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徳川氏家臣・甲斐谷村城主・下総矢作城主 鳥居元忠鳥居元忠の家紋
とりい もとただ · 1539–1600

鳥居元忠

とりい もとただ
甲斐都留郡・下総矢作徳川氏家臣・甲斐谷村城主・下総矢作城主
— 誕生 —
1539年01月01日(天文8年)
三河国碧海郡渡郷(現在の愛知県岡崎市渡町)
出典: 天文8年。月日はわからない
— 死没 —
1600年09月08日(慶長5年)
山城国伏見城(現在の京都府京都市伏見区) · 戦死(伏見城の戦いで鈴木重朝に討たれる)
出典: 慶長5年8月1日。享年62
— 領域 —
甲斐都留郡・下総矢作
関ヶ原合戦を復元する
書籍

関ヶ原合戦を復元する

水野伍貴

星海社(星海社新書)

— 家族 —

※ 父・忠吉は岡崎奉行などを務めた松平氏の家臣。元忠は三男。兄の忠宗は渡の戦いで討たれ、もう一人の兄・本翁意伯は僧になった

※ 甥に三宅康貞・水野勝成がいる

両親

父

鳥居忠吉

母

不明

配偶者

正室

松平家広の娘

形原松平家の出

側室

馬場信春の娘

子

次男

鳥居忠政

母: 松平家広の娘

山形藩22万石

三男

鳥居成次

母: 松平家広の娘

鳥居康忠

母: 松平家広の娘

鳥居忠勝

母: 馬場信春の娘

鳥居忠頼

母: 馬場信春の娘

鳥居忠昌

母: 馬場信春の娘

娘

母: 松平家広の娘

土岐定政に嫁ぐ

真室御前

母: 馬場信春の娘

戸沢政盛に嫁ぐ

論争 関ヶ原合戦
書籍

論争 関ヶ原合戦

笠谷和比古

新潮社(新潮選書)

— 年表 —

1539年01月
(1歳)
三河国渡郷に生まれる

松平氏の家臣・鳥居忠吉の三男として、三河国碧海郡渡郷(現在の愛知県岡崎市渡町)で生まれる

1547年01月
(9歳)
長兄・忠宗の戦死

長兄の忠宗が渡の戦いで討たれる

1551年01月
(13歳)
竹千代(家康)に仕える

13歳で、今川氏のもとで人質となっていた松平竹千代(のちの徳川家康)のそば近くに仕え始める

1555年01月
(17歳)
元服したとする説

竹千代が元服して今川義元から「元」の字を受け、松平元信と名乗った年。3歳年上の元忠も、このとき一緒に元服し、同じく「元」の字を受けたとする見方がある(柴裕之の推測)

1558年01月
(20歳)
寺部城攻め

寺部城への攻撃に加わる

1570年07月
(32歳)
姉川の戦い

元亀元年6月、徳川軍の一員として姉川の戦いに加わる

1572年01月
(34歳)
家督を継ぐ

父・忠吉が亡くなり、鳥居家を継ぐ。長兄は戦死し、次兄は出家していたため、三男の元忠が跡取りとなった

1573年01月
(34歳)
三方ヶ原の戦い

元亀3年12月、武田信玄の軍と戦った三方ヶ原の戦いに加わる

1575年01月
(37歳)
諏訪原城で足を撃たれる

諏訪原城の戦いで物見として敵陣へ忍び込んだが、見つかって足を撃たれる。この傷のため、その後は歩くのに少し不自由が残った

1575年06月
(37歳)
長篠の戦い

天正3年5月、石川数正とともに馬防柵を設ける役を受け持つ

1581年01月
(43歳)
高天神城の戦い

天正9年の高天神城攻めに加わる

1582年01月
(44歳)
黒駒合戦

天正壬午の乱で、家康の後ろを突こうとした北条氏忠・氏勝の別働隊1万を、甥の三宅康貞・水野勝成らと2千の兵で迎え撃って退け、北条勢およそ300を討ち取る

1582年01月
(44歳)
甲斐都留郡を与えられる

乱の後、家康から甲斐国都留郡を与えられる。はじめ岩殿城に入り、のちに谷村城主となる。印判状を出すことも認められ、家康の奉行でも元忠の了承なしには領内に口を出せないほど、広い裁量を任された

