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相模守(左京大夫) 北条氏康北条氏康の家紋
ほうじょう うじやす · 1515–1571

北条氏康

ほうじょう うじやす
相模・伊豆・武蔵・上野・下総(関東南部一帯)後北条氏第3代当主・相模国の戦国大名
— 誕生 —
1515年01月01日(永正12年)
相模国小田原(現在の神奈川県小田原市)
出典: 永正12年(1515年)の生まれ。月日は伝わらない
— 死没 —
1571年11月19日(元亀2年)
相模国小田原城(現在の神奈川県小田原市) · 中風(脳卒中)
出典: 元亀2年10月3日。享年57
— 領域 —
相模・伊豆・武蔵・上野・下総(関東南部一帯)
相模守(左京大夫)
北条氏康 巨星墜落篇
書籍

北条氏康 巨星墜落篇

富樫倫太郎

中央公論新社

— 家族 —

両親

父

北条氏綱

母

養珠院

配偶者

正室

瑞渓院

今川氏親の娘

側室

遠山氏

遠山康光室の姉妹

側室

松田殿

松田憲秀の娘

子

長男

北条氏親

母: 瑞渓院

16歳で早世

次男

北条氏政

母: 瑞渓院

後北条氏4代当主

三男

北条氏照

母: 瑞渓院

大石定久養子

四男

北条氏規

母: 瑞渓院

五男

北条氏邦

藤田康邦養子

六男

上杉景虎

母: 遠山氏

上杉謙信養子

長女

七曲殿

次女

尾崎殿

三女

長林院殿

四女

早川殿

五女

浄光院殿

六女

桂林院殿

母: 松田殿

(養子・養女)

種徳院殿

実父: 北条為昌

小笠原康広室

(養子・養女)

北条氏忠

実父: 北条氏尭

(養子・養女)

北条氏光

実父: 北条氏尭

佐野宗綱養子

(養子・養女)

鶴松院殿

実父: 北条幻庵

吉良氏朝室

北条は退かず 小田原合戦
書籍

北条は退かず 小田原合戦

近衛龍春

角川文庫

— 年表 —

1515年01月
(1歳)
誕生

父は後北条氏2代目の北条氏綱で、幼名は伊勢伊豆千代丸。祖父の伊勢宗瑞(北条早雲)もまだ健在だった

1518年01月
(4歳)
祖父・宗瑞から護符・太刀を授かる

永正15年(1518年)2月8日、数え3歳で祖父・宗瑞から護符・太刀・置文を受け取った。このときから跡継ぎとして扱われたとみられる

1525年01月
(11歳)
蹴鞠伝授書を授かる

大永5年(1525年)8月、飛鳥井雅綱が蹴鞠の伝授書を贈った。宛名はまだ「伊勢伊豆千代丸」だった

1529年01月
(15歳)
元服

享禄2年(1529年)の暮れ、数え15歳で元服したとみられる。父が左京大夫に任じられたのと同じ頃で、北条の名字を使い始めたのもこのときと考えられている

1530年01月
(16歳)
小沢原の戦い(初陣)

