— 人物紹介 —
概要
直江兼続は、越後上田庄に生まれ、戦国時代の終わりから江戸時代の初めにかけて上杉景勝の家老を務めた武将である。直江家を継いでからのおよそ40年間、上杉家の内政と外交を一人で取り仕切り、景勝との関係は二人で家を治める二頭政治とも言われるほど固いものだった。
関ヶ原の戦いのときには総大将として最上領へ攻め込み、長谷堂城を2週間ほど攻め続けた。西軍が敗れたと知って兵を退く際には自ら殿を引き受け、敵の最上義光や徳川家康にもほめられるほど鮮やかに引き揚げている。
米沢に減封された後は、治水や新田開発、産業の振興に力を尽くし、表向き30万石の領地を、実際には51万石あるとまで言われるほどに開いた。米沢藩の政治の土台を作ったのは兼続である。書物を集めた文化人としても名高く、国宝となっている宋版の『史記』『漢書』を持ち、のちの興譲館にあたる禅林文庫を開いた。
生涯
出生・幼少期
永禄3年(1560年)、越後上田庄の坂戸城下で、樋口兼豊の長男として生まれた。父の身分ははっきりしない。米沢藩の記録は長尾政景の家老だったと記すが、『藩翰譜』は薪や炭を扱う役人だったとしている。母についても、直江景綱の妹とする説や、信州の豪族・泉重歳の娘とする説などがあって定まらない。
永禄7年(1564年)、上田長尾氏の当主・政景が亡くなり、その子の景勝が上杉謙信の養子として春日山城に入った。兼続もこのとき景勝に従って城に入り、小姓・近習としてそば近くに仕えたとされる。
直江家相続と執政
天正6年(1578年)に始まった御館の乱が収まると、その後始末が進む天正8年(1580年)から、兼続が景勝への取り次ぎなどを担っていたことが史料で確かめられるようになる。天正9年(1581年)には、景勝の命で直江信綱の妻だった船の婿となり、跡継ぎのいなくなった直江家を継いで越後の与板城主となった。この頃から、上杉家の政治は兼続と狩野秀治の2人が中心になって動かすようになる。
天正12年(1584年)の暮れに狩野秀治が病で倒れると、内政と外交の取り次ぎはほとんど兼続一人の手に集まった。秀治が亡くなった後は兼続が単独で政治を預かり、その形は兼続が世を去るまで変わらなかった。
豊臣政権時代
新発田重家の乱では、中ノ口川を掘り開くなど川の流れに手を入れて新発田勢をじわじわと追い込み、天正15年(1587年)に乱を鎮めた。天正16年(1588年)には景勝の供をして上京し、豊臣秀吉から豊臣の氏を与えられている。
天正17年(1589年)には佐渡征伐に加わり、平定の後は佐渡の支配を任された。翌天正18年(1590年)、小田原征伐では松山城と八王子城を落とし、文禄の役にも出陣して熊川倭城を築いている。
慶長3年(1598年)、景勝が会津120万石へ加増のうえ移されると、兼続は出羽の米沢で6万石(寄騎の分を含めると30万石)を与えられた。米沢と庄内の間には、朝日軍道と呼ばれる連絡のための道も通している。
関ヶ原の戦い
秀吉が亡くなって徳川家康の力が強まると、家康は上杉家を問いただした。これに兼続が送った返書(直江状)は家康を激しく怒らせ、会津攻めを決める引き金になったとされる。今に伝わる直江状の文面は偽物か、後に大きく手を加えられたものだと疑われているが、家康を怒らせるような兼続の手紙が実際にあったことは確かである。
景勝が上洛しないと決めると、兼続は総大将として約25,000の兵を率い、最上義光の領地へ攻め込んだ。畑谷城を落とした後、長谷堂城に2週間ほど攻めかかったが、志村光安・鮭延秀綱らの粘り強い守りに阻まれて城は落ちなかった。やがて関ヶ原で西軍が敗れたという知らせが届くと、兼続は兵を退くことを決め、自ら殿となって見事に引き揚げた。この退き際の采配には、敵将の最上義光も感心している。
米沢藩政
慶長6年(1601年)、兼続は景勝とともに上洛して家康に詫びを入れ、上杉家は出羽米沢30万石へ減らされて移った。兼続は治水に力を注ぎ、最上川の上流に長さ3キロメートルに及ぶ直江石堤を築いている。新田の開発も進め、表向き30万石の領地を、実際には51万石あると言われるまでにした。青苧の増産による産業の振興や、鉱山の開発にも取り組んでいる。
徳川家との関係を良くすることにも心を配り、本多正信の次男・政重を長女・於松の婿養子に迎えるなど、外交の面でも上杉家を支えた。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣には徳川方として出陣し、鴫野の戦いで手柄を立てている。
元和5年12月19日(1620年1月23日)、兼続は江戸の鱗屋敷で病のため亡くなった。享年60。跡継ぎを失っていた兼続は、新たに跡継ぎを立てず、直江家が絶えるに任せた。上杉家の財政を少しでも楽にするため、わざとそうしたのだとみる説もある。
評価
兼続は学問と武勇の両方を備えた人物として知られる。『常山紀談』は「大男にて、百人にもすぐれたるもったいにて、学問詩歌の達者、才知武道兼ねたる兵なり」と書いている。江戸時代初めの儒学者・藤原惺窩も、姜沆に宛てた書の中で「近世、文を戦陣の間に好む者は、上杉謙信、小早川隆景、高坂昌信、直江兼続、赤松広通のみ」と述べ、戦の合間にも学問を好んだ数少ない武将の一人に兼続を挙げた。
とはいえ、兼続の死後しばらくは、主君に誤った道を歩ませて上杉家を苦境に追い込んだ悪い家臣と見られた時期もあった。評価が改まったのは、米沢藩9代藩主の上杉鷹山が兼続を手本として藩政の立て直しに取り組んでからである。