1585年09月
(47歳)
第一次上田合戦

上杉景勝についた真田昌幸を討つため、大久保忠世・平岩親吉とともに7千の兵で上田城を攻める。しかし大きな損害を出して退けられる

1590年05月
(52歳)
小田原征伐・下総矢作城主に

小田原征伐では岩槻城攻めに加わる。家康の関東移封にともない、下総国矢作城4万石を与えられる。城が手狭なため岩ヶ崎に新しい城を築き始めたが、完成しないまま廃城となった

1599年01月
(61歳)
矢作領の検地

矢作領84か村で検地を行う。それまでのおよそ2.5倍に石高を引き上げる厳しいもので、「矢作縄」とも呼ばれた

1600年07月
(62歳)
伏見城を預かる

会津の上杉景勝を討つために東へ向かう家康から、伏見城の留守を任される。出陣前夜、二人は伏見城で夜更けまで酒を酌み交わしたと伝わる

1600年08月
(62歳)
伏見城に籠もる

石田三成らが家康に対して兵を挙げる。元忠は松平家忠・松平近正・内藤家長らとともに伏見城に籠もり、降伏を勧めに来た使者を斬って亡骸を送り返した

1600年08月
(62歳)
西軍の攻撃が始まる

伏見城の戦いが本格的に始まる。はじめは城兵が打って出て、前田玄以・長束正家らの屋敷を焼き払った

1600年08月
(62歳)
宇喜多秀家の軍が攻め手に加わる

西軍の攻め手に宇喜多秀家の軍が加わり、城への圧力が強まる

1600年09月
(62歳)
伏見城で討ち死に

13日間の攻防の末に城が落ち、鈴木重朝と一騎打ちの末に討たれる。享年62。首は京橋口にさらされたが、親しくしていた京の商人・佐野四郎右衛門が引き取り、知恩院の長源院に葬ったといわれる

※ 年齢は数え年で表記しています。数え年は生まれた年を1歳とし、元日を迎えるごとに加算する日本の伝統的な年齢の数え方です。

関ヶ原への道 豊臣秀吉死後の権力闘争
書籍

関ヶ原への道 豊臣秀吉死後の権力闘争

水野伍貴

東京堂出版

— 人物紹介 —

概要

鳥居元忠は、徳川家康が今川氏の人質だった少年時代からそばに仕えた、三河以来の家臣です。父の鳥居忠吉も松平氏に仕えて岡崎奉行などを務めた人物で、元忠は三男ながら兄たちに代わって家を継ぎました。姉川・三方ヶ原・長篠など家康の主な戦いに加わり、天正壬午の乱では黒駒合戦で北条軍の別働隊を退けています。

その功で甲斐国都留郡を任され、家康の関東移封の後は下総国矢作城4万石の城主となりました。どちらの領地でも、家康から広い裁量を与えられていたとみられています。

慶長5年(1600年)、家康が会津へ向かった留守に石田三成らが挙兵すると、元忠はわずかな兵で伏見城に籠もり、13日間戦った末に討ち死にしました。この最期は「三河武士の鑑」と称えられ、伏見城の血に染まった床板は「血天井」として今も京都の寺々に残っています。

生涯

出生と家康への近侍

鳥居元忠は天文8年(1539年)、三河国碧海郡渡郷(現在の愛知県岡崎市渡町)に生まれました。父は松平氏に仕えた鳥居忠吉で、元忠はその三男です。上の兄のうち、忠宗は天文16年(1547年)に地元の渡で起きた戦いで命を落とし、本翁意伯は僧になっています。