享禄3年(1530年)、小沢原で上杉朝興の軍を大いに破ったと『異本小田原記』が伝える。同時代の史料と照らしても、おおむね事実とみられている

1535年01月
(21歳)
甲斐山中合戦

天文4年(1535年)8月、甲斐の山中での戦いに出陣し、手柄を立てた

1536年01月
(22歳)
正室・瑞渓院を迎える

妻に迎えたのは今川氏親の娘で、氏康から見て又従兄弟にあたる。天文4年(1535年)か翌5年(1536年)のこととされる

1537年01月
(23歳)
嫡男・西堂丸誕生

天文6年(1537年)、長男の西堂丸(のちの氏親)が生まれた

1538年01月
(24歳)
第一次国府台の戦い

天文7年(1538年)、父とともに国府台で小弓公方・足利義明と里見氏の軍を破り、義明を討ち取った

1541年08月
(27歳)
家督相続

天文10年(1541年)7月17日に父・氏綱が亡くなり、3代目の当主となった。この頃の領国は相模・伊豆の2国に、武蔵の一部を加えた範囲だった

1545年01月
(31歳)
第二次河東一乱

天文14年(1545年)、今川義元が山内・扇谷の両上杉氏と手を組んで兵を挙げた。駿河と関東の両側から攻められる形になったが、武田晴信の仲立ちで今川とは講和した

1546年01月
(32歳)
河越夜戦

天文15年(1546年)、河越城を囲む約8万の連合軍に、1万に満たない兵で夜討ちをかけた。扇谷上杉朝定が討ち死にし、扇谷上杉氏は絶えた

1550年01月
(36歳)
公事赦免令の発布

天文19年(1550年)4月、前年の大地震のあと農民の逃亡(国中諸郡退転)が相次いだため、伊豆から武蔵南部の村々で税を整理して軽くし、徳政を行った

1551年01月
(37歳)
三国同盟の婚姻交渉開始

天文20年(1551年)8月頃、武田・今川との縁組みの話し合いを始めた。氏康の娘を義元の嫡男へ嫁がせ、晴信の娘を氏康の嫡男の妻に迎える内容だった

1552年01月
(38歳)
嫡男・氏親の死去

天文21年(1552年)3月、元服して新九郎氏親を名乗っていた長男が16歳で病死した。代わりに次男の松千代丸(のちの氏政)を跡継ぎとした

1554年01月
(40歳)
甲相駿三国同盟の成立

天文23年(1554年)、娘の早川殿が今川氏真に嫁ぎ、武田信玄の娘・黄梅院が氏政に嫁いで、3家の同盟が形になった。今川方では太原雪斎が縁組みを後押しした

1559年01月
(45歳)
隠居・小田原衆所領役帳の作成

永禄2年(1559年)、家督を氏政に譲った。ただし小田原城に残って「御本城様」と呼ばれ、実権は手放さなかった。同じ年、家臣560人分の所領と軍役をまとめた帳簿をつくらせた

1561年01月
(47歳)
上杉謙信の小田原城包囲

永禄4年(1561年)、上杉謙信が関東の諸将を集めた10万余りの軍で小田原城を囲んだ。城は落ちず、飢饉で兵糧も続かなかったため、謙信は兵を退いた

1564年01月
(50歳)
第二次国府台の戦い

永禄7年(1564年)、上総の支配をめぐって里見義堯・義弘父子と国府台で戦った。遠山綱景らを失ったものの、里見軍を退けた

1566年01月
(52歳)
相模守任官・実質的隠居

永禄9年(1566年)5月頃に相模守となり、左京大夫の官途名は氏政に譲った。以後は「武栄」の印判を使い、後ろから息子たちを支える役に回った

1568年01月
(54歳)
三国同盟の破綻

永禄11年(1568年)、武田信玄が駿河へ攻め込み、三国同盟は崩れた。北条氏は娘婿の今川氏真を助け、駿河の東部を手に入れた

1569年01月
(55歳)
越相同盟の締結

永禄12年(1569年)、武田に対抗するため上杉謙信と越相同盟を結んだ。子の三郎(上杉景虎)は人質として越後へ送られた

1569年10月
(55歳)
三増峠の戦い

永禄12年(1569年)10月、小田原城を囲んだ武田軍を籠城で追い払った。引き揚げる武田軍を挟み撃ちにしようとしたがうまくいかず、甲斐へ帰られてしまった

1570年01月
(56歳)
中風を発症

元亀元年(1570年)8月頃、中風(脳卒中)で倒れた。言葉がはっきりせず、子どもの顔も見分けられないほどだったと伝わる

1571年11月
(57歳)
死去

元亀2年(1571年)10月3日、小田原城で亡くなった。享年57。戒名は大聖寺殿東陽宗岱大居士

※ 年齢は数え年で表記しています。数え年は生まれた年を1歳とし、元日を迎えるごとに加算する日本の伝統的な年齢の数え方です。

北条は退かず 御館の乱と天下争乱
書籍

北条は退かず 御館の乱と天下争乱

近衛龍春

角川文庫

— 人物紹介 —

概要

北条氏康は後北条氏の3代目の当主で、相模国を本拠とした戦国大名である。父は2代目の北条氏綱。河越夜戦で上杉方の大軍を破って関東での主導権を握り、その後は武田信玄・上杉謙信という手ごわい相手と、手を結んだり争ったりしながら渡り合った。当主の座にあったのは19年、家督を氏政に譲ってからも12年間は父子で国を治めており、あわせて30年を超えて一族を率いたことになる。家紋は三つ鱗(北条鱗)。

