— 人物紹介 —
概要
北条氏康は後北条氏の3代目の当主で、相模国を本拠とした戦国大名である。父は2代目の北条氏綱。河越夜戦で上杉方の大軍を破って関東での主導権を握り、その後は武田信玄・上杉謙信という手ごわい相手と、手を結んだり争ったりしながら渡り合った。当主の座にあったのは19年、家督を氏政に譲ってからも12年間は父子で国を治めており、あわせて30年を超えて一族を率いたことになる。家紋は三つ鱗(北条鱗)。
戦の強さだけでなく、領国の治め方でも名を残した。検地を徹底し、税の取り方を改め、目安箱を置き、通貨や枡をそろえるなど、多くの仕組みを整えている。小田原の城下は東国でいちばんの町に成長した。天文20年(1551年)に氏康と会った南禅寺の僧・東嶺智旺は、学問と武の両方を備え、清い政治で遠くの者まで従えている、今の世に並ぶ者のない覇者だと、最大級の言葉でほめている。
和歌は三条西実隆に教わり、蹴鞠は飛鳥井雅綱から伝授を受けた。名の知れた歌人が感心するほどの歌を詠んだと伝わる教養人でもあった。
生涯
出生・幼少期
永正12年(1515年)、北条氏綱の長男として生まれた。父はまだ伊勢を名乗っており、幼名は伊勢伊豆千代丸。祖父の伊勢宗瑞(北条早雲)も健在だった。永正15年(1518年)、数え3歳のときに宗瑞から護符・太刀・置文を与えられ、この時点で跡継ぎと定められたとみられる。その宗瑞は、氏康が4歳のときに亡くなった。
父の氏綱が北条の名字を使い始めたのは、氏康が9歳の頃である。ただ、はじめのうち北条を名乗ったのは氏綱本人だけだったようで、飛鳥井雅綱が大永5年(1525年)8月に蹴鞠の伝授書を贈ったときも、宛名は「伊勢伊豆千代丸」になっていた。氏康の元服は享禄2年(1529年)の暮れ、数え15歳の頃と考えられている。父が左京大夫に任じられたのと同じ時期で、氏康が北条を名乗るようになったのもこの元服がきっかけだったらしい。
初陣と武功
初陣は享禄3年(1530年)の小沢原の戦いで、上杉朝興の軍を大いに破ったと『異本小田原記』は伝える。軍記の話ではあるが、同時代の史料と照らしても大筋は事実とみられている。その後も、天文4年(1535年)8月には甲斐の山中で、天文6年(1537年)7月には河越城の攻略で手柄を立てた。天文7年(1538年)には父とともに第一次国府台の戦いに臨み、里見氏と組んだ小弓公方・足利義明の軍を破って、義明その人を討ち取っている。
妻の瑞渓院は今川氏親の娘で、氏康から見ると又従兄弟にあたる。婚礼は天文4年(1535年)か翌5年(1536年)のことで、天文6年(1537年)には長男の西堂丸が生まれた。
家督相続と一大危機
天文10年(1541年)7月17日に父・氏綱が亡くなり、氏康が3代目を継いだ。氏綱は亡くなる少し前に、5か条からなる訓戒の書を残している。この頃の北条氏が治めていたのは、相模と伊豆の2国に、武蔵と下総の一部を加えた範囲だった。
代替わりを好機とみた山内・扇谷の両上杉氏は、河越や江戸の方面へ兵を出してきたが、氏康はこれを追い返した。本当の危機は天文14年(1545年)7月に訪れる。今川義元が山内上杉憲政・扇谷上杉朝定らと示し合わせて兵を挙げ、北条氏は駿河と関東の両側から攻められることになった(第二次河東一乱)。氏康は武田晴信に仲立ちを頼み、東駿河の河東地域を今川に明け渡して講和し、まず西の敵との戦いを終わらせた。
関東では、北条綱成が守る河越城をおよそ8万の連合軍が囲んでいた。翌天文15年(1546年)、氏康は1万に満たない兵を率いて駆けつけ、城内の綱成と呼吸を合わせて夜討ちをかけた。扇谷上杉朝定は討ち死にし、扇谷上杉氏はここで絶える。山内上杉憲政は上野の平井へ、古河公方の足利晴氏は下総へと逃げ去った。この河越夜戦の勝利で、関東の争いの主導権は北条氏が握ることになった。
内政の整備
戦のあとには別の難題が待っていた。天文18年(1549年)、関東を大きな地震が襲い、被災した農民が村や田畑を捨てて逃げ出す事態が領国のあちこちで起きた。「国中諸郡退転」と呼ばれる状況である。氏康は天文19年(1550年)4月に公事赦免令を出し、伊豆から武蔵南部までの村々で、ばらばらだった税の取り方を整理して負担を軽くした。これで混乱は収まった。北条氏が領国全体を対象に徳政を行ったのは、このときが最初である。
このほかにも検地を徹底し、棟別銭を50文から35文に下げ、領民がじかに訴え出られる目安箱を置いた。通貨は永楽銭にそろえ、枡は遠江の榛原枡を基準に統一している。永禄2年(1559年)には大田豊後守ら3人を奉行に任じ、家臣560人それぞれの所領と、負担すべき軍役を書き上げた『小田原衆所領役帳』をまとめさせた。
