って石田三成の軍とも戦ったとされます。留守にしていた伊予では、毛利輝元の働きかけで一揆が起きましたが、これも鎮めました。高虎は近江時代の人のつながりも生かし、脇坂安治・小川祐忠・朽木元綱・赤座直保に東軍へ寝返るよう働きかけています。戦いの後、脇坂安治は東軍との間を取り持ってくれた礼として、高虎に貞秀の太刀を贈りました。

こうした働きにより、家康は宇和島の8万石をそのまま認めたうえで、今治で12万石を加え、高虎の領地はあわせて20万石となりました。高虎は今治城を新たな居城と定めて造り直し、宇和島城には従弟の藤堂良勝を城代として置いています。

それまでの天守は、望楼型と呼ばれる形が主流でした。無理のある構造のため揺れや風に弱く、必ず屋根裏の階ができてしまうので使いにくいという難点がありました。高虎は今治城で、四角く整えた天守台の上に、寸法をそろえた部材を積み上げていく層塔型の天守を初めて建てます。構造の弱点がなくなったうえ、階ごとに工事を進められるので工期も短くて済みました。高虎が江戸城などの普請でもこの形式を採り入れたことから、層塔型は近世の天守の主流になっていきます。

家康の信頼を得て

その後の高虎は徳川家の重臣として働き、江戸城の改築などでも功を挙げました。慶長13年(1608年)、伊賀上野の筒井定次が取り潰され、津の富田信高が伊予宇和島へ移されると、高虎は伊賀の10万石と伊勢安濃郡・一志郡の10万石を与えられて津藩主となります。今治近くの越智郡2万石も飛び地として残り、石高はあわせて22万石でした。今治城には養子の藤堂高吉を城代として置いています。伊賀の領主が筒井氏から藤堂氏に替わったのは、豊臣家の旧臣でありながら家康の腹心でもある高虎を置くことで、大坂方に警戒されずに上方へ徳川の勢力を広げようとした家康の策だったと考えられています。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣には、徳川方として出陣しました。翌年の夏の陣でも徳川方につき、河内口の先鋒を自ら願い出て、八尾で豊臣方の長宗我部盛親の隊と戦います(八尾の戦い)。長宗我部軍の激しい攻めを受け、一族の藤堂良勝・藤堂高刑をはじめ600人あまりが死傷しました。戦後、この功により伊賀と伊勢の鈴鹿・安芸・三重・一志の各郡で5万石を加えられて27万石となり、閏6月には従四位下に位が上がります。ただ、この戦いで勝手な動きをした家臣の渡辺了とはぶつかり、袂を分かっています。

高虎はこの戦いで亡くなった者を弔うため、南禅寺の三門を建て直し、釈迦三尊像と十六羅漢像をつくって納めました。八尾の戦いの首実検は常光寺の居間の縁側で行われたため、その縁側の板はのちに廊下の天井へ張り替えられ、血天井としていまも残っています。

家康が亡くなるときには枕元に付き添うことを許され、家康の死後は2代将軍・秀忠に仕えました。

晩年と死

元和3年(1617年)、伊勢度会郡の田丸城5万石を新たに与えられ、弟の正高が下総国に持っていた3,000石も津藩に組み入れて、藩の石高は32万3000石になりました。田丸の5万石は、元和5年(1619年)に徳川頼宣が和歌山城へ移ってくると紀州藩のものとなり、藤堂家には代わりに大和国と山城国で5万石が与えられています。

元和6年(1620年)、秀忠の五女・和子が天皇のもとへ嫁ぐことになると、高虎は自ら願い出て行列の先導役を務めました。入内に反対する公家たちの前では、入内がかなわなければその責めを負って御所で腹を切ると言い切り、強引に話をまとめたといいます(およつ御寮人事件)。また寛永4年(1627年)には、自分の屋敷の敷地に上野東照宮を建てました。

領国の政治にも力を入れ、伊賀上野と津の城下町を整え、農地を切り開き、寺社を建て直して藩の仕組みを固めています。幕府の命令を受けて会津藩・高松藩・熊本藩の後見役も務め、家臣を送り込んでそれぞれの藩の政治を取り仕切りました。

元和9年(1623年)頃から目を患い、寛永7年(1630年)には視力を失います。同じ年の10月5日(1630年11月9日)、江戸の藤堂藩邸で亡くなりました。享年75です。戒名の寒松院殿前伊州林道賢高山権大僧都は天海僧正の命名で、寒風の中でも立ち続ける松になぞらえて寒松院の名を選んだといいます。家督は長男の高次が継ぎました。養子の高吉は高次の家臣となり、のちに伊賀名張へ移って分家の名張藤堂家を立てています。墓は東京・上野恩賜公園の中にある寒松院にあり、三重県津市の高山神社にも祀られています。

評価

高虎は身長が6尺2寸(およそ190センチ)もある大男だったといわれます。亡くなった後の体については、「体中疵だらけで、玉疵・鑓疵もあり、右の薬指・小指はちぎりて爪もないし、左の中指も一寸ほど短くなっていて、右足の親指の爪もなかった」という記録が残ります(『平尾留書』)。