戦の強さだけでなく、領国の治め方でも名を残した。検地を徹底し、税の取り方を改め、目安箱を置き、通貨や枡をそろえるなど、多くの仕組みを整えている。小田原の城下は東国でいちばんの町に成長した。天文20年(1551年)に氏康と会った南禅寺の僧・東嶺智旺は、学問と武の両方を備え、清い政治で遠くの者まで従えている、今の世に並ぶ者のない覇者だと、最大級の言葉でほめている。

和歌は三条西実隆に教わり、蹴鞠は飛鳥井雅綱から伝授を受けた。名の知れた歌人が感心するほどの歌を詠んだと伝わる教養人でもあった。

生涯

出生・幼少期

永正12年(1515年)、北条氏綱の長男として生まれた。父はまだ伊勢を名乗っており、幼名は伊勢伊豆千代丸。祖父の伊勢宗瑞(北条早雲)も健在だった。永正15年(1518年)、数え3歳のときに宗瑞から護符・太刀・置文を与えられ、この時点で跡継ぎと定められたとみられる。その宗瑞は、氏康が4歳のときに亡くなった。

父の氏綱が北条の名字を使い始めたのは、氏康が9歳の頃である。ただ、はじめのうち北条を名乗ったのは氏綱本人だけだったようで、飛鳥井雅綱が大永5年(1525年)8月に蹴鞠の伝授書を贈ったときも、宛名は「伊勢伊豆千代丸」になっていた。氏康の元服は享禄2年(1529年)の暮れ、数え15歳の頃と考えられている。父が左京大夫に任じられたのと同じ時期で、氏康が北条を名乗るようになったのもこの元服がきっかけだったらしい。

初陣と武功

初陣は享禄3年(1530年)の小沢原の戦いで、上杉朝興の軍を大いに破ったと『異本小田原記』は伝える。軍記の話ではあるが、同時代の史料と照らしても大筋は事実とみられている。その後も、天文4年(1535年)8月には甲斐の山中で、天文6年(1537年)7月には河越城の攻略で手柄を立てた。天文7年(1538年)には父とともに第一次国府台の戦いに臨み、里見氏と組んだ小弓公方・足利義明の軍を破って、義明その人を討ち取っている。

妻の瑞渓院は今川氏親の娘で、氏康から見ると又従兄弟にあたる。婚礼は天文4年(1535年)か翌5年(1536年)のことで、天文6年(1537年)には長男の西堂丸が生まれた。

家督相続と一大危機

天文10年(1541年)7月17日に父・氏綱が亡くなり、氏康が3代目を継いだ。氏綱は亡くなる少し前に、5か条からなる訓戒の書を残している。この頃の北条氏が治めていたのは、相模と伊豆の2国に、武蔵と下総の一部を加えた範囲だった。

代替わりを好機とみた山内・扇谷の両上杉氏は、河越や江戸の方面へ兵を出してきたが、氏康はこれを追い返した。本当の危機は天文14年(1545年)7月に訪れる。今川義元が山内上杉憲政・扇谷上杉朝定らと示し合わせて兵を挙げ、北条氏は駿河と関東の両側から攻められることになった(第二次河東一乱)。氏康は武田晴信に仲立ちを頼み、東駿河の河東地域を今川に明け渡して講和し、まず西の敵との戦いを終わらせた。

関東では、北条綱成が守る河越城をおよそ8万の連合軍が囲んでいた。翌天文15年(1546年)、氏康は1万に満たない兵を率いて駆けつけ、城内の綱成と呼吸を合わせて夜討ちをかけた。扇谷上杉朝定は討ち死にし、扇谷上杉氏はここで絶える。山内上杉憲政は上野の平井へ、古河公方の足利晴氏は下総へと逃げ去った。この河越夜戦の勝利で、関東の争いの主導権は北条氏が握ることになった。

