— 人物紹介 —
概要
藤堂高虎は、戦国時代の終わりから江戸時代の初めにかけて活躍した武将で、のちに大名となりました。はじめ伊予今治の藩主となり、その後伊勢津藩に移って初代藩主となります。津藩藤堂家の本家は、この高虎から始まります。
城づくりの名手として知られ、黒田孝高(官兵衛)・加藤清正とともに「築城三名人」と呼ばれます。数多くの城で縄張りを任され、層塔型と呼ばれる新しい形の天守を生み出しました。高い石垣を積む技術や、石垣の上に多聞櫓を連ねる造りも得意としています。豊臣家に仕えた外様の大名でありながら、徳川家康からは側近として扱われ、幕府の重臣に劣らない重みを持っていました。
近江の土豪の家に生まれた高虎は、浅井長政・阿閉貞征・磯野員昌・織田信澄と次々に主君を替えた末、21歳で羽柴秀長に仕えて力を発揮し始めます。秀長の死後は豊臣秀保、ついで秀吉に仕え、秀吉が亡くなると家康に近づいて、関ヶ原の戦いでは東軍につきました。生涯で7度主君を替えたことから、主家を渡り歩く「渡り奉公人」の代表格ともいわれます。
生涯
生まれと主家を渡り歩いた時代
高虎は弘治2年1月6日(1556年2月16日)、近江国犬上郡の藤堂村(いまの滋賀県甲良町在士)に、土豪・藤堂虎高の次男として生まれました。幼い頃の名は与吉です。母の「とら」は多賀良氏の生まれで、のちに藤堂忠高の養女となった人でした。
幼い頃から体が並外れて大きく、乳母一人の乳では足りずに何人もの女性から乳をもらったといいます。気性も荒く、3歳で餅を5つ6つ平らげるのは珍しくなく、けがをしても痛がらなかったと伝わります。13歳のときには兄の高則より背が高く、たくましい体つきでした。『公室年譜略』の永禄11年(1568年)の項には、父と兄が村の家に立てこもった賊を捕らえに向かった際、留守を言いつけられた高虎が後を追って裏口に潜み、逃げ出してきた賊を斬り倒して首を持ち帰ったという話が載っています。兄が戦死した後、若くして家を継ぎました。
最初に仕えたのは近江の戦国大名・浅井長政です。元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは、父・虎高とともに磯野員昌の隊に加わって初陣を果たし、手柄を立てました。続く宇佐山城の攻撃でも働き、長政から感状と脇差を与えられています。ところが元亀3年(1572年)、手柄をめぐる言い争いから同僚の山下某を斬り捨て、浅井家を去りました。
天正元年(1573年)、浅井氏が小谷城で織田信長に滅ぼされると、高虎は浅井の旧臣で山本山城主の阿閉貞征のもとで手厚く迎えられます。しかし言うことを聞かない同僚を殺してしまい、ふたたび浪人になりました。次には同じく浅井の旧臣だった小川城主・磯野員昌に80石で仕え、信長の甥・織田信澄が佐和山城に入るとその家臣になります(『諸家深秘録』)。ただ、ここでも禄が増えなかったため長くは続きませんでした。
羽柴秀長との出会い
天正4年(1576年)、高虎は羽柴秀吉の弟・秀長に300石で召し抱えられました。秀吉はこのとき信長の重臣です。高虎はこれを機に通称を与右衛門と改めています(『公室年譜略』)。
天正5年(1577年)10月、秀長は3,000の兵で但馬へ攻め入り、岩洲城と竹田城を落としました。高虎は居相政貞に道案内をさせて竹田城への奇襲を成功させ、1,000石を加えられて足軽大将となります。一方で、120騎を率いて尾代谷・古城山の一揆勢を攻めたときは激しく抵抗され、多くの死者を出しながら、最後は高虎がただ一騎で一揆勢と栃谷の兵を打ち破るという苦しい戦いだったと伝わります。