天文20年(1551年)、13歳の元忠は、今川氏のもとで人質となっていた松平竹千代(のちの徳川家康)のそば近くに仕え始めました。竹千代は弘治元年(1555年)に元服し、今川義元から「元」の字を受けて松平元信と名乗ります。歴史学者の柴裕之は、3歳年上の元忠もこのとき一緒に元服し、同じく「元」の字を受けたのではないかと推測しています。

三河・遠江での戦い

家康が三河を平定した後、元忠は家康の旗本の先手役となり、旗本の部隊を率いて戦いました。加わった戦いには、永禄元年(1558年)の寺部城攻めのほか、姉川の戦い(元亀元年・1570年6月)や三方ヶ原の戦い(元亀3年・1572年12月)があります。元亀3年に父・忠吉が亡くなると、鳥居家の家督を継ぎました。

諏訪原城の戦いでは、物見として敵陣に忍び込んだところを見つかり、足を撃たれます。この傷のため、その後は歩くのにいくらか不自由が残りました。それでも天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは石川数正とともに馬防柵を設ける役を受け持ち、天正9年(1581年)には高天神城の戦いにも加わっています。

甲斐都留郡の支配

天正10年(1582年)、本能寺の変の後に旧武田領をめぐる天正壬午の乱が起こると、北条氏忠・氏勝が率いる1万の別働隊が家康の背後を突こうとしました。元忠は甥の三宅康貞・水野勝成らと2千の兵でこれを迎え撃ち、北条勢およそ300を討ち取って退けます(黒駒合戦)。

乱の後、元忠は家康から甲斐国都留郡を与えられ、はじめ岩殿城、のちに谷村城に入りました。都留郡は武田氏の時代にも小山田氏が独自に治めてきた土地で、北条氏との国境にもあたるため、重臣の元忠が置かれたとみられています。ただし郡の北部など小山田氏の支配が及んでいなかった地域は、徳川方についた甲斐の国衆が治めていました。元忠には印判状を出すことが許され、家康直属の奉行であっても元忠の了承なしに領内に関わることはできませんでした。

天正13年(1585年)、上杉景勝についた真田昌幸を討つため、元忠は大久保忠世・平岩親吉とともに7千の兵で上田城を攻めました。しかし大きな損害を受けて退けられています(第一次上田合戦)。

下総矢作城主

天正18年(1590年)の小田原征伐では岩槻城攻めに加わりました。戦後に家康が関東へ移ると、元忠は下総国矢作城4万石を与えられます。常陸の佐竹氏や東北の大名が南へ攻めてくるのに備える役目で、ここでも強い支配の権限を任されていたとみられます。後に鳥居家が東北の要地へ移されたのも、この位置づけを受け継いだものと考えられています。

矢作城は手狭だったため、元忠は岩ヶ崎に新しい城を本格的に築こうと普請奉行を決めて工事を始めましたが、城は完成しないまま廃城となりました。慶長4年(1599年)には矢作領84か村で検地を行い、石高をそれまでの2.5倍ほどに引き上げています。厳しい検地で、「矢作縄」とも呼ばれました。

伏見城の戦い

慶長5年(1600年)、家康は会津の上杉景勝を討つため諸将を率いて東へ向かい、伏見城を元忠に預けました。6月16日、伏見城に泊まった家康と元忠は酒を酌み交わします。家康が、残せる兵は3千ほどで苦労をかけると言うと、元忠は、自分と松平近正の二人がいれば十分で、大坂方の大軍に囲まれれば城に火をかけて討ち死にするしかないのだから、天下を取るために家臣は一人でも多く連れて行ってほしいと応じたといいます。家康はこれを喜び、夜が更けるまで酒を飲んでから別れたと伝わります。