内政の整備

戦のあとには別の難題が待っていた。天文18年(1549年)、関東を大きな地震が襲い、被災した農民が村や田畑を捨てて逃げ出す事態が領国のあちこちで起きた。「国中諸郡退転」と呼ばれる状況である。氏康は天文19年(1550年)4月に公事赦免令を出し、伊豆から武蔵南部までの村々で、ばらばらだった税の取り方を整理して負担を軽くした。これで混乱は収まった。北条氏が領国全体を対象に徳政を行ったのは、このときが最初である。

このほかにも検地を徹底し、棟別銭を50文から35文に下げ、領民がじかに訴え出られる目安箱を置いた。通貨は永楽銭にそろえ、枡は遠江の榛原枡を基準に統一している。永禄2年(1559年)には大田豊後守ら3人を奉行に任じ、家臣560人それぞれの所領と、負担すべき軍役を書き上げた『小田原衆所領役帳』をまとめさせた。

三国同盟

天文20年(1551年)8月頃から、氏康は武田・今川の両家と縁組みの交渉を進めた。ところが翌天文21年(1552年)3月、長男の氏親が16歳の若さで病に倒れて亡くなる。氏康は次男の松千代丸(のちの氏政)を新たな跡継ぎとし、武田方に縁組みの相手を替えてほしいと願い出なければならなかった。

天文23年(1554年)7月、娘の早川殿が今川義元の嫡男・氏真に嫁いだ。今川家の重臣・太原雪斎の働きかけもあったという。続く12月には武田信玄の娘・黄梅院が氏政の妻として迎えられ、甲相駿三国同盟が形になった。駿河との境に不安がなくなったことで、氏康は関東での戦いに力を集中できるようになった。

上杉謙信との攻防

永禄2年(1559年)、氏康は家督を氏政に譲った。ちょうど「永禄の飢饉」と呼ばれる大飢饉のさなかで、その責任をとる形で当主を替え、代替わりの徳政を行うことが狙いだった。とはいえ氏康は小田原城の本丸を離れず、「御本城様」と呼ばれて政治と軍事の決定権を持ち続けている。

永禄3年(1560年)、上杉謙信が関東へ攻め込んできた。謙信は関東の諸将に呼びかけて兵を集め、翌永禄4年(1561年)には10万を超える大軍で小田原城を取り囲んだ。しかし城の守りは固く、飢饉が続く関東では大軍の兵糧を長く支えられなかった。同盟を結んでいた武田信玄が信濃の北部で上杉を揺さぶったこともあって、謙信は囲みを解いて引き揚げた。

謙信が越後へ戻るとすぐ、氏康は奪われた土地を取り返しにかかった。武蔵の三田氏を攻め滅ぼし、武蔵の北部も取り戻している。永禄6年(1563年)には武田の加勢を受けて松山城と上野の厩橋城を攻め落とした。ただ謙信もたびたび反撃に出たため、どちらも決定的な優位は得られず、押したり押し返されたりが続いた。

永禄7年(1564年)には、上総の支配をめぐって里見義堯・義弘の父子と国府台で戦った(第二次国府台の戦い)。遠山綱景をはじめ頼りにしていた武将を数多く失ったが、最後は氏康が攻め勝ち、里見軍は安房へ退いた。

武田信玄との対決

永禄11年(1568年)、武田信玄は義元亡きあとの今川家の弱体につけ込んで駿河へ攻め込み、三国同盟は崩れた。氏康は娘婿の今川氏真を助けると決め、徳川家康とも密かに約束を交わして、武田軍を駿河で東西から挟む構えをとった。北条氏は駿河の東部を手に入れたものの、西の武田、北の上杉、東の里見と、三方を敵に囲まれることになった。

この行き詰まりを抜け出すため、氏康は永禄12年(1569年)、長年の敵だった上杉謙信と手を組んだ(越相同盟)。子の三郎(のちの上杉景虎)は人質として越後へ送られている。同じ年の9月、武田軍が武蔵へ攻め入り、さらに相模へ進んで小田原城を囲んだ。氏康は城を固く守って武田軍を退かせ、帰っていく敵を挟み撃ちにしようとしたが、これはうまくいかなかった(三増峠の戦い)。