翌年からは播磨の三木合戦に加わりました。天正8年(1580年)正月の鷹の尾城攻めでは、別所友之の家老・加古六郎右衛門と一時間ほど戦い続けた末に討ち取り、その愛馬「加古黒」を自分のものにしています。同じ月の17日に三木城が落ちると、この働きで2,000石を加えられました。
天正9年(1581年)には、秀長の領国・但馬で起きた小代の一揆を鎮めにかかります。小代大膳ら92人を討とうと、栃尾加賀祐善らと示し合わせて攻めましたが、敵に加勢が入って押し返され、高虎は股に傷を負って退きました。苦しい戦いが続いたものの、但馬の土豪を討った功で3,000石を加えられ、鉄砲大将となっています。この年、一色義直の娘を妻に迎えました。
その後も秀長のもとで中国攻めや賤ヶ岳の戦いに加わります。賤ヶ岳では佐久間盛政の隊に鉄砲を浴びせて退かせ、勝利のきっかけをつくる大きな手柄を立てて、1,300石を加増されました。小牧・長久手の戦いでも、峯城と松ヶ島城の攻撃で働いています。
天正13年(1585年)の紀州攻めでは、10月に湯川直晴を降参させ、山本主膳を斬りました。戦後、紀伊国粉河で1万石を与えられ、猿岡山城と和歌山城の普請奉行を任されます。高虎が城づくりに携わったのは、これが最初でした。同じ年の四国攻めでも功を挙げ、秀吉から5,400石を加えられて1万石の大名となっています。秀吉が方広寺に大仏殿を建てたときには、熊野から材木を集める役を命じられました。
関白となった秀吉は天正14年(1586年)、上洛してくる徳川家康のために聚楽第の中へ屋敷を建てるよう秀長に命じ、秀長はその工事の責任者に高虎を選びます。高虎は渡された図面では警備に不安があると考え、自分の判断で造りを変え、費用も自腹でまかないました。のちに家康から図面と違う理由を尋ねられた高虎は、天下の武将である家康にもしものことがあれば主君・秀長の落ち度となり、秀吉の面目にも傷がつくので独断で改めた、お気に召さなければ手討ちにしてほしい、と答えたといいます。家康はこの気配りをありがたく思ったと伝わります。
天正15年(1587年)の九州攻めでは、根白坂の戦いで宮部継潤が島津軍に攻められると、その救援に駆けつけ、2万石に加増されました。この働きが認められ、秀吉の推薦で正五位下・佐渡守に任じられています。天正17年(1589年)には、北山一揆を抑える拠点として、いまの三重県熊野市紀和町に赤木城を築きました。一揆の鎮圧では田平子峠で多くの農民が首をはねられ、土地には「行たら戻らぬ赤木の城へ、身捨てどころは田平子じゃ」という歌が、その厳しさを伝えるものとして残っています。
大名としての歩み
天正19年(1591年)に秀長が亡くなると、高虎は秀長の甥で養子の羽柴秀保に仕え、翌年の朝鮮出兵(文禄の役)には秀保の代わりとして出陣しました。文禄4年(1595年)に秀保が若くして亡くなると、高虎は出家して高野山に入ります。けれども高虎の将としての力を惜しんだ秀吉は、生駒親正に説得させて呼び戻しました。高虎は俗世に戻り、5万石を加えられて伊予国板島(いまの宇和島市)で7万石の大名となります。
慶長2年(1597年)に始まる2度目の朝鮮出兵(慶長の役)では水軍を率い、漆川梁海戦で朝鮮の将・元均の水軍を壊滅させました。南原城の戦いや鳴梁海戦にも加わり、帰国後に大洲城1万石を得て8万石となっています。この頃に板島丸串城を大がかりに造り直し、完成後に宇和島城と名を改めました。朝鮮の官人・姜沆を捕らえて日本へ連れてきたのも、この時期のことです。
関ヶ原の戦い