三国同盟
天文20年(1551年)8月頃から、氏康は武田・今川の両家と縁組みの交渉を進めた。ところが翌天文21年(1552年)3月、長男の氏親が16歳の若さで病に倒れて亡くなる。氏康は次男の松千代丸(のちの氏政)を新たな跡継ぎとし、武田方に縁組みの相手を替えてほしいと願い出なければならなかった。
天文23年(1554年)7月、娘の早川殿が今川義元の嫡男・氏真に嫁いだ。今川家の重臣・太原雪斎の働きかけもあったという。続く12月には武田信玄の娘・黄梅院が氏政の妻として迎えられ、甲相駿三国同盟が形になった。駿河との境に不安がなくなったことで、氏康は関東での戦いに力を集中できるようになった。
上杉謙信との攻防
永禄2年(1559年)、氏康は家督を氏政に譲った。ちょうど「永禄の飢饉」と呼ばれる大飢饉のさなかで、その責任をとる形で当主を替え、代替わりの徳政を行うことが狙いだった。とはいえ氏康は小田原城の本丸を離れず、「御本城様」と呼ばれて政治と軍事の決定権を持ち続けている。
永禄3年(1560年)、上杉謙信が関東へ攻め込んできた。謙信は関東の諸将に呼びかけて兵を集め、翌永禄4年(1561年)には10万を超える大軍で小田原城を取り囲んだ。しかし城の守りは固く、飢饉が続く関東では大軍の兵糧を長く支えられなかった。同盟を結んでいた武田信玄が信濃の北部で上杉を揺さぶったこともあって、謙信は囲みを解いて引き揚げた。
謙信が越後へ戻るとすぐ、氏康は奪われた土地を取り返しにかかった。武蔵の三田氏を攻め滅ぼし、武蔵の北部も取り戻している。永禄6年(1563年)には武田の加勢を受けて松山城と上野の厩橋城を攻め落とした。ただ謙信もたびたび反撃に出たため、どちらも決定的な優位は得られず、押したり押し返されたりが続いた。
永禄7年(1564年)には、上総の支配をめぐって里見義堯・義弘の父子と国府台で戦った(第二次国府台の戦い)。遠山綱景をはじめ頼りにしていた武将を数多く失ったが、最後は氏康が攻め勝ち、里見軍は安房へ退いた。
武田信玄との対決
永禄11年(1568年)、武田信玄は義元亡きあとの今川家の弱体につけ込んで駿河へ攻め込み、三国同盟は崩れた。氏康は娘婿の今川氏真を助けると決め、徳川家康とも密かに約束を交わして、武田軍を駿河で東西から挟む構えをとった。北条氏は駿河の東部を手に入れたものの、西の武田、北の上杉、東の里見と、三方を敵に囲まれることになった。
この行き詰まりを抜け出すため、氏康は永禄12年(1569年)、長年の敵だった上杉謙信と手を組んだ(越相同盟)。子の三郎(のちの上杉景虎)は人質として越後へ送られている。同じ年の9月、武田軍が武蔵へ攻め入り、さらに相模へ進んで小田原城を囲んだ。氏康は城を固く守って武田軍を退かせ、帰っていく敵を挟み撃ちにしようとしたが、これはうまくいかなかった(三増峠の戦い)。
晩年・死去
元亀元年(1570年)8月頃、氏康は中風(脳卒中)で倒れた。そのとき小田原城にいた大石芳綱は、うわさとしながらも、氏康は言葉がはっきりせず、わが子の見分けもつかず、食べたい物を指で示すような有様だと書き送っている。12月には信玄の深沢城攻めについて指示を出せるまでに持ち直したが、元亀2年に入ると、氏康の出す文書には花押がなくなり、印判だけになる。文書そのものも、5月10日付のものを最後に途絶えた。
元亀2年(1571年)10月3日、氏康は小田原城で息を引き取った。享年57、戒名は大聖寺殿東陽宗岱大居士。箱根の早雲寺に葬られている。
その年の12月27日、北条と武田はふたたび同盟を結んだ。
評価
天文20年(1551年)に氏康と会った南禅寺の僧・東嶺智旺は、文と武を兼ね備え、清らかな政治で遠近の人々を従えている当代随一の覇王だと、氏康を絶賛した。東嶺智旺は小田原の町についても「町の小路数万間、地一塵無し」(『明叔禄』)と書き残している。『北条記』も、氏康を文武両道の名将とし、生涯に何度も戦って一度も負けず、仁徳をもって家の掟をよく守り広め、関東八か国の戦乱を鎮めて北条の名を大いに高めたと記す。
『三河東泉記』は、武田信玄・上杉謙信・織田信長・毛利元就とともに、氏康を戦国の五雄の一人に挙げている。戦では河越夜戦のような思い切った用兵で関東の覇権をつかみ、政治では公事赦免令や小田原衆所領役帳に見られるような時代に先んじた仕組みを作り上げた。小田原の城下は「東の小田原・西の山口」と並び称される東国一の都市となり、小田原早川上水と呼ばれる上水道や、町の清潔さでも評判をとった。