政治に対する考え方は、秀長のまわりに集まった一流の文化人から影響を受けていました。その中心にいたのが千利休です。秀長の重臣たちは利休やその弟子たちと付き合う中で、茶の湯など室町時代から続く文化の教養を身につけ、それを政治の力にも生かしていきました。

家臣の扱い方にまつわる話も多く伝わります。よその家へ移りたいと願い出た家臣がいると、翌日に茶会を開いてその席で太刀を与え、移った先が合わなければ戻ってきてよいと伝えました。実際に戻ってきた者には、前と同じ禄を保証したといいます(『古今記聞』)。また、遊びで身を持ち崩した家臣5人のうち、遊女に金をつぎ込んだ者は追放し、博打で失った者は禄を減らして百日の謹慎としたうえで家に残しました。女に溺れる者は役に立たないが、博打を好む者には相手に勝とうとする気概がある、というのがその理由だったと伝わります。

秀忠が二条城を改修する際に設計図を求められた高虎は、あえて2枚の図を差し出しました。理由を問われると、案が一つだけでは将軍が自分の案に従った形になるが、二つ出せばどちらを選んだかは将軍が決めたことになる、と答えたといいます。改修は将軍自身が選んだ案によるもの、という形を整えるための気配りでした。

生涯で7度も主君を替えた高虎は、主家を渡り歩く「渡り奉公人」の典型とされ、一人の主君に一生を捧げるのが武士だとする江戸時代の考え方のもとで、長くよく思われてきませんでした。しかし近年では、渡り奉公人は自分の才覚に自信を持ち、主君とは互いに義務を負い合う対等に近い関係を結ぶ人々で、当時の京都や大坂には大勢いたのだから、高虎が特に変わっていたわけではないと指摘されています。高虎自身、21歳で秀長に仕えてからはその家が絶えるまで尽くし、秀吉にも生きている間はほかの家臣と同じように忠実に仕え、家康に近づいたのは秀吉の死後のことでした。秀長を弔う大光院を大徳寺へ移し、豊臣家が滅んだ後も法要を続けたことも知られており、この支えは高虎の後の藤堂家にも受け継がれています。

築城の名手 藤堂高虎
書籍

築城の名手 藤堂高虎

福井健二

戎光祥出版(図説日本の城郭シリーズ4)

信長の野望・新生 with パワーアップキット Complete Edition
ゲーム

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コーエーテクモゲームス

PS5

— 問答 —
問
藤堂高虎は主君を何度も替えていますが、不忠だったのですか?
答
高虎は生涯で7度主君を替えており、「渡り奉公人」の代表とされてきました。一人の主君に生涯仕えるのが武士の道だとする江戸時代の考え方のもとで、長く低く見られてきたのはそのためです。しかし藤田達生氏は、才覚を頼みに主君と対等に近い関係を結ぶ渡り奉公人は、当時の京都や大坂に大勢いたと指摘し、高虎だけが特別だったわけではないとしています。実際、高虎は21歳で秀長に仕えてからはその家が絶えるまで離れず、秀吉にも生前は忠実に仕え、家康に近づいたのは秀吉の死後のことでした。秀長を弔う大光院も豊臣家の滅亡後まで支え続け、その支援は子孫にも受け継がれています。
問
築城名人としての藤堂高虎の実績は?
答
黒田孝高(官兵衛)・加藤清正とともに「築城三名人」に数えられます。初めて城づくりに携わったのは天正13年(1585年)で、猿岡山城と和歌山城の普請奉行を務めました。高い石垣を積む技術と、石垣の上に多聞櫓を連ねる造りを得意とし、今治城では寸法をそろえた部材で組み上げる層塔型天守を初めて建てています。この天守は従来の望楼型より丈夫で工期も短く、江戸城などの普請に取り入れられて、近世の天守の主流になりました。慶長の役で築いた順天の城は、明・朝鮮軍に陸と海から攻められても寄せつけず、守りの固さを実戦で示しました。
問
外様大名の高虎がなぜ徳川家康に重用されたのですか?
答
二人の縁は秀長の時代にさかのぼります。高虎は秀長の使いとして家康と直に手紙をやりとりし、家康から高虎個人へ宛てた陣中見舞いも残っています。天正14年(1586年)に聚楽第の家康屋敷を独断で造り替え、家康の身の安全を優先したことも、信頼を得るきっかけになったといわれます。関ヶ原では脇坂安治らを東軍に引き込み、勝利に貢献しました。慶長13年(1608年)に伊賀・伊勢を任されたのも、豊臣家の旧臣でありながら家康の腹心である高虎を置けば、大坂方を刺激せずに上方へ徳川の力を広げられるという、家康のねらいによるものと藤田達生氏はみています。家康は臨終の場にも高虎を呼んでいます。
— 関連文献・史料 —
築城の名手 藤堂高虎福井健二研究書
江戸時代の設計者―異能の武将・藤堂高虎―藤田達生研究書
藤堂高虎論藤田達生研究書
高山公実録一次史料
公室年譜略喜田村矩常一次史料
武家事紀山鹿素行一次史料

最終更新日: 2026年08月30日