慶長3年(1598年)8月に秀吉が亡くなる少し前から、高虎は家康との距離を縮めていきます。もともと家康とは親しい間柄で、豊臣家の家臣たちが武断派と文治派に割れると、家康の側につきました。
慶長5年(1600年)、家康の会津攻めに加わり、続く河渡川の戦いにも出ています。9月15日の関ヶ原の本戦では、朝のうちに大谷吉継の隊と戦い、その後は山中へ移って石田三成の軍とも戦ったとされます。留守にしていた伊予では、毛利輝元の働きかけで一揆が起きましたが、これも鎮めました。高虎は近江時代の人のつながりも生かし、脇坂安治・小川祐忠・朽木元綱・赤座直保に東軍へ寝返るよう働きかけています。戦いの後、脇坂安治は東軍との間を取り持ってくれた礼として、高虎に貞秀の太刀を贈りました。
こうした働きにより、家康は宇和島の8万石をそのまま認めたうえで、今治で12万石を加え、高虎の領地はあわせて20万石となりました。高虎は今治城を新たな居城と定めて造り直し、宇和島城には従弟の藤堂良勝を城代として置いています。
それまでの天守は、望楼型と呼ばれる形が主流でした。無理のある構造のため揺れや風に弱く、必ず屋根裏の階ができてしまうので使いにくいという難点がありました。高虎は今治城で、四角く整えた天守台の上に、寸法をそろえた部材を積み上げていく層塔型の天守を初めて建てます。構造の弱点がなくなったうえ、階ごとに工事を進められるので工期も短くて済みました。高虎が江戸城などの普請でもこの形式を採り入れたことから、層塔型は近世の天守の主流になっていきます。
家康の信頼を得て
その後の高虎は徳川家の重臣として働き、江戸城の改築などでも功を挙げました。慶長13年(1608年)、伊賀上野の筒井定次が取り潰され、津の富田信高が伊予宇和島へ移されると、高虎は伊賀の10万石と伊勢安濃郡・一志郡の10万石を与えられて津藩主となります。今治近くの越智郡2万石も飛び地として残り、石高はあわせて22万石でした。今治城には養子の藤堂高吉を城代として置いています。伊賀の領主が筒井氏から藤堂氏に替わったのは、豊臣家の旧臣でありながら家康の腹心でもある高虎を置くことで、大坂方に警戒されずに上方へ徳川の勢力を広げようとした家康の策だったと考えられています。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣には、徳川方として出陣しました。翌年の夏の陣でも徳川方につき、河内口の先鋒を自ら願い出て、八尾で豊臣方の長宗我部盛親の隊と戦います(八尾の戦い)。長宗我部軍の激しい攻めを受け、一族の藤堂良勝・藤堂高刑をはじめ600人あまりが死傷しました。戦後、この功により伊賀と伊勢の鈴鹿・安芸・三重・一志の各郡で5万石を加えられて27万石となり、閏6月には従四位下に位が上がります。ただ、この戦いで勝手な動きをした家臣の渡辺了とはぶつかり、袂を分かっています。
高虎はこの戦いで亡くなった者を弔うため、南禅寺の三門を建て直し、釈迦三尊像と十六羅漢像をつくって納めました。八尾の戦いの首実検は常光寺の居間の縁側で行われたため、その縁側の板はのちに廊下の天井へ張り替えられ、血天井としていまも残っています。
家康が亡くなるときには枕元に付き添うことを許され、家康の死後は2代将軍・秀忠に仕えました。
晩年と死
元和3年(1617年)、伊勢度会郡の田丸城5万石を新たに与えられ、弟の正高が下総国に持っていた3,000石も津藩に組み入れて、藩の石高は32万3000石になりました。田丸の5万石は、元和5年(1619年)に徳川頼宣が和歌山城へ移ってくると紀州藩のものとなり、藤堂家には代わりに大和国と山城国で5万石が与えられています。