晩年・死去

元亀元年(1570年)8月頃、氏康は中風(脳卒中)で倒れた。そのとき小田原城にいた大石芳綱は、うわさとしながらも、氏康は言葉がはっきりせず、わが子の見分けもつかず、食べたい物を指で示すような有様だと書き送っている。12月には信玄の深沢城攻めについて指示を出せるまでに持ち直したが、元亀2年に入ると、氏康の出す文書には花押がなくなり、印判だけになる。文書そのものも、5月10日付のものを最後に途絶えた。

元亀2年(1571年)10月3日、氏康は小田原城で息を引き取った。享年57、戒名は大聖寺殿東陽宗岱大居士。箱根の早雲寺に葬られている。

その年の12月27日、北条と武田はふたたび同盟を結んだ。

評価

天文20年(1551年)に氏康と会った南禅寺の僧・東嶺智旺は、文と武を兼ね備え、清らかな政治で遠近の人々を従えている当代随一の覇王だと、氏康を絶賛した。東嶺智旺は小田原の町についても「町の小路数万間、地一塵無し」(『明叔禄』)と書き残している。『北条記』も、氏康を文武両道の名将とし、生涯に何度も戦って一度も負けず、仁徳をもって家の掟をよく守り広め、関東八か国の戦乱を鎮めて北条の名を大いに高めたと記す。

『三河東泉記』は、武田信玄・上杉謙信・織田信長・毛利元就とともに、氏康を戦国の五雄の一人に挙げている。戦では河越夜戦のような思い切った用兵で関東の覇権をつかみ、政治では公事赦免令や小田原衆所領役帳に見られるような時代に先んじた仕組みを作り上げた。小田原の城下は「東の小田原・西の山口」と並び称される東国一の都市となり、小田原早川上水と呼ばれる上水道や、町の清潔さでも評判をとった。

北条は退かず 激闘、三増峠の戦い
書籍

北条は退かず 激闘、三増峠の戦い

近衛龍春

角川文庫

北条氏康 関東争乱篇
書籍

北条氏康 関東争乱篇

富樫倫太郎

中央公論新社

— 問答 —
問
北条氏康の河越夜戦とはどのような戦いですか?
答
天文15年(1546年)の河越城をめぐる戦いです。山内上杉憲政・扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏らがおよそ8万の兵で河越城を囲み、城を守る北条綱成は半年ほど持ちこたえていました。救援に来た氏康の兵は1万に届きませんでしたが、奪った土地は返すという手紙を敵方に送って気を緩ませ、城内の綱成と呼応して夜に攻めかかりました。朝定は討ち死にして扇谷上杉氏は滅び、憲政は上野へ逃れます。この勝利で、関東での争いの主導権は北条氏に移りました。
問
北条氏康はどのような内政を行いましたか?
答
年貢や諸役の仕組みを整えることに力を注ぎました。天文19年(1550年)の公事赦免令では、まちまちだった税の取り方をまとめて負担を軽くし、農民が役人の不正をじかに訴え出られる目安箱も置きました。永禄2年(1559年)には、家臣560人の所領と負担すべき軍役を一覧にした『小田原衆所領役帳』をつくらせています。ほかにも検地を徹底し、棟別銭を50文から35文に下げ、通貨を永楽銭に、枡を1種類にそろえました。城下の小田原は「東の小田原・西の山口」といわれる東国一の町に育ちました。
問
北条氏康と上杉謙信の関係はどのようなものでしたか?
答
はじめは敵同士でした。永禄4年(1561年)に謙信は10万余りの軍で小田原城を囲みましたが、氏康は城にこもって守り抜き、謙信を引き揚げさせています。その後も謙信はほぼ毎年のように関東へ出てきて、両者は城を取ったり取られたりを繰り返しました。流れが変わったのは永禄11年(1568年)、武田信玄が同盟を破って駿河へ攻め込んだときです。氏康は武田と戦うために謙信と手を結ぶ道を選び、永禄12年(1569年)に越相同盟を結びました。子の三郎(のちの上杉景虎)を人質に出し、互いの領地を認め合う取り決めでした。
— 関連文献・史料 —
北条氏康とその時代黒田基樹 編研究書
定本・北条氏康藤木久志・黒田基樹 編研究書
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最終更新日: 2026年03月29日