家康の留守中、石田三成ら五奉行の側が家康に対して兵を挙げると、伏見城は最初の戦いの場となりました。元忠は松平家忠・松平近正・内藤家長らと、矢作などから集めた1,800人の兵で城に籠もります。元忠ははじめから生きて城を出るつもりはなく、三成が送ってきた降伏を勧める使者を斬って、亡骸を送り返しました。13日間の攻防の末、8月1日に元忠は鈴木重朝と一騎打ちをして討たれます。62歳でした。

元忠の首は京橋口にさらされましたが、親しくしていた京の商人・佐野四郎右衛門が引き取り、知恩院の中にある長源院に葬ったといわれます。墓は京都市左京区の百万遍知恩寺と、福島県いわき市平の長源寺にあります。

評価

元忠の忠節は、大久保忠教に「三河武士の鑑」と称されました。

家康は元忠の死を悲しみ、伏見城に残された血染めの畳を江戸城伏見櫓の上の階に置いて、登城する大名たちの頭上に掲げました。明治維新で江戸城が明け渡された後、この畳は新政府から壬生藩の鳥居家に下げ渡され、元忠を祭神とする壬生城内の精忠神社に「畳塚」を築いて埋められています。城の床板は「血天井」として、京都市の養源院をはじめ宝泉院・正伝寺・源光庵・瑞雲院、宇治市の興聖寺に今も伝わります。ただし、床板を移したことを裏付ける記録はなく、言い伝えがどこまで本当かははっきりしていません。

元忠の功は子孫も守りました。嫡男の忠政は、まず磐城平藩で10万石を与えられ、のちに山形藩へ移って22万石を領する大名となります。その後、元忠の孫・忠恒と玄孫・忠則がそれぞれ不行跡を咎められて改易されかけましたが、いずれも元忠の功が大きいとして、領地を減らして移すだけで家の断絶を免れました。

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ファミ通書籍編集部

KADOKAWA

— 問答 —
問
鳥居元忠はなぜ少ない兵で伏見城に残ったのですか?
答
慶長5年(1600年)6月、会津の上杉景勝を討ちに行く徳川家康は、伏見城に元忠を残すことにしました。出陣前夜、家康が残せる兵は3千ほどしかなく苦労をかけると詫びると、元忠は、自分と松平近正がいれば足りる、大坂方の大軍に囲まれたら城に火をかけて死ぬまでなので、兵は一人でも多く連れて行って天下取りに使ってほしい、と答えたと伝わります。実際に石田三成らが挙兵すると、元忠ははじめから死ぬ覚悟で城に籠もり、降伏を勧める使者を斬って戦い抜きました。
問
伏見城の「血天井」とは何ですか?
答
伏見城で討ち死にした元忠らの血に染まった床板を、のちに寺の天井に張ったものです。京都市の養源院のほか、宝泉院・正伝寺・源光庵・瑞雲院、宇治市の興聖寺に今も残っています(ただし床板を移したことを裏付ける記録はなく、言い伝えの域を出ません)。また血染めの畳は、元忠の忠義を称えた家康が江戸城伏見櫓の上の階に置き、登城する大名の頭上に掲げさせました。明治になって畳は鳥居家(壬生藩)に戻され、元忠を祀る壬生の精忠神社の「畳塚」に納められています。
問
元忠を討った鈴木重朝と、元忠の鎧はその後どうなりましたか?
答
元忠を討ち取ったのは、西軍の鉄砲頭・鈴木重朝(孫三郎)です。重朝は元忠の鎧「紺糸素懸縅二枚胴具足」を、形見として元忠の子・忠政に送ろうと申し出ましたが、忠政は心を打たれつつも、誉れとともに重朝の子孫に伝えてほしいと断りました。鎧はその後も鈴木家に代々伝わり、2004年に大阪城天守閣へ寄贈されています(兜は幕末に作り直されたものです)。
— 関連文献・史料 —
寛政重修諸家譜二次史料

最終更新日: 2026年10月04日