元和6年(1620年)、秀忠の五女・和子が天皇のもとへ嫁ぐことになると、高虎は自ら願い出て行列の先導役を務めました。入内に反対する公家たちの前では、入内がかなわなければその責めを負って御所で腹を切ると言い切り、強引に話をまとめたといいます(およつ御寮人事件)。また寛永4年(1627年)には、自分の屋敷の敷地に上野東照宮を建てました。
領国の政治にも力を入れ、伊賀上野と津の城下町を整え、農地を切り開き、寺社を建て直して藩の仕組みを固めています。幕府の命令を受けて会津藩・高松藩・熊本藩の後見役も務め、家臣を送り込んでそれぞれの藩の政治を取り仕切りました。
元和9年(1623年)頃から目を患い、寛永7年(1630年)には視力を失います。同じ年の10月5日(1630年11月9日)、江戸の藤堂藩邸で亡くなりました。享年75です。戒名の寒松院殿前伊州林道賢高山権大僧都は天海僧正の命名で、寒風の中でも立ち続ける松になぞらえて寒松院の名を選んだといいます。家督は長男の高次が継ぎました。養子の高吉は高次の家臣となり、のちに伊賀名張へ移って分家の名張藤堂家を立てています。墓は東京・上野恩賜公園の中にある寒松院にあり、三重県津市の高山神社にも祀られています。
評価
高虎は身長が6尺2寸(およそ190センチ)もある大男だったといわれます。亡くなった後の体については、「体中疵だらけで、玉疵・鑓疵もあり、右の薬指・小指はちぎりて爪もないし、左の中指も一寸ほど短くなっていて、右足の親指の爪もなかった」という記録が残ります(『平尾留書』)。
政治に対する考え方は、秀長のまわりに集まった一流の文化人から影響を受けていました。その中心にいたのが千利休です。秀長の重臣たちは利休やその弟子たちと付き合う中で、茶の湯など室町時代から続く文化の教養を身につけ、それを政治の力にも生かしていきました。
家臣の扱い方にまつわる話も多く伝わります。よその家へ移りたいと願い出た家臣がいると、翌日に茶会を開いてその席で太刀を与え、移った先が合わなければ戻ってきてよいと伝えました。実際に戻ってきた者には、前と同じ禄を保証したといいます(『古今記聞』)。また、遊びで身を持ち崩した家臣5人のうち、遊女に金をつぎ込んだ者は追放し、博打で失った者は禄を減らして百日の謹慎としたうえで家に残しました。女に溺れる者は役に立たないが、博打を好む者には相手に勝とうとする気概がある、というのがその理由だったと伝わります。
秀忠が二条城を改修する際に設計図を求められた高虎は、あえて2枚の図を差し出しました。理由を問われると、案が一つだけでは将軍が自分の案に従った形になるが、二つ出せばどちらを選んだかは将軍が決めたことになる、と答えたといいます。改修は将軍自身が選んだ案によるもの、という形を整えるための気配りでした。
生涯で7度も主君を替えた高虎は、主家を渡り歩く「渡り奉公人」の典型とされ、一人の主君に一生を捧げるのが武士だとする江戸時代の考え方のもとで、長くよく思われてきませんでした。しかし近年では、渡り奉公人は自分の才覚に自信を持ち、主君とは互いに義務を負い合う対等に近い関係を結ぶ人々で、当時の京都や大坂には大勢いたのだから、高虎が特に変わっていたわけではないと指摘されています。高虎自身、21歳で秀長に仕えてからはその家が絶えるまで尽くし、秀吉にも生きている間はほかの家臣と同じように忠実に仕え、家康に近づいたのは秀吉の死後のことでした。秀長を弔う大光院を大徳寺へ移し、豊臣家が滅んだ後も法要を続けたことも知られており、この支えは高虎の後の藤堂家にも受け継がれています。





