— 戦いの内容 —
概要
小谷城の戦いは、天正元年(1573年)8月から9月にかけて、織田信長が北近江の浅井長政の居城・小谷城を攻略した戦いである。
元亀元年(1570年)の金ヶ崎の戦いで同盟を破棄して以来、3年にわたって信長と争ってきた浅井氏は、この戦いで滅亡した。9月1日、長政は小谷城赤尾屋敷で自害し、初代・亮政から3代で北近江の戦国大名・浅井氏は幕を閉じる。
落城の直前、長政は妻のお市の方と三人の娘を織田軍に引き渡した。この三人が後の浅井三姉妹であり、長女・茶々は豊臣秀吉の妻・淀殿となる。
背景
元亀元年(1570年)4月、信長が浅井氏と関係の深い越前の朝倉義景を攻めると、長政は同盟を破棄して信長の背後を襲った(金ヶ崎の戦い)。同年6月の姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍は織田・徳川連合軍に敗れ、直後には小谷城の南方拠点である横山城を奪われる。横山城には木下秀吉(羽柴秀吉)が守将として置かれ、浅井氏を監視した。
それでも浅井氏は抵抗を続け、同年9月には信長が摂津へ出兵した隙を突いて朝倉氏と再挙兵し、志賀の陣で一矢報いている。しかし佐和山城主の磯野員昌や宮部継潤が織田方へ降り、小谷城周辺は毎年のように放火と刈田を受けて、浅井氏は追い詰められていった。
元亀3年(1572年)7月、信長は3万の軍を率いて小谷城の目前にある虎御前山に本陣を布き、横山城まで長大な要害の構築を始める。浅井氏は朝倉氏に援軍を求め、義景自ら1万5,000を率いて出陣したが、義景はほとんど攻勢に出ないまま、朝倉勢からは織田方への寝返りが相次いだ。同年12月、朝倉軍は越前へ撤兵してしまう。
戦いの経過
天正元年(1573年)7月、信長は足利義昭を京から放逐し、背後の憂いを断った。8月8日、浅井家重臣で山本山城主の阿閉貞征が織田方へ寝返ると、信長はこれを好機と見て3万の軍で北近江へ侵攻し、虎御前山に本陣を置く。
長政は5,000の兵とともに小谷城へ籠城したが、離反は止まらなかった。朝倉義景は家中の反対を押し切って2万の軍で救援に向かうが、前哨戦に敗れて大嶽砦などを失い、撤退を始めたところを織田軍に夜襲されて壊滅する(刀根坂の戦い)。8月17日には居城の一乗谷城を焼かれ、20日、朝倉景鏡の裏切りもあって義景は自刃した。浅井氏は唯一の後ろ盾を失った。
越前を制圧した信長は26日に虎御前山へ帰還し、小谷城への総攻撃を命じる。
決着をつけたのは羽柴秀吉であった。小谷城は尾根に曲輪が連なる山城で、南の本丸に長政が、北の小丸に父・久政が籠っていた。8月27日の夜半、秀吉は3,000の兵で両者の間にある京極丸を占拠し、父子を繋ぐ曲輪を分断する。この攻防で三田村定頼・海北綱親らが討死した。やがて小丸への攻撃が激しくなり、800の兵を指揮していた久政は追い詰められて自害する。
本丸に残された長政はしばらく持ちこたえ、その間に嫡男・万福丸を家臣に託して城外へ逃がし、さらに妻のお市の方を三人の娘とともに織田軍へ引き渡した。
その務めを果たしたのち、9月1日、長政は袖曲輪の赤尾屋敷で重臣・赤尾清綱、弟・浅井政元らとともに自害した。享年29。小谷城は落城し、浅井氏は滅亡した。
結果と影響
信長の浅井氏への処断は厳しかった。久政・長政父子の首は京で獄門にかけられ、城外へ逃がされた万福丸も敦賀で捕らえられて関ヶ原で処刑された。浅井亮親・浅井井規ら一族、家臣の大野木秀俊も処刑され、寝返った将も処分されている。
久政・長政父子の頭蓋骨は朝倉義景のそれとともに薄濃にされた。長らく信長の残虐性を示す行為とされてきたが、近年は敵将への敬意を示し、改元にあたって三将の菩提を弔ったものとする再評価がなされている。
小谷城は秀吉に与えられたが、琵琶湖から離れた立地を嫌われて廃城となり、代わりに長浜城が築かれた。北近江は秀吉の領国となり、以後の秀吉の飛躍の基盤となる。
救出されたお市の方と三人の娘は織田家に引き取られた。お市の方は後に柴田勝家と再婚して北ノ庄城で自害するが、三人の娘は生き延びる。長女・茶々は豊臣秀吉の妻・淀殿として豊臣秀頼を産み、次女・初は京極高次の正室・常高院、三女・江は徳川秀忠の継室・崇源院となった。滅亡した浅井氏の血筋は、豊臣家と徳川将軍家の双方へと受け継がれていくことになる。


